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灯し火の番人・新章  作者: 天月 和宙 -sora-


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【第13話】常夜の灯台守


 灯台(とうだい)の中(なか)には、私(わたし)の歩(あゆ)んだ歳月(さいげつ)を物語(ものがたり)る数多(あまた)の「硝子(がらす)」が並(なら)んでいる。


 精巧(せいこう)な小鳥(ことり)の形(かたち)をしたもの、名(な)も無(な)き花(はな)の蕾(つぼみ)の形(かたち)をしたもの。


 形(かたち)も趣(おもむき)も異(こと)なるそれらは、かつて番人(ばんにん)の腕(うで)の中(なか)で役目(やくめ)を終(お)え、穏(おだ)やかな眠(ねむ)りについている魂(たましい)の残滓(ざんし)たちだ。


 群青(ぐんじょう)の夜(よる)を透(す)かし込(こ)むようなこの部屋(へや)で、暖炉(だんろ)の上(うえ)に設(もう)けられた端(はし)の一列(いちれつ)は、最(もっと)も冷(つめ)たく、静(しず)かな一角(いっかく)だった。


 私(わたし)は、手(て)のひらに馴染(なじ)む重(おも)みを抱(だ)き、その場所(ばしょ)へ足(あし)を運(はこ)ぶ。


 ノアの『白(しろ)い本(ほん)』は、他(ほか)の硝子(がらす)の器(うつわ)たちと変(か)わらぬ静(しず)けさで、暖炉(だんろ)の炎(ほのお)の揺(ゆ)らぎを優(やさ)しく身(み)に受(う)けていた。


 かつて少女(しょうじょ)が抱(いだ)いていたあの温(ぬく)もりは、今(いま)はもう、透(す)き通(とお)る硝子(がらす)の奥底(おくそこ)で穏(おだ)やかな眠(ねむ)りについている。


 指先(ゆびさき)で触(ふ)れれば、その白(しろ)い表紙(ひょうし)の中(なか)に、彼女(かのじょ)の紡(つむ)いだ命(いのち)の気配(けはい)が淡(あわ)く滲(にじ)み出(で)るようだった。


「……おやすみ、ノア」


 囁(ささや)きは、この静(しず)まり返(かえ)った群青(ぐんじょう)の空間(くうかん)へと吸(す)い込(こ)まれていく。


 私(わたし)は本(ほん)を置(お)き、そっと火(ひ)の傍(かたわ)らから離(はな)れた。


 他(ほか)の誰(だれ)かと同(おな)じように、ノアもまたこの静寂(せいじゃく)の書架(しょか)の一員(いちいん)となったのだ。


 番人(ばんにん)の仕事(しごと)に、そこに感情(かんじょう)を持(も)ち込(こ)むのは禁忌(きんき)だと知(し)っていながら、最後(さいご)の別(わか)れを告(つげ)る指先(ゆびさき)に、自分(じぶん)でも分(わ)からないほどの微(かす)かな震(ふる)えが残(のこ)っていた。


 暖炉(だんろ)の炎(ほのお)がパチリと音(おと)を立(た)てて跳(は)ねる。


 その音(おと)に誘(さそ)われるように、私(わたし)はふと、本棚(ほんだな)の隙間(すきま)に漂(ただよ)う、微(かす)かな揺(ゆ)らぎに気(き)づいた。


 本来(ほんらい)、眠(ねむ)りについた硝子(がらす)たちは、静(しず)かに均衡(きんこう)を保(たも)っているはずだ。


 しかし、暖炉(だんろ)の上(うえ)に置(お)かれたばかりの『白(しろ)い本(ほん)』の周辺(しゅうへん)だけが、周囲(しゅうい)の光(ひかり)と呼(よ)び合(あ)うように、透(す)き通(とお)った粒子(りゅうし)を静(しず)かに灯(とも)し始(はじ)めている。


 それは何(なに)かの物語(ものがたり)が始(はじ)まろうとしている予感(よかん)に胸(むね)が高鳴(たかな)る、尊(とうと)い奇跡(きせき)の兆(きざ)しだった。


 私(わたし)は再(ふたた)びその硝子(がらす)の本(ほん)へと歩(あゆ)み寄(よ)った。


 その時(とき)だった。


 静寂(せいじゃく)に満(み)ちた部屋(へや)に、真鍮(しんちゅう)の呼(よ)び出(だ)しの音(おと)が響(ひび)き渡(わた)る。


 冷(つめ)たい金属(きんぞく)の受話器(じゅわき)を耳(みみ)に当(あ)てた。


 受話器(じゅわき)の向(む)こう側(がわ)から聞(き)こえてくるのは、遠(とお)い海鳴(うみな)りのような、重(おも)く澱(よど)んだ音(おと)だった。


 荒(あら)い呼吸(こきゅう)の音(おと)が、潮風(しおかぜ)の鳴(な)らす微細(びさい)な雑音(ざつおん)に遮(さえぎ)られながら、途切(とぎ)れ途切(とぎ)れに響(ひび)いてくる。


 不意(ふい)に、音(おと)の奥底(おくそこ)から、絞(しぼ)り出(だ)すような掠(かす)れた声(こえ)が漏(も)れた。


「……帰(かえ)り方(かた)が、わからないの。全部(ぜんぶ)、忘(わす)れてしまったから」


 その呟(つぶや)きに、私(わたし)は受話器(じゅわき)を握(にぎ)る指先(ゆびさき)に力(ちから)を込(こ)めた。


 自分(じぶん)という存在(そんざい)の輪郭(りんかく)さえも失(うしな)い、漂(ただよ)う魂(たましい)。


 番人(ばんにん)として幾度(いくど)となく立(た)ち会(あ)ってきたなかでも、もっとも危(あや)うい昏(くら)い深淵(しんえん)の淵(ふち)に、この迷(まよ)い子(ご)は立(た)っていた。


 私(わたし)は真鍮(しんちゅう)のランタンを手(て)に取(と)る。


 暖炉(だんろ)の上(うえ)で、ノアの『白(しろ)い本(ほん)』が、導(みちび)くように淡(あわ)い粒子(りゅうし)を静(しず)かに灯(とも)し続(つづ)けている。


 彼女(かのじょ)の覚悟(かくご)を胸元(むなもと)に抱(かか)え、私(わたし)は灯台(とうだい)の扉(とびら)へと向(む)かった。


 扉(とびら)の先(さき)に広(ひろ)がるのは、形(かたち)を成(な)さぬ歪(ゆが)みの世界(せかい)だ。


 私(わたし)が、足(あし)を踏(ふ)み出(だ)すたびに、大地(だいち)の感触(かんしょく)は脆(もろ)くも崩(くず)れ、前後左右(ぜんごさゆう)の境界(きょうかい)も曖昧(あいまい)になる。


 ランタンの光(ひかり)を頼(たよ)りに進(すす)む。


 その時(とき)だった。


 胸元(むなもと)に抱(かか)えたノアの『白(しろ)い本(ほん)』から、細(こま)やかな光(ひかり)の粒子(りゅうし)が溢(あふ)れ出(だ)した。


 その夜光(やこう)の粒子(りゅうし)は、私(わたし)と、前(まえ)に蹲(うずくま)る虚空(こくう)の住人(じゅうにん)との間(あいだ)を、暖(あたた)かな凪(なぎ)の海原(うなばら)のように繋(つな)ぎ始(はじ)めた。


 そこには、恐怖(きょうふ)に縛(しば)りつけられ、指先(ゆびさき)一(ひと)つ動(うご)かせぬほどに凍(こお)り付(つ)いた彼女(かのじょ)の姿(すがた)があった。


 喉(のど)さえも恐怖(きょうふ)に引(ひ)き攣(つ)り、私(わたし)が静(しず)かに問(と)い掛(か)けても、声(こえ)を返(かえ)すことすらできずに、ただ絶望(ぜつぼう)の中(なか)で石(いし)のように硬(かた)くなっている。


 住人(じゅうにん)は答(こた)えを返(かえ)すこともできず、ただ力(ちから)なげに、何(なに)も映(うつ)さない透(す)き通(とお)った瞳(ひとみ)をわずかに上(あ)げるのが限界(げんかい)だった。


 だが、本(ほん)からこぼれ落(お)ちる光(ひかり)の粒子(りゅうし)が、住人(じゅうにん)の翳(かげ)る瞳(ひとみ)へ優(やさ)しく融(と)け込(こ)んだ。


 その瞬間(しゅんかん)、石(いし)のように硬(かた)く冷(つめ)たかった彼女(かのじょ)の心(こころ)と身体(からだ)に、微(かす)かな体温(たいおん)のような色(いろ)が差(さ)す。


 縛(しば)りつけられていた喉(のど)が緩(ゆる)み、頑(かた)くなな岩(いわ)が砕(くだ)けるように、彼女(かのじょ)の内側(うちがわ)から言葉(ことば)が溢(あふ)れ出(だ)した。


「……何(なに)も、わからないの。自分(じぶん)が何(なに)のために、ここで息(いき)を吸(す)っているのかさえ……」


 私(わたし)は光(ひかり)の粒子(りゅうし)を編(あ)み込(こ)み、住人(じゅうにん)の震(ふる)える手(て)を包(つつ)み込(こ)む。


 手(て)から住人(じゅうにん)の指先(ゆびさき)へと、粒子(りゅうし)が静(しず)かに流(なが)れ込(こ)んでいく。


 すると、揺(ゆ)らぎ消(き)えていたはずの彼女(かのじょ)の瞳(ひとみ)に、確(たし)かな色(いろ)が灯(とも)り始(はじ)めた。


「怖(こわ)がることはないの。静(しず)かに深(ふか)く、息(いき)を吐(は)き出(だ)して。自分(じぶん)の内側(うちがわ)を見(み)つめてごらんなさい。そこには、あなただけの確(たし)かな輪郭(りんかく)が残(のこ)っているはずよ。」


 彼女(かのじょ)は、私(わたし)に縋(すが)るような手(て)を解(ほど)き、自(みずか)らの胸元(むなもと)を静(しず)かに押(お)さえる。


 歪(ゆが)んだ世界(せかい)の空間(くうかん)が、今(いま)、彼女(かのじょ)の震(ふる)える鼓動(こどう)に合(あ)わせて静(しず)かに呼吸(こきゅう)を始(はじ)めた。


 それは先(さき)ほどまで部屋(へや)の『白(しろ)い本(ほん)』が放(はな)っていたものよりも、ずっと鮮(あざ)やかで、暗(くら)い海底(かいてい)のような忘却(ぼうきゃく)を払(はら)いのけ波紋(はもん)となって広(ひろ)がるたび、形(かたち)を成(な)さなかった歪(ゆが)みの世界(せかい)が、幻影(げんえい)のように揺(ゆ)らめきながら、ほどけるように消(き)え去(さ)っていった。


 足元(あしもと)の不確(ふたし)かな闇(やみ)は、彼女(かのじょ)の刻(きざ)む規則(きそく)正(ただ)しい鼓動(こどう)と共鳴(きょうめい)するように、見慣(みな)れた部屋(へや)の床(ゆか)の、柔(やわ)らかな木肌(きはだ)のぬくもりへと満(み)たされていく。


 それは他(ほか)でもない、彼女(かのじょ)がかつて生(い)きて、息(いき)を吸(す)っていた「日常(にちじょう)」の残像(ざんぞう)だった。


 彼女(かのじょ)はゆっくりと瞼(まぶた)を持(も)ち上(あ)げる。


「……わたし、ここに……ここにいたのね」


 縋(すが)るような震(ふる)えは、もうその声(こえ)にはなかった。


 自分(じぶん)が確(たし)かに存在(そんざい)していたという事実(じじつ)を、自(みずか)らの足(あし)に伝(つた)わる大地(だいち)の重(おも)みから、静(しず)かに受(う)け止(と)めているようだった。


 私(わたし)は手(て)に持(も)つランタンを静(しず)かに掲(かか)げ、彼女(かのじょ)の足元(あしもと)を照(て)らす。


 現(あらわ)れた光(ひかり)の道(みち)は、もう闇(やみ)に呑(の)まれることなく、まっすぐに奥(おく)へと伸(の)びていた。


「ええ、そうよ。自分(じぶん)の内側(うちがわ)に灯(とも)した光(ひかり)は、誰(だれ)にも消(け)せはしないわ。……どうして、すべてを忘(わす)れてしまったのか、そう聞(き)きたいのね」


 私(わたし)は答(こた)える代(か)わりに、彼女(かのじょ)の足元(あしもと)で揺(ゆ)れる光(ひかり)の粒子(りゅうし)を見守(みまも)った。


「光(ひかり)を灯(とも)したのは、あなた自身(じしん)。自分(じぶん)で見(み)つけた輪郭(りんかく)なら、その理由(りゆう)も、きっとあなたの内側(うちがわ)に残(のこ)っているはず。」


 日常(にちじょう)の残像(ざんぞう)を宿(やど)した空間(くうかん)の奥底(おくそこ)から、忘却(ぼうきゃく)の闇(やみ)が、彼女(かのじょ)の記憶(きおく)を紐解(ひもと)くように、静(しず)かにざわめき始(はじ)める。


「……わたし、ずっと……」


 彼女(かのじょ)の唇(くちびる)が、微(かす)かに震(ふる)えた。


 柔(やわ)らかな木肌(きはだ)の上(うえ)に落(お)ちる日差(ひざ)しの影(かげ)が、彼女(かのじょ)の脳裏(のうり)に去来(きょらい)する過去(かこ)の断片(だんぺん)を映(うつ)し出(だ)すように、激(はげ)しく明滅(めいめつ)する。


 それは言葉(ことば)にならない、重(おも)く、息(いき)の詰(つ)まるような感情(かんじょう)の渦(うず)だった。


 彼女(かのじょ)は自(みずか)らの肩(かた)を抱(だ)くように腕(うで)を組(くみ)、溢(あふ)れ出(で)てくる記憶(きおく)の流(なが)れに耐(た)えるように奥歯(おくば)を噛(か)み締(し)めた。


「誰(だれ)かのために……止(と)まってはいけないと、ずっと走(はし)っていた。休(やす)むことは悪(あく)だと、立(た)ち止(ま)まることは許(ゆる)されないと、自分(じぶん)を追(お)い詰(つ)めて……」


 絞(しぼ)り出(だ)される言葉(ことば)は、涙(なみだ)を孕(はら)んで震(ふる)えている。


 彼女(かのじょ)の足元(あしもと)に広(ひろ)がる日常(にちじょう)の景色(けしき)が、目(め)まぐるしく明滅(めいめつ)を繰(く)り返(かえ)す。


 絶(た)え間(ま)なく轟(とどろ)く海鳴(うみな)り、山(やま)のように積(つ)み上(あ)がった船荷(ふなに)の影(かげ)、背後(はいご)から追(お)いかけてくる満(み)ち潮(しお)のような圧迫感(あっぱくかん)。


「休(やす)むのが、怖(こわ)かったの。私(わたし)が足(あし)を止(と)めたら、すべてが壊(こわ)れてしまうような気(き)がして。……でも、限界(げんかい)だった。心(こころ)も、身体(からだ)も、これ以上(いじょう)は動(うご)かないのに、それでも進(すす)もうとする自分(じぶん)が恐(おそ)ろしくて……」


 彼女(かのじょ)の告白(こくはく)に、私(わたし)は静(しず)かに眼(め)を細(ほそ)めた。


 嵐(あらし)の夜(よる)も容赦(ようしゃ)なく激(はげ)しく揺(ゆ)れる甲板(かんぱん)の上(うえ)で、彼女(かのじょ)は唯(ただ)の一度(いちど)も舵(かじ)から手(て)を離(はな)さなかった。


 病床(びょうしょう)に伏(ふ)せる年老(としお)いた父親(ちちおや)と、幼(おさな)い弟(おとうと)たちの命(いのち)を、その細(ほそ)い両腕(りょううで)だけで支(ささ)え続(つづ)けなければならなかったからだ。


 人手(ひとで)の足(た)りない古(ふる)びた漁船(ぎょせん)で、冷(つめ)たい潮風(しおかぜ)に肌(はだ)を切(き)られながら、自分(じぶん)が倒(たお)れれば家族(かぞく)の明日(あした)が途絶(とだ)えるという恐怖(きょうふ)だけが、彼女(かのじょ)の身体(からだ)を縛(しば)り付(つ)けていた。


 休(やす)むことは即(そく)、すべての破滅(はめつ)を意味(いみ)していた。


 走(はし)り続(つづ)けることを強(し)いる己(おのれ)の意識(いしき)から逃(のが)れるため、息(いき)を吸(す)うための空白(くうはく)を作(つく)るために。


 彼女(かのじょ)の魂(たましい)は、自(みずか)らの物語(ものがたり)をすべて消去(しょうきょ)し、この忘却(ぼうきゃく)の闇(やみ)へと逃(に)げ込(こ)むことで、ようやく「休(やす)む」ことを得(え)たのだ。


「……全部(ぜんぶ)を忘(わす)れて、何(なに)も持(も)たない影(かげ)になれば、もう頑張(がんば)らなくて済(す)むと思(おも)った。だけど、帰(かえ)り方(かた)まで分(わ)からなくなって……」


 彼女(かのじょ)は自(みずか)らの胸元(むなもと)をさらに強(つよ)く掻(か)き毟(むし)るように押(お)さえた。


「休(やす)むことそのものが、私(わたし)にとっては許(ゆる)しがたい『罪(つみ)』だったの。だから、頭(あたま)を空(から)っぽにしても、身体(からだ)を横(よこ)にしても、心(こころ)の奥底(おくそこ)ではずっと、自分(じぶん)を責(せ)め立(た)てる声(こえ)が鳴(な)り響(ひび)いていた。」


 そして、休(やす)んでいる間(あいだ)さえも自分(じぶん)を責(せ)め苛(さいな)む、逃(に)げ場(ば)のない罪(つみ)の意識(いしき)。


 すべてを忘(わす)れなければ、その非難(ひなん)の声(こえ)から、一瞬(いっしゅん)たりとも解(と)き放(はな)たれることはなかったのだ。


 彼女(かのじょ)の震(ふる)える肩(かた)から零(こぼ)れ落(お)ちる光(ひかり)の粒子(りゅうし)が、ランタンの灯(とも)し火(び)に引(ひ)き寄(よ)せられるように、ゆっくりと足元(あしもと)で渦(うず)を巻(ま)いていく。


 そこには、ランタンの光(ひかり)に照(て)らされた、微(かす)かに温(ぬく)もりを宿(やど)した自分(じぶん)自身の(じしん)の輪郭(りんかく)が、確(たし)かに存在(そんざい)している。


「わたしは……ただ、責(せ)められることのない静寂(せいじゃく)が、欲(ほ)しかっただけ……」


 ポツリと漏(も)らした言葉(ことば)と同時(どうじ)に、彼女(かのじょ)の目(め)から一粒(ひとつぶ)の涙(なみだ)が零(こぼ)れ、足元(あしもと)に吸(す)い込(こ)まれていった。


 歪(ゆが)んでいた空間(くうかん)は、もうどこにもない。


 彼女(かのじょ)の内側(うちがわ)から溢(あふ)れ出(だ)した光(ひかり)は、冷(つめ)たい忘却(ぼうきゃく)の闇(やみ)を穏(おだ)やかに溶(と)かし、一(ひと)つの揺(ゆ)るぎない道(みち)を形(かたち)作(づく)っていた。


 溢(あふ)れた涙(なみだ)は、彼女(かのじょ)の足元(あしもと)に広が(ひろが)る世界(せかい)に、完全(かんぜん)な夜明(よあ)けをもたらしていった。


 番人(ばんにん)の掲(かか)げた灯(とも)し火(び)は、荒(あ)れ狂(くる)う夜(よる)の海(うみ)から港(みなと)へ導(みちび)く灯台(とうだい)の光(ひかり)のように、彼女(かのじょ)の孤独(こどく)な魂(たましい)を温(あたた)かく迎(むか)え入(い)れていく。


 ノアの 『白(しろ)い本(ほん)』が放(はな)つ清澄(せいちょう)な知恵(ちえ)の光(ひかり)は、彼女(かのじょ)の内側(うちがわ)に澱(よど)んでいた「休(やす)むことは悪(あく)である」という呪縛(じゅばく)を、優(やさ)しく紐(ひも)解(と)いていった。


 完璧(かんぺき)に背負(せお)いきれぬ己(おのれ)の弱(よわ)さを認(みと)めることこそが、真(まこと)の強(つよ)さなのだと、その温(ぬく)もりは無言(むごん)の内(うち)に伝(つた)えていた。


 背負(せお)わされた重荷(おもに)ごと自(みずか)らの現実(げんじつ)を受(う)け入(い)れた時(とき)、石(いし)のように硬(かた)く閉(と)ざされていた責任(せきにん)の殻(から)が、跡形(あとかた)もなく融(と)け去(さ)っていく。


 待(ま)ち受(う)けるのは、また変(か)らぬ船(ふね)の仕事(しごと)と、忙(いそが)しい日常(にちじょう)の日々(ひび)だ。


 だが、彼女(かのじょ)の心(こころ)を縛(しば)り付(つ)けていた恐(おそ)れは、もうそこにはない。


 訪(おとず)れる休(やす)みの日(ひ)、病床(びょうしょう)の父親(ちちおや)や幼(おさな)い弟(おとうと)たちと食卓(しょくたく)を囲(かこ)みながら、互(たが)いの苦労(くろう)を優(やさ)しく労(ねぎ)らい合(あ)える温(あたた)かな時間(じかん)を、いまの彼女(かのじょ)はしっかりと迎(むか)えることができる。


 その瞳(ひとみ)には、眩(まばゆ)いほどの意志(いし)の光(ひかり)が宿(やど)っていた。


「……ありがとう、番人(ばんにん)さん。私(わたし)、もう一度(いちど)、自分(じぶん)の足(あし)で歩(ある)いてみます。」


 彼女(かのじょ)の背後(はいご)には、透明(とうめい)な光(ひかり)で満(み)ちた、どこまでも続(つづ)く一本(いっぽん)の美(うつく)しい道(みち)が拓(ひら)けていた。


 目(め)を醒(さ)ませば、再(ふたた)びあの息(いき)の詰(つ)まるような慌(あわ)ただしさが、自分(じぶん)を責(せ)め立(た)てる現実(げんじつ)の重圧(じゅうあつ)が、容赦(ようしゃ)なく押(お)し寄(よ)せてくるのだろう。


 けれど、灯(とも)された光(ひかり)を宿(やど)すその足元(あしもと)は、先(さき)ほどまでのように脆(もろ)く崩(くず)れることはない。


 暗(くら)い海底(かいてい)のような忘却(ぼうきゃく)の闇(やみ)に逃(に)げるのではなく、自(みずか)らが抱(かか)えてきた歪(ゆが)みも痛(いた)みもすべてを引(ひ)き受(う)けて、それでもなお「生(い)きて、現実(げんじつ)へ戻(もど)る」と決(き)めた彼女(かのじょ)の足(あし)が、今(いま)、揺(ゆ)らぐことのない確(たし)かな足取(あしど)りで、現実(げんじつ)の日常(にちじょう)へと歩(あゆ)みを進(すす)めている。


 その一歩(いっぽ)が紡(つむ)ぐのは、誰(だれ)かに敷(し)かれたレールではなく、彼女(かのじょ)が自分(じぶん)のために切(き)り拓(ひら)いた、世界(せかい)でたった一(ひと)つだけの確(たし)かな軌跡(きせき)だった。


第(だい)14話(わ)へ続 (つづ)く。



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