七章 大国主 九話 包囲戦
出雲軍は奴国の宮を包囲したまま、その外側に陣を構えた投馬国軍と対峙していた。
奴国の宮を囲むだけであれば、兵力では出雲軍が上回っている。だが背後から投馬国軍に攻められれば、宮の守備兵も呼応して打って出てくるだろう。前後から挟み撃ちにされれば、いかに出雲軍といえども無事では済まない。
一方の投馬国軍も、容易には仕掛けてこなかった。
不用意に近づけば、包囲陣の一部を解いた出雲軍が一斉に襲いかかってくる。奴国軍との連携が取れぬまま戦端を開けば、数で勝る出雲軍に各個撃破される恐れがあった。
両軍は互いの出方を窺いながら、一定の距離を保ち続けた。
出雲軍の陣では兵たちが武器を手にし、いつでも動ける態勢を整えている。投馬国軍もまた盾を並べ、弓兵を前方へ配置したまま動こうとはしなかった。
風が吹くたび、両軍の間に立つ草が波打った。
時折、奴国の宮から弓弦の鳴る音が響いたが、それも威嚇に過ぎない。出雲軍も矢を返すことはなく、ただ宮と投馬国軍の双方へ警戒を向けていた。
八島士奴美は陣の前方に立ち、遠くに並ぶ投馬国軍を睨み続けた。
奴国の宮を攻めれば、投馬国軍が動く。投馬国軍へ向かえば、宮の守備兵が背後を突く。かといって包囲を解いて退けば、奴国軍と投馬国軍の追撃を受ける可能性がある。どちらへ動いても隙が生まれる。
それは投馬国軍も同じだった。互いに相手の一歩を待ちながら、兵だけが静かに疲弊していく。
日が高く昇っても、戦は始まらなかった。やがて陽が傾き、長い影が両軍の間へ伸びても、誰一人として前へ出ようとはしない。奴国の宮を挟み、出雲軍と投馬国軍は睨み合いを続けていた。
投馬国軍と睨み合いを続けるうちに、八島士奴美の胸には焦りが募り始めていた。奴国の宮を攻めれば背後を突かれ、投馬国軍へ向かえば籠城する奴国軍が打って出るため、どちらか一方に兵を集中させることもできず、出雲軍は二つの敵を前に動きを封じられていた。
膠着したまま数日が過ぎた頃、新たな軍勢が南の街道に姿を現した。掲げられているのは、大倭壱国軍の旗であった。
「大倭壱国軍、奴国南部に到着! 投馬国軍と合流する動きを見せております!」
報告を受けた八島士奴美は険しい顔で立ち上がったが、凶報はそれだけでは終わらず、間を置かずに別の伝令が陣中へ駆け込んできた。
「西より伊都国軍が奴国へ進軍中! さらに東からは、不弥国軍も迫っております!」
「何だと……」
八島士奴美は地図へ視線を落とした。南には投馬国軍と大倭壱国軍、西から伊都国軍、東から不弥国軍が迫っており、このまま奴国の宮に留まれば、出雲軍は三方から包囲されることになる。
奴国軍を早々に打ち破れなかった時点で、すでに奇襲の利は失われていた。八島士奴美は奥歯を強く噛み締めた。ここで撤けば、父の仇討ちを掲げた遠征は失敗に終わるが、意地を張って留まれば、出雲へ帰る兵まで失いかねない。
しばしの沈黙の末、八島士奴美は拳を震わせながら命じた。
「奴国の宮の包囲を解け。全軍、港まで退く」
周囲の将たちは一瞬息を呑んだものの、すぐさま頭を下げた。
「撤退だ! 隊列を崩すな! 負傷者と物資をまとめ、港へ向かえ!」
命令が陣中を駆け巡り、出雲軍は奴国の宮を背にして北へ動き始めた。八島士奴美は遠ざかっていく宮を睨みつけ、あと一歩で奴国を落とせるはずだったという思いを捨て切れぬまま、悔しさを押し殺すように歯ぎしりしながら港へ向けて馬を進めた。
ようやく港へ戻った八島士奴美は、高台から沖を見下ろした途端、その場で足を止めた。海にはすでに海人族の船団が展開しており、大小無数の軍船が幾重にも連なって海面を埋め尽くし、出雲へ続く海路を完全に塞いでいた。船と船の間は狭く、風を受けて揺れる帆の向こうにも、さらに多くの船影が続いている。
港に残していた出雲の船だけでは、あの包囲を突破することなどできない。強引に沖へ出たところで、四方から取り囲まれ、次々と沈められるだけである。
八島士奴美は、しばらく何も言えなかった。
その時、背後から慌ただしい足音が近づき、一人の伝令が息を切らしながら駆け込んできた。
「申し上げます! 南より大倭壱国軍が接近しております!」
さらに間を置かず、別の伝令も駆け込んでくる。
「投馬国軍も陣を進めております! 西と東からも敵軍が迫っております!」
八島士奴美が振り返ると、陸では忍穂耳の指揮のもと、大倭壱国連合軍が一定の間隔を保ちながら、ゆっくりと包囲網を縮めていた。敵は焦って攻め寄せることなく、出雲軍の逃げ道を一つずつ塞ぎながら、確実に港へ追い詰めようとしている。
前方には海人族の大船団が広がり、背後からは大倭壱国連合軍が迫り、左右にも逃げ道は残されていない。出雲軍は陸と海の双方から完全に包囲され、身動きすら取れなくなっていた。
八島士奴美は拳を強く握り締めながら周囲を見回したが、出雲へ帰る道は、もはやどこにも残されていなかった。
陸では、忍穂耳の指揮する大倭壱国連合軍が正面から無理に攻め込むことなく、退路となり得る道を一つずつ塞ぎながら、じわじわと包囲網を狭めていた。出雲軍が兵を動かそうとしても、その先には必ず大倭壱国連合の軍勢が待ち構えており、前へ進むことも後ろへ退くこともできない。海へ逃れようにも、沖には海人族の船団が並んで出雲へ続く海路を塞いでいたため、出雲軍は完全に包囲され、身動きが取れなくなっていた。
そのまま数日が過ぎた頃、南の海から新たな船団が姿を現した。帆を連ねて奴国の沖へ近づいてきたのは伊予から出航した軍船であり、先頭の船には月読が立っていた。
月読率いる伊予軍が海上封鎖へ加わると、沖を埋め尽くす船の数はさらに増し、出雲軍の船が通り抜けられる隙間は、もはやどこにも残されていなかった。
その様子を遠く離れた丘の上から見つめていたのは、大国主より密命を受け、出雲軍の戦況を探っていた密偵である。密偵は沖を埋める船団と、陸から迫る大倭壱国連合軍を交互に見つめるうちに顔から血の気を失った。
戦況を報告するために送り込まれたとはいえ、これほどまでに悪い知らせを持ち帰ることになるとは思っていなかった。出雲軍は陸と海の双方から包囲され、このままでは一兵たりとも故国へ戻れない。密偵は身を翻すと、最悪の戦況を一刻も早く伝えるため、急いで出雲本国へ向かった。
包囲網の内側では、大倭壱国連合軍の兵たちが攻撃の機会を待っていた。敵は逃げ場を失い、疲労も日に日に増しているため、今すぐ攻め込んでも勝利を得られると思われたが、忍穂耳は前へ出ようとする兵を静かに制した。
「急ぐな。敵はもう逃げられぬ」
忍穂耳は包囲された出雲軍を見据えたまま、落ち着いた声で続ける。
「無理に攻めて、こちらの兵を失う必要はない。ゆっくり締め上げよう」
兵たちは命令に従い、陣を崩すことなく包囲を続けた。
忍穂耳の傍らには、護衛兵として従軍していた建御雷の姿があった。建御雷にとって、これが初めて経験する本格的な戦場である。
怒号を上げて突撃することも、力任せに敵を打ち破ることもない。それでも忍穂耳の指示一つで軍は整然と動き、敵の逃げ道を一つずつ奪っていく。気がつけば出雲軍は、まともに戦う前から敗北を避けられない状況へ追い込まれていた。
建御雷は、目の前で進められていく戦を息を呑んで見つめた。
「これが……大倭壱国の戦い……」
力だけに頼らず、敵の動きを読み、逃げ道を断ち、最も有利な時を待つ。忍穂耳の作戦指揮の見事さに、建御雷は圧倒されていた。
一方、海上では月読が船の舳先に立ち、包囲された出雲軍を静かに眺めていた。陸には忍穂耳率いる大倭壱国連合軍、海には海人族と伊予の船団が待ち構えており、もはや出雲軍に残された逃げ道はない。
月読はしばらく戦場を見つめた後、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「勝負あったな」




