七章 大国主 十四話 天之菩卑(あめのほひ)の和平交渉
西暦二百九年。
西暦二百九年。
大倭壱国連合が出雲へ向けて侵攻を開始した。
その報せは街道を走る使者や港へ戻った商船によって各地へ運ばれ、瞬く間に出雲全土へ広がっていった。大倭壱国軍は関門海峡を越え、日本海側の村や小国を一つずつ服属させながら、確実に東へ進んでいるという。
出雲と結びつきの深かった国々が次々と大倭壱国連合へ組み込まれているとの報に、国内には動揺が走った。
大国主の宮には、各地を治める豪族たちが急ぎ集められた。
広間に並ぶ顔には、怒りと焦り、そして隠し切れぬ不安が浮かんでいる。その中には、八島士奴美の姿もあった。
須佐之男派の者たちは、ただちに兵を出し、奪われた村や国を取り戻すべきだと声を上げた。
「敵が出雲へ迫っているというのに、座して待つつもりか」
「今ここで退けば、大倭壱国はさらに踏み込んでくるぞ」
一方、大国主を支持する者たちは、これ以上の戦を避けるためにも、使者を送り、相互不可侵の取り決めを結ぶべきだと主張した。
だが、すでに状況は大きく傾いていた。
大倭壱国連合軍は出雲へ向かう道筋にある村や小国へ次々と兵を進め、これまで出雲王国に従っていた土地を、その支配下へ組み込み始めていたのである。
この状態で和平を求めたところで、対等な話し合いになるとは思えなかった。
「和平などと名を変えても、求められるのは降伏であろう」
「最後には出雲そのものを大倭壱国連合へ差し出せと言われるだけだ」
そうした意見が宮の中で勢いを増していった。
かつて筑紫への再侵攻に失敗し、国内での影響力を大きく失っていた八島士奴美と須佐之男派にとって、今回の侵攻は再び声を上げる機会となった。
敵が実際に領地を奪いながら迫っている以上、彼らの主張をただの好戦的な意見として退けることもできなかった。
不利なまま交渉の席へ着けば、相手の要求を受け入れるほかなくなる。
和平を望むとしても、その前に一定の戦果を挙げ、少しでも交渉の条件を整える必要があった。
大国主も、その現実を認めざるを得なかった。
長い協議の末、大国主は八島士奴美に出兵を許した。
ただし、出す兵は須佐之男派の豪族と兵士を中心に募るものとし、出雲の全軍を動かすことは認めなかった。
「敵が陸からのみ来るとは限らぬ。こちらが主力を出した隙に、船団で出雲本国を突かれる恐れもある」
大国主はそう告げ、本国の守りを空にすることを許さなかった。
そのため、大国主派の兵は出雲に残り、港や宮、主要な集落の防衛に専念することとなった。
こうして出雲軍は一つにまとまることなく、八島士奴美率いる迎撃軍と、大国主のもとで本国を守る防衛軍とに分かれることとなった。
八島士奴美は許可が下りるや、須佐之男派の豪族たちへ使者を走らせ、速やかに兵を集めた。かつて須佐之男に従って戦った者、その威光を今なお忘れられぬ者、失われた領地を取り戻そうと望む者たちが次々と応じ、ほどなく出兵の準備が整えられていく。
宮の外では、倉から運び出された米俵が荷車へ積まれ、鍛冶場では武器が打たれ、集められた若者たちが隊列を組んでいた。船には兵糧や矢束が積み込まれ、国中から人と物が戦のために集められていく。
大国主は、その様子を黙って見つめていた。
飢饉に苦しみ、田畑が荒れ、水路が埋まり、明日の食糧さえ得られなかった出雲を立て直すために、どれほどの年月を費やしただろう。民と共に土を掘り、川を整え、堤を築き、ようやく以前よりも豊かな国へと育てることができた。
だが、戦が始まれば、蓄えた食糧は兵糧として消え、作り上げた鉄器は農具ではなく武器となる。田を耕すはずの男たちは兵として連れ出され、帰らぬ者も少なくないだろう。
国を豊かにするには長い年月が必要だった。されど、それを失うのはあまりにも早い。
大国主は出兵していく兵たちを見送りながら、静かに目を伏せた。
「戦とは……どうして、積み上げたものばかりを奪っていくのだろうな」
その呟きに答える者はいなかった。
八島士奴美率いる出雲軍が西へ向けて出立して間もなく、それと入れ違うように一団が出雲へ入った。
掲げられているのは、大倭壱国の使者であることを示す旗であった。
一団を率いていたのは、女王日巫女の子、天之菩卑である。
出雲へ到着した天之菩卑は休息を求めることもなく、ただちに大国主との会談を申し入れた。大国主は使者を粗略に扱うことなく、一行を宮へ迎え入れ、食事と酒を用意して丁重にもてなした。
やがて互いの挨拶が済むと、天之菩卑は居住まいを正した。
「大倭壱国女王、日巫女様のお言葉をお伝えいたします」
広間に集まった者たちの視線が、一斉に天之菩卑へ向けられた。
「出雲は大倭壱国へ降伏し、再び大倭壱国連合へ加わられたい。これを受け入れるのであれば、出雲の国も、民の暮らしも、可能な限り今までどおり認めるとのことです」
天之菩卑能はそこで言葉を切り、正面に座る大国主をまっすぐ見据えた。
「しかし、降伏を拒まれるのであれば、大倭壱国は武力をもって出雲を従わせます」
声を荒らげたわけではなかった。
脅すような調子でもない。ただ女王から託された言葉を、一つも違えず伝えているだけだった。
「これは願いではございません。大倭壱国から出雲へ示された、勧告にございます」
静まり返った広間に、張り詰めた空気が満ちていった。
大国主の本心は、降伏を受け入れることに傾いていた。これ以上、大倭壱国と争い続けても、出雲の民が得るものはない。長い飢饉と戦乱をようやく乗り越え、田畑には実りが戻り、倉にも少しずつ蓄えが生まれている。再び戦火に包まれれば、これまで積み重ねてきたものが、すべて失われかねなかった。
だが、大国主が一人で承諾すれば済む話でもない。出雲には今なお須佐之男を王として敬い、その遺志を継ぐことを望む者が多くいる。大倭壱国への敵意も根深く、かつて敵として刃を交えた国へ降伏するなど、到底受け入れられぬと考える豪族も少なくなかった。
この状況で国を譲ると宣言すれば、出雲は大倭壱国と戦う前に国内で割れる。長い年月をかけて立て直した国が、内乱によって再び荒れる。それだけは避けなければならなかった。
「すぐにお返事することはできませぬ」
大国主は天之菩卑にそう告げ、降伏への態度を保留した。
天之菩卑は返答を急かさなかった。女王日巫女からも、結果を急ぐ必要はないと言い含められている。出雲を見て、大国主と話し、そのうえで交渉を進めることが自らの役目であった。
翌朝、大国主は天之菩卑を伴い、宮を出た。最初に向かったのは郊外に広がる田畑だった。
大国主は畦を歩きながら稲の葉を手に取り、色や張りを確かめた。田に水を引く水路へ降りると、泥に足を取られることも気にせず、鍬を持って流れを塞いでいた土砂を取り除いていく。
「ここの流れが弱くなっております。このままでは奥の田まで水が届きませぬ」
農夫たちへ説明しながら、自ら石を動かし、水路の底を均していった。
天之菩卑は、その様子を黙って見つめていた。王が田畑を視察すること自体は珍しくない。だが、大国主は遠くから眺め、報告を聞くだけではなかった。土の状態を確かめ、水の流れを読み、必要とあれば自ら鍬を振るう。農夫たちも大国主を恐れている様子はなく、困り事があれば直接声を掛けていた。
次に向かった川では、堤の補修が行われていた。大国主は積まれた土を握り、指の間で崩した。
「これでは雨が続けば流される。もう少し粘りのある土を混ぜよう。石も外側だけではなく、内側へ噛ませた方がよい」
そう言うと、作業をしていた者から木槌を借り、杭の打ち方を実際に示した。
土器を作る工房では、焼き上がった器を指先で軽く叩き、響く音から焼き具合を確かめた。ひび割れた器を見つけると、土の練り方と火の回り方に原因があると指摘し、窯の内部へ空気を通すための穴を少し広げるよう助言した。
青銅を扱う工房では鋳型の形を直し、鉄器の加工所では炉の温度を見極めながら、自ら槌を握った。赤く熱せられた鉄を台へ置き、力強く槌を振り下ろすと、甲高い音とともに火の粉が舞い散った。
何度か打ち据えた後、大国主は鉄を水へ入れた。白い蒸気が立ち上り、工房の中へ広がっていく。鉄器の加工を命じられ、毎日のように須賀の宮へ納めていた頃に身につけた技である。
大国主は完成した刃を光へかざし、わずかな歪みを確かめると、若い職人へ手渡した。
「鉄は強く打てばよいというものではない。急げば形は整っても、内側に脆さが残る。熱を見て、鉄の声を聞きながら打つんだ」
若い職人は真剣な面持ちで頷いた。
天之菩卑は、大国主が出会う者すべてから慕われている理由を、少しずつ理解し始めていた。大国主は農耕を知り、水路を造り、川を治め、堤を築くことができた。土器を焼き、青銅を鋳造し、鉄を鍛える技まで身につけている。
だが、それだけではなかった。大国主は命じるだけでなく、誰よりも先に土へ入り、誰よりも先に汗を流した。農夫と同じように泥にまみれ、職人と同じように煤で顔を汚し、民の声に足を止めた。
かつて出雲は、飢えから逃れるために他国へ攻め込み、食料を奪わなければ生き残れないところまで追い詰められていた。その荒れ果てた国を立て直し、再び人々が田を耕し、物を作り、明日を信じて暮らせる国へ変えた。それを成し遂げた人物こそ、目の前にいる大国主だった。
天之菩卑は、ようやく理解した。八千矛と呼ばれていた一人の男が、なぜ今では大国主と呼ばれているのかを。
その日の夕暮れ、二人は堤の上に並んで立っていた。眼下には水をたたえた田が広がり、夕日を受けた稲が風に揺れている。遠くでは仕事を終えた農夫たちが、家族の待つ集落へ帰っていく姿が見えた。
「見事な国でございますな」
天之菩卑が静かに言った。
「民が働いてくれたからです。私は、少し手を貸しただけに過ぎませぬ」
大国主は穏やかに答えたが、その横顔には深い憂いがあった。
天之菩卑は、それ以上何も問わなかった。この人物は、大倭壱国連合へ加わることを拒んでいるのではない。長く続いた戦を終わらせることにも、倭の国々が手を結ぶことにも、反対してはいないのだろう。
ただ、自らを信じてついてきた者たちを見捨てることができず、須佐之男を慕う者たちの感情を無視することもできない。
大国主は、参加しないのではなかった。参加できないのだ。国を守り、民を守ろうとするがゆえに、国を譲るという決断を下せずにいる。
天之菩卑は夕日に染まる出雲の田を眺めながら、この国を動かすには、武力だけでも言葉だけでも足りないのだと悟った。




