七章 大国主 十三話 出雲への逆侵攻
西暦二百九年。
出雲軍が奴国への再侵攻から撤退して十年、倭国大乱が始まってから二十年の歳月が流れていた。
大倭壱国本国の主祭殿。その最奥に設けられた広間へ、忍穂耳と天之菩卑の二人が呼び出されていた。二人はいずれも日巫女の子である。
忍穂耳は大倭壱国北部の守りを長く任され、数々の戦を経験してきた将であった。若い頃の敗北を糧に、決して無理に兵を進めず、守りを固めて確実に勝機を掴む戦い方を身につけている。今では大倭壱国を代表する将の一人として、諸国の兵からも厚い信頼を寄せられていた。
一方の天之菩卑は、長年にわたり地方の一国を治めてきた豪族の主である。戦場に立って武功を重ねた忍穂耳とは異なり、豪族同士の争いを収め、田畑を整え、民の訴えに耳を傾けながら、長い年月をかけて領国を安定させてきた。
しかし、その天之菩卑も、つい先頃、子へ家督を譲っていた。本人はすでに役目を終えたつもりで、今後は静かに余生を送ろうと考えていたが、日巫女の考えは違っている。
長年にわたり一国を治め、大きな争いを起こすことなく次代へ家督を渡した。その経験と人を見る目を、隠居という名のもとに眠らせておくには、あまりにも惜しい。日巫女は天之菩卑能が身を退くにはまだ早いと考え、今度は大倭壱国本国で、その力を役立てさせるつもりでいた。
忍穂耳と天之菩卑は、並んで日巫女の前に膝をついていた。なぜ二人が同時に呼ばれたのか、まだ詳しい理由は告げられていない。ただ、日巫女が二人を呼び出した以上、単なる近況報告ではないことだけは分かっていた。
張り詰めた静けさが主祭殿の広間を満たす中、忍穂耳は姿勢を崩さず正面の日巫女を見据え、その隣では天之菩卑能がわずかに戸惑いを浮かべながら、静かに言葉を待っていた。
「出雲へ侵攻します」
日巫女が静かに告げると、忍穂耳と天之菩卑能はわずかに目を見開いた。
いつか、その命が下される日は来る。
二人とも心のどこかでは理解していた。それでも、倭国大乱から長い年月を経た今、女王の口から明確に告げられた言葉には、否応なく緊張が走った。
「軍を一挙に出雲本国へ向かわせることはしません」
日巫女は二人を見据えながら、落ち着いた口調で続けた。
「関門の海を越えた後、日本海に沿って進みます。道中にある村や国を一つずつ大倭壱国連合へ加え、兵糧と船の寄港地を確保しながら、着実に出雲へ迫るのです」
敵地の奥深くへ急進すれば、補給路を断たれ、退路を失う恐れがある。過去の倭国大乱では、出雲軍もまた占領地の反乱と長大な補給路に苦しめられた。
日巫女が選んだのは、速さよりも確実さを重んじる進軍だった。
「同時に使者を送ります。出雲には大倭壱国へ降伏し、再び連合へ加わるよう求めなさい。受け入れるのであれば、無用な血を流す必要はありません」
日巫女はまず忍穂耳へ視線を向けた。
「軍の指揮は、忍穂耳に任せます。無理に戦果を求める必要はありません。進んだ土地を確実に守り、後方との道を絶やさぬように」
「はっ」
忍穂耳は深く頭を下げた。
出雲への反攻は、いずれ必ず行われる。忍穂耳は以前からそう覚悟していた。
むしろ、国力が回復するまで焦らず待ち、軍備と補給を整えたうえで侵攻を始めるという判断は、日巫女らしい堅実なものに思えた。一度の大勝で決着を求めるのではなく、出雲へ続く道そのものを大倭壱国の支配下へ置く。これならば、たとえ長期戦になろうとも崩れにくい。
「承知いたしました。進軍を急がず、一国ずつ確実に押さえてまいります」
日巫女は小さくうなずくと、今度は天之菩卑能を見た。
「そして、出雲との交渉は天之菩卑に任せます。軍とは別に使節を率い、大国主と話をしなさい」
天之菩卑は驚きを隠せないまま、日巫女を見返した。
剣をもって出雲へ迫る忍穂耳と、言葉をもって降伏を求める天之菩卑。
日巫女は武力と外交、その二つを同時に動かすことで、出雲を確実に追い詰めようとしていた。
天之菩卑は、わずかに戸惑いを見せた。
「しかし、私は外交官としての経験がございません。そのような大役を、私に務められるでしょうか」
日巫女は静かに天之菩卑を見つめた。
「お前は長い年月、一つの国をよく治めてきました。国を治めるということは、民を見て、豪族をまとめ、互いの利害を調整することでもあります。その目で出雲を見て、相手の話をよく聞き、じっくりと向き合えばよいのです」
そこで一度言葉を切ると、日巫女は穏やかに続けた。
「おそらく、交渉は難航するでしょう。すぐに答えを得ようとする必要はありません。腰を据え、時間をかけて話を進めてください」
「結果を急がずともよい、ということでございますか」
「ええ。出雲の内情を知ることも、お前に託す役目の一つです」
天之菩卑の表情から、わずかに緊張が和らいだ。
「そういうことであれば、お引き受けいたします」
その返答を聞き、日巫女は小さくうなずいた。
「これは倭国統一へ至るための道です。二十年前、あの飢饉と出雲の離反、そして侵攻がなければ、ここまで長い年月を費やすこともなかったでしょう」
日巫女は遠い過去を振り返るように、静かに目を細めた。
「ですが、ようやくここまで来ました」
やがて視線を戻し、忍穂耳と天之菩卑の二人を見据える。
「二人とも、頼みましたよ」
二人は同時に頭を下げた。
「はっ」
日巫女がついに動き出した。
長きにわたり国力の回復と体制の立て直しを進めてきた大倭壱国は、倭国統一へ向けた新たな段階へと歩みを進める。
その命を受け、大倭壱国軍は大規模な遠征軍を編成した。兵と船団は整然と出航し、関門海峡を渡って中国地方へ進軍する。
遠征軍は無謀な進撃を避け、一つひとつの村や小国家に使者を送り、帰順を促した。従う国は大倭壱国連合へ迎え入れられ、拒む国には武力をもって応じる。占領後は守備兵を置き、補給路を整えながら、着実に支配地域を広げていった。
こうして中国地方の各地は、戦と外交を織り交ぜた大倭壱国の進軍によって、次々と大倭壱国連合の傘下へ組み込まれていく。
倭国統一への歩みは、もはや誰にも止められない勢いとなっていた。
立派な武人へと成長していた建御雷は、遠征の命が下されたと知るや、静かに拳を握り締めた。
幼い日に胸へ刻んだ憎しみは、長い年月を経ても消えてはいない。剣を振るい、兵法を学び、幾度もの戦場を越えてきたのも、すべてはこの日のためであった。
ついに出雲へ向かう時が来た。建御雷の胸に、抑えきれぬ闘志が燃え上がった。
忍穂耳は堅実な武将であった。
若き日に須佐之男王と初めて戦場で相まみえ、手痛い敗北を喫した経験が、その後の彼の戦い方を大きく変えていた。圧倒的な力を前に、勢いだけでは何も守れないことを思い知らされたのである。
あれから二十年。忍穂耳は決して無理をせず、敵の動きを慎重に見極め、守りを固めてから兵を進める将となっていた。その堅実な采配によって敗北を重ねることなく、いまでは大倭壱国を代表する名将の一人と呼ばれている。
今回の遠征でも、その姿勢は変わらなかった。
功を焦って深く攻め込むことはせず、まずは兵と物資を安全に集められる拠点を確保する。占領した土地には守備兵を残し、補給路を整え、後方の安全を確かめてから次へ進む。
一つの村を押さえれば、周囲の道と川を調べる。一つの国を降せば、反乱の芽がないかを確かめる。たとえ進軍が遅く見えようとも、決して足元を疎かにはしなかった。
忍穂耳の軍は、急がなかった。だが、一度押さえた土地を二度と奪い返されることもなかった。
そうして大倭壱国軍は、確実に橋頭保を築きながら、一歩ずつ出雲へと迫っていった。




