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灯し火の番人・新章  作者: 天月 和宙 -sora-


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【第3話】水底の絵葉書


 窓(まど)の外(そと)の深(ふか)い群(ぐん)青(じょう)色(いろ)の闇(やみ)が、少(すこ)しずつ淡(あわ)い薄(うす)紫(むらさき)色(いろ)の霧(きり)へと薄(うす)まっていき、その静(せい)寂(じゃく)な光(ひかり)が灯(とう)台(だい)の中(なか)を仄(ほの)白(じろ)く満(み)たしていく頃(ころ)。


 一(いっ)階(かい)の台(だい)所(どころ)からは、パチパチと薪(まき)の燃(も)える音(おと)と、香(こう)ばしい小(こ)麦(むぎ)の香(かお)りが漂(ただよ)っていた。


 昨(さく)夜(や)の激(はげ)しい調(ちょう)律(りつ)の疲(つか)れを癒(い)やすように、私(わたし)は手(て)際(ぎわ)よく二(ふた)人(り)の朝(ちょう)食(しょく)を用(よう)意(い)していく。


 焼(や)き立(た)ての丸(まる)パンに、境(きょう)界(かい)の庭(にわ)で採(と)れたベリーで作(つく)ったジャム。


 それから、温(あたた)かいスープを木(もく)製(せい)のトレイに載(の)せて居(い)間(ま)へ運(はこ)ぶと、ノアはすでに自(じ)分(ぶん)の定(てい)位(い)置(ち)である丸(まる)椅(い)子(す)に座(すわ)り、目(め)を輝(かがや)かせて待(ま)っていた。


「わあ……おいしそう。番(ばん)人(にん)さん、これ、あなたが作(つく)ったの?」


「ええ。お待(ま)たせ、ノア。簡(かん)単(たん)なものだけど、お口(くち)に合(あ)うといいわ」


「いただきます!」


 ノアは嬉(うれ)しそうに手(て)を合(あ)わせ、小(ちい)さな口(くち)でパンを頬(ほお)張(ば)った。


 その途(と)端(たん)、彼(かの)女(じょ)の黒(くろ)髪(かみ)がふわりと揺(ゆ)れ、硝(がら)子(す)のようだった肌(はだ)にふんわりとした血(けっ)色(しょく)が差(さ)していく。


 その様(よう)子(す)があまりにも愛(いとお)しくて、私(わたし)はスープを口(くち)に運(はこ)びながら、自(し)然(ぜん)と頬(ほお)が緩(ゆる)むのを感(かん)じていた。


「……ねえ、番(ばん)人(にん)さん。現(げん)実(じつ)世(せ)界(かい)の人(ひと)たちは、どうしてあんなにたくさんの『寂(さび)しさ』を遺(のこ)してしまうのかしら」


 スープのスプーンを置(お)き、ノアが群(ぐん)青(じょう)色(いろ)の瞳(ひとみ)を少(すこ)し曇(くも)らせて呟(つぶや)いた。


 昨(さく)夜(や)の廃(はい)遊(ゆう)園(えん)地(ち)で見(み)た、子(こ)供(ども)たちの悲(ひ)痛(つう)な叫(さけ)びを思(おも)い出(だ)しているのだろう。


「それはね、ノア。彼(かれ)らはみんな、限(かぎ)られた時(じ)間(かん)のなかを生(い)きているからよ」


 私(わたし)は窓(まど)の外(そと)、遥(はる)か下(した)に広(ひろ)がる雲(うん)海(かい)を見(み)つめながら、静(しず)かに言(こと)葉(ば)を紡(つむ)いだ。


「形(かたち)あるものはいつか壊(こわ)れ、楽(たの)しかった時(じ)間(かん)にも必(かな)ず終(お)わりが来(く)る。彼(かれ)らはそれを知(し)っているからこそ、失(うしな)うことを恐(おそ)れ、置(お)いていかれることに傷(きず)ついてしまうの。だけど、その寂(さび)しさは裏(うら)を返(かえ)せば、それだけその瞬(しゅん)間(かん)を愛(あい)していたという証(しょう)拠(こ)でもあるのよ」


「愛(あい)していた、証(しょう)拠(こ)……」


 ノアは自(じ)分(ぶん)の胸(むな)元(もと)にある、真(ま)っ白(しろ)な本(ほん)にそっと手(て)を当(あ)てた。


 昨(さく)日(じつ)から彼(かの)女(じょ)が紡(つむ)いできた黄(おう)金(ごん)の文(も)字(じ)たちが、本(ほん)のなかで呼(こ)吸(きゅう)するように淡(あわ)く明(めい)滅(めつ)している。


「だから、私(わたし)たちのお仕(し)事(ごと)は、その寂(さび)しさを消(け)し去(さ)ることじゃないわ。彼(かれ)らが前(まえ)を向(む)いて歩(ある)き出(だ)せるように、その想(おも)いを美(うつく)しい記(き)憶(おく)として『調(ちょう)律(りつ)』してあげること。それが、この灯(とう)台(だい)の番(ばん)人(にん)の役(やく)割(わり)なのよ」


 ノアは深(ふか)く頷(うなず)き、何(なに)かを噛(か)み締(し)めるように微(ほほ)笑(え)んだ。


「ええ、よくわかったわ。私(わたし)、もっとたくさんの言(こと)葉(ば)を集(あつ)めたい。誰(だれ)かの大(たい)切(せつ)な想(おも)いが、暗(くら)い泥(どろ)になってしまう前(まえ)に、私(わたし)の文(も)字(じ)で掬(すく)い上(あ)げてあげたいの」


 その力(ちから)強(づよ)い言(こと)葉(ば)に、私(わたし)は胸(むね)の奥(おく)がじんわりと温(あたた)かくなるのを覚(おぼ)えた。


 一(ひと)人(り)で孤(こ)独(どく)に灯(とも)し火(び)を守(まも)っていた頃(ころ)には、決(けっ)してあじわうことのなかった、確(たし)かな充(じゅう)足(そく)感(かん)がそこにはあった。


 ――ジリリリリリ!


 温(あたた)かな朝(ちょう)食(しょく)の時(じ)間(かん)を切(き)り裂(さ)くように、再(ふたた)び真(しん)鍮(ちゅう)の電(でん)話(わ)機(き)がけたたましく鳴(な)り響(ひび)いた。


 私(わたし)とノアは顔(かお)を見(み)合(あ)わせ、すぐさま立(た)ち上(あ)がる。


 受(じゅ)話(わ)器(き)を取(と)って耳(みみ)に当(あ)てると、今(こん)度(ど)は耳(みみ)の奥(おく)がツンとするような、冷(つめ)たい「水(みず)の音(おと)」が聞(き)こえてきた。


 深(ふか)い、深(ふか)い水(みな)底(そこ)に沈(しず)んでいくような、息(いき)苦(ぐる)しいほどの静(せい)寂(じゃく)。


 そのなかに、一(ひと)人(り)の人(にん)間(げん)の、震(ふる)えるような執(しゅう)着(ちゃく)が混(ま)ざり合(あ)っている。


「今(こん)度(ど)の場(ば)所(しょ)は、少(すこ)し深(ふか)いところにあるみたい。……ノア、行(い)きましょう」


「ええ、準(じゅん)備(び)はできているわ。どこへでも一(いっ)緒(しょ)に行(い)くわ、番(ばん)人(にん)さん」



 ――現(げん)実(じつ)世(せ)界(かい)、山(やま)奥(おく)の湖(みずうみ)の底(そこ)に沈(しず)んだ「旧(きゅう)下ノ(しもの)瀬(せ)村(むら)」。


 境(きょう)界(かい)の門(もん)を抜(ぬ)けた私(わたし)たちが降(お)り立(た)ったのは、冷(つめ)たい水(みず)の底(そこ)――ではなく、かつてダムの建(けん)設(せつ)によって完(かん)全(ぜん)に水(すい)没(ぼつ)した、古(ふる)い村(むら)の記(き)憶(おく)が作(つく)り出(だ)した幻(げん)影(えい)の空(くう)間(かん)だった。


 頭(ず)上(じょう)を見(み)上(あ)げれば、遥(はる)か高(たか)いところにゆらゆらと水(すい)面(めん)が揺(ゆ)らめき、木(こ)漏(も)れ日(び)のような光(ひかり)が青(あお)く差(さ)し込(こ)んでいる。


 周(しゅう)囲(い)には、苔(こけ)むした木(もく)造(ぞう)の家々(いえいえ)が静(しず)かに立(た)ち並(なら)び、まるで時(じ)間(かん)が凍(こお)りついたかのように静(しず)まり返(かえ)っていた。


「ここは……水(みず)の中(なか)なのに、息(いき)ができるのね。不(ふ)思(し)議(ぎ)な場(ば)所(しょ)……」


 ノアは物(もの)珍(めずら)しそうに周(しゅう)囲(い)を見(み)回(まわ)しながら、私(わたし)の隣(となり)にぴたりと寄(よ)り添(そ)った。


 水(みず)底(ぞこ)特(とく)有(ゆう)の冷(れい)気(き)が、私(わたし)たちの体(たい)温(おん)をじわじわと奪(うば)っていく。


「ええ。ここは数(すう)十(じゅう)年(ねん)前(まえ)、底(そこ)に沈(しず)んだ村(むら)の記(き)憶(おく)の残(ざん)滓(し)よ。人(ひと)が誰(だれ)もいなくなったはずの場(ば)所(しょ)に、どうしてこれほど強(つよ)い想(おも)いが残(のこ)っているのかしら……」


 私(わたし)はランタンを掲(かか)げ、青(あお)い火(ひ)を周(しゅう)囲(い)に巡(めぐ)らせた。


 すると、村(むら)の細(ほそ)い路(ろ)地(じ)の奥(おく)に、ひときわ濃(こ)い「青(あお)黒(ぐろ)い霧(きり)」が澱(おり)のように溜(た)まっているのが見(み)えた。


 その霧(きり)は、まるで意(い)志(し)を持(も)っているかのように、一(いっ)本(ぽん)の古(ふる)びた円(えん)柱(ちゅう)型(がた)の「赤(あか)い郵(ゆう)便(びん)ポスト」をぐるぐると取(と)り囲(かこ)んでいる。


「あそこよ、ノア。あの郵(ゆう)便(びん)ポストから、強(つよ)い磁(じ)気(き)のような想(おも)いを感(かん)じるわ」


 私(わたし)たちが近(ちか)付(づ)くと、郵(ゆう)便(びん)ポストの周(しゅう)囲(い)に漂(ただよ)う青(あお)黒(ぐろ)い霧(きり)が、陽(よう)炎(えん)のように揺(ゆ)らめきながら「人(ひと)の形(かたち)」を結(むす)び始(はじ)めた。


 それは、古(ふる)い学(がく)生(せい)服(ふく)を着(き)た、一(ひと)人(り)の少(しょう)年(ねん)の姿(すがた)だった。


 彼(かれ)の身(から)体(だ)は半(はん)透(とう)明(めい)で、全(ぜん)身(しん)からボタボタと水(すい)滴(てき)を滴(したた)らせながら、ポストの前(まえ)に立(た)ち尽(つ)くしている。


 その手(て)には、一(いち)枚(まい)の今(いま)にも破(やぶ)れそうな「絵(え)葉(は)書(が)き」が握(にぎ)られていた。


「……届(とど)かなかった。出(だ)せなかったんだ。村(むら)が沈(しず)む前(まえ)に、あの子(こ)にこれだけは伝(つた)えたかったのに……!」


 少(しょう)年(ねん)の口(くち)から、水(みな)泡(わ)のような言(こと)葉(ば)が溢(あふ)れ出(だ)す。


 その声(こえ)は、何十年(なんじゅうねん)もの間(あいだ)、誰(だれ)にも届(とど)かずに水(みな)底(そこ)で腐(くさ)りかけていた未(み)練(れん)そのものだった。


「少(しょう)年(ねん)……あなたのその想(おも)い、私(わたし)たちが受(う)け止(と)めるわ。だから、その絵(え)葉(は)書(が)きに何(なに)が書(か)かれているのか、教(おし)えてもらえるかしら」


 私(わたし)が一(いっ)歩(ぽ)前(まえ)に踏(ふ)み出(だ)すと、少(しょう)年(ねん)の幻(げん)影(えい)は怯(おび)えたように顔(かお)を歪(ゆが)め、激(はげ)しく首(くび)を振(ふ)った。


「だめだ! 見(み)ないでくれ! 僕(ぼく)は、村(むら)がなくなるのが怖(こわ)くて、みんなと一(いっ)緒(しょ)に逃(に)げ出(だ)すのが精(せい)一(いっ)杯(ぱい)で……この手(て)紙(がみ)をポストに入(い)れるのを忘(わす)れてしまったんだ! 終(お)わってしまったことなんだ、今(いま)更(さら)、誰(だれ)にも届(とど)くはずがない……!」


 少(しょう)年(ねん)の叫(さけ)びとともに、周(しゅう)囲(い)の水(すい)圧(あつ)が急(きゅう)激(げき)に高(たか)まった。


 青(あお)黒(ぐろ)い霧(きり)が激(げき)流(りゅう)となって渦(うず)を巻(ま)き、私(わたし)たちの視(し)界(かい)を奪(うば)おうと襲(おそ)いかかってくる。


「番(ばん)人(にん)さん、下(さ)がって! この子の寂(さび)しさは、誰(だれ)にも本(ほん)心(しん)を打(う)ち明(あ)けられなかった『孤(こ)立(りつ)』の痛(いた)みなの! 闇(やみ)雲(くも)に近(ちか)付(づ)くと、その痛(いた)みに引(ひ)きずり込(こ)まれてしまうわ!」


 ノアが鋭(するど)く叫(さけ)び、すぐさま本(ほん)を開(ひら)いた。


 彼(かの)女(じょ)の指(ゆび)先(さき)が、激(はげ)しい水(みず)の流(なが)れに抗(あらが)うように、冷(つめ)たい水(みず)色(いろ)を帯(お)びた文(も)字(じ)を紡(つむ)ぎ出(だ)していく。


 その文(も)字(じ)の鎖(くさり)が、少(しょう)年(ねん)の周(しゅう)囲(い)で暴(あば)れる激(げき)流(りゅう)を少(すこ)しずつ押(お)し留(とど)めていく。


「ノア! 彼(かれ)の絵(え)葉(は)書(が)きに刻(きざ)まれた、本(ほん)当(とう)の言(こと)葉(ば)を読(よ)んで! 彼(かれ)が、何(なん)十(じゅう)年(ねん)もこの水(みな)底(そこ)で、誰(だれ)に、何(なに)を伝(つた)えたかったのかを!」


「やってみるわ……! でも、文(も)字(じ)が水(みず)に濡(ぬ)れて、滲(にじ)んでしまっていて、うまく焦(しょう)点(てん)を結(むす)べないの……っ!」


 ノアは必(ひっ)死(し)に目(め)を見(み)開(ひら)くが、少(しょう)年(ねん)の深(ふか)い後(こう)悔(かい)の念(ねん)が、文(も)字(じ)の輪(りん)郭(かく)を濁(にご)らせていた。


 少(しょう)年(ねん)の影(かげ)は、自(みずか)らの寂(さび)しさの泥(どろ)に呑(の)まれるように、ポストごと水(すな)底(そこ)の闇(やみ)へと沈(しず)み込(こ)もうとしていく。


(何(なに)か……彼(かれ)の心(こころ)を照(て)らす、もう一(ひと)つの光(ひかり)が必(ひつ)要(よう)よ。彼(かれ)が本(ほん)当(とう)に遺(のこ)したかった、あたたかい記(き)憶(おく)の断(だん)片(ぺん)が、どこかに……!)


 私(わたし)はランタンを高(たか)く掲(かか)げ、その青(あお)い炎(ほのお)を凝(ぎょう)視(し)した。


 ダムに沈(しず)んだ、かつての故(こ)郷(きょう)。


 少(しょう)年(ねん)がこの場(ば)商(しょ)から逃(に)げ出(だ)した時(とき)、彼(かれ)はただ絶(ぜつ)望(ぼう)していただけなのだろうか。


 いや、違(ちが)う。


 あの子(こ)の手(て)元(もと)にある絵(え)葉(は)書(が)きには、色(いろ)鮮(あざ)やかな「ひまわりの花(はな)」が描(えが)かれているのが見(み)えた。


 それは、この村(むら)の夏(なつ)が、どれほど美(うつく)しかったかを示(しめ)す記(き)憶(おく)の証(しょう)明(めい)だ。


「少(しょう)年(ねん)! あなたは、この村(むら)が嫌(きら)いになって逃(に)げたんじゃないはずよ! ここで過(すご)した日(ひ)々(び)が、その絵(え)葉(は)書(が)きに描(えが)かれたひまわりのように、優(やさ)しくて、大(だい)好(す)きだったからこそ……だから、置(お)いていくのが苦(くる)しかったのね!?」


 私(わたし)の言(こと)葉(ば)が、水(みな)底(そこ)の静(せい)寂(じゃく)を震(ふる)わせた。


 少(しょう)年(ねん)の動(うご)きが、ピタリと止(と)まる。


 彼(かれ)の瞳(ひとみ)から、大(おお)粒(つぶ)の涙(なみだ)が溢(あふ)れ出(だ)し、それが水(すい)中(ちゅう)に溶(と)けていく。


「あ……ああ、そうだ。僕(ぼく)は、あの子(こ)に伝(つた)えたかったんだ。村(むら)がなくなっても、君(きみ)とここで遊(あそ)んだ夏(なつ)の思(おも)い出(で)は、僕(ぼく)のなかでずっと輝(かがや)き続(つづ)けるって……それを、言(い)いたかったんだ……!」


 少(しょう)年(ねん)が本(ほん)当(とう)の想(おも)いを口(くち)にした瞬(しゅん)間(かん)、絵(え)葉(は)書(が)きを覆(おお)っていた青(あお)黒(ぐろ)い霧(きり)が、一(いっ)気(き)に霧(む)散(さん)した。


「視(み)えたわ! 彼(かれ)の、本(ほん)当(とう)の言(こと)葉(ば)の形(かたち)が!」


 ノアが叫(さけ)び、白(しろ)く細(ほそ)い指(ゆび)先(さき)を力(ちから)強(づよ)く突(つ)き出(だ)す。


 彼(かの)女(じょ)の本(ほん)から、まるで水(みな)底(そこ)から湧(わ)き上(あ)がる清(きよ)らかな気(き)泡(ほう)のように、光(ひかり)輝(かがや)く純(じゅん)白(ぱく)の文(も)字(じ)が溢(あふ)れ出(だ)した。


 それは少(しょう)年(ねん)の絵(え)葉(は)書(が)きに宿(やど)っていた、純(じゅん)粋(すい)な「感(かん)謝(しゃ)」と「愛(いとお)しさ」の文(も)字(じ)列(れつ)だった。


「番(ばん)人(にん)さん、これを受(う)け取(と)って! 彼(かれ)の届(とど)かなかった想(おも)いを、あなたの火(ひ)に!」


「ええ、任(まか)せて!」


 私(わたし)はランタンのガラスケースを押(お)し上(あ)げ、ノアが紡(つむ)いだ光(ひかり)の言(こと)葉(ば)を、その青(あお)い炎(ほのお)へと迎(むか)え入(い)れた。


 火(ひ)が勢(いきお)いよく燃(も)え上(あ)がる。


 青(あお)い炎(ほのお)は瞬(しゅん)時(じ)に大(おお)きく膨(ふく)らみ、初(しょ)夏(か)の木(こ)漏(も)れ日(び)のように、どこか瑞々(みずみず)しくありながらも芯(しん)から温(あたた)かい「新(しん)緑(りょく)の緑(みどり)」へと姿(すがた)を変(か)えた。


「あなたのその想(おも)い、確(たし)かに夜(よる)を越(こ)えて、あるべき場(ば)所(しょ)へと送(おく)り届(とど)けてあげるわ」


 私(わたし)は静(しず)かに語(かた)りかけ、湧(わ)き上(あ)がる冷(つめ)たい激(げき)流(りゅう)をまるごと抱(だ)きしめるように、新(しん)緑(りょく)の炎(ほのお)の光(ひかり)をそっと、穏(おだ)やかに掲(かか)げた。


 彼(かれ)の表(ひょう)情(じょう)から怯(おび)えや後(こう)悔(かい)が消(け)え、まるで重(おも)荷(に)を下(お)ろしたかのような、穏(おだ)やかな笑(え)顔(がお)が浮(う)かんだ。


 彼(かれ)の持(も)っていた絵(え)葉(は)書(が)きが光(ひかり)の粒(りゅう)子(し)となって砕(くだ)け、赤(あか)い郵(ゆう)便(びん)ポストの投(とう)函(かん)口(ぐち)へと、吸(す)い込(こ)まれるように消(き)えていく。


 次(つぎ)の瞬(しゅん)間(かん)、ゴォ……という轟(ごう)音(おん)とともに、周(しゅう)囲(い)を包(つつ)んでいた冷(つめ)たい水(すい)圧(あつ)が消(き)え去(さ)った。


 頭(ず)上(じょう)の水(すい)面(めん)は、いつの間(ま)にか心(こころ)地(ち)よい「青(あお)空(ぞら)」へと反(はん)転(てん)し、苔(こけ)むしていた古(ふる)い家(いえ)々(いえ)は、新(しん)緑(りょく)の光(ひかり)を浴(あ)びて、どこか懐(なつ)かしく、美(うつく)しいふるさとの姿(すがた)として一(いっ)瞬(しゅん)だけ輝(かがや)き――そして、サラサラと優(やさ)しい砂(すな)のように消(け)えていった。


 少(しょう)年(ねん)の姿(すがた)はもうそこにはない。


 ただ、足(あし)元(もと)には、すっかり錆(さび)の取(と)れた、レトロな小(ちい)さな「郵(ゆう)便(びん)ポストの形(かたち)をした置(お)き物(もの)」だけが、ぽつんと遺(のこ)されていた。


「……綺麗(きれい)に調(ちょう)律(りつ)できたわね、ノア」


 私(わたし)は深(ふか)く息(いき)を吐(は)き、緑(みどり)色(いろ)から元(もと)の静(しず)かな青(あお)へと戻(もど)ったランタンを愛(いとお)しそうに見(み)つめた。


「ええ。届(とど)かなかった言(こと)葉(ば)も、こうして私(わたし)たちの火(ひ)に焚(く)べることで、いつかどこかで、あの人(ひと)の心(こころ)に優(やさ)しい風(かぜ)として届(とど)くのかしらね」


 ノアは歩(あゆ)み寄(よ)り、地(じ)面(めん)の小(ちい)さなポストの置(お)き物(もの)をそっと拾(ひろ)い上(あ)げた。


 彼(かの)女(じょ)の本(ほん)には、水(みな)底(そこ)に沈(しず)んだ村(むら)の美(うつく)しい夏(なつ)の記(き)憶(おく)が、清(きよ)らかな水(みず)色(いろ)の文(も)字(じ)できちんと記(き)録(ろく)されている。


「形(かたち)ある村(むら)は沈(しず)んでしまっても、少(しょう)年(ねん)のなかにあったあのひまわりの色(いろ)は、誰(だれ)にも沈(しず)めることはできないわ」


 ノアは誇(ほこ)らしげに胸(むね)を張(は)り、私(わたし)を見(み)ていたずらっぽく笑(わら)った。


「さあ、お仕(し)事(ごと)が終(お)わったら、今(こん)度(ど)こそ灯(とう)台(だい)に戻(もど)って、番(ばん)人(にん)さんの美(おい)味(し)いご飯(はん)の続(つづ)きを食(た)べましょう? お腹(なか)と背(せ)中(なか)がくっついちゃいそうだわ」


「ふふ、そうね。冷(さ)めてしまったスープを、もう一(いち)度(ど)温(あたた)め直(なお)してあげるわ」


 私(わたし)たちは背(せ)を向(む)け、境(きょう)界(かい)の門(もん)へと歩(ある)き出(だ)す。


 私(わたし)たちの後(うし)ろでは、水(みな)底(そこ)から解(かい)放(ほう)された古(ふる)い村(むら)の記(き)憶(おく)が、優(やさ)しい風(かぜ)となって、どこまでも広(ひろ)がる境(きょう)界(かい)の空(そら)へと吹(ふ)き抜(ぬ)けていった。


 誰(だれ)かの届(とど)かなかった言(こと)葉(ば)。


 行(ゆ)き場(ば)をなくした寂(さび)しさ。


 それらは、この世(せ)界(かい)が続(つづ)く限(かぎ)り、これからも生(う)まれては消(き)えていくのだろう。


 けれど、それを拾(ひろ)い集(あつ)める少(しょう)女(じょ)の文(も)字(じ)と、それを抱(だ)きしめる私(わたし)の火(ひ)があれば、どんな深(ふか)い水(みな)底(そこ)からでも、その愛(いとお)しい想(おも)いを救(すく)い出(だ)してみせる。


 二(ふた)人(り)の番(ばん)人(にん)が歩(あゆ)む旅(たび)路(じ)は、まだ始(はじ)まったばかりなのだから。


第(だい)4話(わ)へ続(つづ)く。


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