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灯し火の番人・新章  作者: 天月 和宙 -sora-


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【第4話】星の図鑑と引き裂かれた約束


 深(ふか)い雲(うん)海(かい)の底(そこ)から吹(ふ)き上(あ)げる冷(つめ)たい風(かぜ)も、灯(とう)台(だい)の厚(あつ)い壁(かべ)に遮(さえぎ)られれば、ただの心(ここ)地(ち)よい重(じゅう)低(てい)音(おん)に過(す)ぎない。


 温(あたた)め直(なお)したスープを飲(の)み干(ほ)し、すっかりお腹(なか)を満(み)たしたノアは、居(い)間(ま)の長(なが)椅(い)子(す)で小(ちい)さな寝(ね)息(いき)を立(た)てていた。


 その胸(むな)元(もと)では、彼(かの)女(じょ)の『本(ほん)』が主(しゅ)人(じん)の眠(ねむ)りに合(あ)わせるように、穏(おだ)やかな光(ひかり)の波(なみ)を繰(く)り返(かえ)している。


 昨(さく)夜(や)から続(つづ)いた調(ちょう)律(りつ)の旅(たび)路(じ)は、生(う)まれたばかりの言(こと)葉(ば)の精(せい)霊(れい)である彼(かの)女(じょ)の魂(たましい)を、確(たし)かに擦(す)り切(き)らせていたのだ。


 私(わたし)は彼(かの)女(じょ)にそっと毛(もう)布(ふ)を掛(か)け、水(みな)底(そこ)の郵(ゆう)便(びん)局(きょく)から持(も)ち帰(かえ)った、ポストの置(お)き物(もの)を飾(かざ)り棚(だな)へと並(なら)べた。


 これで、この灯(とう)台(だい)が記(き)憶(おく)する『寂(さび)しさ』がまた一(ひと)つ、美(うつく)しい形(かたち)を得(え)たことになる。


 棚(たな)に並(なら)ぶ至(し)宝(ほう)の宝(たから)物(もの) たちが、窓(まど)から射(さ)す月(つき)の光(ひかり)を浴(あ)びて密(ひそ)やかに息(いき)づいていた。


(……けれど、現(げん)実(じつ)は絶(た)え間(ま)なく寂(さび)しさを生(う)み出(だ)し続(つづ)ける)


 私(わたし)は一(ひと)人(り)、真(しん)鍮(ちゅう)の電(でん)話(わ)機(き)の前(まえ)に腰(こし)掛(か)け、静(しず)かにその時(とき)を待(ま)っていた。


 ――ジリリリリリ!


 予(よ)感(かん)通(どお)り、午(ご)前(ぜん)零(れい)時(じ)。


 音(おん)が響(ひび)く。


 私(わたし)はノアを起(お)こさないよう、すばやく受(じゅ)話(わ)器(き)を取(と)った。


 耳(みみ)の奥(おく)に飛(と)び込(こ)んできたのは、ページが激(はげ)しく擦(す)れ合(あ)う無(む)数(すう)の紙(かみ)の音(おと)。


 そして、ツンとした古(ふる)いインクの匂(にお)いと、埃(ほこり)っぽい閉(へい)塞(そく)感(かん)だった。


 その奥(おく)から、何(なに)かを激(はげ)しく呪(のろ)うような、あるいは自(じ)分(ぶん)自(じ)身(しん)を責(せ)め立(た)てるような、若(わか)者(もの)の押(お)し殺(ころ)した泣(な)き声(ごえ)が漏(も)れ聞(き)こえてくる。


 胸(むね)を掻(か)きむしるようなその嗚(お)咽(えつ)は、鋭(あや)うい刃(やいば)のように私(わたし)の鼓(こ)膜(まく)を打(う)った。


「今(こん)度(ど)は……学(がっ)校(こう)、かしら」


「ん……番(ばん)人(にん)さん? もう、次(つぎ)の呼(よ)び出(だ)し……?」


 毛(もう)布(ふ)をずらし、ノアが眠(ねむ)たげな目(め)を擦(こす)りながら起(お)き上(あ)がってきた。


 その群(ぐん)青(じょう)色(いろ)の瞳(ひとみ)は、すでに迫(せま)り来(く)る調(ちょう)律(りつ)の気(け)配(はい)を察(さっ)して、微(かす)かに緊張(きんちょう)している。


「ええ。ノア、起(お)こしてしまってごめんなさい。だけど、あまり猶(ゆう)予(よ)がなさそうなの。激(はげ)しい軋(きし)みと、自(みずか)らを傷(きず)つけるような拒(きょ)絶(ぜつ)を感(かん)じるわ」


「ううん、大(だい)丈(じょう)夫(ぶ)。行(い)きましょう、番(ばん)人(にん)さん。……その子(こ)が、自(じ)分(ぶん)の言(こと)葉(ば)で窒(ちっ)息(そく)して、しまう前(まえ)に」


 ノアは力(ちから)強(づよ)く首(くび)を振(ふ)り、相(あい)棒(ぼう)である白(しろ)い本(ほん)をぎゅっと抱(だ)きしめた。


――現(げん)実(じつ)世(せ)界(かい)、深(しん)夜(や)の「私(し)立(りつ)蒼(あお)葉(ば)高(こう)校(こう)・図(と)書(しょ)室(しつ)」。


 境(きょう)界(かい)の門(もん)を抜(ぬ)けた私(わたし)たちが足(あし)を踏(ふ)み入(い)れたのは、月(げっ)光(こう)だけが頼(たよ)りの、巨(きょ)大(だい)な迷(めい)宮(きゅう)のような図(と)書(しょ)室(しつ)だった。


 だが、何(なに)かが異(い)常(じょう)だった。


 規則(きそく)正(ただ)しく並(なら)んでいるはずの重厚(じゅうこう)な本(ほん)棚(だな)は、どれも中(ちゅう)央(おう)に向(む)かって不(ふ)自(し)然(ぜん)に歪(ゆが)み、棚(たな)の隙(すき)間(ま)から溢(あふ)れ出(だ)した無(む)数(すう)の『紙(し)片(へん)』が、まるで意(い)志(し)を持(も)つ黒(くろ)い鳥(とり)の群(むれ)のように、天(てん)井(じょう)近(ちか)くをバタバタと不(ぶ)気(き)味(み)に飛(と)び交(か)っている。


「ひどい……。空(くう)気(き)が全(ぜん)部(ぶ)、トゲトゲしているわ。息(いき)をするだけで、喉(のど)の奥(おく)が刺(さ)すように痛(いた)い」


 ノアが自(じ)分(ぶん)の華(きゃ)奢(しゃ)な腕(うで)をさすりながら呟(つぶや)いた。


 現(げん)実(じつ)世(せ)界(かい)の夜(よる)の図(と)書(しょ)室 (しつ)が持(も)つ、あの静(せい)寂(じゃく)と知(ち)性(せい)の安(やす)らぎはどこにもない。


 そこにあるのは、他(た)者(しゃ)を、そして自(じ)分(ぶん)をも容(よう)赦(しゃ)なく拒(きょ)絶(ぜつ)するような鋭(えい)利(り)な殺(さっ)気(き)に満(み)ちた檻(おり)だった。


「気(き)をつけて、ノア。この飛(と)び交(か)う紙(かみ)の一(いち)枚(まい)一(いち)枚(まい)に、剥(は)がれ落(お)ちた強(つよ)い負(ふ)の感(かん)情(じょう)が、刃(やいば)のように張(は)り付(つ)いているわ。触(ふ)れれば心(こころ)が切(き)り裂(さ)かれる」


 私(わたし)はランタンを掲(かか)げ、青(あお)い火(ひ)で周囲(しゅうい)の濃(こ)い暗(くら)がりを照(て)らし出(だ)した。


 部屋(へや)の最(さい)奥(おく)、もっとも分(ぶ)厚(あつ)い辞(じ)典(てん)や学(がく)術(じゅつ)書(しょ)の山(やま)に囲(かこ)まれた読(どく)書(しょ)スペースに、その孤独(こどく)な影(かげ)はいた。


 制(せい)服(ふく)を着(き)た一(ひと)人(り)の男(だん)子(し)学(がく)生(せい)が、木(もく)製(せい)の机(つくえ)に突(つ)っ伏(ぷ)して、狂(きょう)乱(らん)したように肩(かた)を激(はげ)しく震(ふる)わせている。


 彼(かれ)の周囲(しゅうい)では、乱(らん)暴(ぼう)に破(やぶ)られたノートの切(き)れ端(はし)が竜(たつ)巻(まき)のように激(げき)流(りゅう)となって渦(うず)を巻(ま)いていた。


 その紙(し)片(へん)には、黒(くろ)いインクで『どうして』『約(やく)束(そく)したのに』『裏(うら)切(ぎ)り者(もの)』という文(も)字(じ)が、紙(かみ)を突(つ)き破(やぶ)るほどの筆(ひつ)圧(あつ)で、執(しつ)拗(よう)なほど大(たい)量(りょう)に書(か)き殴(なぐ)られている。


「僕(ぼく)が……僕(ぼく)が、あいつの秘(ひ)密(みつ)を、あの約束(やくそく)を最(さい)後(ご)まで黙(だま)っていれば……! 絶(ぜっ)交(こう)なんて、あんな冷(つめ)たい目(め)で見(み)られずに済(す)んだのに! 僕(ぼく)はただ、あいつを助(たす)けたくて、手(て)遅(おく)れになる前(まえ)に、先(せん)生(せい)に……!」


 少(しょう)年(ねん)の引(ひ)き裂(さ)かれそうな呼(こ)吸(きゅう)から、どす黒(ぐろ)い霧(きり)が血(ち)のように噴(ふ)き出(だ)し、それが空(くう)中(ちゅう)の紙(かみ)の破(は)片(へん)と混(ま)ざり合(あ)って無(む)数(すう)の文(も)字(じ)の刃(やいば)と化(か)し、嵐(あらし)となって本(ほん)棚(だな)の並(なら)ぶ図(と)書(しょ)室(しつ)を容(よう)赦(しゃ)なく切(き)り裂(さ)いていく。


 彼(かれ)の後(こう)悔(かい)は、自(じ)分(ぶん)を責(せ)め同(どう)時(じ)に、世界(せかい)そのものを拒(きょ)絶(ぜつ)する壁(かべ)となっていた。


「少(しょう)年(ねん)、落(お)ち着(つ)きなさい。あなたの声(こえ)は、もう十分(じゅうぶん)にその身(み)を引(ひ)き裂(さ)いているわ」


 私(わたし)がランタンの灯(とも)し火(び)を盾(たて)にしながら一(いっ)歩(ぽ)前(まえ)に進(すす)むと、少(しょう)年(ねん)は弾(はじ)かれたように顔(かお)を上(あ)げ、その血(ち)走(ばし)った瞳(ひとみ)で、憎(にく)しみを込(こ)めてこちらを鋭(するど)く睨(にら)みつけた。


「誰(だれ)だ!? 来(く)るな! 誰(だれ)も僕(ぼく)の気(き)持(も)ちなんて分(わ)かりっこないんだ! 僕(ぼく)はあいつを救(すく)いたかっただけなのに、結果(けっか)的(てき)に、一(いち)番(ばん)大(たい)切(せつ)な約(やく)束(そく)を破(やぶ)ったんだ! あいつの未(み)来(らい)を、信(しん)頼(らい)を、僕(ぼく)がめちゃくちゃにしたんだよ! 僕(ぼく)は……救(すく)いようのない、最(さい)低(てい)の裏(うら)切(ぎ)り者(もの)なんだ!」


 少(しょう)年(ねん)の狂(きょう)乱(らん)した叫(さけ)びと同(どう)時(じ)に、空(くう)中(ちゅう)を狂(くる)ったように舞(ま)っていた無(む)数(すう)の紙(し)片(へん)が、一(いっ)斉(せい)に切(き)っ先(さき)を尖(とが)らせて、私(わたし)たち目(め)掛(が)けて殺(さっ)投(とう)した。


「番(ばん)人(にん)さん、危(あぶ)ない!」


 ノアが叫(さけ)びながら私(わたし)の前(まえ)に迷(まよ)わず飛(と)び出(だ)し、自(じ)分(ぶん)の『本(ほん)』を力(ちから)強(づよ)く開(ひら)いた。


 彼(かの)女(じょ)の白(しろ)い指(ゆび)先(さき)が素(す)早(ばや)く虚(くう)を薙(な)ぐと、本(ほん)の頁(ページ)から溢(あふ)れ出(だ)した光(ひかり)の文(も)字(じ)たちが強(きょう)固(こ)な『文(も)字(じ)列(れつ)の盾(たて)』を形(かたち)作(づく)り、押(お)し寄(よ)せる紙(かみ)の刃(やいば)をパチパチと火(ひ)花(ばな)を散(ち)らしながら次々(つぎつぎ)と弾(はじ)き飛(と)ばしていった。


 しかし、少(しょう)年(ねん)の内(ない)面(めん)から湧(わ)き出(で)る深(ふか)い罪(ざい)悪(あく)感(かん)と、狂(きょう)気(き)に近(ちか)い自(じ)己(こ)嫌(けん)悪(お)が混(ま)ざり合(あ)った突(とっ)風(ぷう)は、衰(おとろ)えるどころか益(ます)々(ます)激(はげ)しさを増(ま)していく。


「ノア、無(む)理(り)をしないで! 彼(かれ)の言葉(ことば)の刃(やいば)に正面(しょうめん)から立(た)ち向(む)かうのではなく、その奥(おく)に隠(かく)された、本(ほん)当(とう)の願(ねが)いを読(よ)み解(と)くのよ!」


「やってる……っ! やってるのっ!でも、この子(こ)の言(こと)葉(ば)は、全(ぜん)部(ぶ)自(じ)分(ぶん)を処(しょ)刑(けい)するための刃(やいば)の形(かたち)をしていて……優(やさ)しく包(つつ)もうとしても、心(こころ)を許(ゆる)してくれないの! 近(ちか)づくだけで、文(も)字(じ)が悲(ひ)鳴(めい)を上(あ)げて砕(くだ)けちゃう……っ!」


 ノアの青(あお)い瞳(ひとみ)に焦(あせ)りの色(いろ)が浮(う)かび、額(ひたい)に滲(にじ)んだ汗(あせ)が月(げぅ)光(こう)に濡(ぬ)れて光(ひかる)。


 少(しょう)年(ねん)の『大(たい)切(せつ)な人(ひと)との約(やく)束(そく)を破(やぶ)ってしまった』という絶(ぜつ)望(ぼう)は、あまりにも鋭(するど)く、自(じ)分(ぶん)を暗(くら)い殻(から)の中(なか)に閉(と)じ込(こ)めていた。


(彼(かれ)は、裏(うら)切(ぎ)り者(もの)という泥(どろ)を自(じ)分(ぶん)に塗(ぬ)ることで、逆(ぎゃく)に友(とも)への贖(あがな)いとしようとしている。……でも、そんな痛(いた)ましい呪(のろ)いが、彼(かれ)が本(ほん)当(とう)に遺(のこ)したかった想(おも)いのはずがないわ)


 私(わたし)はランタンの青(あお)い火(ひ)を見(つ)つめながら、その光(ひかり)が微(かす)かに照(て)らし出(だ)した、少(しょう)年(ねん)の机(つくえ)の端(はし)に置(お)かれた一(いっ)冊(さつ)の小(ちい)さな私(し)物(ぶつ)に目(め)を留(と)めた。


 それは、角(かど)がすり切(き)れた『天(てん)体(たい)図(ず)鑑(かん)』だった。


 古(ふる)びた図(ず)鑑(かん)の、あるページにだけ手(て)作(づく)りの栞(しおり)が挟(はさ)まっている。


 月(げっ)光(こう)を頼(たよ)りにそのページを透(す)かし見(み)れば、そこには不(ぶ)器(き)用(よう)な二(ふた)人(り)の筆(ひっ)跡(せき)で、歪(ゆが)んだ星(ほし)の絵(え)と――『一(いっ)緒(しょ)に宇(う)宙(ちゅう)飛(ひ)行(こう)士(し)になろう』という、純(じゅん)粋(すい)な落(らく)書(が)きが残(のこ)されていた。


「少(しょう)年(ねん)! あなたが破(やぶ)ったあの約(やく)束(そく)は、本(ほん)当(とう)にあの子(こ)を傷(きず)つけるため、裏(うら)切(ぎ)るためのものだったの!?」


 私(わたし)の凛(りん)とした芯(しん)のある声(こえ)が、図(と)書(しょ)室(しつ)を吹(ふ)き荒(あ)れる紙(し)片(へん)の暴(ぼう)風(ふう)を一(いっ)気(き)に切(き)り裂(さ)いた。


 少(しょう)年(ねん)は一(いっ)瞬(しゅん)、息(いき)を呑(の)んだように身(み)構(がま)えを硬(かた)くする。


「あの子(こ)が、一人(ひとり)で抱(かか)えきれない苦(くる)しみのなかで、間(ま)違(ちが)った道(みち)に歩(あゆ)み進(すす)もうとしていたから……だから、嫌(きら)われることを、絶(ぜっ)交(こう)されることを分(わか)っていながら、それでもあの子(こ)の生命(いのち)を、未(み)来(らい)を守(まも)るために、あなたは涙(なみだ)を流(なが)しながら大人(おとな)に伝(つた)えたんじゃないの!? その『天(てん)体(たい)図(ず)鑑(かん)』に交(かわ)した、あの子(こ)と一(いっ)緒(しょ)に生(い)きるという一(いち)番(ばん)大(たい)切(せつ)な本(ほん)当(とう)の約(やく)束(そく)を、守(まも)り抜(ぬ)くために!」


 その言葉(ことば)が、少(しょう)年(ねん)の頑(かた)くなな心(こころ)の最(もっと)も脆(もろ)く弱(よわ)い部分(ぶぶん)に真(ま)っ直(すぐ)ぐに届(とど)いた。


 激(はげ)しく荒(あれ)狂(くる)っていた紙(し)片(へん)の渦(うず)が、まるで魔法(まほう)が解(と)けたかのようにピタリと動(うご)きを止(と)めた。


 そして、意思(いし)を失(うしな)った枯(かれ)葉(は)のように、ハラハラと、トツトツと床(ゆか)へ落(お)ちていく。


「あ……あ、あ……」


 少(しょう)年(ねん)の喉(のど)から、押(お)し殺(ころ)した、小(ちい)さな声(こえ)が漏(も)れた。


 彼(かれ)は自(じ)分(ぶん)の手(て)を見(み)つめ、それから机(つくえ)の上(うえ)の図(ず)鑑(かん)に視(し)線(せん)を落(お)とす。



「僕(ぼく)は、あいつに……消(き)えてほしくなかったんだ。あいつが一(ひと)人(り)で全(ぜん)部(ぶ)背(せ)負(お)って、壊(こわ)れていくのを、黙(だま)って見(み)てるなんてできなかった。嫌(きら)われても、あいつが生(い)きていてくれれば……またいつか、あの星(ほし)を見(み)る日(ひ)が来(く)るかもしれないって。あの時(とき)は、そう思(おも)うしか……これしか方(ほう)法(ほう)が、なかったんだ……っ!」


 少(しょう)年(ねん)の目(め)から、これまで怒(いか)りと頑(かた)なな拒(きょ)絶(ぜつ)で堰(せき)止(と)めていた涙(なみだ)が、大(おお)粒(つぶ)の雫(しずく)となって溢(あふ)れ出(だ)した。


 雫(しずく)は木(もく)製(せい)の机(つくえ)にポタポタと黒(くろ)い染(し)みを作(つく)っていく。


 その涙(なみだ)は、彼(かれ)が自(じ)分(ぶん)を縛(しば)り付(つ)けていた『裏(うら)切(ぎ)り者(もの)』という酷(こく)な呪(のろ)いを、優(やさ)しく、静(しず)かに洗(あら)い流(なが)していくようだった。


「視(み)えた……! 本当(ほんとう)に、深(ふか)くて温(あたた)かい……この子(こ)が命(いのち)がけで遺(のこ)したかった、不器用(ぶきよう)な『守(まも)りたかった』という祈(いの)りの言(こと)葉(ば)が!」


 ノアが歓(かん)喜(き)に瞳(ひとみ)を輝(かがや)かせ、開(ひら)いた本(ほん)に向(む)けて両(りょう)手(て)を高(たか)く掲(かか)げた。


 すると、床(ゆか)に散(ち)らばっていた薄(うす)汚(よご)れた紙(し)片(へん)から、醜(みにく)い黒(くろ)いインクの呪(のろ)いが陽(よう)炎(えん)のように消(け)え去(さ)り、代(か)わりに、静(しん)夜(や)の夜(よ)空(ぞら)に輝(かがや)く星(ほし)々(ぼし)のような、美(うつく)しく煌(きらめ)く群(ぐん)青(じょう)色(いろ)の文(も)字(じ)が一(いっ)斉(せい)に浮(う)かび上(あ)がる。


 それは、友(とも)を想(おも)うがゆえに泥(どろ)を被(かぶ)ることを選(えら)んだ、少(しょう)年(ねん)の純(じゅん)粋(すい)な『親(しん)愛(あい)』そのものの結晶(けっしょう)だった。


「番(ばん)人(にん)さん、この子(こ)の想(おも)いを……その尊(とうと)い火(ひ)に!」


「ええ、一(ひと)文字(もじ)も漏(ら)らさずに受(う)け取(と)るわ!」


 私(わたし)はランタンのガラスケースを手(て)際(ぎわ)よく押(お)し上(あ)げ、ノアが真(ま)心(ごころ)を込(こ)めて紡(つむ)ぎ出(だ)した群(ぐん)青(じょう)色(いろ)の光(ひかり)の言(こと)葉(ば)を、その青(あお)い炎(ほのお)へと誘(いざな)い入(い)れた。


 ――ガゥッ、と火(ひ)が勢(いきお)いよく燃(も)え上(あ)がる。


 冷(つめ)たかった青(あお)い炎(ほのお)は、少(しょう)年(ねん)の熱(あつ)い涙(なみだ)と想(おも)いを吸(す)って瞬(しゅん)時(じ)に巨大(きょだい)に膨(ふく)らみ、まるで一(いち)番(ばん)美(うつく)しい夕(ゆう)暮(ぐ)れの太(たい)陽(よう)のように、どこか寂(さび)しげでありながらも、凍(こお)りついた心(こころ)を芯(しん)から温(あたた)める「琥(こ)珀(はく)色(いろ)の灯(とも)し火(び)」へと鮮(あざ)やかに姿(すがた)を変(か)えた。


「あなたの裏(うら)切(ぎ)りは、あの子(こ)を底(そこ)のない暗(くら)闇(やみ)から救(すく)い出(だ)すための、本(ほん)物(もの)の優(やさ)しさ。誰(だれ)が責(せ)めても、この灯(とも)し火(び)だけは、あなたを赦(ゆる)し、讃(たた)えるわ」


 私(わたし)はノアが集(あつ)めてくれた言(こと)葉(ば)の真(しん)実(じつ)を、自(じ)分(ぶん)の声(こえ)に乗(の)せて、包(つつ)み込(こ)むような慈(じ)愛(あい)を込(こ)めて語(かた)りかけた。


 そして、図(と)書(しょ)室(しつ)の隅々(すみずみ)まで届(とど)くように、琥(こ)珀(はく)色(いろ)の炎(ほのお)の光(ひかり)を毅(き)然(ぜん)と掲(かか)げた。


 温(あたた)かな光(ひかり)の波動(はどう)が、机(つくえ)に突(つ)っ伏(ぷ)して泣(な)き崩(くず)れる少(しょう)年(ねん)の身体(からだ)を、お母(かあ)さんの手(て)のように優(やさ)しく包(つつ)み込(こ)んでいく。


 彼(かれ)の背(せ)中(なか)から絶(た)えず噴(ふ)き出(だ)していた黒(くろ)い霧(きり)は霧(む)散(さん)し、苦(く)悶(もん)に満(み)ちていた表情(ひょうじょう)から険(けわ)しさが消(け)え、まるで長(なが)い悪(あく)夢(む)から解(かい)放(ほう)されたかのような、穏(おだ)やかな寝(ね)顔(がお)へと変(か)わっていった。


 同時(どうじ)に、床(ゆか)や壁(かべ)を埋(う)め尽(つ)くしていた無(む)数(すう)の紙(し)片(へん)が、サラサラと光(ひかり)の粒(りゅう)子(し)となって砕(くだ)け、天(てん)井(じょう)へと舞(ま)い上(あ)がっていく。


 それはまるで、夜(よる)の図(と)書(しょ)室(しつ)の中(なか)に現(あらわ)れた満(まん)天(てん)の星(ほし)空(ぞら)のようだった。


 少(しょう)年(ねん)たちが『天(てん)体(たい)図(ず)鑑(かん)』を見(み)上(あ)げながら夢(ゆめ)見(み)た、あの星(ほし)の瞬(まばた)きが、いま、彼(かれ)の心(こころ)の救(すく)いの証(しょう)明(めい)として部屋(へや)を美(うつく)しく彩(いろど)っているのだ。


 次(つぎ)の瞬(しゅん)間(かん)、心(ここ)地(ち)よい夜(よる)の風(かぜ)が図(と)書(しょ)室(しつ)を吹(ふ)き抜(ぬ)け、狂(くる)おしく歪(ゆが)んでいた木(もく)製(せい)の本棚(ほんだな)は、何事(なにごと)もなかったかのように元(もと)の正(ただ)しい姿(すがた)へと戻(もど)っていった。


 少(しょう)年(ねん)の幻(げん)影(えい)は、その星(ほし)の光(ひかり)の中(なか)へと静(しず)かに溶(と)けるように消(き)え去(さ)り、誰(だれ)もいなくなった机(つくえ)の上(うえ)には、小(ちい)さな『星(ほし)の形(かたち)をした木(もく)製(せい)の手(て)回(まわ)しオルゴール』だけが、ぽつんと静(しず)かに遺(のこ)されていた。


 琥(こ)珀(はく)色(いろ)の光(ひかり)が穏(おだ)やかに収(おさ)まり、嵐(あらし)の去(さ)った図(と)書(しょ)室(しつ)には、いつもの静(せい)寂(じゃく)だけが戻(もど)っていた。


 あの激(はげ)しかった文字(もじ)の刃(やいば)も、今(いま)はノアの「白(しろ)い本(ほん)」のなかで、優(やさ)しい光(ひかり)の粒(つぶ)となって眠(ねむ)っている。


「……よかった」


 ノアの唇(くちびる)から、ほっとしたような小(ちい)さな吐(と)息(いき)が漏(も)れた。


 けれど、その華(きゃ)奢(しゃ)な身体(からだ)は限界(げんかい)を迎(むか)えたように大(おお)きく揺(ゆ)らぎ、私(わたし)は咄(とつ)嗟(さ)に彼女(かのじょ)の細(ほそ)い肩(かた)を抱(だ)き留(と)めた。


 生(う)まれたばかりの言葉(ことば)の精(せい)霊(れい)である彼女(かのじょ)の魂(たましい)は、この過(か)酷(こく)な調(ちょう)律(りつ)の旅(たび)路(じ)で、|さらに深(ふか)く擦(す)り切(き)れていた。


 その支(ささ)えた手(て)の先(さき)から、ノアの記憶(きおく)の欠(かけ)片(ら)が、淡(あわ)い光(ひかり)となって私(わたし)の心(こころ)に流(なが)れ込(こ)んできたのは、その時(とき)だった。


 それは、彼女(かのじょ)があの硝(がら)子(す)の揺(ゆり)籠(かご)で目(め)を覚(さま)す、ほんの少(すこ)し前(まえ)の景色(けしき)――。


 ノアは、ただ自然(しぜん)に生(う)まれた存在(そんざい)ではなかった。


 この世界(せかい)のどこかで、誰(だれ)にも届(とど)くことなく消(き)え去(さ)ろうとしていた、ある優(やさ)しい「祈(いの)り」の言(こと)葉(ば)――その最後(さいご)の一(ひと)雫(しずく)が集(あつ)まって、ひとりの少(しょう)女(じょ)の姿(すがた)を結(むす)んだのだ。


 誰(だれ)かを愛(あい)し、救(すく)いたいと願(ねが)いながらも、ついには届(とど)かなかった切(せつ)ない痛(いた)み。


 その祈(いの)りから生(う)まれた彼女(かのじょ)だからこそ、自分(じぶん)の魂(たましい)を削(けず)ってでも、荒(あれ)狂(くる)う言(こと)葉(ば)たちを常(つね)に優(やさ)しく包(つつ)み込(こ)むことができるのだろう。


「ノア……」


 愛(いと)おしさと、胸(むね)を締(し)め付(つ)けるような切(せつ)なさに震(ふる)えながら、私(わたし)は眠(ねむ)りそうな彼女(かのじょ)をそっと腕(うで)のなかに抱(だ)き上(あ)げた。


 机(つくえ)の上(うえ)に遺(のこ)された、少年(しょうねん)の心(こころ)の結晶(けっしょう)であるオルゴールを大切(たいせつ)にポケットへとしまい、私(わたし)たちは、ひとまず安(やす)らぎの家(いえ)である灯(とう)台(だい)へと還(かえ)ることにした。


第(だい)5話(わ)へ続(つづ)く。




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