窓の外の深い群青色の闇が、少しずつ淡い薄紫色の霧へと薄まっていき、その静寂な光が灯台の中を仄白く満たしていく頃。
一階の台所からは、パチパチと薪の燃える音と、香ばしい小麦の香りが漂っていた。
昨夜の激しい調律の疲れを癒やすように、私は手際よく二人の朝食を用意していく。
焼き立ての丸パンに、境界の庭で採れたベリーで作ったジャム。
それから、温かいスープを木製のトレイに載せて居間へ運ぶと、ノアはすでに自分の定位置である丸椅子に座り、目を輝かせて待っていた。
「わあ……おいしそう。番人さん、これ、あなたが作ったの?」
「ええ。お待たせ、ノア。簡単なものだけど、お口に合うといいわ」
「いただきます!」
ノアは嬉しそうに手を合わせ、小さな口でパンを頬張った。
その途端、彼女の黒髪がふわりと揺れ、硝子のようだった肌にふんわりとした血色が差していく。
その様子があまりにも愛しくて、私はスープを口に運びながら、自然と頬が緩むのを感じていた。
「……ねえ、番人さん。現実世界の人たちは、どうしてあんなにたくさんの『寂しさ』を遺してしまうのかしら」
スープのスプーンを置き、ノアが群青色の瞳を少し曇らせて呟いた。
昨夜の廃遊園地で見た、子供たちの悲痛な叫びを思い出しているのだろう。
「それはね、ノア。彼らはみんな、限られた時間のなかを生きているからよ」
私は窓の外、遥か下に広がる雲海を見つめながら、静かに言葉を紡いだ。
「形あるものはいつか壊れ、楽しかった時間にも必ず終わりが来る。彼らはそれを知っているからこそ、失うことを恐れ、置いていかれることに傷ついてしまうの。だけど、その寂しさは裏を返せば、それだけその瞬間を愛していたという証拠でもあるのよ」
「愛していた、証拠……」
ノアは自分の胸元にある、真っ白な本にそっと手を当てた。
昨日から彼女が紡いできた黄金の文字たちが、本のなかで呼吸するように淡く明滅している。
「だから、私たちのお仕事は、その寂しさを消し去ることじゃないわ。彼らが前を向いて歩き出せるように、その想いを美しい記憶として『調律』してあげること。それが、この灯台の番人の役割なのよ」
ノアは深く頷き、何かを噛み締めるように微笑んだ。
「ええ、よくわかったわ。私、もっとたくさんの言葉を集めたい。誰かの大切な想いが、暗い泥になってしまう前に、私の文字で掬い上げてあげたいの」
その力強い言葉に、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを覚えた。
一人で孤独に灯し火を守っていた頃には、決してあじわうことのなかった、確かな充足感がそこにはあった。
――ジリリリリリ!
温かな朝食の時間を切り裂くように、再び真鍮の電話機がけたたましく鳴り響いた。
私とノアは顔を見合わせ、すぐさま立ち上がる。
受話器を取って耳に当てると、今度は耳の奥がツンとするような、冷たい「水の音」が聞こえてきた。
深い、深い水底に沈んでいくような、息苦しいほどの静寂。
そのなかに、一人の人間の、震えるような執着が混ざり合っている。
「今度の場所は、少し深いところにあるみたい。……ノア、行きましょう」
「ええ、準備はできているわ。どこへでも一緒に行くわ、番人さん」
――現実世界、山奥の湖の底に沈んだ「旧下ノ瀬村」。
境界の門を抜けた私たちが降り立ったのは、冷たい水の底――ではなく、かつてダムの建設によって完全に水没した、古い村の記憶が作り出した幻影の空間だった。
頭上を見上げれば、遥か高いところにゆらゆらと水面が揺らめき、木漏れ日のような光が青く差し込んでいる。
周囲には、苔むした木造の家々が静かに立ち並び、まるで時間が凍りついたかのように静まり返っていた。
「ここは……水の中なのに、息ができるのね。不思議な場所……」
ノアは物珍しそうに周囲を見回しながら、私の隣にぴたりと寄り添った。
水底特有の冷気が、私たちの体温をじわじわと奪っていく。
「ええ。ここは数十年前、底に沈んだ村の記憶の残滓よ。人が誰もいなくなったはずの場所に、どうしてこれほど強い想いが残っているのかしら……」
私はランタンを掲げ、青い火を周囲に巡らせた。
すると、村の細い路地の奥に、ひときわ濃い「青黒い霧」が澱のように溜まっているのが見えた。
その霧は、まるで意志を持っているかのように、一本の古びた円柱型の「赤い郵便ポスト」をぐるぐると取り囲んでいる。
「あそこよ、ノア。あの郵便ポストから、強い磁気のような想いを感じるわ」
私たちが近付くと、郵便ポストの周囲に漂う青黒い霧が、陽炎のように揺らめきながら「人の形」を結び始めた。
それは、古い学生服を着た、一人の少年の姿だった。
彼の身体は半透明で、全身からボタボタと水滴を滴らせながら、ポストの前に立ち尽くしている。
その手には、一枚の今にも破れそうな「絵葉書き」が握られていた。
「……届かなかった。出せなかったんだ。村が沈む前に、あの子にこれだけは伝えたかったのに……!」
少年の口から、水泡のような言葉が溢れ出す。
その声は、何十年もの間、誰にも届かずに水底で腐りかけていた未練そのものだった。
「少年……あなたのその想い、私たちが受け止めるわ。だから、その絵葉書きに何が書かれているのか、教えてもらえるかしら」
私が一歩前に踏み出すと、少年の幻影は怯えたように顔を歪め、激しく首を振った。
「だめだ! 見ないでくれ! 僕は、村がなくなるのが怖くて、みんなと一緒に逃げ出すのが精一杯で……この手紙をポストに入れるのを忘れてしまったんだ! 終わってしまったことなんだ、今更、誰にも届くはずがない……!」
少年の叫びとともに、周囲の水圧が急激に高まった。
青黒い霧が激流となって渦を巻き、私たちの視界を奪おうと襲いかかってくる。
「番人さん、下がって! この子の寂しさは、誰にも本心を打ち明けられなかった『孤立』の痛みなの! 闇雲に近付くと、その痛みに引きずり込まれてしまうわ!」
ノアが鋭く叫び、すぐさま本を開いた。
彼女の指先が、激しい水の流れに抗うように、冷たい水色を帯びた文字を紡ぎ出していく。
その文字の鎖が、少年の周囲で暴れる激流を少しずつ押し留めていく。
「ノア! 彼の絵葉書きに刻まれた、本当の言葉を読んで! 彼が、何十年もこの水底で、誰に、何を伝えたかったのかを!」
「やってみるわ……! でも、文字が水に濡れて、滲んでしまっていて、うまく焦点を結べないの……っ!」
ノアは必死に目を見開くが、少年の深い後悔の念が、文字の輪郭を濁らせていた。
少年の影は、自らの寂しさの泥に呑まれるように、ポストごと水底の闇へと沈み込もうとしていく。
(何か……彼の心を照らす、もう一つの光が必要よ。彼が本当に遺したかった、あたたかい記憶の断片が、どこかに……!)
私はランタンを高く掲げ、その青い炎を凝視した。
ダムに沈んだ、かつての故郷。
少年がこの場商から逃げ出した時、彼はただ絶望していただけなのだろうか。
いや、違う。
あの子の手元にある絵葉書きには、色鮮やかな「ひまわりの花」が描かれているのが見えた。
それは、この村の夏が、どれほど美しかったかを示す記憶の証明だ。
「少年! あなたは、この村が嫌いになって逃げたんじゃないはずよ! ここで過した日々が、その絵葉書きに描かれたひまわりのように、優しくて、大好きだったからこそ……だから、置いていくのが苦しかったのね!?」
私の言葉が、水底の静寂を震わせた。
少年の動きが、ピタリと止まる。
彼の瞳から、大粒の涙が溢れ出し、それが水中に溶けていく。
「あ……ああ、そうだ。僕は、あの子に伝えたかったんだ。村がなくなっても、君とここで遊んだ夏の思い出は、僕のなかでずっと輝き続けるって……それを、言いたかったんだ……!」
少年が本当の想いを口にした瞬間、絵葉書きを覆っていた青黒い霧が、一気に霧散した。
「視えたわ! 彼の、本当の言葉の形が!」
ノアが叫び、白く細い指先を力強く突き出す。
彼女の本から、まるで水底から湧き上がる清らかな気泡のように、光輝く純白の文字が溢れ出した。
それは少年の絵葉書きに宿っていた、純粋な「感謝」と「愛しさ」の文字列だった。
「番人さん、これを受け取って! 彼の届かなかった想いを、あなたの火に!」
「ええ、任せて!」
私はランタンのガラスケースを押し上げ、ノアが紡いだ光の言葉を、その青い炎へと迎え入れた。
火が勢いよく燃え上がる。
青い炎は瞬時に大きく膨らみ、初夏の木漏れ日のように、どこか瑞々しくありながらも芯から温かい「新緑の緑」へと姿を変えた。
「あなたのその想い、確かに夜を越えて、あるべき場所へと送り届けてあげるわ」
私は静かに語りかけ、湧き上がる冷たい激流をまるごと抱きしめるように、新緑の炎の光をそっと、穏やかに掲げた。
彼の表情から怯えや後悔が消え、まるで重荷を下ろしたかのような、穏やかな笑顔が浮かんだ。
彼の持っていた絵葉書きが光の粒子となって砕け、赤い郵便ポストの投函口へと、吸い込まれるように消えていく。
次の瞬間、ゴォ……という轟音とともに、周囲を包んでいた冷たい水圧が消え去った。
頭上の水面は、いつの間にか心地よい「青空」へと反転し、苔むしていた古い家々は、新緑の光を浴びて、どこか懐かしく、美しいふるさとの姿として一瞬だけ輝き――そして、サラサラと優しい砂のように消えていった。
少年の姿はもうそこにはない。
ただ、足元には、すっかり錆の取れた、レトロな小さな「郵便ポストの形をした置き物」だけが、ぽつんと遺されていた。
「……綺麗に調律できたわね、ノア」
私は深く息を吐き、緑色から元の静かな青へと戻ったランタンを愛しそうに見つめた。
「ええ。届かなかった言葉も、こうして私たちの火に焚べることで、いつかどこかで、あの人の心に優しい風として届くのかしらね」
ノアは歩み寄り、地面の小さなポストの置き物をそっと拾い上げた。
彼女の本には、水底に沈んだ村の美しい夏の記憶が、清らかな水色の文字できちんと記録されている。
「形ある村は沈んでしまっても、少年のなかにあったあのひまわりの色は、誰にも沈めることはできないわ」
ノアは誇らしげに胸を張り、私を見ていたずらっぽく笑った。
「さあ、お仕事が終わったら、今度こそ灯台に戻って、番人さんの美味いご飯の続きを食べましょう? お腹と背中がくっついちゃいそうだわ」
「ふふ、そうね。冷めてしまったスープを、もう一度温め直してあげるわ」
私たちは背を向け、境界の門へと歩き出す。
私たちの後ろでは、水底から解放された古い村の記憶が、優しい風となって、どこまでも広がる境界の空へと吹き抜けていった。
誰かの届かなかった言葉。
行き場をなくした寂しさ。
それらは、この世界が続く限り、これからも生まれては消えていくのだろう。
けれど、それを拾い集める少女の文字と、それを抱きしめる私の火があれば、どんな深い水底からでも、その愛しい想いを救い出してみせる。
二人の番人が歩む旅路は、まだ始まったばかりなのだから。
第4話へ続く。