七章 大国主 八話 奴国再侵攻
奴国の港を見張っていた兵が、沖合に浮かぶ無数の影に気づいた。
朝靄の向こうから、幾隻もの船がゆっくりと姿を現していた。船首は一様に奴国の港へ向けられ、帆の下には武装した兵たちの姿が並んでいる。
やがて、見張り台の兵が顔色を変えた。
「出雲の船だ……!」
港に緊張が走った。
出雲軍による侵攻は、十年ぶりのことであった。
だが、奴国は十年前の敗北を忘れてはいなかった。
かつて須佐之男率いる出雲軍が襲来した際、奴国はあまりにも多くの失敗を重ねていた。敵襲の知らせは国内へ十分に伝わらず、各地の兵は状況も分からぬまま、それぞれの判断で港へ向かった。
統一された命令もなく、集結する場所も定められていなかった。
少数の部隊が次々と出雲軍へ挑み、そのたびに各個撃破されていった。援軍として駆けつけた兵も、すでに先行部隊が敗れたことを知らぬまま戦場へ入り、同じように討ち破られた。
さらに、戦いの早い段階で奴国王が命を落とした。
王の戦死は国中へ瞬く間に広がり、ただでさえ乱れていた指揮系統を完全に崩壊させた。誰の命令に従えばよいのかも分からず、兵は混乱し、豪族たちは互いに責任を押しつけ合った。
民を避難させる者もいなかった。
兵をまとめる者もいなかった。
国を守るために集まったはずの者たちは、まとまった軍となることすらできぬまま敗れたのである。
あの敗北から十年。
奴国は同じ過ちを二度と繰り返さぬため、国内の守りを見直してきた。港や街道には見張りを置き、敵襲を知らせる手順を定め、兵が集結すべき場所もあらかじめ決めていた。
奴国だけではない。
大倭壱国連合の諸国とも幾度となく協議を重ね、出雲軍が再び筑紫へ現れた場合に備えて、伝令の経路や援軍を送る順序まで取り決めていた。
十年前、奴国は何の備えもないまま出雲軍を迎えた。
だが、今度は違う。
沖合を埋め始めた出雲の船団を見つめながら、港の兵たちは恐怖を抱きながらも、それぞれが自分の役目を理解していた。
十年前の敗北は、奴国に深い傷を残した。
そしてその傷は、二度と同じ形で敗れぬための備えとなっていた。
今回の奴国は、十年前とは明らかに対応が違っていた。
沖合に出雲軍の船影が現れるや、港の櫓から激しく鐘が打ち鳴らされた。低く重い音が港町一帯へ響き渡り、民には避難が命じられ、各所に散っていた守備兵たちは武器を手に次々と持ち場へ集まっていく。
同時に、早馬や徒歩の伝令が国内外へ向けて走り出した。港近くの丘では狼煙が上がり、それに応えるように、南の丘、そのさらに先の高台でも次々と白煙が立ち昇る。
敵襲の知らせは、瞬く間に奴国全土へ広がっていった。
やがて出雲軍の船団が港へ迫ると、奴国の守備兵たちは岸壁や船着き場に並び、矢や投石を浴びせて接岸を阻もうとした。
出雲の軍船が近づくたびに矢が降り注ぎ、何隻もの船が押し戻される。船縁に立っていた兵が海へ落ち、櫂を握る者にも負傷者が続出した。
容易には岸へ近づけない。
それでも出雲軍の軍船は、幾度も強引な接岸を試みた。前方の船が矢を受け止め、その陰から別の船が岸壁へ迫る。守備兵が一隻を押し返している間に、別の軍船が船着き場へ船腹を叩きつけた。
鈍い衝突音とともに、鉤縄が岸へ投げ込まれる。
「乗り込め!」
出雲兵たちは船板を渡し、あるいは浅瀬へ飛び降りながら次々と上陸した。
奴国の守備兵も槍を並べて迎え撃ったが、ひとたび上陸を許すと、戦況は急速に傾き始めた。
港を守る奴国兵に対し、出雲軍の兵数はあまりにも多かった。
一隻、また一隻と接岸するたびに、出雲兵が港へ雪崩れ込んでくる。守備兵たちは懸命に押し返そうとしたが、前列が崩れると、その隙間へさらに兵が殺到した。
やがて港の奥から、先ほどとは異なる調子の鐘が鳴り響いた。
撤退の合図であった。
「退け! 宮まで退くぞ!」
奴国兵たちは合図に従い、隊列を保ちながら港を放棄した。負傷者を支え、追撃を防ぐ兵を後方に残しながら、南にある宮を目指して一斉に退いていく。
出雲兵の一部が追撃しようとしたが、上陸を終えた八島士奴美が鋭く制した。
「深追いはするな。まず港を押さえよ」
命令を受けた兵たちは船着き場や倉、港へ通じる道を次々と確保していった。残っていた奴国兵を追い払い、出雲から続く船団を迎え入れるための場所を整えていく。
すべての軍船が無事に接岸したことを確かめると、八島士奴美は南へ続く街道へ目を向けた。
「奴国の宮を落とす」
そう言い放つと、八島士奴美は全軍に進軍を命じた。
港を制圧した出雲軍は隊列を整え、撤退した奴国軍を追うように、南の宮へ向けて進み始めた。
奴国軍は、十年前の敗戦を忘れてはいなかった。港に残って出雲軍を迎え撃てば、兵力の差によって押し潰される。前回の侵攻では、各地の兵がばらばらに戦い、連絡も取れぬまま各個に撃破されたため、その失敗を教訓として、港での抵抗を早々に切り上げ、南にある宮へ向かって組織的な撤退を始めていた。
しかし、八島士奴美はそれを敗走だと受け取った。
出雲軍が上陸してから南へ進む道中で目立った抵抗はなく、村々は静まり返り、街道にも兵の姿は見えない。敵は恐れをなして逃げ散ったのだろうと考えた八島士奴美は上機嫌となり、兵たちに進軍を急がせた。
「奴国はすでに怯えておる。このまま一息に宮を落とすぞ」
出雲軍は大きな妨害を受けることもなく南下し、ほどなく奴国の宮へ到達したが、そこで目にしたものは、八島士奴美の予想とは大きく異なっていた。
奴国の宮を囲む環濠集落は、十年前とは比べものにならないほど拡張されており、幾重にも掘られた深い濠の内側には高い土塁と頑丈な木柵が巡らされ、要所には物見櫓が立ち並んでいる。狭い入口には逆茂木が置かれ、容易に兵を近づけさせぬ造りとなっていた。
さらに集まっていたのは港から撤退した兵だけではなく、奴国各地から集められた兵が次々と宮へ入り、武器や食糧も運び込まれていた。周辺の民はすでに避難を終えており、宮を中心とした環濠集落全体が巨大な砦へと変わっていたのである。
八島士奴美は、すぐさま攻撃を命じた。
出雲兵が濠へ土俵や木材を投げ込み、足場を作ろうとしたが、土塁の上から無数の矢が降り注ぎ、石や熱湯まで浴びせられた。木柵へ近づいた兵は長槍で突き落とされ、梯子を掛けても、登り切る前に押し倒される。
何度攻めても結果は同じだった。出雲軍が攻撃を仕掛けるたび、奴国軍は鐘や太鼓の合図に従って守備位置を変え、弱った場所へすぐに増援を送り、兵たちは勝手に動くことなく、誰もが決められた役目を守っている。
十年前、王を失って混乱し、まともに抵抗することもできなかった奴国軍の姿は、もはやどこにもなかった。
初日の攻撃は失敗に終わり、翌日、八島士奴美は攻める場所を変え、さらにその翌日には夜陰に紛れて濠を越えようとしたが、すべて奴国軍に見破られた。
日が経つにつれて出雲軍の損害だけが増えていき、負傷者を収容する幕は埋まり、攻城に使う木材も不足し始めた。それでも奴国の宮は揺らがず、五日が過ぎても、七日が過ぎても、出雲軍は外柵一つ破ることができなかった。
「なぜ落ちぬ……」
土塁の向こうにそびえる物見櫓を見上げながら、八島士奴美は低く呟いた。
港は容易に奪え、街道でも抵抗はなかったのだから、奴国軍はすでに崩れているはずだった。しかし実際には、奴国軍は敗走していたのではなく、最初からこの宮で出雲軍を食い止めるために兵力を集めていたのである。
奴国の宮を包囲したまま、出雲軍が攻めあぐねていたある日、南方を警戒していた兵が慌ただしく陣へ駆け込んできた。
「申し上げます! 南より軍勢が接近しております!」
八島士奴美が振り返る。
「奴国の増援か」
「違います! 投馬国の旗印です!」
陣中に動揺が広がる中、やがて南の地平に、長く連なる兵の列が姿を現した。槍を携えた投馬国軍が、整然と隊列を組みながら奴国の宮へ近づいてくる。
出雲軍は奴国の宮を包囲しているが、その背後には投馬国軍が迫っている。宮への攻撃を続ければ背後を突かれ、投馬国軍へ向かえば、宮の中にいる奴国軍が打って出てくる。
八島士奴美は攻撃を中止させ、兵の一部を南へ向けた。
こうして出雲軍は奴国の宮を包囲したまま、投馬国軍と対峙することになった。




