【第10話】愛の刃と消えぬ悔恨
灯台の中には、変わらぬ静けさが満ちていた。
事務官の男を見送り、ノアの横顔に浮かんだ安堵の表情を見つめていると、この冷徹な空間の冷たさが、ほんの少しだけ和らぐように思える。
だが、その穏やかな時間を破るように、古びた真鍮の電話が、鳴り響いた。
――ジリリリリリ!
私が受話器を耳に当てると、微かな雑音の向こうから、凍てついた吐息のような、切ない拒絶の気配が伝わってくる。
それは、新たな迷い子が紡ぐ、歪んだ言葉の前兆だった。
手元の真鍮のランタンの灯し火もまた、その気配に呼応するように激しく揺れ始める。
「行きましょう、ノア」
私がランタンを持ち直して声をかけると、胸の『白い本』を大切そうに抱きしめた少女は、まっすぐな瞳をこちらに向けて小さく頷いた。
灯台の重い扉を開けると、そこにはすでに、あの受話器から漂ってきた拒絶の気配、昏い未知なる路がどこまでも広がっていた。
私たちはその歪みの渦のなかへと、再び一歩、足を踏み出した。
周囲を満たす凍てつく静寂のなかで、ふいに足元の硝子が微かにきしむ音が伝わり始めた。
薄い氷が踏み割られるような、繊細で、けれど痛切な冷たい響き。
空間のあちこちが不規則に歪み、冷たい波紋が広がっていく。
「……止まって、ノア」
私がランタンを少し高く掲げると、前方の暗がりに、鋭利なガラスの結晶が渦巻いているのが見えた。
そこには、他者を頑なに拒絶する、刺々しい意志が満ちている。
歪みの中心に蹲まっていたのは、一人の年老いた女性の影だった。
彼女は擦り切れた大判のショールを深く頭から被り、自らの周囲を囲む分厚い硝子の壁のなかで、膝を深く抱え込んでいる。
その背中は驚くほど小さく丸まり、時折、内なる痛みに耐えるように細く震えていた。
ショールの隙間から覗く皺の刻まれた指先は、自らの内に残る記憶の温もりを確かめるように、震える手でショールの裾を弱々しく握り締めている。
世界との繋がりを一切断ち切り、ただ一つの後悔に身を焦がし続けているかのような、悲痛な拒絶の気配が、その小さく丸まった姿から重く漂っていた。
彼女が低く吐き出す息は、白く凍てつき、周囲の硝子の壁をさらに分厚く研ぎ澄ます糧となっているかのようだった。
外部からの光も声も届かない暗闇の檻のなかで、あの子に会いたいという想いを留め、その心を決して解き放さぬようにしがみついているその姿は、見る者の胸を締め付けるほどに頑なで、決して揺るがなかった。
分厚く研ぎ澄まされた硝子の内側には、歪んだ文字が凍りついたまま閉じ込められていた。
それは、近づく者すべてを激しく突き放すような、冷酷な決別の言葉だった。
ノアが痛ましげに一歩近づこうとした瞬間、女性の周囲の硝子の破片が尖り、一斉に私たちを威嚇した。
彼女が抱える拒絶の力はあまりにも強固で、その内側に秘めた痛みを暴かれまいと、狂暴なまでに蠢いている。
私はランタンの黄金の火を放ち、その頑なな硝子の奥へ光を届かせようと、その輝きを翳した。
しかし、女性の影はさらに深く身を縮め、硝子の破片はランタンの光さえも乱反射させて激しく跳ね返す。
「来ないで……。私のことなど、もう放っておいておくれ」
硝子の内側から響く掠れた声は、哀しいほどの響きを帯びていた。
だが、ランタンの光が乱反射するその一瞬、私は硝子の奥深くに隠された、もう一つの文字の層を見逃さなかった。
表面にあるのは「お前など、もう私の子供ではない」「目障りだからどこへでも消えておしまい」という激しい拒絶の言葉。
しかしその裏側、結晶の最も深い核にあるのは、引き留めたいという未練を必死に押し殺した、あまりにも痛切な祈りだった。
「私という存在に後ろ髪を引かれず、お前のやりたいことの自由を、どうか純粋に全うしなさい」
自分という重荷を憎ませてでも、子供の未来を解き放ちたかったのだ。
そのために、自ら冷酷な壁となることを選んだ、あまりにも純粋で、あまりにも歪んだ母の愛。
「……あの子に、やりたいことの自由を純粋に与えたかったのね。自分が邪魔な荷物にならないよう、わざと嫌われる悪者になって、あの子の未来を解き放とうとした。」
私は静かに、けれど明確な叱責の響きを孕んだ声で言葉を続けた。
「けれど、それはあまりにも身勝手な独りよがりよ。理由も知らされず、最も愛する母親から冷酷に突き放されたあの子が、手に入れた自由のなかでどれほど血を流すか、考えもしなかったの。一生消えない拒絶の傷と、行き場のない切なさや怒りを植え付けることが、あなたの言う『自由』だなんて……。そんな残酷な押し付けを、私は母親の愛だなんて認めないわ。あの子を想うふりをして、一人で綺麗に消えようとしないで。あなたが放った言葉の刃を、まずはあなた自身がきちんと受け止めなさい」
ランタンの黄金の火が、私の叱責に呼応するように鋭く燃え上がった。
女性の身体が激しく震える。
拒絶の壁の奥で、彼女の呼吸が明らかに狼狽へと乱れていくのが分かった。
そこへ、ノアが迷うことなくさらに一歩前へ出た。
「あなたの優しさは、そんな冷たい刃のままで終わっていいはずがありません。その言葉の奥にある本当の願いを、どうか私に預けてください!」
ノアが胸の『白い本』を強く掲げると、純白の光が硝子の結晶を包み込んでいく。
私もまた、ランタンを高く掲げてその火を大きくした。
放たれた黄金の光は、凍てついた結晶のみならず、砕け散った硝子の破片までも優しく包み込んで温める熱となって注がれる。
光と拒絶の刃が激しくぶつかり合い、きしみのような音が空間を震わせる。
女性の強い自責の念が、光の温かさとノアの真っ直ぐな声に触れてわずかに解れ始めたその瞬間、彼女を囲んでいた凍てついた歪みの全てが、音を立てて崩れ去った。
鋭いガラスの破片はすべて清らかな光の雫へと変わり、女性の煤けたショールを優しく濡らしていく。
彼女は、驚いたように自らの両手を見つめ、やがてその表情に、自らの犯した過ちへの、痛切な後悔の念を浮かべた。
「……そうか。傷つけずに、ただ自由を与えたつもりだったのに。私のしたことは、あの子を一番深く、傷つけてしまっていたのだね……」
彼女の胸の奥から溢れ出た、悲痛な後悔の言葉が、光の粒子となってノアの『白い本』の頁へと吸い込まれていく。
自らの犯した過ちの重さを知った彼女は、大切な誰かを送り出したあの日の温かな路を見出すこともできず、ショールを深く被り直したまま、ただその場に立ち尽くしている。
強固な拒絶の壁は砕け散ったものの、空間が静まり返ることはない。
彼女の足元には消えることのない深い後悔の影が澱みのように沈み、その胸中の激しい痛みと連動するように、冷たく重苦しい空気がびりびりと張り詰め続けている。
その肌を刺すような緊張感のなか、ノアはそっと本を閉じ、胸元でぎゅっと抱きしめる。
その仕草には、本に宿った後悔のあまりの重みに、じっと耐えるような痛々しさが混ざっていた。
私は手にした真鍮のランタンの灯し火を整えようとした。
しかし、どれほど芯を調整しても、黄金の火は周囲の歪んだ空気を拒むように細く鋭く尖り、一向に安定しようとはしなかった。
歪みは暴かれ、隠された本音は露になった。
しかし、それだけでは彼女を救い上げることは叶わない。
自らの過ちに気づいたからこそ、魂はより激しい後悔に引き裂かれ、今なおここに縛り付けられたまま立ち尽くしている。
ランタンの炎が、進むべき真の針路を指し示すように不規則に激しく揺らめく。
その細い灯し火が鋭く照らし出したのは、魂の奥底彼女を捕えて離さない深い悔恨の深淵だった。
私は迫り来る不穏な予感を胸に抱きながら、光が指し示す暗闇の奥をじっと見据えた。
第11話へ続く。




