七章 大国主 十二話 那岐の三輪山旅
西暦二百四年。
出雲の商船に乗せてもらった那岐は、近畿の港へ降り立った。この辺りは登美と呼ばれる土地であり、さらに南へ進めば三輪山がある。久しく訪れていなかった孫の顔を思い浮かべながら船着き場を離れようとした、その時であった。
「おお、来たか!」
港の奥から、ひときわ背の高い男が大股で歩み寄ってきた。日に焼けた肌に、鍛え上げられた大柄な身体。腰には長い剣を帯び、見るからに武人らしい風貌をしている。男は那岐の姿を上から下まで確かめると、満足そうに大きく頷いた。
「出雲から来る巫女とは、おぬしのことだな。予想より随分と早かったではないか!」
「え?」
那岐が目を瞬かせる間もなく、男はその手を取った。
「あの、私は巫女ではなくて……」
「分かっておる。長い船旅で疲れているのだろう」
「いや、そうではなくてね」
「詳しい話は宮で聞こう。儀式の支度も進めねばならん」
男は那岐の言葉を最後まで聞かず、そのまま港の出口へ向かって歩き始めた。手を引かれる那岐は困ったように眉を下げる。
「待って。少しだけ、私の話を聞いてくれないかな」
「足元に気をつけよ。港の石は濡れると滑りやすいぞ」
「うん。それは分かったのだけれど……」
「荷はどこだ?」
「荷物はほとんどないよ」
「ほう。身軽なものだな。さすがは巫女だ」
「だから、私は巫女では……」
「遠慮するな。必要な物はこちらですべて用意してある」
会話がまるで噛み合わない。那岐は何度か足を止めようとしたものの、男はそのたびに気遣うように歩調を緩めるだけで、手を離そうとはしなかった。
「ところで、あなたは?」
「む、名乗っておらなんだか」
男はようやく振り返り、胸を張った。
「儂は長髄彦。登美の兵を預かっておる」
「長髄彦……」
その名には覚えがあった。かつて出雲軍の侵攻を退け、のちに邇芸速日に仕えるようになった武人である。那岐が何か言おうとすると、長髄彦は再び前を向いた。
「安心せよ。儀式が終わるまで、何不自由なく過ごせるよう手配してある」
「あのね、長髄彦」
「何だ?」
「私は男なのだけれど」
長髄彦は歩きながら豪快に笑った。
「そのような冗談を申す元気があるなら心配はいらんな!」
「冗談ではないのだけれど……」
那岐の小さな訴えは、港を渡る潮風の中へ静かに消えていった。
登美の宮へ着くと、那岐は長髄彦に手を引かれたまま建物の奥へと連れていかれ、外から隔てられた静かな一室へ通された。室内には何人もの侍女がおり、突然現れた那岐へ一斉に視線を向ける。
「しばらく、ここで休んでいてくれ」
長髄彦はそれだけ告げると、侍女たちへ向き直った。
「儀式の支度がまだ残っている。丁重にもてなしておけ。私はしばらく戻れぬ」
そう言い残し、那岐が口を挟む間もなく部屋を出ていってしまった。
「あの、だから私は……」
伸ばした手は行き場を失い、那岐は閉じられた戸を呆然と見つめた。周囲を見回せば、そこにいるのは侍女ばかりで、どうやら宮の中でも普段は男性が立ち入らない奥まった場所らしい。
完全に巫女と勘違いされたまま、女性しかいない部屋へ放り込まれてしまったのである。
那岐は困ったように眉を下げ、最も近くにいた侍女へ声をかけた。
「少し聞いてもいいかな。これから行われる儀式というのは、どういうものなの?」
「はい。田植えの時期を迎える前に、豊作を願う祭祀を執り行うことになっております」
侍女は丁寧に頭を下げて答えた。
「毎年行っているの?」
「はい。ただ、今年は出雲から巫女様をお招きし、こちらとは異なる作法で舞を奉納していただく予定でした。各地の祭祀や文化を学び合うための試みでございます」
「なるほど。それで、長髄彦は私をその巫女だと思ったんだね」
「そのようでございます」
侍女たちは互いに顔を見合わせた。長髄彦は最後まで気づいていなかったが、彼女たちは那岐が男性であることに、とうに気づいていた。
声も柔らかく、体つきも華奢で、顔立ちは少女と見紛うほど整っている。それでも間近で見れば、巫女として招かれた女性ではないことくらいは分かる。
だが、それとは別の問題があった。目の前に座る少年は、あまりにも美しかったのである。
長い髪に縁取られた顔は幼さを残し、白い肌と穏やかな瞳は、宮で暮らすどの娘よりも可憐に見えた。たくましく武人らしい長髄彦とは、まるで正反対だった。
侍女たちの視線が、部屋の隅に用意されていた衣へ向かう。出雲から来る巫女のために整えられた祭祀用の衣である。
一人の侍女が意を決したように衣を持ち上げ、那岐の前へ進み出た。
「長髄彦様の勘違いにつきましては、後ほど私どもから必ず説明いたします」
「うん。そうしてもらえると助かるよ」
「ですが、その前に……一度だけ、この衣を着ていただけませんか」
那岐はしばらく黙り、差し出された巫女の衣と侍女の顔を交互に見た。
「どうして?」
「……似合うと思いますので」
「それは理由になっているのかな」
那岐が首を傾げると、別の侍女も衣の傍へ寄ってくる。
「きっと、とてもお美しくなられます」
「男性に美しいと言うのも、少し違う気がするのだけれど」
「いいえ。決してそのようなことはございません」
「髪も整えさせていただければ、なおさら似合うかと」
「飾りもございます」
「こちらの玉もお使いください」
次々に侍女たちが集まり、いつの間にか那岐を取り囲んでいた。最初は遠慮がちだった者まで衣を広げ、髪飾りを持ち、どれを合わせるべきか真剣に相談し始めている。
「あの、まだ着るとは言っていないよ」
「すぐに終わりますので」
「少しだけでございます」
「長髄彦様がお戻りになる前には、元のお姿へ戻します」
「そういう問題なのかな……」
大勢の侍女たちの熱意に押され、那岐は断る機会を完全に失っていた。衣を脱がされ、髪を梳かれ、袖を通され、帯を締められ、別の侍女は髪飾りを選び、その隣では玉の位置を巡って小さな議論まで始まっていた。
「もう少し緩くしてもらえるかな」
「申し訳ございません」
「髪を引っ張らないでね。少し痛いから」
「はい、ただちに」
「その飾りは、少し多くない?」
「いいえ。まだ足りません」
「まだ増えるの?」
侍女たちは誰一人として手を止めず、そうして那岐は、いつしか完全な着せ替え人形となっていた。
巫女装束に身を包んだ那岐の姿を前に、侍女たちはすっかり満足した様子であった。
白い衣に鮮やかな緋色の裳。長い黒髪と中性的な顔立ちは、まるで初めから祭祀のために仕立てられたかのように装束へ馴染んでいる。本人が男だと分かっていても、黙って立っているだけなら、高貴な巫女にしか見えなかった。
「せっかく着せてもらったのだから、少し舞ってみようか」
那岐がそう口にすると、侍女たちは一斉に目を輝かせた。
「舞えるのですか?」
「上手かどうかは分からないけれどね。ずっと昔に、少し覚えたことがあるんだ」
那岐は部屋の中央へ進み、袖の形を確かめるように両腕をゆっくりと広げた。
まだ巫女が各地にいるわけでもなく、祭祀の作法すら十分に伝わっていなかった遥か昔。巫女を招くことのできない山間の村で、豊作を願う儀式が行えないと村人たちが嘆いていたことがあった。
困っている者を放っておけなかった那岐は、大陸から伝わった祭祀や各地の風習を参考にしながら、自ら祈りの作法と舞を身につけたのである。
後には、幼い姫にもその動きを教えたことがあった。もっとも、姫は舞そのものよりも、儀式が人々へ与える影響や、祭祀を統治に用いる方法の方に興味を示していたのだが。
那岐は静かに息を整えた。
片足を滑らせるように前へ出し、長い袖を水面に広がる波紋のように揺らす。身体をゆるやかに巡らせ、天へ祈りを捧げるように両手を掲げた。
その動きに力強さはない。
風に揺れる稲穂のように柔らかく、川の流れのように途切れることなく続いていく。時折見せる指先の細かな動きまで美しく、侍女たちは声を発することも忘れて見入っていた。
やがて一人が我に返り、部屋の外へ駆け出した。ほどなくして、侍女たちは大小さまざまな銅鐸を抱えて戻ってきた。
「それは……銅鐸かい?」
「はい。この地の祭祀で使われているものです」
侍女の一人が小さな銅鐸を打ち鳴らした。澄んだ金属音が部屋の中へ響き渡る。
続いて別の侍女が、少し大きな銅鐸を鳴らした。先ほどより低く、深い音が重なる。さらに三つ、四つと音が加わり、大小の銅鐸がそれぞれ異なる響きを奏で始めた。
那岐は舞いながら、驚いたように目を見開いた。
銅鐸そのものは大倭壱国にも存在する。しかし、これほど多くの銅鐸を揃え、音の高低を使い分けて祭祀を行う文化は見たことがなかった。
高い音が鳥の声のように響き、その後を追うように低い音が大地を震わせる。異なる音が重なるたび、舞の動きまで自然に変化していった。
那岐は銅鐸の響きへ耳を傾けながら、即興で足運びを合わせていく。
袖が翻るたびに白と緋の色が交差し、金属の余韻がその動きを追いかける。侍女たちも次第に夢中になり、互いの音を聞きながら銅鐸を鳴らした。
舞が終わる頃には、那岐は自分が巫女と間違えられていることなど、すっかり忘れていた。
「面白いね」
弾んだ息を整えながら、那岐は銅鐸へ歩み寄った。
「大きさだけでなく、厚さや形でも音が違う。鳴らす順番にも決まりがあるのかな?」
「はい。季節や儀式によって、用いる銅鐸も鳴らし方も異なると聞いております」
「では、それに詳しい人を呼んでもらえないかな。できれば、舞の合わせ方も教えてほしいんだ」
侍女たちは顔を見合わせた。
本来ならば、まず長髄彦の勘違いを解かなければならない。しかし目の前の那岐は、すでに巫女として扱われていることよりも、この地に伝わる銅鐸と祭祀の方へ強い関心を向けていた。
「承知いたしました。すぐに祭祀を預かる者を呼んでまいります」
「ありがとう。せっかくだから、きちんと覚えてみたいな」
柔らかく微笑む那岐を見て、侍女たちは今しばらく真実を告げなくてもよいだろうと、揃って都合よく考えるのであった。
数日後、登美の宮では豊作を祈る祭祀が執り行われた。
祭場には多くの民や豪族たちが集まり、その視線は中央に設けられた舞台へ注がれている。参列者の最上段には、長髄彦と安日彦、その隣には邇芸速日が座していた。邇芸速日の傍らには、まだ三歳になったばかりの息子、宇摩志麻遅の姿もある。
やがて、大小さまざまな銅鐸が打ち鳴らされた。
低く腹へ響く音に、高く澄んだ音が重なり、祭場全体を包み込んでいく。その音色に合わせ、巫女が舞台へ進み出た。
白い衣の袖を静かに広げ、銅鐸の響きに合わせて舞い始める。
その姿を何気なく眺めていた邇芸速日は、ほどなくして目を見開いた。
顔立ちだけではない。足の運び方、指先の伸ばし方、舞の合間にわずかに首を傾ける癖まで、見覚えがありすぎた。
間違えるはずがない。
あれは、自分に文字を教え、書物を与え、幼い頃から導いてくれた祖父である。
『――おじい様……。』
邇芸速日は声に出しかけ、辛うじて飲み込んだ。
『――間違いなく、おじい様だ。』
しかし、なぜ祖父が巫女の装束をまとい、登美の豊作祈願で舞っているのか。いくら考えても事情が分からない。
『――一体、何をされているのだ、あの方は……。』
問いただしたい気持ちはあったが、祭祀の最中である。ここで声を上げれば、厳かな儀式を台無しにしてしまう。
邇芸速日は表情を崩さぬよう努めながら、何事もないように舞台を見つめ続けた。
その隣で、宇摩志麻遅は父の動揺など知る由もなく、銅鐸の音に合わせて小さく身体を揺らしていた。
やがて舞台の巫女を指差し、無邪気な声を上げる。
「父上、巫女様、とても綺麗だね」
「……そうだな」
邇芸速日はわずかに間を置いて答えた。確かに美しい。それは否定できない。衣装も舞も恐ろしいほど似合っている。
だが、あれは巫女ではない。自分の祖父であり、宇摩志麻遅にとっては曾祖父にあたる人物である。
邇芸速日は舞台から目を逸らさぬまま、心の中だけで呟いた。
『――あれは、お前のひいじい様なのだがな……。』
嬉しそうに拍手をする息子の横で、邇芸速日は何とも言えない複雑な表情を浮かべるのだった。
舞を終えた那岐が静かに頭を下げると、見守っていた人々から一斉に拍手と歓声が湧き起こった。銅鐸の音が余韻を残しながら消えていく中、那岐は巫女の衣の裾を整え、舞台から下りようとする。
その時だった。
「おじい様」
参列者たちの視線が一斉に声の主へ向けられた。最上段の席から立ち上がっていたのは邇芸速日だった。普段は何があっても冷静さを崩さない彼が、珍しく困惑した表情で那岐を見つめている。
「祖父……?」
長髄彦は邇芸速日と舞台上の那岐を交互に見比べた。
「この巫女が、邇芸速日様の祖父なのか?」
隣にいた安日彦は、弟の言葉を聞いた瞬間におおよその事情を察したらしい。深いため息をつき、片手で頭を抱えていた。ただ一人、何も分かっていない幼い宇摩志麻遅だけが、楽しそうに手を叩き続けている。
邇芸速日は人々の間を抜け、舞台の前まで歩み寄った。
「おじい様……一体、何をされているのですか」
呆れと困惑が入り交じった問いかけに、那岐はぱっと顔を明るくした。
「ああ、やっと会えた。邇芸速日、探していたんだよ」
那岐は巫女の衣をまとったまま、嬉しそうに舞台を下りた。
「港に着いたところで長髄彦に声をかけられてね。私を出雲から来た巫女だと思ったみたいなんだ」
「その時に、違うと説明されなかったのですか」
「説明しようとはしたよ。でも、なかなか話を聞いてくれなくて」
邇芸速日は長髄彦へ視線を向けた。長髄彦はまだ状況を理解し切れていないらしく、険しい顔で首を傾げている。
「では、そのまま宮の奥へ連れてこられたと?」
「うん。侍女の人たちは途中で気づいてくれたのだけれど、この衣を一度だけ着てほしいと頼まれてね」
「それをお受けになったのですか」
「大勢にお願いされると、断りにくくて、それに銅鐸が凄かったから」
邇芸速日の眉間に、わずかに皺が寄った。
「それで銅鐸に興味が湧き、誤解を解かないまま、豊作祈願の儀式までなさったと?」
「つい……楽しくなってしまってね」
那岐が少し申し訳なさそうに微笑む。邇芸速日は何かを言おうとして口を開いたが、結局言葉にはせず、額に手を当てて深いため息をついた。呆れはしたものの、邇芸速日の表情はわずかに緩んでいた。祖父と会うのは久しぶりだった。
そこでようやく、長髄彦の顔色が変わった。
「待て。では、本当に巫女ではなかったのか?」
「最初からそう言っているよ」
那岐が穏やかに答えると、長髄彦は目を見開いた。
「それでは……もしや、あなた様が伊邪那岐様なのか?」
「うん。そう呼ばれているね」
長髄彦は瞬く間に青ざめ、その場に勢いよく膝をついた。
「も、申し訳ございませぬ! まさか邇芸速日様の祖父君とは知らず、無理に手を引き、あまつさえ巫女の衣を着せて儀式までさせるなど……!」
事情を知らなかった安日彦も弟の隣へ進み出て頭を下げた。
「弟の早合点とはいえ、我らの不手際にございます。どうかお許しください」
「二人とも、頭を上げてくれないかな」
那岐は困ったように笑った。
「私は気にしていないよ。銅鐸を使った舞も、とても興味深かった。それに、久しぶりに舞えて楽しかったから」
「しかし……」
「本当に怒っていないから。そんなに謝られると、こちらの方が困ってしまうよ」
那岐にそう言われ、長髄彦と安日彦は恐る恐る顔を上げた。その一連のやり取りを不思議そうに眺めていた宇摩志麻遅は、やがて邇芸速日の袖を引き、巫女装束の那岐を指差した。
「父上」
「どうした」
「ひいじい様は、巫女だったの?」
邇芸速日は答えに詰まった。巫女ではないと説明するべきなのか、なぜ曾祖父が巫女の衣を着て舞っていたのかを説明するべきなのか。それとも、見た目こそ少年のままだが、この人物が自分の祖父であることから説明するべきなのか。
しばらく考えた末、邇芸速日は小さく息を吐いた。
「……どこから説明すればよいのだろうな」
宇摩志麻遅は意味が分からないまま、再び那岐へ向かって楽しそうに拍手を送った。
数日後、一隻の船が港へ滑り込んだ。
甲板から降り立ったのは、出雲本国より招かれた正式な巫女である。長旅の疲れも見せぬ凛とした姿で宮へ向かうと、出迎えた侍女たちはどこか気まずそうな表情を浮かべていた。
「ようこそお越しくださいました」
「豊作祈願の儀式に参りました。準備を始めましょう」
侍女たちは互いに顔を見合わせ、言いづらそうに口を開く。
「あの……その儀式でしたら……」
「はい?」
「もう終わっております」
巫女は言葉の意味が理解できず、しばらく瞬きを繰り返した。
「……終わった?」
「はい。数日前に無事、執り行われました」
理解が追いつかない。
「え……誰が?」
「その……大変お美しい方が……」
巫女は首を傾げた。
「私は今、ここへ着いたばかりですが?」
侍女たちは何とも言えない表情で視線を逸らす。
「いろいろ事情がございまして……」
しばし沈黙が流れた。やがて巫女は遠い目をしながら、小さく呟いた。
「……は?」
さらに間を置いて、もう一度だけ口を開く。
「なんで?」




