第10話 雨の日の傘
41日目。雨。
目を開けると、灰色の空が見えた。
顔に、冷たいものが降り注いでいた。ひとつぶ、ふたつぶ、それから数えきれないほど。頬を打ち、瞼を打ち、半開きの唇の間に流れ込んできた。
雨だった。
俺は、神社の境内の、濡れた砂利の上に仰向けに寝かされていた。
「気がついた!」
佐和子さんの声がした。
身体を起こそうとして、激しく咳き込んだ。喉の奥から、水が溢れ出てきた。誰かが背中をさすってくれた。皺だらけの、大きな手だった。
島崎さんだった。
紋付の羽織は、ずぶ濡れになっていた。麦わら帽子もなく、白髪まじりの頭から、雨の雫が滴っていた。
「ロープを、引いたんだ」
島崎さんは、かすれた声で言った。
「宮司さんと、わしらで。あんたが飛び込んでから、ずっと、手応えがなかった。切れたと思った。それが、夜明け前に、急にぐんと重くなって」
島崎さんは、俺の腰に巻きついたままのロープを見た。
「引き上げたら、あんたが、ぶら下がっとった。……あんた一人だけが」
*
境内は、村人で埋め尽くされていた。
誰も、帰っていなかった。提灯の火はとうに消えて、皆、雨に打たれるまま、立ち尽くしていた。
神井戸の縁から、水が溢れていた。
澄んだ水だった。石組みの縁を越えて、注連縄を濡らし、境内の砂利の上を、細い流れになって池のほうへ流れていった。
池を見た。
干上がっていた岸の泥が、もう半分ほど、水に沈んでいた。ひび割れの網目が、雨に打たれて消えていく。池の水面いっぱいに、無数の波紋が広がっていた。
鳥居の脇の黒板の上で、チョークの「40日」の字が、雨に流されて、白く滲んでいた。
宗一郎さんが、井戸の縁に膝をついていた。
狩衣が、泥と水でぐしゃぐしゃになっていた。両手を井戸の縁について、溢れる水の中に、額を押しつけるようにして、うずくまっていた。
声は、聞こえなかった。
肩だけが、ずっと震えていた。
*
「澄は」
俺は、立ち上がろうとして、よろめいた。佐和子さんが、腕を掴んで支えてくれた。
「澄は、行きました」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「いとさんも、さよさんも、きくさんも、静さんも。タケちゃんも、弥吉くんも、正一くんも。みんなで、手を繋いで。澄が、一番後ろから、連れていきました」
境内が、しんとした。
雨の音だけが、響いていた。
車椅子のおトキ婆が、震える手を上げた。
「……正一が、おったのか」
「はい。おトキさんに、よく似た目をしてました」
おトキ婆は、しばらく俺を見つめていた。
それから、皺の中に埋もれた目から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「そうかい。そうかい。……やっと、帰れたかい」
おトキ婆は、雨の空に向かって、両手を合わせた。
村人たちが、ひとり、またひとりと、同じように手を合わせていった。
誰も、果報者、とは言わなかった。
*
その日の午後、神社の蔵の前で、火が焚かれた。
雨は小降りになっていたが、止んではいなかった。宗一郎さんが、蔵から桐の箱を持ち出した。
水嫁帳だった。
宗一郎さんは、箱から冊子を取り出して、最後の頁を開いた。
『令和8年 日照リ 日 水上澄 19』
青いボールペンの字。
宗一郎さんは、その頁を、長いこと見つめていた。
それから、冊子を閉じて、火の中へそっと置いた。
和紙が、端から黒く丸まっていった。文化11年の、いと。天保4年の、さよ。明治39年の、きく。昭和9年の、ふさと、3人の子供たち。昭和41年の、静。令和8年の、澄。
すべての名前が、煙になって、雨の空へ昇っていった。
島崎さんが、鳥居の脇の黒板を運んできた。何も言わずに、それを火の中へ投げ込んだ。
「……約束したからな」
島崎さんは、火を見つめたまま、呟いた。
「澄ちゃんと、約束したからな」
*
夕方、公民館に戻る途中、島崎の家の前を通った。
縁側に、ハルが座っていた。
膝を抱えて、軒先から落ちる雨の雫を見つめていた。泣き腫らした目をしていた。
俺は、ハルの隣に腰を下ろした。
二人とも、しばらく黙っていた。
雨が、庭の土を打っていた。乾ききっていた土が、雨を吸い込んで、黒く、柔らかくなっていく。田んぼのほうから、久しぶりに、蛙の声が聞こえ始めていた。
「……澄ねえちゃん、帰ってこないんでしょ」
ハルが、ぽつりと言った。
「ああ」
「死んじゃったの」
俺は、少し考えてから、答えた。
「迎えに行ったんだ。ずっと待ってた人たちを。……それで、みんなを連れて、帰ったんだ」
「どこに」
「分からない。でも、明るいところだった」
ハルは、雨を見つめたまま、鼻をすすった。
「澄ねえちゃん、雨の音、聞いてねって言った」
「うん」
「だから、聞いてる」
ハルは、膝を抱える腕に、ぎゅっと力を込めた。
俺も、雨の音を聞いた。
屋根を打つ音。軒から落ちる雫の音。庭の土に吸い込まれる音。田んぼの蛙の声。
山のほうから、歌は、もう聞こえなかった。
*
村を発つ前の日、社務所を訪ねた。
宗一郎さんは、澄の部屋の縁側に座っていた。部屋の中は、ほとんど手つかずのままだった。机の上に、教科書が数冊と、萎れかけたひまわりを挿した花瓶。
「澄、という名前はね」
宗一郎さんは、庭を見たまま、言った。
「私がつけたんです。遅くにできた子で、家内は、澄が3つのときに病気で亡くなりました。それから、ずっと、私一人で育てた」
庭では、雨に濡れた紫陽花が、1か月ぶりに、青い色を取り戻していた。
「水が、澄むように。濁った水の底にいても、いつか、澄んだ水になれるように。……水上の家の娘に、そんな名前をつけるなんて、ひどい父親でしょう。帳面に名前が載ることが、生まれたときから分かっていたのに」
「澄は」
俺は、言葉を探した。
「澄は、濁った水の底から、みんなを連れて、帰っていきました。澄んだ水みたいに」
宗一郎さんは、長いこと黙っていた。
それから、眼鏡を外して、指で目元を押さえた。
「……そうですか」
俺は、預かっていた静の日記を返そうと、臙脂色のノートを差し出した。
宗一郎さんは、受け取らなかった。
「それは、報告書と一緒に、持っていってください。静の分まで。……それから、裏表紙を」
言われて、ノートを裏返した。擦り切れた裏表紙の内側、見返しの紙の隅に、小さな鉛筆の字があった。気づかなかった。静の字ではなかった。
「澄の部屋を片付けていて、あの子の筆箱の中に、この日記の写しを見つけたんです。中学のときに、書き写していたらしい。写しの最後に、同じ言葉が書いてあった。それで、原本のほうも確かめたら」
丸みのある、少し右に傾いた字。水嫁帳の、青いボールペンの字とは違う、澄自身の字だった。
『静さん。私が、迎えに行くね。 澄』
*
8月の終わりに、俺は県庁へ戻った。
報告書は、1か月かけて書いた。
澪村の民俗調査報告書。祭礼。年中行事。言い伝え。古文書。そして、水嫁の儀。
俺は、見たことを、見たとおりに書いた。
水嫁帳の記録。昭和9年の3人の子供。静の日記。40日目の夜。井戸の底の、石の道。白無垢の娘たち。崩れかけた社。
そして、水上澄という19歳の娘が、その儀式を、自分の手で終わらせたこと。
係長は、報告書を読み終えると、しばらく黙っていた。
「……水野。これは、報告書じゃなくて、小説だな」
「かもしれません」
「まあ、いい」
係長は、報告書を閉じて、ファイルに綴じた。
「民俗調査の報告書ってのはな、村の人間が信じていたことを記録するもんだ。お前が書いたのは、あの村の人たちが、これから信じていくことだ。それも、記録のうちだろう」
係長は、ファイルの背表紙に、「澪村」と書いた。
「書庫に入れておく。ダムに沈んでも、これは残る」
*
1年後の、夏。
澪ヶ池のほとりでは、ダムの工事が始まっていた。
村の人たちは、下流の町に造成された新しい団地へ、移っていった。神社は、団地の裏山に移された。小さな、新しい社だった。
俺は、休みの日に、その社を訪ねた。
朝から、雨が降っていた。
石段を上ると、小さな鳥居の脇に、黒板はなかった。代わりに、木の立て札が一本立っていた。
『水上澄命』
宗一郎さんが、手ずから書いたものだと聞いた。
立て札の前に、白い百合ではなく、ひまわりが一輪、供えてあった。
たぶん、ハルだ。
俺は、傘を差したまま、手を合わせた。
目を閉じると、雨の音が、傘の上で弾けていた。ぱらぱら。ざあざあ。
そのとき。
傘の中に、誰かが、入ってきた気がした。
右の肩の横。すぐ、隣。
冷たくて、少しだけ湿った気配。雨上がりの、水の匂い。
目を開けなかった。
開けたら、消えてしまう気がした。
「――湊さん」
耳元で、声がした。
「肩、濡れてるよ」
俺は、傘を、ほんの少しだけ右へ傾けた。
ちり、と。
簪の鈴が、どこかで鳴った。
しばらく、そのまま立っていた。雨の音を、二人で聞いた。
やがて、雨が小降りになって、隣の気配は、ふっと消えた。
目を開けると、傘の中には、誰もいなかった。
右の肩は、濡れていなかった。
*
帰り道、手帳を開いた。
最初のページに、ふたつの名前を書いてある。
汐里。
澄。
その下に、今日の日付と、一行だけ書き足した。
雨。
雨の日は、もう、嫌いじゃない。
(了)
「手を離すこと」と「見捨てること」は違う。
妹の手を離してしまった湊と、自分から手を離した澄。そんな二人の、ひと夏の物語を書きたいと思いました。
怖いだけではなく、読み終えたあとに雨の音が少しだけ優しく聞こえる。そんなホラーになっていたら嬉しいです。
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そして、次回作のお知らせです。
『もういいよ、が聞こえる家』
20年前、かくれんぼで消えた幼なじみが、まだ僕を探している――。
取り壊しの決まった旧家を舞台にした、神隠しと記憶の和風ホラーです。
本日より連載を開始しました。
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また、前作『ただいまを返してはいけない部屋』も完結しています。
まだの方は、あわせてどうぞ。




