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【第12話】調和の檻と硝子の鼓動


 二人(ふたり)姿(すがた)深淵(しんえん)(そこ)へと()えた瞬間(しゅんかん)、あれほど()(くる)っていた(くろ)(どろ)のうねりが、(うそ)のようにぴたりと(しず)まり(かえ)った。


 空間(くうかん)()るがしていた不吉(ふきつ)地鳴(じな)りは()み、(あと)(のこ)されたのは、(みみ)(いた)くなるほどのすべてを()()静寂(せいじゃく)だった。


 (わたし)()()していた真鍮(しんちゅう)のランタンを()()いて()(もど)し、その(とも)()()つめた。


 周囲(しゅうい)(ゆが)みを克明(こくめい)(うつ)()すその(ほのお)は、(さき)ほどまでの狂暴(きょうぼう)なまでの(するど)さを(うしな)い、いまは(ちい)さく、平穏(へいおん)(かがや)きへと(もど)っていた。


 (みみ)(いた)くなるほどの底知(そこし)れぬ静寂(せいじゃく)()ちるなか、(おと)途絶(とだ)えた世界(せかい)唯一(ゆいいつ)、かすかに()らめく黄金(おうごん)()だけが、(わたし)感覚(かんかく)(つな)()める()(どころ)だった。


 急激(きゅうげき)無音(むおん)眩暈(めまい)(おぼ)えそうになりながら、(わたし)本能的(ほんのうてき)に、その(うご)(つづ)ける唯一(ゆいいつ)(ひかり)()(うば)われていた。


 あまりにも(しず)かすぎる。


 この(ほのお)()いだということは、(さき)ほどまで(やみ)()()いていた、ノアのあの(すさ)まじい(ひかり)気配(けはい)までもが、完全(かんぜん)()()ってしまった。


 (わたし)暗闇(くらやみ)のなかで、必死(ひっし)(しょう)(じょ)(いのち)残滓(ざんし)(さが)した。


 しかし、ランタンの(ひかり)薄暗(うすぐら)()らし()すのは(つめ)たい虚無(きょむ)ばかりで、ノアの(かす)かな息遣(いきづか)いさえも、どこからも()こえてはこない。


 (わたし)(むね)去来(きょらい)するのは、(はい)(おく)まで(こお)りつくような(つめ)たい(ふる)えだった。


「ノア……!」


 (こえ)(かぎ)りに(さけ)びながら、(わたし)二人(ふたり)(しず)んでいった暗闇(くらやみ)(そこ)へと()()り、ランタンの(ひかり)限界(げんかい)まで(かざ)した。


 ランタンの(ひかり)限界(げんかい)まで(かざ)すと、その黄金(おうごん)(かがや)きが、(くら)奈落(ならく)(そこ)(しず)かに(いき)づく「結晶(けっしょう)」を()らし()した。


 無数(むすう)(うつく)しい文字(もじ)複雑(ふくざつ)()()わさり、球体(きゅうたい)(おり)形作(かたちづく)っている、純白(じゅんぱく)の『言葉(ことば)結晶(けっしょう)』だった。


 その(うつく)しくも残酷(ざんこく)調和(ちょうわ)(おり)のなかで、ノアは老女(ろうじょ)(やさ)しく()きしめたまま、(しず)かに(ねむ)っていた。


 老女(ろうじょ)(むしば)んでいた(くろ)(きり)(ごう)(どろ)も、完全(かんぜん)にノアの(はな)った(ひかり)によって中和 (ちゅうわ)され、()()っている。


 しかし、ノアが(いのち)()して(つむ)いだこの調和 (ちょうわ)は、まだ未完成(みかんせい)だった。


 ノアの(はな)った(せい)なる(ひかり)(はら)ったのは、老女(ろうじょ)(くる)わせていた(そと)からの(にご)りや、怨嗟(えんさ)(どろ)という「外壁(がいへき)」に()ぎなかった。


 だが、()()への不器用(ぶきよう)(あい)と、その()冷酷(れいこく)()(はな)してしまったという痛切(つうせつ)自責(じせき)は、彼女(かのじょ)自身(じしん)(たましい)最奥(さいおう)(くす)ぶった、(だれ)にも()れられない「(のこ)()」だったのだ。


 (とど)けるべき相手(あいて)(とど)かぬまま()()(うしな)ったその(おも)いは、歳月(さいげつ)(はい)(した)(ひそ)かに(ねつ)(たくわ)え、彼女(かのじょ)(かく)(うち)から(しず)かに()がし(つづ)けている。


 ただの一度(いちど)(つた)えられなかった(あい)真意(しんい)が、長年(ながねん)(とど)かなかった謝罪(しゃざい)(さけ)びが、相手(あいて)(たましい)()()れられぬ(かぎ)り、この(ねつ)()えることはない。


 周囲(しゅうい)(やみ)がどれほど(おだ)やかに()ごうとも、彼女(かのじょ)(こころ)(かわ)きは()えず、その(いの)りは()わりなき(くすぶ)りとなって、その(いのち)残滓(ざんし)()(つづ)けているのだ。


 (わたし)彼女(かのじょ)言葉(ことば)をあの()(とど)けるため、ランタンの(ひかり)をかざし、世界(せかい)境界(きょうかい)()こう(がわ)()らし()そうとした。


 だが、その瞬間(しゅんかん)(わたし)手元(てもと)(はげ)しく()らめいた(ほのお)が、残酷(ざんこく)真実(しんじつ)(うつ)()す。


 あの()(たましい)(さぐ)ろうとした(わたし)感覚(かんかく)()()んできたのは、あまりにも途方(とほう)もない「歳月(さいげつ)(へだ)たり」だった。


 この老女(ろうじょ)(かさ)ねた時間(じかん)()て、境界(きょうかい)()こうにいるあの()もまた、(なが)歳月(さいげつ)()老婆(ろうば)となっている。


 それは(あらが)(がた)必然(ひつぜん)(ことわり)であった。


 けれど、(とお)(とき)(へだ)てたあの()(つな)がる(とも)()(いと)が、(たし)かにそこにはあった。


 老女(ろうじょ)(むね)から(あふ)()した「本当(ほんとう)自由(じゆう)になってほしかった」という不器用(ぶきよう)(あい)言葉(ことば)、そして「(きず)つけてすまなかった」という痛切(つうせつ)自責(じせき)(ねん)が、(ひか)文字(もじ)粒子(りゅうし)となってその(とも)()(いと)()()がっていく。


 かつて(とど)かなかった(はは)(おも)いは、(いま)(やわ)らかい黄金色(こがねいろ)(とも)()となってその(いと)(つた)い、あの()(もと)(しず)かに(とど)けられていく。


 やがて、はるか(ひかり)彼方(かなた)から、すべてを()()れたかのような、(おだ)やかで(あたた)かい波紋(はもん)(かえ)ってきた。


 すでに現実(げんじつ)世界(せかい)にはいない()()(たましい)へ、母親(ははおや)本当(ほんとう)(いの)りが、(なん)十年(じゅうねん)もの(とき)()えてついに(とど)いたのだ。


 その(ぬく)もりに()れた老女(ろうじょ)(かげ)は、最後(さいご)安息(あんそく)()たように(やわ)らかな()みを()かべた。


 (ほほ)(つた)()ちた一筋(ひとすじ)(なみだ)は、(あたた)かな脈動(みゃくどう)となってノアの全身(ぜんしん)()たし、(たましい)奥底(おくそこ)までを(やさ)しく(ふる)わせる共鳴(きょうめい)()()こす。


 それは(かたち)(たも)硝子(がらす)(から)内側(うちがわ)から()(はな)す、(しず)かな旅立(たびだ)ちの合図(あいず)だった。


 ノアは老女(ろうじょ)膨大(ぼうだい)生涯(しょうがい)を、ただの追憶(ついおく)としてではなく、(いと)おしい(いのち)欠片(かけら)としてその()()()める。


 拒絶(きょぜつ)も、後悔(こうかい)も、(すべ)てを()()れた(ひかり)(しずく)となり、ノアの身体(からだ)宿(やど)る『(しろ)(ほん)』へと、()かち()うように(かさ)なり、やがて(ふか)()()んでいった。


 役目(やくめ)()えた純白(じゅんぱく)結晶(けっしょう)(おり)が、(しず)かに(ひかり)(ちり)となって崩壊(ほうかい)していく。


 中心(ちゅうしん)にいたノアの身体(からだ)が、重力(じゅうりょく)()(もど)したようにゆっくりと(わたし)(もと)()ちてきた。


 (わたし)はランタンを片手(かたて)に、必死(ひっし)両腕(りょううで)()ばしてその(ちい)さな身体(からだ)()()める。


「ノア……っ!」


 (わたし)(うで)(なか)へと(かえ)ってきた少女(しょうじょ)身体(からだ)は、(おどろ)くほど(かる)かった。


 ()きしめたその(はだ)は、(にく)(ぬく)もりを完全(かんぜん)(うしな)い、まるで精巧(せいこう)(みが)()げられた()(とお)ったガラスのようになっていた。


 衣服(いふく)()めていた文字(もじ)紋様(もんよう)が、ガラスの身体(からだ)内側(うちがわ)から白銀(はくぎん)(ひかり)となって(かす)かに()けて()える。


 完全(かんぜん)同化(どうか)過酷(かこく)代償(だいしょう)は、無慈悲(むじひ)少女(しょうじょ)輪郭(りんかく)()かしていく。


 ()きしめる(わたし)指先(ゆびさき)すらも()(とお)るガラスの(おく)(うつ)るほど、その存在(そんざい)(はかな)透明(とうめい)へと変質(へんしつ)していった。


 ノアは、すべての後悔(こうかい)()()めた(うつわ)として、(かす)かに微笑(ほほえ)むような名残(なごり)(のこ)したまま、番人(ばんにん)(うで)(なか)でひんやりとした『ガラスの(しろ)(ほん)』へとその姿(すがた)()えたのだ。


 手元(てもと)(のこ)された(つめ)たい硝子(がらす)(おも)みと、あまりにも(やさ)しく残酷(ざんこく)結末(けつまつ)が、(わたし)(こころ)(はげ)しく()()けた。


「ノア! 駄目(だめ)よ、()えないで!」


 (おも)わず(さけ)びを()げていた。


 冷酷(れいこく)(とき)(きざ)番人(ばんにん)としての仮面(かめん)など、とうに()がれ()ちていた。


 (わたし)両腕(りょううで)(なか)で、少女(しょうじょ)(かたち)をしていたガラスの身体(からだ)は、内側(うちがわ)から()()がる膨大(ぼうだい)後悔(こうかい)記憶(きおく)濁流(だくりゅう)()えかねたように、(まばゆ)(ひかり)(たば)となって(はげ)しく霧散(むさん)した。


 拒絶(きょぜつ)するように(はじ)け、空間(くうかん)へと()けていく白銀(はくぎん)粒子(りゅうし)


 その光景(こうけい)視界(しかい)絶望(ぜつぼう)()まる。


 虚無(きょむ)へと(かえ)りかけた(ひかり)粒子(りゅうし)は、(おのれ)宿命(しゅくめい)()たそうとするノア自身(じしん)(つよ)意志(いし)(みちび)かれるようにして、(わたし)胸元(むなもと)(ふたた)収束(しゅうそく)(はじ)める。


 お(たが)いを(ゆる)やかに(つな)()わせるように、ガラスの(つめ)たさとランタンの(あたた)かな(とも)()()()わせながら、(ひと)つの(たし)かな(かたち)()()げていく。


 (ひかり)(おさ)まった(わたし)(てのひら)(あらわ)れたのは、一冊(いっさつ)の、装丁(そうてい)真新(まあたら)しく(うつく)しい、ひんやりとしたガラスの『(しろ)(ほん)』だった。


 かつて彼女(かのじょ)が、(おのれ)存在(そんざい)証明(しょうめい)するかのように大切(たいせつ)そうに(むね)(かか)えていた、あの(ほん)そのもの。


 指先(ゆびさき)から(つた)わる(なめ)らかな硝子(がらす)感触(かんしょく)は、あまりにも(つめ)たく、そして(しず)かだった。


 (わたし)()のひらに(のこ)されたガラスの『(しろ)(ほん)』は、(かす)かにノアの(いと)おしい残滓(ざんし)宿(やど)しながら、白銀(はくぎん)(あわ)(ひかり)表紙(ひょうし)(おく)にたたえたまま、(ふか)(ねむ)りについていた。


 その硝子(がらす)(はだ)()でる。


 (ページ)隙間(すきま)からは、(さき)ほどまで(ひび)いていた(やさ)しい(こえ)も、凄惨(せいさん)拒絶(きょぜつ)(さけ)びも、(なに)ひとつ()こえてはこない。


 (かた)()()わされたその(ほん)は、もう二度(にど)(ページ)(ひら)(こと)もかなわないほど、(つめ)たい硝子(がらす)感触(かんしょく)(たた)えていた。


 ただ、(そこ)(ふう)じられた無数(むすう)感情(かんじょう)(おも)みが、()()えない(いた)みとなって(わたし)()(しず)ませる。


 彼女(かのじょ)(すく)()せなかった無力感(むりょくかん)が、(くさび)のように(むね)(つらぬ)く。


 しかし、絶望(ぜつぼう)()れる(わたし)手元(てもと)で、ガラスの(ほん)(すべ)ての役割(やくわり)から解放(かいほう)されたかのように(おだ)やかに(かがや)いている。


 その(はかな)くも気高(けだか)(ひかり)は、彼女(かのじょ)(たましい)がまだ()()えてはいないという、唯一(ゆいいつ)無言(むごん)証明(しょうめい)だった。


 (わたし)はランタンを(かたわ)らに()き、ガラスの(ほん)(こわ)(もの)(あつか)うようにそっと胸元(むなもと)へと()()せた。


 (つめ)たい硝子(がらす)衣服(いふく)(へだ)てて皮膚(ひふ)()れる。


 その(おく)に、(かす)かな、けれど(たし)かな鼓動(こどう)のような()らぎを(かん)じたのは、番人(ばんにん)としての感傷(かんしょう)()せた(まぼろし)だったのだろうか。


 どれほど過酷(かこく)後悔(こうかい)背負(せお)おうとも、ノアという少女(しょうじょ)本質(ほんしつ)にある(やさ)しさは、(けっ)して(にご)ることはない。


 世界(せかい)境界(きょうかい)狭間(はざま)で、(しず)かに(ねむ)る『(しろ)(ほん)』を()きしめながら、(わたし)彼女(かのじょ)(ふたた)びその(ひとみ)(ひら)未来(みらい)を、(いの)るように(ねが)(つづ)けた。


「……よく頑張(がんば)ったね、ノア。おやすみ」


 (つめ)たい硝子(がらす)表紙(ひょうし)に、最後(さいご)(わか)れを(つげ)るように(ゆび)()える。


 (わたし)(こころ)芽生(めば)えた動揺(どうよう)(しず)かに(おさ)め、背筋(せすじ)()ばした。


 (たましい)(ほん)へと()えてまで(だれ)かを(みちび)こうとした彼女(かのじょ)覚悟(かくご)を、この()一部(いちぶ)として(とも)(つづ)ける決意(けつい)(むね)(きざ)む。


 片手(かたて)(かか)げた真鍮(しんちゅう)のランタンが、暗闇(くらやみ)(なか)(かえ)るべき灯台(とうだい)(みち)毅然(きぜん)()らし()す。


 (しず)まり(かえ)った(ゆが)みの(みち)を、(わたし)番人(ばんにん)として堂々(どうどう)と、しかし(つぎ)(まよ)()(かす)かな()(ごえ)(けっ)して(のが)さぬよう、(たし)かな足取(あしど)りで(あゆ)(はじ)めた。


 この(みち)(わたし)はノアとともに(あゆ)む。


 (だれ)かの(よる)()らし(つづ)ける(もの)として、この胸元(むなもと)にある彼女(かのじょ)(おも)みを道標(みちしるべ)に、ただ(あゆ)(つづ)けるだけだ。


(だい)13()(つづ)く。



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