七章 大国主 十一話 那岐の出雲旅
西暦二百四年。
出雲軍が奴国から撤退してから、五年の歳月が流れていた。
かつて伊邪那岐が投馬国に集めた戦災孤児たちはすでに皆が成人し、村に残って与えられた田を耕しながら家庭を築いた者もいれば、職人に弟子入りして手に職をつけた者、商いを志して他国へ旅立った者や、兵として生きる道を選んだ者もいた。
幼い頃は明日の食事すら分からず、夜になるたび不安そうに那岐の袖を掴んでいた子供たちも、今では自らの足で立ち、それぞれの道を歩み始めている。
那岐は、そのすべてを見届けた。
荒れ果てていた土地には田畑が広がり、朽ちかけていた家々も建て直され、朝になれば炊事の煙が立ち上り、畦道には子供たちの声が響くようになっていた。戦災孤児を保護するために始めた小さな共同生活は、いつしか一つの村へと成長していたのである。
村長の役目もすでに信頼できる住民へ任せており、那岐がいなくとも村はこれからも続いていくだろう。
そう確かめた那岐は、旅に出ることを決めた。
以前から気に掛かっていた出雲と三輪山は、どちらももう長いこと訪れていない。
かつて出雲は大倭壱国連合と共に歩んだ国だったが、倭国大乱を境に道は分かれ、今では敵国として扱われている。三輪山もまた、大倭壱国とは距離を置き、独自の道を歩み続けていた。
けれど、那岐にとって国同士の関係は、それほど大きな意味を持たなかった。
出雲にも三輪山にも、自分の血を引く孫や曾孫たちが暮らしている。敵国と呼ばれていようと、家族であることに変わりはない。
皆が無事に暮らしているのか、どのような国を作り、どのような日々を送っているのか、遠くから噂を聞くだけではなく、自分の目で確かめたかった。
旅立ちの日、村の入口には多くの者が集まっていた。
かつて那岐に拾われた者たちだけではない。孤児たちの世話を手伝ってきた老人や職人、新たに生まれた子供たちまでが、別れを惜しむように並んでいた。
「本当に行ってしまわれるのですか」
一人の若者が寂しそうに尋ねた。
幼い頃、ひどく痩せた姿で焼け跡に座り込んでいた少年だったが、今では妻を娶り、一児の父となっている。
那岐は穏やかに笑った。
「うん。でも、もう私がいなくても大丈夫でしょう」
「そんなことはありません」
「そうかな」
那岐は村を見渡した。
整えられた水路には澄んだ水が流れ、朝露をまとった稲が風に揺れている。家々の前では女たちが見送りに出て、子供たちは事情も分からないまま楽しそうに手を振っていた。
「私は、少し手伝っただけだよ。この村をここまで育てたのは、ここで暮らしてきた皆だから」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
那岐にとっては本心だった。土地を拓く方法を教え、水路を引き、家を建てることはできても、村を本当の意味で生かしていくのは、そこに暮らす者たちである。
「出雲と三輪山を見て回ったら、また戻られるのですか」
別の者が尋ねると、那岐は少し考えた後、困ったように微笑んだ。
「どうだろう。しばらくは、あちこちを見て歩こうと思っているんだ。長い間、一つの場所に留まり過ぎたからね」
「では、ここはいつでもお戻りになれるようにしておきます」
「ありがとう」
那岐は一人ひとりの顔を見た。
泣いてばかりいた少女は母となり、無口だった少年は村の水路を任され、喧嘩ばかりしていた兄弟は並んで田を耕し、互いの家族を支え合っている。
失われたものが戻るわけではない。亡くなった親も、焼け落ちた故郷も、二度と元には戻らない。
それでも人は、新しい家を建て、新しい家族を作り、新しい明日を迎えることができる。
那岐は、それだけで十分だと思った。
「では、行ってくるね」
那岐が小さく手を上げると、村人たちは一斉に頭を下げた。
「どうか、お気をつけて」
「またお戻りください」
「いつでもお待ちしております」
幾つもの声に見送られながら、那岐は旅に必要な衣服と食料、簡単な道具だけを背負って歩き始めた。
村の外へ続く道を進み、しばらくして振り返ると、朝日に照らされた村では皆がまだこちらを見ていた。
那岐はもう一度だけ手を振り、今度こそ前を向いた。
目指す先は出雲だった。
かつて共に国を造り、今では敵と呼ばれる者たちの地であり、何よりも孫や曾孫たちが暮らす国である。
那岐は穏やかな足取りで、出雲へと続く道を歩いていった。
出雲へ入った那岐が最初に向かったのは、須賀の宮であった。宮の奥へ通されると、八島士奴美は上座に座したまま那岐を迎えた。祖父に対する礼を失しているわけではなく、立ち上がって一礼し、座を勧め、飲み物まで用意させたものの、その態度にはどこか硬いものがあった。
「久しぶりだね、八島士奴美」
「はい。お変わりなく何よりでございます、おじい様」
言葉遣いは丁寧だったが、その声には親しみがなかった。那岐もすぐにそれへ気づいた。幼い頃の八島士奴美を知らないわけではなく、以前から自分に懐いていたとは言い難かったが、今はそれ以上に距離を置かれているように感じられた。
八島士奴美にとって、伊邪那岐はただの祖父ではない。大倭壱国を生み出した者であり、敵国では今も生き神として崇められている存在でもあった。倭国大乱では大倭壱国側に身を置き、父である須佐之男を止めようとしながら、最後には月読や日巫女のもとへ戻った。血は繋がっていても、八島士奴美の目には敵方の人間としか映っていなかったのである。
「突然訪ねてしまって、ごめんね。少し出雲の様子を見て回りたくなったんだ」
「祖父上がどこへ赴かれようと、儂が口を挟むことではございませぬ」
「そう……」
返事は返ってくるものの、会話はそこで途切れてしまう。那岐は膝の上に手を置き、困ったように微笑んだ。
「最近は、出雲も少し落ち着いてきたと聞いたよ」
「大国主殿がよく治めておりますゆえ」
「君も須賀の宮を支えているのでしょう?」
「父上より受け継いだものを守っているだけでございます」
須佐之男の名が直接出たわけではなかったが、八島士奴美の声がわずかに低くなったことで、那岐には何を思っているのか分かった。しばらく迷った末、那岐は静かに口を開いた。
「大倭壱国との争いも、いつまでも続ける必要はないと思っているんだ」
八島士奴美の目が僅かに細まった。
「大倭壱国は今、出雲とすぐに戦を始めようとはしていない。月読も、無用な争いを望んではいないよ。互いに少しずつでも歩み寄れれば……」
「歩み寄る、でございますか」
八島士奴美は那岐の言葉を遮るように呟いた。丁寧な口調は崩していなかったが、そこには明らかな冷たさがあった。
「父上を死に追いやった者たちと、儂らが手を取り合えと仰せになるのですか」
那岐はすぐには答えられなかった。
「忘れてほしいと言っているわけではないよ」
「ならば、何を求めておられるのでしょう」
「これ以上、同じことを繰り返してほしくないんだ」
那岐は八島士奴美をまっすぐ見つめた。
「戦えば、また親を失う子が生まれる。帰る場所を失う人も増える。どちらが勝っても、失ったものが戻るわけではないから」
「それは大倭壱国にも申されたのですか」
「もちろんだよ」
「そして大倭壱国は、おじい様のお言葉に従ったのでしょうか」
那岐は答えに詰まった。日巫女は倭の統一を諦めておらず、月読も瀬戸内へ勢力を伸ばし、大倭壱国連合は少しずつ出雲を囲み始めている。戦を望まないという言葉だけで、すべてを止められるほど現実は優しくなかった。
那岐の沈黙を見て、八島士奴美は小さく息を吐いた。
「おじい様は、昔からお優しい方でございます」
それは褒める言葉のようでいて、そうではなかった。
「しかし、その優しさで守られるのは、いつも大倭壱国の者たちではありませぬか」
「そんなつもりは……」
「父上も、出雲の兵も、大倭壱国から見れば侵略者でございましょう。ならば滅ぼされても仕方がない。おじい様は、そうお考えなのではありませぬか」
「違うよ」
那岐は珍しく、すぐに否定したが、その声が強くなることはなかった。
「須佐之男にも生きていてほしかった。君たちにも、誰にも死んでほしくないと思っている」
「そのような願いで、国は守れませぬ」
八島士奴美は静かに言い切り、それ以上、那岐の言葉を聞くつもりはないようだった。那岐はしばらく八島士奴美を見つめていたが、やがて小さく目を伏せた。
「……そうだね。私の言葉だけでは、何も変えられないのかもしれない」
八島士奴美は何も答えなかった。那岐は立ち上がって衣の裾を整えると、寂しさを隠すように柔らかく微笑んだ。
「今日は会ってくれてありがとう。顔を見られただけでもよかったよ」
「おじい様に礼を欠くつもりはございませぬ」
「うん。分かっているよ」
けれど八島士奴美の表情は最後まで動かなかった。宮を出る直前、那岐は一度だけ振り返った。
「困ったことがあれば、いつでも呼んでね。敵か味方かは関係なく、私は君の祖父だから」
八島士奴美は視線を合わせなかった。
「そのお気持ちだけ、頂いておきます」
那岐はそれ以上何も言わず、須賀の宮を後にした。背後で扉が閉じる音を聞きながら、寂しそうに目を伏せる。血の繋がりがあっても、長い戦が生んだ隔たりを埋めることはできず、八島士奴美の心は今も須佐之男が倒れた戦場に取り残されたままだった。
八島士奴美のもとを辞した那岐は、次に大国主の宮へ向かった。
宮へ到着すると、知らせを聞いた須勢理が真っ先に姿を現した。
「おじい様、お久しぶりです」
「うん。須勢理も元気そうでよかったよ」
久方ぶりに見る孫娘は、以前と変わらぬ面影を残していたが、その立ち居振る舞いには妻として、母として年月を重ねた落ち着きが加わっていた。
須勢理は那岐を宮の奥へ案内すると、しばらく近況を話していたが、やがて深いため息をついた。
「もう、本当に大変なのです。少し目を離せば兄弟で喧嘩を始めますし、言いつけたことはすぐ忘れますし、叱れば父上のところへ逃げてしまいます」
「そうなのかい?」
「しかも、あの人は子供たちに甘いのです。私が叱っているところへ来て、まあまあ、と宥めてしまうので、結局、私ばかりが怖い母親になってしまいます」
不満そうに頬を膨らませる須勢理の姿に、那岐は思わず微笑んだ。
かつて父に八千矛との結婚を認めてもらえず、悩みながら自分に相談してきた少女が、今では子供たちの教育に頭を抱えている。
「でも、賑やかで楽しそうだね」
「おじい様まで、そんなことを言うのですか」
「ごめんね。ただ、須勢理が幸せそうだから、少し安心したんだよ」
そう言われると、須勢理はそれ以上文句を続けられなくなり、照れたように視線を逸らした。
那岐はその姿を見つめながら、流れた年月の長さを静かに感じていた。
やがて政務を終えた大国主が姿を現した。大国主は那岐の前まで進むと、丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりでございます、那岐様。遠路、よくお越しくださいました」
「急に訪ねてしまって、ごめんね」
「何をおっしゃいます。かつての私は、那岐様に幾度も助けていただきました。少彦名を引き合わせてくださった御恩も、須勢理との縁を結んでくださった御恩も、忘れたことはございません」
大国主は顔を上げると、穏やかな笑みを浮かべた。
「ここを御自身の家と思い、どうか好きなだけお過ごしください。出雲の中で御覧になりたい場所がございましたら、何なりとお申しつけを」
「ありがとう。しばらく、お世話になるね」
「はい。須勢理も子供たちも、きっと喜びましょう」
「子供たちは喜ぶでしょうけれど、おじい様に甘やかされないか、私は少し心配です」
すぐさま須勢理が口を挟むと、大国主は困ったように笑った。
那岐もまた小さく笑いながら、家族に囲まれた二人の姿を静かに見守っていた。
翌日、那岐は供物の魚を手に、少彦名を祀る社へ向かった。
社は決して大きなものではなかった。人が数人も入れば窮屈に感じるほどの小さな社で、飾り気もほとんどない。それでも周囲の落ち葉は丁寧に掃き清められ、木の柱にも目立った汚れはなく、供物を置く台も磨かれていた。
大切にされているのだろう。
那岐は静かに魚を供え、社の前へ腰を下ろした。しばらく何も言わず、風に揺れる木々の音を聞いていると、不意に懐かしい声が耳へ届いた。
「お久しぶりです、先生」
那岐は目を見開き、辺りを見回した。だが、社の周囲には誰の姿もない。
「え……少彦名なのかい?」
「はい。魚の供物まで、ありがたいことです」
那岐は目を見開いた。明確に死者の声を聞いたのは、これが初めてだった。
「だいたい、あやつは供物だと言って、米と酒と塩ばかり供えおる。ありがたいことはありがたいが、毎度同じでは味気ないのう」
聞こえてくるのは、間違いなく少彦名の声だった。那岐は思わず小さく笑う。
「供物に文句を言う神様もいるんだね」
「文句ではありませぬ。率直な感想です。それに見てください、先生。ここの掃除の甘さを。あれほど口を酸っぱくして言っておるのに、あやつは掃除だけはいつまで経っても上手くならん」
那岐は社の周囲を見回した。落ち葉は丁寧に掃き集められ、供物を置く台にも目立った汚れはない。小さな社ではあるものの、十分に手入れが行き届いているように見えた。
「私には、きれいに見えるけれど」
「先生には儂の姿だけでなく、気になる場所も見えぬようですな」
「やっぱり、君の姿までは見えないみたいだね」
「おお、そのようです。声だけが届いておるのでしょう」
那岐は少し考えてから尋ねた。
「大国主には、君の姿が見えているのかい?」
「なぜか、あやつには見えております。儂の知る限り、この国で姿まで見えるのはあやつだけですな。生まれつき、そういうものを感じ取る力が強いのでしょう」
そう言われ、那岐は大国主と初めて出会った頃のことを思い出した。海で遭難し、浜辺へ打ち上げられていた那岐を見つけた時、大国主は二人の女の霊が傍らに立ち、那岐を守るようにしていたと話していた。
「そういえば、昔から見えていたみたいだね」
「本人は大して気にしておりませぬがな。見えるなら見えるで、もう少し儂の言うことを素直に聞けばよいものを」
姿の見えない少彦名が、どこかで肩をすくめたような気配がした。
「まあ、先生。せっかく来られたのです。酒でも一杯どうぞ」
誰も触れていないはずの酒器がひとりでに持ち上がり、傍らの徳利もわずかに傾いた。透明な酒が静かに注がれ、満たされた器が宙を滑るように那岐の前へ差し出される。
「不思議なものだね。姿は見えないのに、酒は注げるんだ」
「この社の中であれば、多少のことはできますぞ。もっとも、大したことはできませぬが」
那岐は差し出された器を受け取り、少しだけ口をつけた。柔らかな酒の香りが口の中に広がる。
「大国主は、君がいなくなってからもよく働いているね」
「それに付き合わされておる儂には、迷惑な話ですぞ」
少彦名は、すぐに不満そうな声を返した。
「川を見に行くと言えば相談され、水路を広げると言えば意見を求められ、田を増やすと言えば土の具合まで聞かれる。肉体を失った後までこき使われる者の身にもなっていただきたい」
「頼られているんだね」
「頼りすぎなのです。しかも供物は米と酒と塩ばかり。これだけ働かせるのであれば、たまには魚や肉の一つくらい……」
「今日は魚を持ってきたよ」
那岐がそう告げると、少彦名の声が一瞬止まった。
「……それは、まことにありがたい」
「嬉しいのかい?」
「供物を粗末にはできませぬからな。決して儂の好みというわけではありませぬ」
あまりにも分かりやすい返答に、那岐はまた笑った。口では迷惑だと言いながら、少彦名の声には不満よりも喜びが滲んでいた。
少彦名は生前、誰かに必要とされることを強く望んでいた。小さな身体に生まれ、家の跡を継ぐこともできず、武人として戦うこともできなかった。だからこそ知識を求め、自分にも役に立てることがあるのだと、何かを成し遂げられるのだと証明しようとしていた。
その少彦名は、死した今も大国主に求められている。国造りの相談を受け、意見を求められ、愚痴をこぼしながらも傍らに居続けている。
「でも、いいではないか」
那岐は穏やかに言った。
「社を建ててもらって、死んだ後まで必要とされているんだから」
少彦名はすぐには答えなかった。しばらくして、少し照れ隠しをするような声が返ってくる。
「……まあ、社を建ててくれたおかげで、儂はこうしてここに居られるのですが」
「大国主も、君がいてくれて嬉しいと思うよ」
「それならば、もう少し掃除を丁寧にして貰いたいものです。人に敬われてこそ、儂も神としてこの地に留まっていられるのです。供物にも、もう少し工夫を凝らしてもらいたいものですな」
「今度、私から伝えておこうか?」
「それはやめてくだされ。先生に告げ口したと思われては、儂の立場がありませぬ」
「神様にも立場があるんだね」
「当然ですぞ。供物に不平ばかり申す、食い意地の張った神だと思われては、儂の威厳に関わります」
なおも皮肉を並べ続ける少彦名の声を、那岐は酒を飲みながら楽しそうに聞いていた。




