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灯し火の番人・新章  作者: 天月 和宙 -sora-


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【 第5話】 届かない祈りの余韻


 夜(よる)の底(そこ)に静(しず)かに佇(たたず)む灯(とう)台(だい)の最(さい)上(じょう)階(かい)には、優(やさ)しい静(せい)寂(じゃく)だけが満(み)ちていた。


 机(つくえ)の上(うえ)には、あの図(と)書(しょ)室(しつ)から持(も)ち帰(かえ)った、星(ほし)の形(かたち)の木(もく)製(せい)のオルゴールが静(しず)かに置(お)かれている。


 主(あるじ)を失(うしな)ったそれは、今(いま)はもう音(おと)を奏(かな)でることもなく、ただ星(ほし)の光(ひかり)を浴(あ)びて眠(ねむ)っていた。


 床(ゆか)の硝(がら)子(す)の下(した)を流(なが)れる深(ふか)い青(あお)色(いろ)の海(うみ)は、波(なみ)ひとつ立(た)てずに微(かす)かな光(ひかり)を放(はな)っている。


 窓(まど)の外(そと)には、まるで黒(くろ)い天鵞絨(ビロード)の布(ぬの)に純(じゅん)銀(ぎん)の砂(すな)を撒(ま)いたかのような、息(いき)を呑(の)むほど鮮(あざ)やかな星(ほし)空(ぞら)が広(ひろ)がっていた。


 私(わたし)は、鈍(にぶ)く光(ひか)る古(ふる)びた真(しん)鍮(ちゅう)の暖(だん)炉(ろ)に、乾(かわ)いた薪(まき)を静(しず)かに焚(く)べる。


 パチッ、と小(ちい)さな音(おと)を立(た)てて火(ひ)の粉(こ)が舞(ま)い、暖(あたた)かな琥(こ)珀(はく)色(いろ)の光(ひかり)が、壁(かべ)に並(なら)ぶ古(ふる)びた書(しょ)物(もつ)の背(せ)表(びょう)紙(し)を優(やさ)しく照(て)らし出(だ)していた。


 火(ひ)の上(うえ)の銀(ぎん)の薬缶(やかん)からは、微(かす)かな湯(ゆ)気(げ)とともに、干(ほ)した林(りん)檎(ご)と肉(にっ)桂(けい)の甘(あま)い香(かお)りが漂(ただよ)っている。


「暖(あたた)かいですね、番(ばん)人(にん)さん」


 長(なが)い椅(い)子(す)にゆったりと腰(こし)かけていたノアが、白(しろ)い湯(ゆ)気(げ)の向(む)こうで愛(いと)おしそうに目(め)を細(ほそ)めた。


 夜(よる)の闇(やみ)を溶(と)かしたような艶(つや)やかな黒(くろ)髪(かみ)が、炉(ろ)の炎(ほのお)に照(て)らされて仄(ほの)赤(あか)く染(そ)まっている。


 図(と)書(しょ)室(しつ)での激(げき)戦(せん)で擦(す)り切(き)れた彼女(かのじょ)の魂(たましい)は、この穏(おだ)やかな火(ひ)の温(ぬく)もりによって、ゆっくりと宥(なだ)められ、癒(い)やされているようだった。


 彼女(かのじょ)の小(ちい)さな膝(ひざ)の上(うえ)には、あの「白(しろ)い本(ほん)」が静(しず)かに置(お)かれている。


 その白(しろ)い紙(し)面(めん)の上(うえ)を、淡(あわ)い光(ひかり)を放(はな)つ無(む)数(すう)の「文(も)字(じ)」たちが、まるで微(ほほ)笑(え)む蛍(ほたる)のように穏(おだ)やかに揺(ゆ)らめいていた。


 それは、傷(きず)つき、荒(あ)れ狂(くる)っていた少(しょう)年(ねん)の言(こと)葉(ば)たちが、ノアの優(やさ)しさに包(つつ)まれて、すっかり安(やす)らかな眠(ねむ)りについた証(あかし)だった。


「ノア。あまり無理(むり)をしないでね。あなたの身体(からだ)は、まだ――」


「大(だい)丈(じょう)夫(ぶ)よ」


 私(わたし)の心(しん)配(ぱい)を和(やわ)らげるように、ノアは林(りん)檎(ご)の果(か)実(じつ)のように可(か)憐(れん)に微笑(ほほえ)んだ。


 彼女(かのじょ)が、誰(だれ)にも届(とど)かなかった優(やさ)しい「祈(いの)り」から生(う)まれた精(せい)霊(れい)であることを、私(わたし)はすでに知(し)っている。


 だからこそ、その微笑(ほほえ)みの奥(おく)にある消(き)え入(い)りそうな儚(はかな)さが、いとおしく、同時(どうじ)に胸(むね)を優(やさ)しく締(し)め付(つ)けるように切(せつ)なかった。


 暖(だん)炉(ろ)のなかで、薪(まき)がパチリと小(ちい)さく鳴(な)る。


 この瑞々(みずみず)しくも静(しず)かな時(じ)間(かん)が、いつまでも続(つづ)けばいい。


 心(こころ)からそう願(ねが)った瞬間(しゅんかん)だった。


――ジリリリリリ!


 机(つくえ)に置(お)かれた真(しん)鍮(ちゅう)の電(でん)話(わ)機(き)が、突(とつ)如(じょ)として、その安(あん)眠(みん)を引(ひ)き裂(さ)いた。


 静(しず)けさを破(やぶ)る電(でん)話(わ)の音(おと)に、ノアが肩(かた)を小(ちい)さく震(ふる)わせる。


 私(わたし)は長(なが)い椅(い)子(す)から腰(こし)を上(あ)げ、黒(くろ)い硝(がら)子(す)の机(つくえ)へと歩(あゆ)み寄(よ)った。


 冷(つめ)たい真(しん)鍮(ちゅう)の受(じゅ)話(わ)器(き)を取(と)り上(あ)げ、耳(みみ)へと当(あ)てる。


――流(なが)れ込(こ)んできたのは、激(はげ)しい雨(あめ)の音(おと)だった。


 どこか遠(とお)い場所(ばしょ)で、地面(じめん)を激(はげ)しく叩(たた)く雨(あめ)の地(じ)鳴(な)りのような響(ひび)き。


 そして、そのノイズの向(む)こうから、十(じゅう)代(だい)の若(わか)い少年(しょうねん)か少女(しょうじょ)のものともつかない、荒(あら)い息(いき)遣(づか)いが聞(き)こえてくる。


 言葉(ことば)にならない、ただの息(いき)の音(おと)。


 それなのに、受(じゅ)話(わ)器(き)を通(とお)して伝(つた)わる空気(くうき)は、肌(はだ)がぞっとするほどに重(おも)く、冷(つめ)たく湿(しめ)っていた。


 胸(むね)をかきむしるような苛立(いらだ)ちと、逃(に)げ場(ば)のない絶(ぜつ)望(ぼう)が、その短(みじか)い呼吸(こきゅう)のひとつひとつにべっとりと張(は)り付(つ)いている。


「……迷(まよ)い子(ご)ですね」


 いつの間(ま)にか私(わたし)の隣(となり)に佇(たたず)んでいたノアが、受(じゅ)話(わ)器(き)を見(み)つめながら静(しず)かに呟(つぶ)いた。


 彼女(かのじょ)の瞳(ひとみ)には、もう恐(おそ)れの色(いろ)はない。


 ただ、雨(あめ)に打(う)たれて泣(な)いている言葉(ことば)を放(ほう)ってはおけないという、深(ふか)い慈(じ)愛(あい)だけが灯(とも)っていた。


「ええ。激(はげ)しい雨(あめ)の音(おと)がするわ。今(こん)夜(や)の主(あるじ)は、ひどく心(こころ)を濡(ぬ)らして凍(こご)えているみたい」


 私(わたし)は受(じゅ)話(わ)器(き)を静(しず)かに戻(もど)し、ノアの細(ほそ)い手(て)を優(やさ)しく包(つつ)み込(こん)んだ。


 まだ擦(す)り切(き)れた魂(たましい)が癒(い)えきっていない彼女(かのじょ)を連(つ)れていくのは、胸(むね)が痛(いた)む。


 けれど、ノアが「届(とど)かない言葉(ことば)」のために生(う)まれた精(せい)霊(れい)であるなら、番(ばん)人(にん)たる私(わたし)の役(やく)目(め)は、彼女(かのじょ)の意志(いし)を支(ささ)え、その旅(たび)路(じ)をどこまでも守(まも)り抜(ぬ)くことだ。


「さあ、行(い)きましょう。あの雨(あめ)の向(む)こうへ」


「はい、番(ばん)人(にん)さん」


 ノアは「白(しろ)い本(ほん)」をしっかりと胸(むね)に抱(だ)き、毅(き)然(ぜん)とした面(おも)持(も)ちで頷(うなず)いた。


 二(ふた)人(り)で硝(がら)子(す)の床(ゆか)の中心(ちゅうしん)へと進(すす)むと、足(あし)元(もと)の深(ふか)い青(あお)色(いろ)の海(うみ)が、まるで道(みち)を開(ひら)くように激(はげ)しく脈(みゃく)打(う)ち始(はじ)める。


 真(しん)鍮(ちゅう)の暖(だん)炉(ろ)の温(ぬく)もりを背(せ)に残(のこ)したまま、私(わたし)たちは次(つぎ)なる調(ちょう)律(りつ)の地(ち)――激(はげ)しい雨(あめ)が全(すべ)てを押(お)し流(なが)す、閉(と)ざされた世界(せかい)へと身体(からだ)を沈(しず)めていった。


 視(し)界(かい)が激(はげ)しく反(はん)転(てん)し、冷(つめ)たい闇(やみ)を抜(ぬ)けた瞬(しゅん)間(かん)、凄(すさ)まじい水(みず)の音(おと)が鼓(こ)膜(まく)を打(う)った。


 そこは、果(は)てしない土(ど)砂(しゃ)降(ぶ)りの世(せ)界(かい)だった。


 空(くう)中(ちゅう)から叩(たた)きつけられる大(おお)粒(つぶ)の雨(あめ)は、まるで銀(ぎん)の針(はり)の束(たば)となって、容(よう)赦(しゃ)なく私(たち)たちの肌(はだ)を刺(さ)してくる。


 見(み)上(あ)げても星(ほし)空(ぞら)はなく、重(おも)く垂(た)れ込(こ)めた鉛(なまり)色(いろ)の雲(くも)が、地(じ)面(めん)のすぐ近(ちか)くまで迫(せま)っていた。


 足(あし)元(もと)を見(み)れば、そこは灰(はい)色(いろ)のアスファルトの上(うえ)だった。 


 川(かわ)のように濁(にご)った水(みず)が激(はげ)しく流(なが)れ、私(わたし)たちの足(あし)首(くび)を冷(つめ)たく濡(ぬ)らしていく。


 どうやら、どこかの街(まち)の、人(ひと)の通(とお)らない狭(せま)い路(ろ)地(じ)裏(うら)のようだった。


 高(たか)いコンクリートの壁(かべ)に囲(かこ)まれ、逃(に)げ場(ば)のない底(そこ)に閉(と)じ込(こ)められたかのような、息(いき)詰(づ)まる空(くう)間(かん)。


「……う、っ……」


 隣(となり)で、ノアが短(みじか)いうめきを上(あ)げて身(み)を縮(ちぢ)めた。


 見(み)れば、彼(かの)女(じょ)の白(しろ)い衣(い)服(ふく)は、一(いっ)瞬(しゅん)にして雨(あめ)に濡(ぬ)れ、肌(はだ)に張(は)り付(つ)いている。


 夜(よる)を溶(と)かしたような黒(くろ)髪(かみ)から滴(しずく)が滴(したた)り、彼(かの)女(じょ)の白(しろ)い頬(ほお)を伝(つた)っていた。


「ノア!」


 私(わたし)は急(いそ)いで彼(かの)女(じょ)を引(ひ)き寄(よ)せ、自(みずか)らの身体(からだ)で雨(あめ)を遮(さえぎ)るように抱(だ)き締(し)めた。


 冷(つめ)たい雨(あめ)に打(う)たれながらも、ノアは胸(むね)に抱(だ)いた『白(しろ)い本(ほん)』だけは、濡(ぬ)らすまいと必(ひっ)死(し)に守(まも)っている。


「大(だい)丈(じょう)夫(ぶ)……大(だい)丈(じょう)夫(ぶ)ですから、番(ばん)人(にん)さん。それより、早(はや)く……あの子(こ)を……」


 寒(さむ)さに唇(くちびる)を紫(むらさき)色(いろ)に震(ふる)わせながら、ノアが路(ろ)地(じ)裏(うら)の奥(おく)へと視(し)線(せん)を向(む)けた。


 彼(かの)女(じょ)の見(み)つめる先(さき)にぽつんとうずくまる、小(ちい)さな影(かげ)が見(み)えた。


 それは、古(ふる)びた段(だん)ボールの陰(かげ)で、膝(ひざ)を抱(かか)えて震(ふる)えている、ひとりの若(わか)い少(しょう)女(じょ)の姿(すがた)だった。


 ずぶ濡(ぬ)れの制(せい)服(ふく)を身(み)に纏(まと)い、絶(ぜつ)望(ぼう)に打(う)ちひしがれたように顔(かお)を伏(ふ)せている。


 受(じゅ)話(わ)器(き)の向(む)こうから聞(き)こえていた荒(あら)い息(いき)遣(づか)いは、紛(まぎ)れもなく、この少(しょう)女(じょ)のものだった。


 そして、彼(かの)女(じょ)の周囲(しゅうい)には、異(い)様(よう)な光(こう)景(けい)が広(ひろ)がっていた。 


 降(ふ)り注(そそ)ぐ雨(あめ)の一(ひと)滴(しずく)一(ひと)雫(しずく)が、地(じ)面(めん)に落(お)ちる直(ちょく)前(ぜん)に、どす黒(ぐろ)い「文(も)字(じ)」へと姿(すがた)を変(か)えているのだ。


 消(き)えたい。


 誰(だれ)も信(しん)じられない。 


 私(わたし)なんて、いなければよかったのに。


 無(む)数(すう)の黒(くろ)い文(も)字(じ)たちが、少(しょう)女(じょ)の心(こころ)の叫(さけ)びとなって、激(はげ)しい濁(だく)流(りゅう)のようになりながら、彼(かの)女(じょ)の身体(からだ)を濁(にご)った水(みず)ごと激(はげ)しく打(う)ち据(す)えていた。


 降(ふ)り注(そそ)ぐ雨(あめ)のすべてが彼女自身(かのじょじしん)を縛(しば)る冷(つめ)たい鎖(くさり)となり、逃(に)げ場(ば)のない絶(ぜつ)望(ぼう)となっている。


「……行(い)かせて、番(ばん)人(にん)さん」


 ノアは私(わたし)の腕(うで)の中(なか)から這(は)い出(で)るようにして、冷(つめ)たいアスファルトの上(うえ)へと足(あし)を踏(ふ)み出(だ)した。


 ずぶ濡(ぬ)れになった髪(かみ)が頬(ほお)に張(は)り付(つ)き、寒(さむ)さで身体(からだ)は激(はげ)しく震(ふる)えている。


 それなのに、その瞳(ひとみ)だけは信(しん)じられないほど気(け)高(だか)く、温(あたた)かな光(ひかり)を宿(やど)していた。


 彼女(かのじょ)は、胸(むね)に抱(だ)いた『白(しろ)い本(ほん)』を、溢(あふ)れんばかりの文(も)字(じ)の濁(だく)流(りゅう)へと向(む)け、力強(ちからづよ)くページを開(ひら)く。


「悲(かな)しい言(こと)葉(ば)たち……。そんなに自分(じぶん)を傷(きず)つけないで」


 ノアの口(くち)から紡(つむ)がれたのは、荒(あ)れ狂(くる)う雨(あめ)の音(おと)さえも一(いっ)瞬(しゅん)で包(つつ)み込(こ)むような、どこまでも優(やさ)しい声(こえ)だった。


 その瞬間(しゅんかん)、少(しょう)女(じょ)を打(う)ち据(す)えていた黒(くろ)い文(もじ)字(じ)たちが、侵(しん)入(にゅう)者(しゃ)であるノアに気(き)づいたように一(いっ)斉(せい)にその矛(ほこ)先(さき)を変(か)えた。


 濁(だく)流(りゅう)が鎌(かま)首(くび)をもたげ、鋭(するど)い棘(とげ)のような形(かたち)を成(な)して、一(いっ)気(き)にノアの細(ほそ)い身体(からだ)へと襲(おそ)いかかる。


 私(わたし)は動(どう)じることなく前(まえ)へと進(すす)み、空間(くうかん)の理(ことわり)をもって少女(しょうじょ)へ気(き)づきを促(うなが)す。


 その毅(き)然(ぜん)たる導(みちび)きに呼(こ)応(おう)するように、ノアの『白(しろ)い本(ほん)』から、淡(あわ)く柔(やわ)らかな光(ひかり)の波(なみ)が広(ひろが)った。


 それは、ただそこに存在(そんざい)するだけで、すべての痛(いた)みを「分(わ)かっているよ」と受(う)け止(と)めるような、果(は)てしない包(ほう)容(よう)力(りょく)を持(も)った光(ひかり)。


 届(とど)かなかった優(やさ)しい祈(いの)りの一(ひと)雫(しずく)から生(う)まれた彼女(かのじょ)だからこそ放(はな)てる、魂(たましい)の輝(かがや)きだった。


 キィィィン、と凍(こお)りつくような硬(かた)い音(おと)が路(ろ)地(じ)裏(うら)に響(ひび)く。


 少(しょう)女(じょ)の自(じ)己(こ)嫌(けん)悪(お)が形(かたち)づくらせた黒(くろ)い文(も)字(じ)の鎖(くさり)は、ノアの光(ひかり)の波(なみ)に触(ふ)れた瞬間(しゅんかん)、激(はげ)しい火(ひ)花(ばな)を散(ち)らしながら、彼女(かのじょ)の魂(たましい)を確(たし)かに擦(す)り切(き)らせていく。


 ノアの白(しろ)い頬(ほお)から血(ち)の気(け)が引(ひ)き、その儚(はかな)い身体(からだ)が苦(く)痛(つう)に歪(ゆが)むのが見(み)えた。


「痛(いた)かったよね。寂(さび)しかったよね……。でも、もう大(だい)丈(じょう)夫(ぶ)だから」


 ノアは自(みずか)らの魂(たましい)を削(けず)りながらも、愛(いと)おしい我(わ)が子(こ)をあやすように、文(も)字(じ)たちを優(やさ)しく包(つつ)み込(こ)んていく。


 やがて、激(はげ)しい雨(あめ)の滴(しずく)に混(ま)ざりながら、一(ひと)文(も)字(じ)、また一(ひと)文(も)字(じ)と、穏(おだ)やかな光(ひかり)の蛍(ほたる)へと姿(かたち)を変(か)えて『白(しろ)い本(ほん)』の白(はく)紙(し)のページへと吸(す)い込(こ)まれていく。


 どれほどの時(じ)間(かん)が経(た)っただろうか。


 路(ろ)地(じ)裏(うら)を埋(う)め尽(つ)くしていた黒(くろ)い文(も)字(じ)の濁(だく)流(りゅう)は完(かん)全(ぜん)に姿(すがた)を消(け)し、あとに残(のこ)されたのは、ただの冷(つめ)たい本(ほん)物(もの)の雨(あめ)だけだった。


「……あ……」


 うずくまっていた少(しょう)女(じょ)が、ゆっくりと顔(かお)を上(あ)げる。


 その瞳(ひとみ)からは、先(さき)ほどまでの刺(とげ)々(とげ)しい絶(ぜつ)望(ぼう)が消(き)え、ただ静(しず)かな涙(なみだ)だけが雨(あめ)と共(とも)に頬(ほお)を伝(つた)って流(なが)れ落(お)ちていた。


 彼女(かのじょ)の心(こころ)の嵐(あらし)は、ノアの優(やさ)しさによって、静(しず)かに溶(と)けたのだ。


 少(しょう)女(じょ)の影(かげ)が、淡(あわ)い雨(あめ)の霧(きり)の中(なか)にゆっくりと消(き)え去(さ)っていく。


 誰(だれ)もいなくなったずぶ濡(ぬ)れのアスファルトの上(うえ)には、雨(あめ)に濡(ぬ)れた『透(とう)明(めい)な小(ちい)さなビニール傘(がさ)』だけが、ぽつんと静(しず)かに遺(のこ)されていた。


「よかった……。今(こん)夜(や)も、言葉(ことば)を送(おく)り届(とど)けられました……」


 ノアはそう言(い)って、満(まん)足(ぞく)そうに微笑(ほほえ)んだ。


 しかし、その言葉(ことば)が終(お)わるか終(お)わらないかのうちに、彼女(かのじょ)の身体(からだ)から完(かん)全(ぜん)に力(ちから)が抜(ぬ)け、前(まえ)へと倒(たお)れ込(こ)んだ。


 私(わたし)は彼女(かのじょ)の傍(そば)へと歩(あゆ)み寄(よ)り、冷(つめ)たくなったその身体(からだ)を両(りょう)腕(うで)でしっかりと抱(だ)きとめた。


 彼女(かのじょ)の魂(たましい)は、今(こん)夜(や)の過(か)酷(こく)な調(ちょう)律(りつ)で、さらに深(ふか)く、痛々(いたいた)しいほどに擦(す)り切(き)れてしまっている。


 抱(だ)き上(あ)げた彼女(かのじょ)の身体(からだ)は、まるですぐにでも消(き)えてしまいそうなほどに軽(かる)かった。


 私(わたし)は携(たずさ)えたランタンを掲(かか)げ、少女(しょうじょ)が吐(は)き出(だ)した重(おも)い言葉(ことば)の破(は)片(へん)を、その静(しず)かな焔(ほのお)へと焚(く)べた。


 優(やさ)しく揺(ゆ)らいだ焔(ほのお)が、黄金(おうごん)の光(ひかり)の粒(つぶ)となって、必(ひっ)死(し)に少女(しょうじょ)を救(すく)ったノアの胸(むね)へと還(かえ)っていく。


 それは、紡(つむ)がれた優(やさ)しさの源(みなもと)を静(しず)かに温(ぬく)める、あたたかな灯(とも)し火(び)のようであった。


「よく頑張(がんば)ったわね、ノア。さあ、お家(うち)に帰(かえ)りましょうね」


 私(わたし)は少(しょう)女(じょ)が遺(のこ)した透(とう)明(めい)な傘(かさ)を拾(ひろ)い、ノアを強(つよ)く抱(だ)きしめながら、再(ふたた)び世界(せかい)の底(そこ)へと身体(からだ)を沈(しず)めていった。


 私(たち)たちは真(しん)鍮(ちゅう)の暖(だん)炉(ろ)がパチリと小(ちい)さく鳴(な)る、温(あたた)かい灯(とう)台(だい)の最(さい)上(じょう)階(かい)へと戻(もど)ったきた。


 窓(まど)の外(そと)には、先(さき)ほどと変(か)わらない純(じゅん)銀(ぎん)の砂(すな)を撒(ま)いたような美(うつく)しい星(ほし)空(ぞら)が広(ひろ)がっている。


 私(わたし)はノアを長(なが)い椅(い)子(す)へと横(よこ)たえ、毛(もう)布(ふ)を優(やさ)しく掛(か)ける。


 彼女(かのじょ)の『白(しろ)い本(ほん)』の中(なか)では、今(こん)夜(や)救(すく)い上(あ)げた少(しょう)女(じょ)の言葉(ことば)たちが、蛍(ほたる)のように淡(あわ)く揺(ゆ)らめきながら眠(ねむ)りについている。


 すやすやと小(ちい)さな寝(ね)息(いき)を立(た)て始(はじ)めたノアの白(しろ)い寝(ね)顔(がお)を見(み)つめながら、私(わたし)の胸(むね)には、消(き)えない切(せつ)なさと大(おお)きな疑(ぎ)問(もん)が渦(うず)巻(ま)いていた。


 ノアを形(かたち)づくった、誰(だれ)にも届(とど)かなかった「最初(さいしょ)の祈(いの)り」。


 これほどまでに我(わ)が身(み)を削(けず)ってでも、他(た)者(しゃ)の痛(いた)みに寄(よ)り添(そ)おうとする彼女(かのじょ)の根(こん)幹(かん)にあるものは、一体(いったい)誰(だれ)の、どのような願(ねが)いだったのだろうか。


 彼女(かのじょ)の髪(かみ)を優(やさ)しく撫(な)でながら、答(こた)えを探(さが)すように、静(しず)かに夜(よる)の闇(やみ)を見(み)つめ続(つづ)けた。


第(だい)6話(わ)へ続(つづ)く。



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