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【第11話】悔恨の深淵と闇の胎動


 足元(あしもと)(よど)(かげ)が、意志(いし)()つかのように(うごめ)(はじ)めたのは、ノアが『(しろ)(ほん)』を胸元(むねもと)()きしめた直後(ちょくご)(こと)だった。


 空間(くうかん)支配(しはい)していた重苦(おもくる)しい沈黙(ちんもく)が、突如(とつじょ)として不吉(ふきつ)地鳴(じな)りへと変質(へんしつ)する。


 それは硝子(がらす)()らす硬質(こうしつ)なきしみではなく、大地(だいち)(そこ)から()()がってくる、(おぞま)しい(なに)かの呼吸(こきゅう)のようだった。


 (たましい)最深部(さいしんぶ)(かく)されていた本音(ほんね)(あば)かれ、(みずか)らの(おか)した(あやま)ちの(おも)さに()ちのめされた老女(ろうじょ)は、ショールに()(つつ)んだまま、(はげ)しく(ふる)えていた。


 彼女(かのじょ)(なが)(なみだ)も、(くち)から()れる(いき)も、もはや(つめ)たい硝子(がらす)結晶(けっしょう)形作(かたちづく)ることはない。 

 

 ()わりに、彼女(かのじょ)身体(からだ)そのものが、境界線(きょうかいせん)(うしな)っていくかのように、(はし)から(くろ)(きり)となって(くず)(はじ)めていた。


「……ああ、(わたし)は、なんてことを」


 かすれた(こえ)は、自責(じせき)(ねん)だけで()たされていた。


 ()づいた(とき)にはもう(おそ)い。 


 ()()(ふか)(きず)つけ、()()いてしまったという事実(じじつ)が、彼女(かのじょ)(たましい)内側(うちがわ)からみしりと瓦解(がかい)させようとしている。


 その(はげ)しすぎる後悔(こうかい)のエネルギーは、(ゆが)みの世界(せかい)のさらに奥底(おくそこ)、この空間(くうかん)(ことわり)すら超越(ちょうえつ)した(やみ)権化(ごんげ)()()せるのに 十分(じゅうぶん)(くら)さを(たた)えていた。


 彼女(かのじょ)足元(あしもと)から、(くろ)触手(しょくしゅ)のような(どろ)()()す。


 それは彼女(かのじょ)(かげ)から()()した後悔(こうかい)(ねん)そのものでありながら、同時(どうじ)に、その()感情(かんじょう)(むさぼ)()うために(あらわ)れた禍々(まがまが)しき(ごう)(かたまり)だった。


 (どろ)彼女(かのじょ)足首(あしくび)(とら)え、()()がり、(すす)けたショールを(よご)しながら、その存在(そんざい)貪欲(どんよく)(くら)(つく)そうと(むしば)んでいく。


「ひっ……、あ、ああ……!」


 老女(ろうじょ)(みじか)悲鳴(ひめい)


 だが、彼女(かのじょ)はその(ごう)(どろ)(あらが)おうとはしなかった。


 むしろ、()()(ほろぼ)していく(やみ)を、当然(とうぜん)(ばつ)として()()れようとするかのように、さらに(ふか)()()じ、()(ちぢ)める。


 後悔(こうかい)(ふか)ければ(ふか)いほど、(やみ)(ちかな)増大(ぞうだい)する。


 彼女(かのじょ)(たましい)(かて)にして肥大化(ひだいか)していく(やみ)は、(またた)()彼女(かのじょ)(ひざ)を、(こし)(つつ)()み、その輪郭(りんかく)内側(うちがわ)から(むしば)んでいった。


 衣服(いふく)が、皮膚(ひふ)が、彼女(かのじょ)()きてきた時間(じかん)記憶(きおく)ごと、ぼろぼろと(くろ)(はい)のように(くず)()ちていく。


「いけない……! 彼女自身(かのじょじしん)が、消滅(しょうめつ)(のぞ)んでいる!」


 (わたし)(さき)ぶのと同時(どうじ)に、()にした真鍮(しんちゅう)のランタンの(とも)()が、かつてないほどの(はげ)しさで(たけ)った。


 黄金(おうごん)(ほのお)は、周囲(しゅうい)(やみ)拒絶(きょぜつ)するように(する)(とが)り、(はげ)しく()らめく。


 (とも)()()らし()したのは、老女(ろうじょ)身体(からだ)()()らしながら、その背後(はいご)巨大(きょだい)(あご)(ひら)こうとしている、()もなき深淵(しんえん)残影(ざんえい)だった。


 (みずか)らの(あやま)ちを(みと)め、その(おも)さに()えかねた(たましい)が、(すく)いを(もと)めるのではなく「消滅(しょうめつ)による逃避(とうひ)自罰(じばつ)」を(えら)んだ(とき)、その(たましい)(ゆが)みの住人(じゅうにん)から、深淵(しんえん)餌食(えじき)へと()()がる。


 このままでは、彼女(かのじょ)はあの()(あや)まる機会(きかい)すら永遠(えいえん)(うしな)い、ただの虚無(きょむ)へと(かえ)ってしまう。


「ノア!」


「はい……っ!」


 ノアの(かお)は、空間(くうかん)()ちる圧倒的(あっとうてき)瘴気(しょうき)によって(あお)ざめていた。


 (むね)(ほん)宿(やど)った後悔(こうかい)(おも)みだけでも、彼女(かのじょ)(ちい)さな身体(からだ)には過酷(かこく)負担(ふたん)であるはずなのに、()(まえ)(はじ)まってしまった「存在(そんざい)崩壊(ほうかい)」という凄惨(せいさん)光景(こうけい)が、少女(しょうじょ)精神(せいしん)(はげ)しく摩耗(まもう)させていく。


 それでも、ノアの(ひとみ)から(ひかり)()えていなかった。


 彼女(かのじょ)痛々(いたいた)しいほどに奥歯(おくば)()()め、(ふる)える()で『(しろ)(ほん)』を(ふたた)(つよ)(にぎ)(なお)すと、(ごう)(どろ)()まれかけている老女(ろうじょ)()かって、一心(いっしん)一歩(いっぽ)()()した。


()えないでください! あなたの(なか)(とも)るあんなにあたたかい(おも)いを、こんな暗闇(くらやみ)()()りにしたまま()わらせるなんて、あまりにも(さび)しすぎます……!」


 ノアの(こえ)が、びりびりと()(つめ)めた空気(くうき)()(さく)


 それは、これまでの()()うような(やさ)しさとは(こと)なる、(たましい)(そこ)からの(さけ)びだった。


 その(こえ)呼応(こおう)するように、『(しろ)(ほん)』からまばゆいばかりの純白(じゅんぱく)(ひかり)放射(ほうしゃ)される。


 (ひかり)(おび)は、老女(ろうじょ)侵食(しんしょく)していた(くろ)(どろ)容赦(ようしゃ)なく()()さり、その輪郭(りんかく)()がすような(はげ)しい白煙(はくえん)()げた。


 空間(くうかん)そのものが重圧(じゅうあつ)(きし)むような、()()(にぶ)地鳴(じな)りが、怒号(どごう)となって(とど)ろいた。 


 (やみ)権化(ごんげ)は、(みずか)らの獲物(えもの)(さえぎ)られたことに(はげ)しく拒絶(きょぜつ)し、老女(ろうじょ)(つつ)(どろ)密度(みつど)をさらに()すと同時(どうじ)に、(わたし)たちに()かって無数(むすう)(やみ)触手(しょくしゅ)()ばしてきた。


 それは、(ちか)づく(もの)すべての精神(せいしん)(くる)わせ、絶望(ぜつぼう)へと()きずり()む、底知(そこし)れぬ悪意(あくい)深淵(しんえん)だった。


「……()(かか)げる(とも)()を、(さえぎ)るな……!」


 (わたし)はランタンを前方(ぜんぽう)へと()()し、黄金(おうごん)火力(かりょく)極限(きょくげん)まで()()げた。


 怒涛(どとう)となって()()せる(くろ)触手(しょくしゅ)と、ランタンが(はな)黄金(おうごん)(かがや)きが正面(しょうめん)から(せめ)()う。


 空間(くうかん)そのものを(ふる)わせる凄絶(そうぜつ)圧力(あつりょく)()()れ、(わたし)周囲(しゅうい)世界(せかい)(おと)()てて(ゆが)んだ。


 (はだ)()すような冷気(れいき)と、深淵(しんえん)(はな)精神的(せいしんてき)重圧(じゅうあつ)が、容赦(ようしゃ)なく(わたし)身体(からだ)にのしかかってくる。 


()(とも)()よ、(くら)深淵(しんえん)(おく)へ、すみずみまで()(わた)れ。(ひと)後悔(こうかい)(くら)貪欲(どんよく)(やみ)よ、その(むな)しき(あご)()じ、(しず)まりなさい」


 黄金(おうごん)(ひかり)(ほそ)(いと)のように(ひろ)がり、(せま)()触手(しょくしゅ)(おく)へと()(わた)ってその輪郭(りんかく)()かしていく。


 しかし、深淵(しんえん)(いきお)いは(おとろ)えない。


 老女(ろうじょ)胸中(きょうちゅう)にある、(そこ)なしの後悔(こうかい)(みなもと)となっている(かぎ)り、この(やみ)無限(むげん)()()してくるのだ。


 ()れば、老女(ろうじょ)胸元(むねもと)まで、すでに(くろ)(どろ)()していた。


 彼女(かのじょ)意識(いしき)混濁(こんだく)(はじ)め、ショールを(にぎ)()めていた指先(ゆびさき)は、すでに(くろ)(はい)となって空間(くうかん)霧散(むさん)しかけている。


 時間(じかん)がなかった。


 彼女(かのじょ)(たましい)完全(かんぜん)深淵(しんえん)()まれ、崩壊(ほうかい)(つく)すのが(さき)か、(わたし)たちの(とも)()がその絶望(ぜつぼう)奥底(おくそこ)まで()(わた)り、(すく)()げるのが(さき)か。


「ノア、(ほん)(ひら)いて! 彼女(かのじょ)記憶(きおく)の、(もっと)(ふか)場所(ばしょ)にある『(ねが)い』に直接(ちょくせつ)()れるのです! 表面(ひょうめん)後悔(こうかい)をどれだけ(けず)っても意味(いみ)がない、彼女(かのじょ)本当(ほんとう)(まも)りたかったあの日()(ひかり)を、()きずり()して!」


(でも、これ以上(いじょう)(ちか)づいたら、ノアが……)


 (わたし)脳裏(のうり)一瞬(いっしゅん)、ノアを危険(きけん)(さら)すことへの躊躇(ためら)いがよぎる。


 この領域(りょういき)(ふか)()()めば、ノアの(きよ)らかな(たましい)まで(くろ)(どろ)汚染(おせん)され、()きずり()まれる危険性(きけんせい)があった。


 だが、ノアは(わたし)躊躇(ためら)いを()()りにするような、(すさ)まじい覚悟(かくご)微笑(ほほえ)みを()かべた。


大丈夫(だいじょうぶ)です、番人(ばんにん)さん。(わたし)は、(とも)()番人(ばんにん)の……ノアですから!」


 少女(しょうじょ)(さけ)び、『(しろ)(ほん)』を完全(かんぜん)()(はな)った。


 (ページ)猛烈(もうれつ)(いきお)いでめくれ、そこから(あふ)()(ひかり)が、ノアの身体(からだ)(つつ)(ちい)さな(かがや)きの(ころも)となる。


 彼女(かのじょ)()()せる(くろ)(どろ)(なみ)()(こう)から()(かえ)し、崩壊(ほうかい)最中(さなか)にある老女(ろうじょ)(もと)へと、(あらし)(なか)(すす)むように(あゆ)みを(すす)めていく。


 (みずか)らの()(けず)り、(きず)つきながらも、他者(たしゃ)(ゆが)んだ(あい)絶望(ぜつぼう)深淵(しんえん)()()ばす、あまりにも壮絶(そうぜつ)で、痛切(つうせつ)調和(ちょうわ)への意志(いし)だった。


 (くろ)(どろ)のうねりは、ノアの(ちい)さな足元(あしもと)にも容赦(ようしゃ)なくまとわりつき、純白(じゅんぱく)(かがや)きをじわじわと侵食(しんしょく)していく。


 深淵(しんえん)悪意(あくい)は、老女(ろうじょ)(すく)おうとする少女(しょうじょ)(たましい)をも道連(みちづ)れにせんと、その(くら)(そこ)へと()きずり()もうとしていた。


「ノア!」


 (わたし)(さけ)びは、(はげ)しい(おと)()てて()(くる)(やみ)(うず)()()される。


 老女(ろうじょ)(もと)へと辿(たど)()いたノアは、すでに(くろ)(はい)となりかけている彼女(かのじょ)(ほそ)(かた)へと、そっと両手(りょうて)()ばした。


 だがその瞬間(しゅんかん)老女(ろうじょ)胸中(きょうちゅう)から()()した最大(さいだい)後悔(こうかい)が、ノアの身体(からだ)をも強烈(きょうれつ)(はじ)()ばそうとする。


「……()えさせておくれ。あの()(きず)つけた(わたし)に、ここにいる資格(しかく)などない……!」


 混濁(こんだく)する意識(いしき)(なか)でなお、(みずか)らを(ばつ)し、(おも)いを()(はな)つまいとする老女(ろうじょ)強固(きょうこ)意志(いし)


 それに(あらが)い、彼女(かのじょ)(たましい)(かく)(つか)()るためには、もはや生身(なまみ)少女(しょうじょ)(ちから)だけでは()りなかった。


 ノアはさらにそっと微笑(ほほえ)んだ。


 その()みは、(おのれ)宿命(しゅくめい)()たすことを(つゆ)ほども(おそ)れない、あまりにも純粋(じゅんすい)で、それゆえに(おそ)ろしいほどの決意(けつい)()ちていた。


「あなたの(ねが)いを、(わたし)(すべ)てで()()めます」


 少女(しょうじょ)がそう(つぶや)いた瞬間(しゅんかん)胸元(むねもと)()かんでいた『(しろ)(ほん)』が、まばゆい(ひかり)(ちり)となって()(はな)たれた。


 無数(むすう)文字(もじ)白紙(はくし)(ページ)、そして(ほん)内包(ないほう)する純白(じゅんぱく)(かがや)きが、ノアの肉体(にくたい)へと逆流(ぎゃくりゅう)(はじ)めたのだ。


 文字(もじ)羅列(られつ)が、(ひかり)紋様(もんよう)のようにノアの(しろ)(はだ)()(めぐ)り、衣服(いふく)()()げていく。


 ノアの身体(からだ)輪郭(りんかく)が、物質(ぶっしつ)としての境界(きょうかい)(うしな)い、かすかに()(とお)(はじ)めた。


 彼女(かのじょ)(かみ)(ひかり)(いと)となって空間(くうかん)(ひろ)がり、その(ひとみ)は、あらゆる後悔(こうかい)(つづ)(ほん)(ページ)そのもののように、無限(むげん)文字(もじ)内映(ないえい)して白銀(はくぎん)(かがや)く。


 それは、(ほん)守護者(しゅごしゃ)である彼女(かのじょ)が、(ほん)そのものへと(かえ)っていく『同化(どうか)』の現象(げんしょう)だった。


「ああ……、あ、ああ……っ!」


 なだれ()んでくる他者(たしゃ)後悔(こうかい)は、容赦(ようしゃ)のない濁流(だくりゅう)となって彼女(かのじょ)(こころ)()(つぶ)し、その(きよ)らかな(たましい)内側(うちがわ)から(ふか)侵食(しんしょく)していた。


 (せん)(やいば)心臓(しんぞう)(えぐ)られるような苦痛(くつう)少女(しょうじょ)(おそ)い、その(ちい)さな身体(からだ)(くる)おしく痙攣(けいれん)した。 


 それでも、ノアは老女(ろうじょ)のショールを(つか)()を、(けっ)して(はな)さなかった。


 同化(どうか)(かがや)きは、老女(ろうじょ)(おお)(くろ)(どろ)奥底(おくそこ)へと()(わた)り、(やさ)しくなだめていく。


 ノアの(むね)(おく)から、(ほん)一体化(いったいか)した鼓動(こどう)が、重厚(じゅうこう)(ひび)きとなって()(わた)る。


 ランタンを(かか)げる(わたし)()(うつ)ったのは、もはや一人(ひとり)少女(しょうじょ)姿(すがた)ではなかった。


 それは、人間(にんげん)絶望(ぜつぼう)()()み、(みずか)らをその(うつわ)とする、(しろ)(うつく)しい残酷(ざんこく)均衡(きんこう)体現(たいげん)だった。


 彼女(かのじょ)肉体(にくたい)は、(ほん)()膨大(ぼうだい)存在(そんざい)(おも)さに()えかねて、いまにも(ひかり)(ちり)となって()()ってしまいそうだった。


「ノア……、そうまでして……」


 (わたし)(むね)を、(ふか)(つめ)たい無力感(むりょくかん)()たる。


 番人(ばんにん)でありながら、彼女(かのじょ)のこの宿命(しゅくめい)(あゆ)みを()めることはできない。


 完全(かんぜん)(ほん)同化(どうか)し、神々(こうごう)しいまでの(かがや)きをまとったノアは、老女(ろうじょ)()きしめたまま、底知(そこし)れぬ深淵(しんえん)のさらに奥底(おくそこ)へと、(みずか)(ふか)(しず)()んでいった。



(だい)12()(つづ)


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