第1話 日照りの村
日照り、15日目。
県道を外れてから、もう40分近く山道を上っていた。
公用車の古い軽自動車は、エアコンをつけるとエンジンが悲鳴を上げる。窓を開けると、今度は蝉の声が車内に雪崩れ込んできた。何千、何万という蝉が、杉林の中で一斉に鳴いている。耳の奥が痺れるほどだった。
道の脇を流れているはずの沢は、白い石の河原になっていた。水の気配がどこにもない。石と石の間に、干からびた藻がこびりついている。
7月の10日を最後に、この辺りでは雨が一滴も降っていないと聞いていた。
カーブをひとつ曲がると、急に視界が開けた。
山に囲まれた、小さなすり鉢の底のような土地に、瓦屋根の家が30軒ほど寄り添っていた。田んぼの稲は、この暑さなのに色が薄い。畦の間を走る用水路には、水が一本の細い糸のようにしか流れていなかった。
澪村。
5年後に、ダムの底に沈む村だ。
*
村の入り口に、市役所の出張所があった。プレハブの2階建てで、玄関の脇に色褪せた消火器が置いてある。
「水野さんですね。文化財課の」
出迎えてくれたのは、40代くらいの女の人だった。日に焼けた顔に化粧気はなく、首にタオルを巻いている。佐和子と名乗った。
「県の嘱託の、水野湊です。今日から、しばらくお世話になります」
「遠いところ、ご苦労さまです。お部屋は、公民館の2階を用意してありますから」
俺の仕事は、この村の民俗調査だった。
ダムに沈む前に、村の祭りや言い伝え、古い道具や文書を記録しておく。県の文化財課が数年がかりで進めている事業で、民俗学の修士を出たばかりの俺が、嘱託として拾われた。専門の職員は他の現場で手一杯で、この村は俺一人に任された。
任期は、夏の終わりまでだった。
「暑いでしょう。今年はひどいの。梅雨が明けてから、ずっと降らないから」
佐和子さんは、麦茶を出してくれながら言った。
「池も、ずいぶん減っちゃってね」
「池、というのは」
「澪ヶ池。村の上にある、大きな溜池。この村の田んぼは、全部あそこの水で作ってるの」
佐和子さんは、窓の外の山のほうに目をやった。
「それに、神社もあってね。水神さまの」
そう言ったときの佐和子さんの声が、少しだけ硬くなった気がした。
*
荷物を公民館に置いて、村を一回りした。
どの家も、軒先が深くて、窓が小さかった。雪の多い土地の造りだ。庭先には、干からびかけた紫陽花や、首を垂れた向日葵が並んでいた。
すれ違う村の人たちは、皆、愛想がよかった。
「県の人かね。ご苦労さん」
「暑いのに大変だねえ。これ、持っていきな」
腰の曲がったおばあさんが、畑で採れたという胡瓜を3本、新聞紙にくるんで持たせてくれた。軽トラの荷台から、おじいさんが「池を見に行くなら、乗っていくか」と声をかけてくれた。
歓迎されている、と思った。
少し、されすぎているくらいに。
村の真ん中の辻に、古い石の道祖神が立っていた。その前を通りかかったとき、畑仕事の手を止めた中年の男の人が、首に巻いた手ぬぐいで汗を拭きながら話しかけてきた。
「神社には行ったかね」
「これからです」
「そうか。なら、澄ちゃんに会うといい。宮司さんとこの娘さんでな。村のことは、あの子がよう知っとる」
男の人は、にこにこと笑った。
「澄ちゃんは、果報者だ」
果報者。
意味を訊こうとしたときには、男の人はもう畑に戻っていた。
*
澪ヶ池は、村の北の、山の中腹にあった。
集落から、石段と坂道を15分ほど上る。汗が首筋を伝い、シャツの背中が肌に貼りついた。蝉の声は、上るほどに大きくなった。
坂を上りきると、目の前に、池が広がった。
広かった。野球場が2つか3つは入りそうな大きさだった。周りを杉と楢の森に囲まれて、水面が真夏の空を鈍く映している。
けれど、その水は、池の真ん中のほうにしか残っていなかった。
岸から10メートルほどの幅で、池の底が剥き出しになっていた。灰色の泥が乾いて、亀の甲羅のようにひび割れている。ひびの間に、魚の骨が白く散らばっていた。泥の中から、古い杭のようなものが何本も突き出していた。
池の東の岸に、神社があった。
朱の剥げかけた木の鳥居。その奥に、苔むした石段と、小さな社殿。社殿の脇に、四角い石組みの井戸が見えた。太い注連縄が、井戸の縁をぐるりと囲んでいた。
鳥居の脇に、黒板のような木の板が立てかけてあった。
白いチョークで、太い字が書かれていた。
『日照り 15日』
その下に、何本も縦線が引かれていた。一日に一本ずつ、数えるように。
縦線の横に、少し小さな字で、書き添えてあった。
『40日にて、嫁入り』
*
「こんにちは」
声がして、振り返った。
石段の上に、若い女の子が立っていた。
白いシャツに、紺の袴を穿いていた。長い黒髪を後ろでひとつに束ねて、手に竹箒を持っている。境内を掃いていたらしい。
10代の終わりくらいに見えた。目が大きくて、額に汗が光っていた。日に焼けた頬が、少し赤かった。
「県の方ですよね。佐和子さんから聞いてます」
彼女は、箒を抱えたまま、石段を軽やかに下りてきた。
「水上澄です。ここの神社の娘です」
「水野です。水野湊」
「みずの、みなと」
澄は、俺の名前を、確かめるようにゆっくりと繰り返した。それから、ぱっと顔を輝かせた。
「すごい。水だらけの名前ですね」
「……よく言われます」
「私も、水上澄だから、水だらけ仲間です」
澄は、屈託なく笑った。
その笑い方に、少し救われた気がした。村に着いてから、ずっと感じていた、うまく言葉にならない居心地の悪さが、すっと薄くなった。
「村のこと、調べに来たんですよね。何でも訊いてください。私、案内しますから」
「助かります。まずは、この神社のお祭りのことを教えてもらえますか」
「お祭り」
澄は、鳥居の脇の黒板に目をやった。
ほんの一瞬だった。でも、確かに、そちらを見た。
「秋祭りのことですか。それとも」
「あの板に書いてある、嫁入りというのは」
蝉の声が、急に大きくなった気がした。
澄は、黒板から目を戻して、俺を見た。笑顔のままだった。
「水嫁さんのことですね」
「みずよめ」
「日照りが40日続いたら、神社の娘が、水神さまのお嫁さんになるんです。そうしたら、雨が降るの」
天気の話でもするような、軽い口調だった。
「昔からの、言い伝えです。最後にやったのは、60年前。私の大叔母さんが、お嫁さんになったんです」
「言い伝え、というと。実際には、どういう儀式を」
「あそこです」
澄は、社殿の脇の、注連縄に囲まれた石組みの井戸を指さした。
「神井戸。池の底の、水神さまのお宮に通じてるんですって。お嫁さんは、白無垢を着て、あそこから下りていくの」
俺は、井戸を見た。
石の縁は黒ずんで、苔が生えていた。木の蓋が被せてあって、その上に、重しの石がいくつも載せられていた。
「下りて、それから」
「それから、水神さまのところで暮らすんです。ずっと」
澄は、竹箒を持ち直した。
「だから、帰ってこないんです。お嫁さんは」
社殿の奥から、砂利を踏む足音がした。
「澄。お客さんか」
白い着物に浅葱色の袴をつけた、70を少し過ぎたくらいの男の人が出てきた。痩せていて、背が高く、髪はほとんど白くなっていた。19の娘の父親にしては、ずいぶん年がいっているように見えた。眼鏡の奥の目が、穏やかで、ひどく疲れているように見えた。
「お父さん。県の、水野さん」
「ああ。宮司の、水上宗一郎です。遠いところを、よくおいでくださいました」
宗一郎さんは、丁寧に頭を下げた。俺も慌てて頭を下げた。
「村の調査をされるとか。神社のことなら、蔵に古い文書がいくらか残っています。お役に立つかどうか分かりませんが、ご自由に見ていってください」
「ありがとうございます。助かります」
「ただ」
宗一郎さんは、少しだけ言葉を切った。
その目が、鳥居の脇の黒板に向いた。日照り、15日。
「今年の夏は、少し、慌ただしくなるかもしれません。お構いできないこともあると思いますが、ご容赦ください」
穏やかな声だった。
けれど、その穏やかさの底に、何かを必死に押し込めているような響きがあった。
澄が、父親の袖を軽く引いた。
「お父さん、大丈夫だよ。私が案内するから」
「……そうか。頼むよ」
宗一郎さんは、娘の頭に手を置きかけて、止めた。その手を、袴の脇でそっと握りしめた。
そして、何も言わずに、社殿の奥へ戻っていった。
澄は、父親の背中を見送ってから、俺に向き直って笑った。
「お父さん、心配性なんです」
何を心配しているのか、とは、訊けなかった。
*
その日の夕方、公民館に戻る途中、村の人たちとまたすれ違った。
皆、朝と同じように愛想がよかった。
「神社には行ったかね」
「澄ちゃんに会えたかね」
会いました、と答えると、皆、嬉しそうに頷いた。
「そうかい。いい子だろう」
「澄ちゃんは、果報者だ」
また、その言葉だった。
3人目のおばあさんが同じことを言ったとき、俺は思わず訊いていた。
「果報者、というのは、どういう意味ですか」
おばあさんは、皺だらけの顔で、きょとんと俺を見上げた。
「そりゃあ、あんた。水神さまのお嫁さんになれるんだもの」
当たり前のことを訊かれた、という顔だった。
「今年は、40日まで、あと25日。澄ちゃんは、果報者だよ」
おばあさんは、にこにこと笑いながら、手を合わせた。
俺の背中を、冷たい汗が一筋、伝い落ちた。
*
公民館の2階の窓からは、村の家々の屋根と、その向こうの山の稜線が見えた。
日が沈んでも、暑さは引かなかった。網戸の向こうで、蛙の声ひとつしなかった。田んぼに水が足りないのだ。
夜空は、雲ひとつなく晴れていた。
星が、恐ろしいほどたくさん見えた。
明日も、晴れる。
俺は、ノートを開いて、今日聞いたことを書きつけた。水嫁。日照り40日。神井戸。60年前、大叔母。
ペンが止まった。
帰ってこないんです、お嫁さんは。
澄は、そう言って、笑っていた。
夜の山のほうから、かすかに、何かが聞こえた気がした。
女の人の、歌のような声だった。
耳を澄ますと、もう何も聞こえなかった。ただ、どこまでも乾いた夜の空気だけが、網戸越しに流れ込んでいた。




