深い雲海の底から吹き上げる冷たい風も、灯台の厚い壁に遮られれば、ただの心地よい重低音に過ぎない。
温め直したスープを飲み干し、すっかりお腹を満たしたノアは、居間の長椅子で小さな寝息を立てていた。
その胸元では、彼女の『本』が主人の眠りに合わせるように、穏やかな光の波を繰り返している。
昨夜から続いた調律の旅路は、生まれたばかりの言葉の精霊である彼女の魂を、確かに擦り切らせていたのだ。
私は彼女にそっと毛布を掛け、水底の郵便局から持ち帰った、ポストの置き物を飾り棚へと並べた。
これで、この灯台が記憶する『寂しさ』がまた一つ、美しい形を得たことになる。
棚に並ぶ至宝の宝物 たちが、窓から射す月の光を浴びて密やかに息づいていた。
(……けれど、現実は絶え間なく寂しさを生み出し続ける)
私は一人、真鍮の電話機の前に腰掛け、静かにその時を待っていた。
――ジリリリリリ!
予感通り、午前零時。
音が響く。
私はノアを起こさないよう、すばやく受話器を取った。
耳の奥に飛び込んできたのは、ページが激しく擦れ合う無数の紙の音。
そして、ツンとした古いインクの匂いと、埃っぽい閉塞感だった。
その奥から、何かを激しく呪うような、あるいは自分自身を責め立てるような、若者の押し殺した泣き声が漏れ聞こえてくる。
胸を掻きむしるようなその嗚咽は、鋭うい刃のように私の鼓膜を打った。
「今度は……学校、かしら」
「ん……番人さん? もう、次の呼び出し……?」
毛布をずらし、ノアが眠たげな目を擦りながら起き上がってきた。
その群青色の瞳は、すでに迫り来る調律の気配を察して、微かに緊張している。
「ええ。ノア、起こしてしまってごめんなさい。だけど、あまり猶予がなさそうなの。激しい軋みと、自らを傷つけるような拒絶を感じるわ」
「ううん、大丈夫。行きましょう、番人さん。……その子が、自分の言葉で窒息して、しまう前に」
ノアは力強く首を振り、相棒である白い本をぎゅっと抱きしめた。
――現実世界、深夜の「私立蒼葉高校・図書室」。
境界の門を抜けた私たちが足を踏み入れたのは、月光だけが頼りの、巨大な迷宮のような図書室だった。
だが、何かが異常だった。
規則正しく並んでいるはずの重厚な本棚は、どれも中央に向かって不自然に歪み、棚の隙間から溢れ出した無数の『紙片』が、まるで意志を持つ黒い鳥の群のように、天井近くをバタバタと不気味に飛び交っている。
「ひどい……。空気が全部、トゲトゲしているわ。息をするだけで、喉の奥が刺すように痛い」
ノアが自分の華奢な腕をさすりながら呟いた。
現実世界の夜の図書室 が持つ、あの静寂と知性の安らぎはどこにもない。
そこにあるのは、他者を、そして自分をも容赦なく拒絶するような鋭利な殺気に満ちた檻だった。
「気をつけて、ノア。この飛び交う紙の一枚一枚に、剥がれ落ちた強い負の感情が、刃のように張り付いているわ。触れれば心が切り裂かれる」
私はランタンを掲げ、青い火で周囲の濃い暗がりを照らし出した。
部屋の最奥、もっとも分厚い辞典や学術書の山に囲まれた読書スペースに、その孤独な影はいた。
制服を着た一人の男子学生が、木製の机に突っ伏して、狂乱したように肩を激しく震わせている。
彼の周囲では、乱暴に破られたノートの切れ端が竜巻のように激流となって渦を巻いていた。
その紙片には、黒いインクで『どうして』『約束したのに』『裏切り者』という文字が、紙を突き破るほどの筆圧で、執拗なほど大量に書き殴られている。
「僕が……僕が、あいつの秘密を、あの約束を最後まで黙っていれば……! 絶交なんて、あんな冷たい目で見られずに済んだのに! 僕はただ、あいつを助けたくて、手遅れになる前に、先生に……!」
少年の引き裂かれそうな呼吸から、どす黒い霧が血のように噴き出し、それが空中の紙の破片と混ざり合って無数の文字の刃と化し、嵐となって本棚の並ぶ図書室を容赦なく切り裂いていく。
彼の後悔は、自分を責め同時に、世界そのものを拒絶する壁となっていた。
「少年、落ち着きなさい。あなたの声は、もう十分にその身を引き裂いているわ」
私がランタンの灯し火を盾にしながら一歩前に進むと、少年は弾かれたように顔を上げ、その血走った瞳で、憎しみを込めてこちらを鋭く睨みつけた。
「誰だ!? 来るな! 誰も僕の気持ちなんて分かりっこないんだ! 僕はあいつを救いたかっただけなのに、結果的に、一番大切な約束を破ったんだ! あいつの未来を、信頼を、僕がめちゃくちゃにしたんだよ! 僕は……救いようのない、最低の裏切り者なんだ!」
少年の狂乱した叫びと同時に、空中を狂ったように舞っていた無数の紙片が、一斉に切っ先を尖らせて、私たち目掛けて殺投した。
「番人さん、危ない!」
ノアが叫びながら私の前に迷わず飛び出し、自分の『本』を力強く開いた。
彼女の白い指先が素早く虚を薙ぐと、本の頁から溢れ出した光の文字たちが強固な『文字列の盾』を形作り、押し寄せる紙の刃をパチパチと火花を散らしながら次々と弾き飛ばしていった。
しかし、少年の内面から湧き出る深い罪悪感と、狂気に近い自己嫌悪が混ざり合った突風は、衰えるどころか益々激しさを増していく。
「ノア、無理をしないで! 彼の言葉の刃に正面から立ち向かうのではなく、その奥に隠された、本当の願いを読み解くのよ!」
「やってる……っ! やってるのっ!でも、この子の言葉は、全部自分を処刑するための刃の形をしていて……優しく包もうとしても、心を許してくれないの! 近づくだけで、文字が悲鳴を上げて砕けちゃう……っ!」
ノアの青い瞳に焦りの色が浮かび、額に滲んだ汗が月光に濡れて光。
少年の『大切な人との約束を破ってしまった』という絶望は、あまりにも鋭く、自分を暗い殻の中に閉じ込めていた。
(彼は、裏切り者という泥を自分に塗ることで、逆に友への贖いとしようとしている。……でも、そんな痛ましい呪いが、彼が本当に遺したかった想いのはずがないわ)
私はランタンの青い火を見つめながら、その光が微かに照らし出した、少年の机の端に置かれた一冊の小さな私物に目を留めた。
それは、角がすり切れた『天体図鑑』だった。
古びた図鑑の、あるページにだけ手作りの栞が挟まっている。
月光を頼りにそのページを透かし見れば、そこには不器用な二人の筆跡で、歪んだ星の絵と――『一緒に宇宙飛行士になろう』という、純粋な落書きが残されていた。
「少年! あなたが破ったあの約束は、本当にあの子を傷つけるため、裏切るためのものだったの!?」
私の凛とした芯のある声が、図書室を吹き荒れる紙片の暴風を一気に切り裂いた。
少年は一瞬、息を呑んだように身構えを硬くする。
「あの子が、一人で抱えきれない苦しみのなかで、間違った道に歩み進もうとしていたから……だから、嫌われることを、絶交されることを分っていながら、それでもあの子の生命を、未来を守るために、あなたは涙を流しながら大人に伝えたんじゃないの!? その『天体図鑑』に交した、あの子と一緒に生きるという一番大切な本当の約束を、守り抜くために!」
その言葉が、少年の頑くなな心の最も脆く弱い部分に真っ直ぐに届いた。
激しく荒狂っていた紙片の渦が、まるで魔法が解けたかのようにピタリと動きを止めた。
そして、意思を失った枯葉のように、ハラハラと、トツトツと床へ落ちていく。
「あ……あ、あ……」
少年の喉から、押し殺した、小さな声が漏れた。
彼は自分の手を見つめ、それから机の上の図鑑に視線を落とす。
「僕は、あいつに……消えてほしくなかったんだ。あいつが一人で全部背負って、壊れていくのを、黙って見てるなんてできなかった。嫌われても、あいつが生きていてくれれば……またいつか、あの星を見る日が来るかもしれないって。あの時は、そう思うしか……これしか方法が、なかったんだ……っ!」
少年の目から、これまで怒りと頑なな拒絶で堰止めていた涙が、大粒の雫となって溢れ出した。
雫は木製の机にポタポタと黒い染みを作っていく。
その涙は、彼が自分を縛り付けていた『裏切り者』という酷な呪いを、優しく、静かに洗い流していくようだった。
「視えた……! 本当に、深くて温かい……この子が命がけで遺したかった、不器用な『守りたかった』という祈りの言葉が!」
ノアが歓喜に瞳を輝かせ、開いた本に向けて両手を高く掲げた。
すると、床に散らばっていた薄汚れた紙片から、醜い黒いインクの呪いが陽炎のように消え去り、代わりに、静夜の夜空に輝く星々のような、美しく煌く群青色の文字が一斉に浮かび上がる。
それは、友を想うがゆえに泥を被ることを選んだ、少年の純粋な『親愛』そのものの結晶だった。
「番人さん、この子の想いを……その尊い火に!」
「ええ、一文字も漏らさずに受け取るわ!」
私はランタンのガラスケースを手際よく押し上げ、ノアが真心を込めて紡ぎ出した群青色の光の言葉を、その青い炎へと誘い入れた。
――ガゥッ、と火が勢いよく燃え上がる。
冷たかった青い炎は、少年の熱い涙と想いを吸って瞬時に巨大に膨らみ、まるで一番美しい夕暮れの太陽のように、どこか寂しげでありながらも、凍りついた心を芯から温める「琥珀色の灯し火」へと鮮やかに姿を変えた。
「あなたの裏切りは、あの子を底のない暗闇から救い出すための、本物の優しさ。誰が責めても、この灯し火だけは、あなたを赦し、讃えるわ」
私はノアが集めてくれた言葉の真実を、自分の声に乗せて、包み込むような慈愛を込めて語りかけた。
そして、図書室の隅々まで届くように、琥珀色の炎の光を毅然と掲げた。
温かな光の波動が、机に突っ伏して泣き崩れる少年の身体を、お母さんの手のように優しく包み込んでいく。
彼の背中から絶えず噴き出していた黒い霧は霧散し、苦悶に満ちていた表情から険しさが消え、まるで長い悪夢から解放されたかのような、穏やかな寝顔へと変わっていった。
同時に、床や壁を埋め尽くしていた無数の紙片が、サラサラと光の粒子となって砕け、天井へと舞い上がっていく。
それはまるで、夜の図書室の中に現れた満天の星空のようだった。
少年たちが『天体図鑑』を見上げながら夢見た、あの星の瞬きが、いま、彼の心の救いの証明として部屋を美しく彩っているのだ。
次の瞬間、心地よい夜の風が図書室を吹き抜け、狂おしく歪んでいた木製の本棚は、何事もなかったかのように元の正しい姿へと戻っていった。
少年の幻影は、その星の光の中へと静かに溶けるように消え去り、誰もいなくなった机の上には、小さな『星の形をした木製の手回しオルゴール』だけが、ぽつんと静かに遺されていた。
琥珀色の光が穏やかに収まり、嵐の去った図書室には、いつもの静寂だけが戻っていた。
あの激しかった文字の刃も、今はノアの「白い本」のなかで、優しい光の粒となって眠っている。
「……よかった」
ノアの唇から、ほっとしたような小さな吐息が漏れた。
けれど、その華奢な身体は限界を迎えたように大きく揺らぎ、私は咄嗟に彼女の細い肩を抱き留めた。
生まれたばかりの言葉の精霊である彼女の魂は、この過酷な調律の旅路で、|さらに深く擦り切れていた。
その支えた手の先から、ノアの記憶の欠片が、淡い光となって私の心に流れ込んできたのは、その時だった。
それは、彼女があの硝子の揺籠で目を覚す、ほんの少し前の景色――。
ノアは、ただ自然に生まれた存在ではなかった。
この世界のどこかで、誰にも届くことなく消え去ろうとしていた、ある優しい「祈り」の言葉――その最後の一雫が集まって、ひとりの少女の姿を結んだのだ。
誰かを愛し、救いたいと願いながらも、ついには届かなかった切ない痛み。
その祈りから生まれた彼女だからこそ、自分の魂を削ってでも、荒狂う言葉たちを常に優しく包み込むことができるのだろう。
「ノア……」
愛おしさと、胸を締め付けるような切なさに震えながら、私は眠りそうな彼女をそっと腕のなかに抱き上げた。
机の上に遺された、少年の心の結晶であるオルゴールを大切にポケットへとしまい、私たちは、ひとまず安らぎの家である灯台へと還ることにした。
第5話へ続く。