七章 大国主 十話 大国主と月読
出雲の宮へ届けられた密偵の報告を読み終えると、大国主はすぐに顔を上げた。
「動かせる船を、すべて集めてくれ。船だけではない。兵にも招集をかける。準備が整い次第、筑紫へ向かう」
あまりにも早い決断に、広間へ控えていた側近たちは一斉に息を呑んだ。
報告によれば、八島士奴美が率いる出雲軍は奴国の港近くまで後退し、陸からは大倭壱国連合軍、海からは月読の海人族船団に包囲されているという。逃げ道は、すでにほとんど残されておらず、悠長に豪族たちを集めて意見を聞いている余裕はなかった。
しかし、大国主の命令を受けても、側近たちはすぐには動けなかった。
「大国主様、お待ちください。八島士奴美殿は、大国主様の反対を押し切って勝手に兵を集め、勝手に筑紫へ攻め込んだのです。それが今、勝手に窮地へ陥っているにすぎません」
別の側近も続けた。
「援軍を出せば、こちらまで大倭壱国との戦へ巻き込まれます。ようやく立て直した出雲を、再び戦乱へ戻すことになりかねません」
「放っておけばよいのです」
その言葉に、大国主はわずかに目を伏せた。
側近たちの主張は間違っていなかった。八島士奴美は大国主の王位を認めようとはせず、父である須佐之男の意志を継ぐ者と自称して須佐之男派の豪族たちを集め、大国主の制止を無視して筑紫へ出兵した。その結果が、今の惨状である。
政治だけを考えるなら、見捨てる方がよかった。八島士奴美と須佐之男派の兵が失われれば、大国主に反対する勢力は大きく衰え、国内の争いも収まり、出雲の統治は今よりはるかに容易になるだろう。
それでも大国主は、静かに首を横へ振った。
「それでも、出雲の民には変わりないのだよ」
側近たちは言葉を失った。
「八島士奴美が何を考え、何を望んで兵を挙げたとしても、従っている者すべてが同じではない。豪族に命じられた者もいる。家族を養うために兵となった者もいる。父や兄に連れられ、訳も分からぬまま筑紫へ渡った若者もいるだろう」
大国主は、密偵から届けられた木簡へ視線を落とした。
「彼らを八島士奴美の兵だからという理由だけで見捨てれば、私は出雲の王ではなくなる」
穏やかな声だったが、その言葉には反論を許さない重みがあった。
側近の一人が、なおも不安そうに尋ねた。
「ですが、急な招集では兵が集まりません。船を用意できたとしても、十分な兵を乗せられなければ戦えませぬ」
「それでいい」
大国主は迷わず答えた。
「兵は、集まった者だけでよい。無理に村から男たちを引き抜いてはならない」
「しかし、それでは……」
「船の数を揃えるのだ」
側近たちは顔を見合わせた。大国主は立ち上がると、広げられた海路図の前へ歩み寄った。
「海の上では、遠くから船に何人乗っているかまでは分からない。船乗りが最初に見るのは、兵の顔ではなく、帆と船体の数だ」
そう言いながら、海路図の上で奴国の港を指先で示す。
「使える商船も漁船も集める。大きさは問わない。軍船に見えるよう帆を整え、旗を掲げ、間隔を狭めて進ませる」
「船団そのものを、大軍に見せるおつもりですか」
「うん。兵が少なくても、船が海を埋めれば十分な威嚇になる」
側近はしばらく考えた後、慎重に問い返した。
「つまり、大国主様は……戦うおつもりはないと?」
「ないな」
その返答は、あまりにもあっさりしていた。
「月読の海人族と正面から戦って勝てるとは思っていない。それに、こちらが海上で戦を始めれば、包囲されている八島士奴美たちまで一斉に攻められるだろう」
「では、何のために船団を?」
「話をするためだ」
大国主は海路図から手を離した。
「何も持たずに和議を申し入れても、相手は耳を貸してくれない。だが、無視できないだけの船団を見せれば、少なくとも交渉の席には着く」
「虚勢でございますか」
「その通りだあくまで和議に持ち込む為の見せかけだ」
大国主は少しだけ苦笑した。
「ただし、虚勢だと気づかれてはいけない。船に乗る者たちには、戦えるように見せるための支度をさせてくれ」
「交渉が決裂した場合は、どうされますか」
その問いに、大国主はすぐには答えず、若い王の顔からわずかに笑みが消えた。
「その時は、できる限りのことをするしかない」
「大国主様ご自身が行かれる必要はございません。我らのうち誰かを使者として――」
「私が行かなければ駄目だ」
静かな声が、側近の言葉を遮った。
「八島士奴美ほどの者を連れ帰る条件を決められるのは、出雲では私だけだ。それに月読も、使者だけを相手にはしないだろう」
「ですが、敵地へ向かわれるのです。せめて鎧を」
「着ない」
「では、剣だけでもお持ちください」
「それも必要ない」
大国主は自らの腰へ目を落とした。そこには剣を佩くための帯さえなかった。
「戦いに行くのではないんだ。鎧を着て剣を持っていけば、相手もこちらが戦うつもりだと思う。私は出雲の兵を連れ帰りに行くだけだ」
「月読が大国主様を捕らえる可能性もございます」
「あるやもしれん」
大国主は否定しなかった。
「それでも、私が行く」
側近たちは黙り込んだ。
王となってからも、大国主は田に入り、水路を掘り、堤を築いてきた。危険な作業を民に命じるだけで、自分は宮に留まるような男ではなかったからこそ、止められないことも皆が知っていた。
大国主は再び席へ戻ると、集まった者たちを見渡した。
「急いでほしい。月読は慎重な男だ。包囲したからといって、すぐに攻めはしないだろう。だが、いつまでも待つ理由もない」
密偵の報告では、大倭壱国連合軍の包囲は日ごとに狭まっている。食料が尽きるのを待つだけでもよく、それでも投降しなければ、最後には総攻撃が始まるだろう。
「手遅れになる前に着かなければならない」
側近たちは、ようやく深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「すぐに船を集めます」
「豪族たちにも使者を出します」
命令を受けた者たちが次々と広間を出ていき、数日後、出雲の港には大小さまざまな船が集まっていた。
軍船だけではない。荷を運ぶ商船、沿岸で魚を捕る漁船、普段は川を行き来する小舟まで並んでいる。兵は大国主が望んだ数の半分にも届かなかったが、それでも帆を上げた船々が海上へ並ぶと、港を埋め尽くすほどの大船団に見えた。
出航を前に、大国主は船首へ立った。
鎧は身につけておらず、剣も持っていない。三十代となった出雲の王は、粗末ともいえる旅装のまま、遠い南の海を見つめていた。
背後から側近が、最後にもう一度尋ねた。
「本当に、よろしいのですか」
大国主は振り返らなかった。
「よいかどうかは、月読と話してみなければ分からない」
やがて出航を告げる声が響き、櫂が一斉に海面をかき、無数の船がゆっくりと港を離れていく。
大国主は風を受けて膨らむ帆を見上げ、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「待っていてくれ。今、迎えに行くぞ」
船団は、包囲された出雲の民を救うため、一路筑紫へ向かった。
数日後、奴国の沖に無数の帆影が現れた。それは大国主の率いる出雲の大船団であり、すでに奴国の港と沖合を封鎖していた月読の海人族船団の、さらに外側へ大きく展開すると、大倭壱国連合の船団を取り囲むように陣を敷き始めた。
沖を埋め尽くすほどの船影に、大倭壱国連合軍の間では少なからぬ動揺が広がった。
「出雲の本軍だ」
「この船の数……海人族を外から包囲するつもりか」
実際にどれほどの兵が乗っているのかまでは分からなかったが、遠目にはどの船にも武装した者たちの姿が見え、船団の全容を把握できないことが、かえって兵たちの不安を煽っていた。
やがて出雲船団は一定の距離を保ったまま停止し、海上に大きな輪を作った。陸では大倭壱国連合軍が八島士奴美の出雲軍を包囲し、その沖では月読の海人族が退路を塞ぎ、さらにその外側を大国主の船団が取り囲むという、敵味方が幾重にも重なる異様な包囲が完成したのである。
しばらくして、大国主の船団から一艘の小舟が離れた。小舟は武器を掲げることもなく、白い布を高く掲げながら、ゆっくりと月読の船へ近づいていく。
「出雲の大国主様より、月読様へ申し上げます」
使者は船上から声を張り上げた。
「これ以上の争いを避けるため、和議の場を設けていただきたいとのことでございます」
その言葉を聞いた月読は、沖に広がる出雲の船団へ目を向けた。船の数だけを見ても軽視できる規模ではなく、ここで戦端を開けば陸の出雲軍を討つことはできても、海人族の船団にも大きな損害が出る可能性があった。
月読はしばらく考えた後、使者へ答えた。
「よかろう。和議の申し出を受ける」
協議の末、和議は奴国の港で行われることとなった。
返答を受けた大国主は、すぐさま八島士奴美のもとへ使者を送り、和議の場へ出席するよう命じた。
八島士奴美にとって、大国主の命令に従うことは屈辱であった。しかし陸では大倭壱国連合軍に包囲され、海路も完全に塞がれている。大国主の船団が現れなければ、いずれ兵糧は尽き、全軍が討たれることになる以上、もはや拒む余地など残されていなかった。
翌日、奴国の港に協議の場が設けられた。焼け残った倉の一つが片づけられ、中央には低い卓が置かれ、周囲には双方の兵が距離を保って並びながら、張り詰めた空気の中で互いの動きを警戒していた。
大倭壱国連合側からは月読と忍穂耳、出雲側からは大国主と八島士奴美が出席し、それぞれの背後には選ばれた近習と護衛だけが控えている。
忍穂耳の後ろには、若い護衛兵の姿もあった。
建御雷である。
建御雷は無言のまま、向かい側に座る男を見つめていた。鎧を身につけず、腰に剣さえ帯びていないその姿は、戦場へ現れた一国の主とは思えぬほど質素であったが、周囲の者たちがその男を中心に動いていることは、見ればすぐに分かった。
あれが出雲の主、不弥国を焼き、家族を奪った者たちの国を治める王、建御雷の指先が、わずかに震えた。
「あいつが……出雲の主……」
押し殺した声は誰の耳にも届かなかったが、建御雷だけは大国主から一度も目を離さなかった。
重い沈黙を破り、月読が口を開いた。
「我ら大倭壱国連合軍は、陸の出雲軍を完全に包囲しておる。命じれば、いつでも殲滅できる」
八島士奴美の顔が険しくなる中、大国主は動じることなく応じた。
「どうでしょうな。我ら出雲本軍もまた、海上にて大倭壱国連合の船団を包囲しております。陸の出雲軍を攻めるというのであれば、海人族の船団を突破し、包囲を解くまでのこと」
堂々とした言葉だったが、それは大国主の虚勢に過ぎなかった。沖に並べた船の数こそ多いものの、乗せている兵は少なく、月読の海人族船団を正面から破れるほどの戦力はない。初めから戦うつもりはなく、数だけを揃えた船団を交渉の材料にしたのである。
月読もその可能性には気づいていた。強硬に出れば陸の出雲軍を壊滅させられるだろうが、その間に背後の船団を攻められれば海人族にも大きな被害が出る。船や熟練した船乗りを大量に失えば再建には長い年月がかかり、今後の瀬戸内や出雲への進出にも支障を来す。勝てるからといって、危うい賭けに出る必要はなかった。
月読は大国主を見つめながら尋ねた。
「貴殿の望みは何だ」
大国主は迷わず答えた。
「包囲されている出雲軍を撤退させます。ゆえに、帰路には手を出さないでいただきたい」
奴国から出雲軍が去るのであれば、大倭壱国連合の目的にも合致する。しかし、月読も無条件で認めるつもりはなかった。
「よかろう。ただし、奴国から食糧や物資を持ち出すことは一切認めぬ」
八島士奴美の眉が大きく動く。
「兵だけを連れて去れ。米一粒、武具一つ、奴国の物は何も持ち出させぬ」
「何だと! あれは我らが戦って手に入れた戦利品だ! 出雲へ持ち帰るために奪った物だぞ!」
「八島士奴美」
大国主が低い声で制した。
「しかし――」
「今は私が話している」
穏やかな口調だったが、拒絶を許さない響きがあった。八島士奴美はなおも何か言おうとしたものの、大国主の視線を受けて歯を食いしばり、黙り込んだ。
大国主は月読へ向き直る。
「承知しました」
月読の目がわずかに細まった。
「奴国から食糧、武具、財貨、そのほか一切の物資を持ち出しません。出雲兵のみを撤退させましょう」
「大国主!」
八島士奴美が再び声を上げたが、大国主は振り返らなかった。
この条件は、大国主にとって必ずしも不利ではない。八島士奴美の兵を救えば、出雲の民を見捨てなかった王としての責任を果たせる。一方で、奪った食糧や財貨をすべて失えば、八島士奴美は何の戦果もなく帰国することになり、遠征を支えた須佐之男派の豪族たちも大きな損失を被る。八島士奴美の威信は失われ、須佐之男派全体の勢力も弱まるだろう。
しかも、その兵たちを全滅の危機から救ったのが大国主であることは、出雲中に知れ渡る。大国主は八島士奴美を救いながら、その力を削ぐことができるのだ。
八島士奴美にも、それが分からぬわけではなかった。しかし拒めば、大国主に見放され、大倭壱国連合軍に殲滅されるだけである。戦利品を捨てて帰るか、ここで兵とともに滅びるか。選べる道は一つしか残されていなかった。
「異存はないな」
月読が問う。
八島士奴美は拳を強く握り締めたまま答えなかった。その沈黙を承諾と受け取った月読は、大国主へ向き直る。
「では、出雲軍がすべての物資を奴国へ返還した後、海路を開こう。撤退する兵には手を出さぬ」
「感謝いたします」
大国主が深く頭を下げると、月読も静かに礼を返した。
こうして大倭壱国連合と出雲の間に和議が成立した。
協議が終わり、大国主が退席しようとした時、鋭い金属音とともに、一人の若者が剣を抜いて襲いかかった。
「不弥国でやったことを、忘れてはいないぞ!」
叫びながら大国主へ迫ったのは、忍穂耳の護衛としてその場に控えていた建御雷だった。しかし、刃が届くより早く周囲の供回りが飛びかかり、腕を押さえて地面へ引き倒すと、剣を奪い取った。
「放せ! 出雲の奴らが何をしたか! 俺は忘れていない!」
建御雷は取り押さえられても激しく身をよじり、なおも大国主を睨みながら叫び続けた。
「建御雷!」
忍穂耳は低く怒鳴ると、歩み寄って建御雷の頬を数度殴り、さらに腹を蹴り上げた。建御雷は苦しげに息を吐いてうずくまったが、それでも大国主から目を逸らそうとはしなかった。
「ここが何の場か分からぬか」
建御雷は答えず、切れた唇から血を流しながら、憎悪を宿した目で大国主を睨み続けた。
「縛れ」
忍穂耳の命を受けた兵たちは、建御雷の両腕を背後へ回し、縄できつく拘束した。それを見届けた忍穂耳は、すぐさま大国主の前へ進み出ると、深く跪いた。
「我が兵の無礼、申し開きのしようもございませぬ。あの小僧には、後ほど厳しい処罰を与えます。どうか、この場は私の不始末としてお納めいただきたい」
大国主はすぐには答えず、縄に繋がれた建御雷を見つめていた。その目に宿る憎しみは、若さゆえの一時の激情ではなく、長い年月を経ても消えなかった怨念そのものだった。
「あの者は、不弥国の生まれでございます」
忍穂耳の言葉に、大国主の表情がわずかに変わった。
「先の戦で家を焼かれ、両親を失いました。出雲軍によって生み出された戦災孤児にございます」
大国主の胸に、不弥国で起きた惨劇が蘇った。燃え上がる集落、逃げ惑う民、奪われた食糧、倒れていった人々。八島士奴美らが行った残虐な振る舞いを、大国主自身が命じたわけではなかったが、今の自分は出雲の主であり、無関係だと言い切ることなどできなかった。
しばらく沈黙した後、大国主は静かに口を開いた。
「処置は、忍穂耳殿にお任せする」
「寛大なお言葉、痛み入ります」
忍穂耳が再び深く頭を下げると、大国主はそれ以上、建御雷を責めることも許すこともせず、憎しみに満ちた若者の目を一度だけ見つめてから、その場を後にした。
不弥国で起きたことは、まだ終わっていない。
戦が終わり、焼けた村が再び建ち、荒れた田に稲が戻ったとしても、失われた命までは戻らず、残された者の中では、あの日の炎が今も燃え続けている。
大国主は和議の場を離れながら、倭国大乱が残した傷の深さを改めて思い知らされていた。
和議の内容は速やかに実行へ移され、出雲軍は奴国で奪った食糧や物資をすべて残し、兵だけを船へ乗せて撤退を始めた。港では武器を携えた大倭壱国連合の兵たちが見守る中、出雲の軍船が一隻ずつ岸を離れていく。
建御雷は縄で両腕を拘束されたまま忍穂耳の傍に座らされており、頬には殴られた跡が残り、口の端からはわずかに血が滲んでいた。それでも俯くことなく、視線の先にある大国主の乗る船を瞬きもせずに睨み続ける。
鎧も身につけず、剣すら帯びずに現れながら、言葉だけで窮地に陥った出雲軍を救い出した男。その姿を船上に認める中、やがて帆が上がり、出雲の船団がゆっくりと沖へ進み始めた。
「大国主……」
建御雷は、誰にも聞こえぬほど低い声で呟いた。
「あれが、出雲の王……」
不弥国を焼いた兵も、父と母を殺した兵も、今はあの男が治める国へ帰っていく。あの男自身が命じたことでないとしても、建御雷にとって違いはなく、出雲の王である以上、すべての罪を背負うべき者だった。
建御雷は縄が食い込むほど強く拳を握った。
「俺は忘れない」
船団は次第に小さくなり、やがて水平線の彼方へ消えていったが、それでも建御雷は最後の一隻が見えなくなるまで海から目を離さなかった。
この日、建御雷は初めて倒すべき敵の姿を、その目にはっきりと刻み込んだのである。




