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灯し火の番人・新章  作者: 天月 和宙 -sora-


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【第6話】 凍てつく棘の融解


 灯(とも)し火(び)が和(やわ)らかく照(て)らす硝(がら)子(す)の床(ゆか)。


 その底(そこ)に広(ひろ)がる深(ふか)い青(あお)色(いろ)の海(うみ)が、足(あし)元(もと)で穏(おだ)やかに揺(ゆ)らめいていた。


 私(わたし)は、長(なが)い椅(い)子(す)で毛(もう)布(ふ)に包(つつ)まれて眠(ねむ)るノアの、安(やす)らかな寝(ね)顔(がお)を静(しず)かに見(み)つめる。


 人(ひと)は誰(だれ)しも、日常(にちじょう)の些(さ)細(さい)な躓(つまず)きや孤独(こどく)のなかで、不意(ふい)に絶(ぜつ)望(ぼう)を抱(かか)え、激(はげ)しい苛立(いらだ)ちに心(こころ)を荒(あ)らしてしまうことがある。


 その内(うち)に生(う)まれた頑(かたく)なな拒(きょ)絶(ぜつ)の棘(とげ)は、力(ちから)によって抉(こじ)開(あ)けるものではない。


 強張(こわば)った心(こころ)の輪郭(りんかく)を、静(しず)かに融(と)かしていく微(かす)かな安(やす)らぎこそが必要(ひつよう)なのだ。


 ノアの、自(みずか)らを誇示(こじ)することなく、ただそこにある木(こ)漏(も)れ日(び)や風(かぜ)のように、どこまでも人(ひと)の痛(いた)みに寄(よ)り添(そ)おうとする自然(しぜん)な佇(たたず)まい。


 その無垢(むく)な気配(けはい)こそが、頑(かたく)に閉(と)ざされた人間(にんげん)の心(こころ)を静(しず)かに溶(と)かし、誰(だれ)もが胸(むね)の奥(おく)に秘(ひ)めているはずの素直(すなお)さを、そっと引(ひ)き出(だ)していく。 


 私(わたし)は灯(とも)し火(び)の番(ばん)人(にん)として、その尊(とう)い心(こころ)の軌(き)跡(せき)をこれからも見守(みまも)り続(つづ)けようと、心(こころ)に深(ふか)く刻(きざ)んだ。


「……ん……、番(ばん)人(にん)さん……」


 小(ちい)さな呟(つぶや)きとともにノアが目(め)を覚(さ)まし、可(か)憐(れん)に微笑(ほほえ)んだ瞬間(しゅんかん)だった。


――ジリリリリリ!


 机(つくえ)の上(うえ)の真(しん)鍮(ちゅう)の電(でん)話(わ)機 (き)が突(とつ)如(じょ)として鳴(な)り響(ひび)いた。


 ノアが肩(かた)をびくりと震(ふる)わせる。


 私(わたし)は眉(まゆ)一(ひと)つ動(うご)かさず黒(くろ)い硝(がら)子(す)の机(つくえ)へと歩(あゆ)み寄(よ)り、冷(つめ)たい受(じゅ)話(わ)器(き)を取(と)り上(あ)げて耳(みみ)へと当(あ)てた。


 流(なが)れ込(こ)んできたのは、硬(かた)い何(なに)かが粉(ふん)砕(さい)される凄(すさ)まじい音(おと)だった。


 ガシャーン、と響(ひび)いた後(あと)に続(つづ)く、ハァ、ハァ、という荒(あら)い息(いき)遣(づか)い。


 言葉(ことば)を成(な)さないその息使(いきづか)いには、受(じゅ)話(わ)器(き)を通(とお)しても肌(はだ)に刺(さ)さるほどの、強(きょ)烈(れつ)な拒(きょ)絶(ぜつ)が満(み)ちていた。


「……今(こん)夜(や)の迷(まよ)い子(ご)は、とても怒(おこ)っているみたいですね」


 いつの間(ま)にか私(わたし)の隣(となり)に佇(たたず)んでいたノアが、受(じゅ)話(わ)器(き)を見(み)つめながら静(しず)かに呟(つぶや)いた。


「ええ。強(つよ)い気(け)配(はい)で自分(じぶん)を守(まも)ろうと、必死(ひっし)に心(こころ)を尖(とが)らせているわ。……行(い)きましょう、ノア」


 私(わたし)たちは硝(がら)子(す)の床(ゆか)の中心(ちゅうしん)へと進(すす)む。


 足(あし)元(もと)の海(うみ)が道(みち)を開(ひら)くように激(はげ)しく脈(みゃく)打(う)ち始(はじ)め、私(わたし)たちは次(つぎ)なる調(ちょう)律(りつ)の地(ち)――尖(とが)った苛立(いらだ)ちが吹(ふ)き荒(あ)れる、閉(と)ざされた世界(せかい)へと身体(からだ)を沈(しず)めていった。


 視(し)界(かい)が反転(はんてん)し、冷(つめ)たい闇(やみ)を抜(ぬ)けた瞬間(しゅんかん)、鼻(はな)を突(つ)いたのは不(ふ)快(かい)な鉄(てつ)錆(さび)の匂(にお)いだった。


 そこは、幾(いく)重(え)もの太(ふと)い赤(あか)茶(ちゃ)けた鉄(てつ)格子(ごうし)が縦(たて)横(よこ)に張(は)り巡(めぐ)らされた、檻(おり)のような薄(うす)暗(ぐら)い空間(くうかん)だった。


 逃(に)げ場(ば)のない閉塞(へいそく)感(かん)が、重(おも)く肌(はだ)にまとわりつく。


 空中(くうちゅう)には、少年(しょうねん)の荒(あら)い呼吸(こきゅう)に呼(こ)応(おう)するように、黒(くろ)い「文字(もじ)」の群(む)れが無(む)数(すう)に浮遊(ふゆう)していた。


 それらは錆(さび)た鉄(てつ)の破(は)片(へん)のように鋭(するど)く尖(とが)り、互(たが)いに擦(す)れ合(あ)いながら不気味(ぶきみ)な金属(きんぞく)音(おん)を立(た)てて激(はげ)しく蠢(うごめ)いている。


 うっとうしい。


 消(き)えろ。


 わかったような口(くち)を叩(たた)くな。


 その鉄(てつ)の文字(もじ)の嵐(あらし)の中心(ちゅうしん)で、ひとりの少年(しょうねん)が頭(あたま)を抱(かか)えて蹲(うずくま)っていた。


 少年(しょうねん)が苛立(いらだ)ちに任(まか)せて床(ゆか)の鉄(てっ)板(ぱん)を蹴(け)りつけるたび、ガンーンと重苦(おもくる)しい残(ざん)響(きょう)が轟(とどろ)き、それに煽(あお)られるようにして凶器(きょうき)となった文字(もじ)が一段(いちだん)と鋭(するど)さを増(ま)す。


 周囲(しゅうい)の鉄(てつ)格子(こうし)に激突(げきとつ)して火花(ひばな)を散(ち)らす文字(もじ)の破(は)片(へん)は、跳(は)ね返(かえ)るたびに彼(かれ)自身(じしん)の身体(からだ)をも無(む)慈(じ)悲(ひ)に切(き)り刻(きざ)んでいた。


「――うっ!」



隣(となり)に立(た)つノアの頬(ほお)を、飛(と)び散(ち)った文字(もじ)の破(は)片(へん)がかすめ、赤(あか)い一(ひと)筋(すじ)の傷(きず)を作(つく)った。


「ノア!」


 肌(はだ)に朱(しゅ)が走(はし)った瞬間(しゅんかん)、私(わたし)の手(て)にあるランタンの焔(ほのお)が、深(ふか)く、静(しず)かに揺(ゆ)らぎを止(と)めた。


 一切(いっさい)の揺(ゆ)らぎを排(はい)した夜(よる)の気配(けはい)が影(かげ)のように広(ひろ)がり、荒(あ)れ狂(くる)う空間(くうかん)の歪(ゆが)みを浸(ひた)したいく。


 激(はげ)しく飛(と)び散(ち)っていた文字(もじ)の渦(うず)は、冷(つめ)たい闇(やみ)に包(つつ)まれたかのようにその熱(ねつ)を失(うしな)い、燃(も)えかすの煤(すす)のようにその鋭(するど)さを失(うしな)っていった。


 少年(しょうねん)の怒(いか)りは、傷(きず)つくことを恐(おそ)れるただの防衛(ぼうえい)反応(はんのう)に過(す)ぎない。


 その頑(かたく)なな少年(しょうねん)を見(み)すえ、私(わたし)は一歩(いっぽ)、前(まえ)へと踏(ふ)み出(だ)した。


 その毅(き)然(ぜん)たる導(みちび)きに呼(こ)応(おう)するように、ノアは痛(いた)みに耐(た)え『白(しろ)い本(ほん)』を力強(ちからづよ)く開(ひら)き、番(ばん)人(にん)が秩序(ちつじょ)を与(あた)え始(はじ)めた文字(もじ)の嵐(あらし)のなかへと歩(あゆ)み出(で)た。


「痛(いた)かったのは……あなたの方(ほう)ですよね。本当(ほんとう)は、ただ寂(さび)しくて、助(たす)けてほしいだけなのに……」


 ノアの声(こえ)は、鉄(てつ)が軋(きし)むような怒号(どごう)のなかでも、不思議(ふしぎ)なほど真(ま)っ直(す)ぐに響(ひび)いた。


「――うるさい、うるさいうるさい! お前(まえ)に何(なに)が分(わ)かるんだ!」


 少年(しょうねん)は逆(ぎゃく)上(じょう)したように叫(さけ)び、足(あし)元(もと)の鉄(てっ)板(ぱん)を一段(いちだん)と激(はげ)しく踏(ふ)み鳴(な)らした。


 狂(くる)ったように舞(ま)う文字(もじ)の破(は)片(へん)がノアの衣服(いふく)を切(き)り裂(さ)き、火花(ひばな)を散(ち)らす。


 けれど、ノアは一(いっ)歩(ぽ)も引(ひ)かなかった。


 ただ静(しず)かに、すべてを受(う)け止(と)めるように真(ま)っ直(す)ぐな瞳(ひとみ)を向(む)け続(つづ)ける。


「お前(まえ)だってどうせ、わかったような顔(かお)をして、俺(おれ)を……」


 罵(ののし)り放(はな)とうとした少年(しょうねん)の言葉(ことば)が、喉(のど)の奥(おく)で閖(つか)えた。


 誰(だれ)もが自分(じぶん)を責(せ)めるか、あるいは腫(は)れ物(もの)に触(ふ)れるように遠巻(とおま)きにするなかで、傷(きず)つくことも厭(いと)わずに正面(しょうめん)から自分(じぶん)だけを見(み)つめているノアの圧倒(あっとう)的(てき)な優(やさ)しさ。


 それが、彼(かれ)の言葉(ことば)を奪(うば)っていく。


(……違(ちが)う。この目(め)は、これまでの奴(やつ)らとは違(ちが)う。)


 少年(しょうねん)の肩(かた)が、ハァ、ハァ、と大(おお)きく上下(じょうげ)する。


 胸(むね)の奥(おく)で煮(に)え返(かえ)っていた怒(いか)りの熱(ねつ)が、行(い)き場(ば)を失(うしな)って急速(きゅうそく)に冷(ひ)えていく。


 拳(こぶし)を握(にぎ)りしめ、なおも牙(きば)を剥(む)こうとするが、その呼吸(こきゅう)は次第(しだい)に荒(あら)い拒絶(きょぜつ)から、嗚咽(おえつ)を堪(こら)えるような震(ふる)えへと変(か)わっていった。


 世界(せかい)を拒絶(きょぜつ)するために必死(ひっし)に着込(きこ)んでいた頑(かたく)なな心(こころ)の鎧(よろい)が、その内(うち)側(がわ)からみしみしと崩壊(ほうかい)していく。


「お前(まえ)に……何(なに)が……」


 絞(しぼ)り出(だ)した少年(しょうねん)の口(くち)から漏(も)れた言葉(ことば)は、もう刃(やいば)のようには尖(とが)っていなかった。


 それは虚飾(きょしょく)を剥(は)ぎ取(と)られ、これ以上(いじょう)傷(きず)つくことを恐(おそ)れる者(もの)が、暗闇(くらやみ)のなかで微(かす)かに発(はっ)した、血(ち)の通(かよ)った本音(ほんね)の片(へん)鱗(りん)であった。


「……ただ、俺(おれ)を見(み)てほしかっただけなんだ」


 ポロポロと、少年(しょうねん)の目(め)から大 (おお)粒(つぶ)の涙(なみだ)が零 (こぼ)れ落(お)ちる。


彼(かれ)がその「素直(すなお)な本音(ほんね)」を口(くち)にできた瞬間(しゅんかん)、世界(せかい)を縛(しば)り付(つ)けていた歪(ゆが)んだ檻(おり)が、音(おと)もなく崩(くず)れ去(さ)っていった。


 頑(かたく)なな拒(きょ)絶(ぜつ)から解(と)き放(はな)たれた少年(しょうねん)の身体(からだ)を、温(あたた)かな光(ひかり)が優(やさ)しく満(み)たしていく。


 自(みずか)らを守(まも)るための棘(とげ)が消(き)え去(さ)るとともに、その輪郭(りんかく)は足(あし)元(もと)から静(しず)かに光(ひかり)へと融(と)け解(ほぐ)れていった。


 言葉(ことば)の織(お)り成(な)す霧(きり)のようだった彼(かれ)の輪郭(りんかく)は、無(む)数(すう)の光(ひか)る鉄(てつ)の砂(すな)へと姿(かたち)を変(か)え、きらきらと輝(かがや)きながら空間(くうかん)へと溶(と)けて消(き)えていった。


 主(あるじ)を失(うしな)った鉄(てつ)格子(ごうし)の部屋(へや)は霧(きり)のように消(き)え去(さ)り、あとに残(のこ)されたのは、少年(しょうねん)が遺(のこ)した、古(ふる)びた一(いっ)本(ぽん)の「絵(え)の具(ぐ)の筆(ふで)」だけだった。


「よかった……。彼(かれ)も、素直(すなお)な言葉(ことば)を紡(つむ)げました……」


 ノアはそう言(い)って満足(まんぞく)そうに微笑(ほほえ)むと、やはり限界(げんかい)だったのか、力(ちから)を失(うしな)って前(まえ)へと倒(たお)れ込(こ)んだ。


 私(わたし)は歩(あゆ)み寄(よ)り、その身(み)をしっかりと抱(だ)きとめた。


 抱(だ)き上(あ)げた彼女(かのじょ)の身体(からだ)は、かつてのように今(いま)にも霧(む)散(さん)しそうな儚(はかな)さだけではなかった。


 幾(いく)度(ど)もの調(ちょう)律(りつ)を重(かさ)ね、人(ひと)の優(やさ)しさを内(うち)に宿(やど)してきた精霊(せいれい)の器(うつわ)には、微(かす)かながらも確(かっ)固(こ)たる存在(そんざい)の芯(しん)が結(むす)ばれつつある。


 腕(うで)に伝(つた)わる僅(わず)かな手(て)応(ごた)えが、彼女(かのじょ)の確(たし)かな進化(しんか)を静(しず)かに告(つ)げていた。


 私(わたし)は携え(たずさえ)たランタンを掲(かか)げ、少年(しょうねん)が最後(さいご)に吐(は)き出(だ)した重(おも)い言葉(ことば)の破(は)片(へん)を、その静(しず)かな焔(ほのお)へと焚(く)べた。


 少年(しょうねん)の「素直(すなお)な本音(ほんね)」が融解(ゆうかい)するように焔(ほのお)へと溶(と)け込(こ)むと、その灯(とも)し火(び)は黄金(おうごん)の輝(かがや)きへと満(み)ち、静(しず)かにノアの胸(むね)へと還(かん)流(りゅう)していった。


 その瞬間(しゅんかん)、彼女(かのじょ)の内(うち)に確(たし)かな力(ちから)の熱(ねつ)が巡(めぐ)るのが分(わ)かった。


ただ消(しょう)費(ひ)されるだけだった精(せい)霊(れい)の器(うつわ)が、「人(ひと)を救(すく)った証(あかし)」を自(みずか)らの胸(むね)の奥(おく)の焔(ほのお)へと融(と)かし込(こ)み、静(しず)かに温(あたた)かく満(み)ち始(はじ)めている。


 還(かん)流(りゅう)する光(ひかり)が満(み)ちるたび、彼女(かのじょ)の佇(たたず)まいは、まるで恵(めぐ)みの雨(あめ)を吸(す)い上(あ)げた若(わか)木(ぎ)のように、儚(はかな)い幻(げん)影(えい)から柔(やわ)らかな意(い)志(し)を宿(やど)した確(たし)かな守(まも)りの灯(とも)し火(び)へと、その輝(かがや)きを深(ふか)めていた。


「よく頑張(がんば)ったわね、ノア」


 胸(むね)の奥(おく)の源(みなもと)を温(ぬく)められ、穏(おだ)やかな寝(ね)息(いき)を立(た)て始(はじ)めた彼女 (かのじょ)を、私(わたし)はより深(ふか)く抱(だ)きしめ、再(ふたた)び世界(せかい)の底(そこ)へと身体(からだ)を沈(しず)めていった。


 温 (あたた)かい灯(とう)台(だい)の最(さい)上(じょう)階(かい)へともどると、ノアを長(なが)い椅(い)子(す)へと横(よこ)たえ、毛(もう)布(ふ)を掛(か)ける。


 『白(しろ)い本(ほん)』のなかでは、今(こん)夜(や)救(すく)い上 (あ)げた少年(しょうねん)の言葉(ことば)たちが、蛍 (ほたる)のように穏(おだ)やかに眠(ねむ)っている。


 どれほど暗(くら)闇(やみ)の棘(とげ)に心(こころ)を荒(あ)らしていても、ノアのひたむきさに触(ふ)れれば、その頑(かたく)なさは静(しず)かに解(ほど)けていく。


 傷(きず)つき惑(まど)う者(もの)たちが、胸(むね)の奥(おく)にある本来(ほんらい)の温(ぬく)もりを思(おも)い出(だ)すために彼女(かのじょ)は今(いま)、暗(くら)闇(やみ)のなかで静(しず)かに灯(とも)る、ひとつの道(みち)標(しるべ)になろうとしていた。



第(だい)7話(わ)へ続(つづ)く。


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