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灯し火の番人・新章  作者: 天月 和宙 -sora-


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【第7話】 不休の枷微なる微睡み


 硝子(がらす)の床(ゆか)の下(した)で、深(ふか)い青(あお)色(いろ)の海(うみ)が静(しず)かに凪(な)いでいた。


 光(ひかり)の届(とど)かない灯台(とうだい)の最上階(さいじょうかい)を、ランタンの柔(やわ)らかな灯(とも)し火(び)が静(しず)かに照(て)らしている。


 人(ひと)の優(やさ)しさを融(と)かし込(こ)んだ精(せい)霊(れい)の器(うつわ)は、もういつか闇(やみ)に消(き)え果(は)てるのを待(ま)つだけの、儚(はかな)い存在(そんざい)ではなかった。


「おはようございます、番人(ばんにん)さん」


 口(くち)元(もと)から零(こぼ)れた小(ちい)さな呟(つぶや)きは、穏(おだ)やかな響(ひび)きを伴(ともな)って室(しつ)内(ない)の静(せい)寂(じゃく)に溶(と)けていった。


 ノアは『白(しろ)い本(ほん)』へと歩(あゆ)み寄(よ)り、その白(はく)紙(し)の頁(ページ)を愛(いとお)しそうに指(ゆび)先(さき)で撫(な)でて、微(ほほ)笑(え)んだ。


 その平(へい)穏(おん)が、静(しず)かに満(み)ち足(た)りた瞬(しゅん)間(かん)だった。


――ジリリリリリ!


 机(つくえ)の上(うえ)の真(しん)鍮(ちゅう)の電(でん)話(わ)機(き)が、突(とつ)如(じょ)として激(はげ)しく鳴(な)り響(ひび)いた。


 私(わたし)は冷(つめ)たい受話器(じゅわき)を耳(みみ)へと当(あ)てた。


 流(なが)れ込(こ)んできたのは、息(いき)を詰(つ)まらせるような冷(つめ)たい静(しず)けさだった。


 だが次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)、その静寂(せいじゃく)を引(ひ)き裂(さ)くように、チク、タク、と無(む)機(き)質(しつ)な秒(びょう)針(しん)の音(おと)が響(ひび)き始(はじ)めた。


 そこへ追(お)いかけるように、狂(くる)おしいほどに何(なに)かを書(か)き殴(なぐ)る、紙(かみ)とペンが擦(す)れ合(あ)う音(おと)が絶(た)え間(ま)なく混(ま)ざり合(あ)っていった。


 休(やす)むことすら拒(こば)むかのような切(せっ)迫(ぱく)した気(け)配(はい)が、その一(いっ)定(てい)のリズムの奥(おく)にべったりと張(は)り付(つ)いていた。


「……今夜(こんや)の迷(まよ)い子(ご)は、時間(じかん)に追(お)われているみたいですね」


 ノアが受話器(じゅわき)を見(み)つめながら静(しず)かに呟(つぶや)いた。


「ええ。自(みずか)らを駆(か)り立(た)てる何物(なにもの)かに縛(しば)られ、一瞬(いっしゅん)も手(て)を止(と)められずにいるわ。……行(い)きましょう、ノア」


 私(わたし)たちは硝子(がらす)の床(ゆか)の中心(ちゅうしん)へと進(すす)む。


 足元(あしもと)の海(うみ)が道(みち)を開(ひら)くように静(しず)かに脈打(みゃくう)ち始(はじ)め、私(わたし)たちは次(つぎ)なる調律(ちょうりつ)の地(ち)へ、執拗(しつよう)な筆記(ひっき)音(おん)が響(ひび)き渡(わた)る、閉(と)ざされた世界(せかい)へと身体(からだ)を沈(しず)めていった。


 視(し)界(かい)が反(はん)転(てん)し、冷(つめ)たい闇(やみ)を抜(ぬ)けた瞬(しゅん)間(かん)、耳(みみ)を劈(つんざ)くような機(き)械(かい)音(おん)が襲(おそ)い掛(か)かった。


 そこは、大(だい)小(しょう)無(む)数(すう)の赤(あか)茶(ちゃ)けた歯(は)車(ぐるま)が壁(かべ)一(いち)面(めん)に噛(か)み合(あ)い、狂(くる)ったように高(こう)速(そく)で回(かい)転(てん)し続(つづ)ける、巨(きょ)大(だい)な時(と)計(けい)の体(たい)内(ない)のような空(くう)間(かん)だった。


 空(くう)中(ちゅう)には、細(こま)かく裂(さ)けた紙(かみ)の破(は)片(へん)が激(はげ)しい吹(ふ)雪(ぶき)のように舞(ま)い、その一(いち)枚(まい)一(いち)枚(まい)に、余(よ)裕(ゆう)のない黒(くろ)い文(も)字(じ)が隙(すき)間(ま)なく書(か)き連(つら)ねられている。


 それらが壁(かべ)の歯(は)車(ぐるま)すら覆(おお)い隠(かく)すほどの激(はげ)しい吹(ふ)雪(ぶき)となって視(し)界(かい)を白(しろ)く埋(う)め尽(つく)していた。


 遅(おく)れるな。


 生産性(せいさんせい)のない時間(じかん)に意味(いみ)はない。


 立(た)ち止(と)まる者(もの)は置(お)いて行(い)かれる。


 その嵐(あらし)の中(ちゅう)心(しん)で、ひとりの少(しょう)女(じょ)が取(と)り憑(つ)かれたように机(つくえ)に向(む)かい、凄(すさ)まじい勢(いきお)いでペンを走(はし)らせていた。


 彼(かの)女(じょ)がペンを躍(おど)らせるたび、キチキチと不(ふ)快(かい)な金(きん)属(ぞく)音(おん)を立(た)てて荒(あ)れ狂(くる)う紙(し)片(へん)の嵐(あらし)のなか、少(しょう)女(じょ)は指(ゆび)先(さき)を赤(あか)く染(そ)めながらも、なおペンを止(と)められずにいた。


 立(た)ち止(と)まれば自(じ)分(ぶん)の価(か)値(ち)が完(かん)全(ぜん)に消(き)えてしまうという、逃(に)げ場(ば)のない焦(しょう)燥(そう)が彼(かの)女(じょ)の細(ほそ)い身(から)体(だ)を激(はげ)しく突(つ)き動(うご)かしている。


 その狂(きょう)乱(らん)のなかへ、ノアは静(しず)かに歩(あゆ)み進(すす)めた。


 野(の)に咲(さ)く一(いち)輪(りん)の花(はな)が風(かぜ)に身(み)を委(ゆだ)ねるように、ただ自(し)然(ぜん)な佇(たたず)まいのまま、少(しょう)女(じょ)の悲(ひ)鳴(めい)のような渦(うず)へと近(ちか)づいていく。


 鋭(するど)い文(も)字(じ)の端(はし)々(ばし)が彼(かの)女(じょ)の衣(ころも)を微(かす)かに掠(かす)めても、その瞳(ひとみ)に怯(おび)えはなく、ただ眼(め)の前(まえ)で崩(くず)れそうな心(こころ)への、深(ふか)い憂(うれ)いだけが湛(たた)えられていた。


 私(わたし)はランタンを静(しず)かに傾(かた)むけ、ただその光(ひかり)の行方(ゆくえ)を見守(みまも)る。


 光(ひかり)が静(しず)かに染(し)み込(こ)むにつれ、少女(しょうじょ)が自(みずか)らの本当(ほんとう)の声(こえ)に『気(き)づく』ための静寂(せいじゃく)が、その場(ば)に自然(しぜん)と形(かたち)を成(な)していく。


 猛烈(もうれつ)な速度(そくど)で時(とき)を刻(きざ)んでいた周囲(しゅうい)の歯車(はぐるま)が、その空間(くうかん)の変化(へんか)に抗(あらが)うことなく、緩(ゆる)やかにその回転(かいてん)を落(お)としていった。


 無(む)機(き)質(しつ)な騒音(そうおん)が引(ひ)き、低(ひく)い唸(うな)りだけが残(のこ)るなか、ノアは少女(しょうじょ)の激(はげ)しく強(こわ)張(ば)る背中(せなか)へと、そっと温(あたた)かな手(て)を伸(の)ばした。


「もう……十(じゅう)分(ぶん)に走(はし)り続(つづ)けました。本(ほん)当(とう)は、ただ立(た)ち止(と)まるのが、とても怖(こわ)いのですね」


 ノアの声(こえ)は、静(しず)かな木(こ)漏(も)れ日(び)が地(ち)を温(ぬく)めるように、少(しょう)女(じょ)の震(ふる)える背(せ)に染(し)み入(い)っていく。


 だが、その温(ぬく)もりこそが、少(しょう)女(じょ)にとっては己(おのれ)を揺(ゆる)がす何(なに)よりも恐(おそ)ろしい毒(どく)であるかのように。


「うるさい……! 手(て)を止(と)めたら、私(わたし)は……誰(だれ)にも必要(ひつよう)とされなくなってしまう……!」


 少(しょう)女(じょ)はペンを握(にぎ)りしめたまま悲(ひ)痛(つう)に叫(さけ)んだ。


 けれど、その指(ゆび)はもう限(げん)界(かい)を迎(むか)えて激(はげ)しく震(ふる)えている。


 誰(だれ)もが速(はや)さと成(せい)果(か)を求(もと)める世(せ)界(かい)のなかで、ただそこにある澄(す)んだ風(かぜ)のように、己(おのれ)のすべての痛(いた)みを静(しず)かに包(つつ)み込(こ)んでくれるノアの純(じゅん)粋(すい)な眼(まな)差(ざ)し。


 その絶(ぜっ)対(たい)的(てき)な安(やす)らぎに、彼(かの)女(じょ)を縛(しば)り付(つ)けていた目(め)に見(み)えない鎖(くさり)が、みしりと音(おと)を立(た)てて軋(きし)み始(はじ)めていた。


(……もう、走(はし)らなくても、いいの?)


 少(しょう)女(じょ)の胸(むね)の奥(おく)で張(は)り詰(つ)めていた強(きょう)迫(はく)の熱(ねつ)が、急(きゅう)速(そく)に引(ひ)いていく。


 自(みずか)らを追(お)い立(た)てていた頑(かたくな)な呪(じゅ)縛(ばく)が、その内(うち)側(がわ)から崩(ほう)壊(かい)を始(はじ)めた。


「私(わたし)は……ただ……」


 唇(くちびる)から漏(も)れた言葉(ことば)は、もう刃(やいば)のようには尖(とが)っていなかった。


 否定(ひてい)されることを恐(おそ)れる者(もの)が、ようやく吐(は)き出(だ)すことのできた、温(ぬく)もりのある本音(ほんね)だった。


「……少(すこ)しだけ、休(やす)みたかった」


 大粒(おおつぶ)の涙(なみだ)が零(こぼ)れ落(お)ちる。


 彼(かの)女(じょ)がその「素(す)直(なお)な本(ほん)音(ね)」を口(くち)にできた瞬(しゅん)間(かん)、世(せ)界(かい)を支(し)配(はい)していた冷(つめ)たい秒(びょう)針(しん)の刻(きざ)みは、何(なに)ひとつ抗(あらが)うこともなく、ただ奥(おく)深(ぶか)い闇(やみ)へと吸(す)い込(こ)まれるように、滑(なめ)らかな静寂(せいじゃく)へと変(か)わっていった。


 少(しょう)女(じょ)の身(から)体(だ)を縛(しば)っていた目(め)に見(み)えない枷(かせ)が、音(おと)もなく解(ほど)けていく。


 それはすべての動(うご)きを止(と)めたこの空間(くうかん)の理(ことわり)に、その身(み)を委(ゆだ)ねるかのような深(ふか)い微睡(まどろ)みであった。


 強(こわ)張(ば)っていた指(ゆび)先(さき)も、最(さい)後(ご)まで縋(すが)っていたペンも、すべてが淡(あわ)い輪(りん)郭(かく)となって穏(おだ)やかな安息(あんそく)のなかへと融(と)けていく。


 少女(しょうじょ)を縛(しば)り付(つ)けていた過酷(かこく)な機械(きかい)が、その動(うご)きを完全(かんぜん)に止(と)めると同時(どうじ)に、彼女(かのじょ)の身体(からだ)を暗(くら)い底(そこ)へと静(しず)かに還(かえ)していった。


 ただ静(しず)かに去(さ)っていった彼女(かのじょ)の気配(けはい)には、もう一滴(いってき)の焦燥(しょうそう)も残(のこ)っていなかった。


 嵐(あらし)の去(さ)った部屋(へや)には、静(しず)かな月光(げっこう)のような光(ひかり)が満(み)ちている。


 机(つくえ)の上(うえ)に遺(のこ)されたのは、すべての役割(やくわり)を終(お)えて静(しず)かに横(よこ)たわる一本(いっぽん)の「万年筆(まんねんひつ)」と、狂乱(きょうらん)の文字(もじ)がすべて消(き)え去(さ)り、ただ穏(おだ)やかに凪(な)いだ白紙(はくし)の紙束(かみたば)だけだった。


「……あの子(こ)、やっと眠(ねむ)れたのですね」


 ノア(のあ)は、少(しょう)女(じょ)が手(て)に入(い)れた休(きゅう)息(そく)の気(け)配(はい)に導(みちび)かれるように、自(みずか)らの内(うち)が温(ぬく)もりで満(み)たされていくのを感(かん)じながら、ふっと肩(かた)の力(ちから)を抜(ぬ)いた。


 満(み)たされた静(せい)寂(じゃく)がすべてを優(やさ)しく宥(なだ)めるように、その場(ば)にそっと膝(ひざ)を折(お)って座(すわ)り込(こ)む。


 その瞳(ひとみ)は、心地(ここち)よい微睡(まどろ)みに優(やさ)しく揺(ゆ)れていた。


 私(わたし)は静(しず)かにノアの隣(となり)へと歩(あゆ)み寄(よ)り、その小(ちい)さな身体(からだ)を支(ささ)えるように抱(だ)き寄(よ)せた。


 救(すく)われた心(こころ)の安(やす)らぎが『白(しろ)い本(ほん)』を通(つう)じて仄(ほの)かな温(ぬく)もりとなり、ノアの内(うち)へと浸透(しんとう)していく。


 恵(めぐ)みの雨(あめ)が地(ち)に染(し)み込(こ)み、ただ静(しず)かに大地(だいち)を潤(うるお)していくような、緩(ゆる)やかな調和(ちょうわ)そのものだった。


「ええ。よく頑(がん)張(ば)ったわね、ノア。……私(わたし)たちも還(かえ)りましょう」


 ノアは床(ゆか)に遺(のこ)された白紙(はくし)の紙束(かみたば)と万年筆(まんねんひつ)を静(しず)かに拾(ひろ)い上(あ)げた。


 指先(ゆびさき)に伝(つた)わる優(やさ)しい温(ぬく)もりを愛(いとお)しむように見(み)つめ、孤独(こどく)な走(はし)りを終(お)えた少女(しょうじょ)の安息(あんそく)をその胸(むね)で確(たし)かに受(う)け止(と)めて立(た)ち上(あ)がる。


 それを見(み)届(とど)け、私(わたし)は、真鍮(しんちゅう)のランタンを静(しず)かに掲(かか)げた。


 重(かさ)なり合(あ)った時間(じかん)を経(へ)て鈍(にぶ)い黄金色(こがねいろ)に曇(くも)った金属(きんぞく)の枠(わく)は、私(わたし)の掌(てのひら)のなかで確(たし)かな重(おも)みと熱(ねつ)を帯(お)びている。


 内側(うちがわ)で静(しず)かに揺(ゆ)らめく灯(とも)し火(び)を一(いち)度(ど)大(おお)きく揺(ゆ)らすと、その光(ひかり)の揺(ゆ)らめきに呼応(こおう)するように、周囲(しゅうい)の景色(けしき)が音(おと)もなく歪(ゆが)み始(はじ)めた。


 硝子(がらす)の床(ゆか)に確(たし)かな足(あし)が触(ふ)れた瞬間(しゅんかん)、いつもと変(か)わらない静(しず)かな空気(くうき)が私(わたし)たちを優(やさ)しく包(つつ)み込(こ)んだ。


 ノアは最上階(さいじょうかい)へ辿(たど)り着(つ)くと、内側(うちがわ)から堰(せき)を切(き)って湧(わ)き上(あ)がる疲労(ひろう)と安堵(あんど)に身(み)を任(まか)せ、誘(さそ)われるように長(なが)い椅子(いす)へと身体(からだ)を横(よこ)たえた。


 張(は)り詰(つ)めていた精神(せいしん)の糸(いと)が心地(ここち)よく弛(ゆる)んでいくのが、その微(かす)かな息遣(いきづか)いからも手(て)に取(と)るように伝(つた)わってくる。


 彼女(かのじょ)は、あの少女(しょうじょ)が最後(さいご)に遺(のこ)していった休息(きゅうそく)の余韻(よいん)に守(まも)られるようにして、すでに穏(おだ)やかな寝息(ねいき)を立(た)てていた。


 その小(ちい)さき指先(ゆびさき)には、先(さき)ほど自(みずか)ら拾(ひろ)い上(あ)げた万年筆(まんねんひつ)が、宝物(たからもの)のように大切(たいせつ)に握(にぎ)り締(し)められている。


 誰(だれ)かの止(と)まらない夜(よる)を終(お)わらせるということは、同時(どうじ)に自(みずか)らの内(うち)なる渇(かわ)きをも潤(うるお)すことなのかもしれない。


 私(わたし)はノアの深(ふか)い眠(ねむ)りを妨(さまた)げないよう、静(しず)かに中央(ちゅうおう)の机(つくえ)へと歩(あゆ)み寄(よ)った。


 手(て)にした真鍮(しんちゅう)のランタンを、その古(ふる)びた木肌(きはだ)の上(うえ)へと下(お)ろす。


 ランタンの放(はな)つ重厚(じゅうこう)な黄金色(こがねいろ)の光(ひかり)が、机(つくえ)の中央(ちゅうおう)に静(しず)かに置(お)かれた『白(しろ)い本(ほん)』を真横(まよこ)から照(て)らし出(だ)した。


 『白(しろ)い本(ほん)』は、まだなにも記(しる)されていないはずの孤独(こどく)な頁(ページ)を数(すう)枚(まい)、まるで自(みずか)らの意志(いし)で呼吸(こきゅう)をするかのように微(かす)かに戦(そよ)がせた。


 その真(ま)っ白(しろ)な紙面(しめん)の上(うえ)に、真鍮(しんちゅう)のランタンから溢(あふ)れ出(だ)した温(あたた)かな光(ひかり)が静(しず)かに染(し)み込(こ)んでいく。


 すると、まるで紙(かみ)の繊維(せんい)の奥底(おくそこ)から新(あらた)な命(いのち)が吹(ふ)き込(こ)まれたかのように、小(ちい)さな蛍(ほたる)のような光(ひかり)の粒(つぶ)が一(ひと)つ、また一(ひと)つと湧(わ)き上(あ)がり、静(しず)かに瞬(まばた)き始(はじ)めた。


 それは現実(げんじつ)の世界(せかい)に何一(なにひと)つ爪痕(つめあと)を残(のこ)せぬまま消(き)え去(さ)るはずだった少女(しょうじょ)が、この灯台(とうだい)の永遠(えいえん)なる記憶(きおく)へと刻(きざ)み付(つ)けた、確(たし)かな生(せい)の軌跡(きせき)であった。


 真鍮(しんちゅう)の鈍(にぶ)い輝(かがや)きと、本(ほん)の上(うえ)で密(ひそ)やかに踊(おど)る蛍(ほたる)の淡(あわ)い光(ひかり)が美(うつく)しく混(ま)ざり合(あ)い、最上階(さいじょうかい)の硝子(がらす)の床(ゆか)を幻想的(げんそうてき)に縁(ふち)取(ど)っていく。


 それはまるで、この世界(せかい)から去(さ)った彼(かの)女(じょ)の魂(たましい)へ捧(ささ)げる、言葉(ことば)のない静(しず)かな鎮魂歌(ちんこんか)のようでもあった。


 朝(あさ)も夜(よる)もないこの孤独(こどく)な灯台(とうだい)だけが、彼女(かのじょ)がたしかにここに存在(そんざい)し、そして救(すく)われたのだという真実(しんじつ)を記憶(きおく)している。


 ノアの穏(おだ)やかな寝息(ねいき)と、本(ほん)の上(うえ)で瞬(まばた)く無数(むすう)の光(ひかり)。


 この二(ふた)つの安息(あんそく)の調和(ちょうわ)こそが、番人(ばんにん)として果(は)てのない孤独(こどく)のなか灯(とも)し火(び)を守(まも)り続(つづ)けた私(わたし)への、何物(なにもの)にも代(か)えがたい報酬(ほうしゅう)であり、救(すく)いそのものであった。


 しかし、『白(しろ)い本(ほん)』の瞬(まばた)きは、ただ過去(かこ)の終(お)わりを告(つげ)げるだけのものではなかった。


 蛍(ほたる)の光(ひかり)が白(しろ)い頁(ページ)の上(うえ)で複雑(ふくざつ)な光(ひかり)の軌道(きどう)を描(えが)き出(だ)すのを視(み)ながら、私(わたし)は胸(むね)の奥底(おくそこ)に、ある微(かす)かな、予感(よかん)を覚(おぼ)えていた。


 真鍮(しんちゅう)のランタンの中(なか)で、静(しず)かな炎(ほのお)が微(かす)かに形(かたち)を変(か)えて揺(ゆ)らめいた。


 それは、閉(と)じられた過去(かこ)の向(む)こう側(がわ)で、また新(あたら)しい苦悩(くのう)と救(すく)いの頁(ページ)が静(しず)かに開(ひら)かれる合図(あいず)のようでもあった。


第(だい)8話(わ)へ続く(つづく)。


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