八章 国譲り 一話 建御雷の台頭
西暦二百十二年。
大倭壱国連合による出雲勢力圏への侵攻が始まってから、すでに三年の歳月が流れていた。
戦は短期間で終わることなく、各地で小さな衝突を繰り返しながら続いている。
その戦いの中で、一人の若い武人が頭角を現していた。
建御雷である。
兵として戦場に立った頃とは違い、今では自ら兵を率い、戦況を見極め、判断を下す立場にまでなっていた。
幾度もの戦を経験し、その働きを認められた建御雷は、ついに一軍の将を任されるようになっていた。
出雲軍との戦いでは、大軍同士が平野で正面からぶつかるような大規模な会戦は滅多に起こらなかった。戦の大半を占めていたのは、各地に築かれた砦や環濠集落を巡る攻防である。
それは大倭壱国軍を率いる忍穂耳の方針でもあった。
余程こちらに戦力上の優位がない限り、広い平野で出雲軍との会戦には応じない。敵が攻めてくれば砦や集落を利用して守り、出雲軍が兵を集めた地域には近づかず、反対に守りの薄くなった地域を狙って兵を進める。
攻めれば退き、退けば別の場所を攻める。
それを何度も繰り返していた。
当然ながら、進軍は遅かった。一度に広大な土地を奪うような華々しい勝利もない。ひとつの砦を落とし、その周辺を固め、現地の豪族と交渉し、反乱の恐れがなくなってから、ようやく次へ進む。
だが、遅い代わりに後戻りも少なかった。
三年という年月を費やしながら、大倭壱国連合に組み込まれた国は、確実に増え続けていた。
そんな中、総指揮を執っていた忍穂耳が病に倒れ、戦場に立ち続けられる状態ではなくなったため、前線の指揮を複数の将へ分けて任せ、一時的に本国へ戻って療養することとなった。
その直後、大倭壱国連合が前線拠点として使用していた砦に、出雲軍が反攻を仕掛けてきた。あまりにも時機がよく、忍穂耳が前線を離れたことを出雲側が知っていたとしか思えない。どこからか情報が漏れているのであろう。
もっとも、不思議なことではなかった。この辺りはもともと大倭壱国の土地ではなく、戦によって出雲側から奪い取り、服属させたばかりの地域である。表向きは大倭壱国連合に従っていても、それだけで人の心まで変わるわけではない。昨日まで出雲に従っていた者もいれば、家族や親族が出雲側にいる者、大倭壱国の支配そのものを快く思っていない者も少なくなかった。
土地を占領することと、そこに暮らす人々を従わせることは同じではない。大倭壱国連合の支配下に置かれていても、この地が完全に大倭壱国のものとなったわけではなかった。
建御雷は別の地に兵を率いて駐屯していたが、前線の砦が出雲軍の襲撃を受けたとの報が届くと、すぐさま援軍を率いて現地へ向かった。問題の砦は、周囲に濠を巡らせ、その内側を土塁や柵で囲った典型的な環濠集落を利用したもので、小規模な敵部隊を防ぐ程度なら十分であったが、本格的な軍勢を長く食い止められるほど強固なものではない。
建御雷が近くまで到着した時には、すでに出雲軍の攻撃が始まっており、砦の周囲から兵たちの怒号と武器のぶつかり合う音が絶え間なく響いていた。守備兵は懸命に抵抗しているようだったが、明らかに押されている。
建御雷はそのまま街道を進まず、兵を林の中へ入れた。
「姿を見せるな。声も抑えろ」
短く命じると、自ら木々の間を進み、敵に気づかれないよう砦の様子をうかがった。林の向こうには多数の出雲兵が展開しており、建御雷はしばらく無言でその動きを目で追う。
三千……いや、四千近くいるかもしれない。対して、自分が連れてきた兵は千五百ほどであり、まともに正面からぶつかればまず勝負にはならない。
だが、建御雷は兵の数だけを見てはいなかった。敵軍の配置を一つ一つ確かめていくうち、その目がわずかに細くなる。
出雲軍は砦を攻めているものの、周囲を完全に包囲して陣を組んでいるわけではなく、兵の配置には明らかな偏りがあった。特に多くの兵が集まっているのは東側で、そこでは何度も兵が入れ替わりながら柵へ押し寄せており、出雲軍の主力が集中していることが見て取れる。
一方で、その後方への警戒は薄かった。砦を落とすことに意識を奪われているのだろう。
建御雷は木の幹に身を隠したまま、敵の東側をじっと見つめる。
数では負けている。だが、戦う場所まで敵に合わせる必要はない。
建御雷の視線は、ゆっくりと出雲軍主力のさらに後方へ移っていった。
建御雷は砦を攻める出雲軍の配置を見定めると、東側に集まっている敵主力の後方へ回り込むよう兵たちへ指示を出した。
「声を出すな。武具の音にも気をつけろ。林の中を進み、敵の背後へ回る」
命令を受けた兵たちは木々の間へ入り、枝を踏み折らぬよう足元に注意しながら、互いに声を掛けることもなく進んでいく。建御雷も先頭近くを進み、ときおり木々の隙間から砦の様子を確認したが、出雲軍の意識は完全に砦へ向いており、こちらの動きに気づいた様子はなかった。
林を利用して大きく回り込んだ建御雷の部隊は、やがて敵主力の後方へ到達した。兵たちを配置し、突撃に備えて隊列を組み直していた、その時だった。
砦の方角から、腹の底まで響くような轟音が鳴った。
建御雷が顔を上げると、破城槌が何度も叩きつけられていた門が大きく傾き、次の一撃を受けてついに内側へ倒れ込んだ。
「門が破られた……」
出雲兵たちから大きな歓声が上がり、開かれた入口へ向かって次々と兵が殺到していく。
建御雷は目を細めた。まだこちらの隊列は完全には整っておらず、本来ならもう少し時間をかけて兵を配置してから攻撃するつもりだったが、砦を落とされてからでは遅い。
迷っている時間はなかった。
建御雷は腰の剣を抜き放った。
「もう待てん」
周囲の兵たちが一斉に建御雷を見る。
建御雷は剣先を出雲軍の背へ向けた。
「このまま敵の後ろへ突っ込む。砦へ入らせるな!」
そう叫ぶと自ら駆け出した。
「行くぞ!」
その号令を合図に千を超える兵が一斉に林から飛び出し、砦の陥落を目前にしていた出雲軍の後方へ一気に襲いかかった。
破城槌の一撃でついに砦の門が開かれ、出雲兵たちは歓声を上げていた。
「門が開いたぞ!」
「押し込め!」
砦を落とすまであと一歩と見た出雲軍の意識は完全に正面へ集中し、後方への警戒が疎かになっていた。それは建御雷にとって幸運だった。林を利用して回り込んだ部隊は気づかれることなく敵主力の背後へ迫り、建御雷は好機を逃さず号令を下した。
「今だ。突撃!」
鬨の声とともに千を超える兵が一斉に出雲軍の後方へ襲いかかる。
「なっ……!」
「敵だ! 後ろに敵がいるぞ!」
「援軍だと!?」
砦を落とす寸前まで追い詰めていたはずの出雲軍にとって、背後からの急襲はまったくの想定外だった。前へ進もうとする兵と後方へ向き直ろうとする兵が入り乱れ、陣形は瞬く間に崩れていく。
その騒ぎに砦の守備兵たちも援軍の到着を悟った。
「援軍だ!」
「援軍が来たぞ!」
「押し返せ!」
「ここを通すな!」
失いかけていた士気を取り戻した守備兵たちは、破壊された門へ殺到していた出雲兵を逆に押し返し始める。前からは砦の守備兵、後ろからは建御雷の軍に攻め立てられ、挟み撃ちとなった出雲軍には急速に混乱が広がった。
「下がるな!」
「後ろにも敵がいるぞ!」
指揮官たちが必死に怒鳴るものの、恐慌に陥った兵たちを止めることはできなかった。
「もう駄目だ!」
「逃げろ!」
一人が背を向けると、それにつられるように次々と兵が逃げ始める。砦を落とす寸前まで迫っていた出雲軍は、前後からの挟撃によって一気に統率を失い、その陣は雪崩を打つように崩壊していった。
「逃げるな! 持ち場を離れるな!」
出雲軍の指揮官が声を張り上げるが、一度崩れ始めた兵たちは聞く耳を持たなかった。砦の入口から押し返され、さらに背後からも攻撃を受けたことで完全に浮き足立ち、指揮官の命令を無視して我先にと戦場から逃げ出していく。
その叫び声を耳にした建御雷は、逃げ惑う兵たちの向こうに必死で部隊を立て直そうとしている男を見つけた。
「貴様が指揮官か」
低く呟いた直後、凄まじい殺気を放ちながら逃げる兵たちの間を一直線に駆け抜ける。出雲兵が慌てて進路を塞ごうとしたが、建御雷は足を止めず、剣を振るいながら強引に突破して指揮官へ迫った。
「止めろ! そいつを――」
指揮官が命じ終えるより早く建御雷の剣が一閃し、次の瞬間には出雲軍の指揮官がその場へ崩れ落ちた。
勝敗は決した。そもそも出雲軍は砦を完全に包囲する陣形を敷かず、兵力の多くを東側へ集中させていた。その背後を突かれ、砦の守備兵との挟撃を受けたうえに指揮官まで失ったことで、もはや軍としての統率を保つことはできず、兵たちは武器を捨て、あるいは負傷した仲間を置き去りにしながら散り散りになって逃げていった。
建御雷はその様子を見渡すと、すぐに砦の守備兵へ声を飛ばした。
「門を直せ。濠と柵も確認しておけ。ここは任せる」
そして自軍へ向き直る。
「追うぞ」
周囲の兵たちが一瞬だけ顔を見合わせた。すでに砦は守り切り、敵も敗走している。本来ならば、ここで足を止めて守り切った拠点を固めるべき場面だった。
忍穂耳であれば、そうしただろう。まず橋頭堡を確保し、兵站を整え、周囲の敵情を調べてから次の進軍を考える。慎重ではあるが敗北しにくい、忍穂耳らしいやり方である。
だが今、その忍穂耳は前線にいない。
建御雷は遠ざかっていく出雲兵の背中を睨んだ。敵は崩れ、指揮官も失っている。ここで立ち止まれば、敵に立て直す時間を与えるだけだった。
「これほどの機を逃してどうする」
建御雷は剣についた血を振り払い、その切っ先を逃げる敵へ向けた。
「追撃する。立ち直る暇を与えるな」
号令とともに兵たちが動き出した。忍穂耳がいれば止められていたかもしれない。だが今、建御雷を縛る者はいなかった。
建御雷の軍は、逃走する出雲軍を追ってさらに西へ進んだ。敗走した兵たちは各地へ散り、近隣の村や砦へ逃げ込んでいたが、建御雷は立て直す暇を与えなかった。追撃の勢いそのままに敵方の村々へ兵を進め、抵抗する者を退けながら次々と制圧していく。
さらに一つの小国へ踏み込み、守備兵が籠もる砦へ攻撃を仕掛けた。先ほどの敗戦はすでに周辺へ伝わっていたらしく、出雲側の兵たちにも動揺が広がっている。守備側は十分な態勢を整えることができず、一つ目の砦はほどなく陥落した。
建御雷はそこで止まらなかった。
「次へ進む」
兵を休ませる間も惜しむように軍を動かし、さらに先にある砦へ迫った。二つ目の砦も抵抗を続けたものの、敗走兵が流れ込んだことで内部の指揮は乱れていた。建御雷はその隙を逃さず攻撃を集中させ、ついには門を破って兵をなだれ込ませた。
こうして援軍から始まった戦いは、複数の村、一つの国、そして二つの砦を大倭壱国連合の勢力下へ置くという大きな戦果へと変わった。地図の上で見ればわずかな変化に過ぎないが、それまで慎重に少しずつ西へ伸びていた大倭壱国連合の勢力圏が、この戦いだけで大きく出雲側へ食い込んだのである。
兵たちは勝利に沸いた。しかし、建御雷だけは西の空を見つめたままだった。その視線の遥か先にあるのは出雲である。
「……まだだ」
本心では、このまま進みたかった。敗走する敵を追い、さらに国を落とし、砦を奪い、そのまま出雲本国まで攻め込みたかったのである。
だが、さすがに進み過ぎていた。数日間、追撃で戦い続けた兵たちは疲れ切り、負傷者も少なくない。補給のための道も急いで確保しなければならず、占領した村や国には兵を残して治安を維持する必要もあった。軍は戦に勝つだけでは前へ進めない。兵に食わせる米が必要であり、武器を修理する者も、傷ついた兵を治療する場所も、奪った土地を治める者も必要になる。ここからさらに西へ進めば、今度は伸び切った自軍が敵地の中で孤立しかねなかった。
建御雷にも、それが分からないほど戦が見えていないわけではない。それでも西の先に出雲があると思えば、拳には自然と力が入った。あと少し進みたい。その思いを抑えきれなかったが、その「あと少し」を無理に進めば、今日手に入れたものまで失いかねないことも理解していた。
「ここまでだ」
建御雷はようやく進軍を諦めた。
「追撃を止める。負傷者を集めろ。落とした砦を修復し、道を確保する」
命令を受けた兵たちがそれぞれの役目へ動き始める中、建御雷はその様子を見届けてから、もう一度西へ目を向けた。
出雲はまだ遠い。それでも以前より確実に近くなっている。幼い頃から胸の奥に焼きつき、決して消えることのなかった場所。両親を奪った者たちの国が、この先にある。
いつか必ず、あそこまで行く。
今日、一歩近づいたのなら、次の戦でもう一歩近づけばいい。何年かかろうとも構わなかった。
出雲へ辿り着くことは、もはや一軍の将として与えられた任務だけではない。それこそが、建御雷が人生を懸けて追い続けてきた目的だった。の戦を経験し、その働きを認められた建御雷は、ついに一軍の将を任されるようになっていた。
出雲軍との戦いでは、大軍同士が平野で正面からぶつかるような大規模な会戦は滅多に起こらなかった。戦の大半を占めていたのは、各地に築かれた砦や環濠集落を巡る攻防である。
それは大倭壱国軍を率いる忍穂耳の方針でもあった。
余程こちらに戦力上の優位がない限り、広い平野で出雲軍との会戦には応じない。敵が攻めてくれば砦や集落を利用して守り、出雲軍が兵を集めた地域には近づかず、反対に守りの薄くなった地域を狙って兵を進める。
攻めれば退き、退けば別の場所を攻める。
それを何度も繰り返していた。
当然ながら、進軍は遅かった。一度に広大な土地を奪うような華々しい勝利もない。ひとつの砦を落とし、その周辺を固め、現地の豪族と交渉し、反乱の恐れがなくなってから、ようやく次へ進む。
だが、遅い代わりに後戻りも少なかった。
三年という年月を費やしながら、大倭壱国連合に組み込まれた国は、確実に増え続けていた。
そんな中、総指揮を執っていた忍穂耳が病に倒れ、戦場に立ち続けられる状態ではなくなったため、前線の指揮を複数の将へ分けて任せ、一時的に本国へ戻って療養することとなった。
その直後、大倭壱国連合が前線拠点として使用していた砦に、出雲軍が反攻を仕掛けてきた。あまりにも時機がよく、忍穂耳が前線を離れたことを出雲側が知っていたとしか思えない。どこからか情報が漏れているのであろう。
もっとも、不思議なことではなかった。この辺りはもともと大倭壱国の土地ではなく、戦によって出雲側から奪い取り、服属させたばかりの地域である。表向きは大倭壱国連合に従っていても、それだけで人の心まで変わるわけではない。昨日まで出雲に従っていた者もいれば、家族や親族が出雲側にいる者、大倭壱国の支配そのものを快く思っていない者も少なくなかった。
土地を占領することと、そこに暮らす人々を従わせることは同じではない。大倭壱国連合の支配下に置かれていても、この地が完全に大倭壱国のものとなったわけではなかった。
建御雷は別の地に兵を率いて駐屯していたが、前線の砦が出雲軍の襲撃を受けたとの報が届くと、すぐさま援軍を率いて現地へ向かった。問題の砦は、周囲に濠を巡らせ、その内側を土塁や柵で囲った典型的な環濠集落を利用したもので、小規模な敵部隊を防ぐ程度なら十分であったが、本格的な軍勢を長く食い止められるほど強固なものではない。
建御雷が近くまで到着した時には、すでに出雲軍の攻撃が始まっており、砦の周囲から兵たちの怒号と武器のぶつかり合う音が絶え間なく響いていた。守備兵は懸命に抵抗しているようだったが、明らかに押されている。
建御雷はそのまま街道を進まず、兵を林の中へ入れた。
「姿を見せるな。声も抑えろ」
短く命じると、自ら木々の間を進み、敵に気づかれないよう砦の様子をうかがった。林の向こうには多数の出雲兵が展開しており、建御雷はしばらく無言でその動きを目で追う。
三千……いや、四千近くいるかもしれない。対して、自分が連れてきた兵は千五百ほどであり、まともに正面からぶつかればまず勝負にはならない。
だが、建御雷は兵の数だけを見てはいなかった。敵軍の配置を一つ一つ確かめていくうち、その目がわずかに細くなる。
出雲軍は砦を攻めているものの、周囲を完全に包囲して陣を組んでいるわけではなく、兵の配置には明らかな偏りがあった。特に多くの兵が集まっているのは東側で、そこでは何度も兵が入れ替わりながら柵へ押し寄せており、出雲軍の主力が集中していることが見て取れる。
一方で、その後方への警戒は薄かった。砦を落とすことに意識を奪われているのだろう。
建御雷は木の幹に身を隠したまま、敵の東側をじっと見つめる。
数では負けている。だが、戦う場所まで敵に合わせる必要はない。
建御雷の視線は、ゆっくりと出雲軍主力のさらに後方へ移っていった。
建御雷は砦を攻める出雲軍の配置を見定めると、東側に集まっている敵主力の後方へ回り込むよう兵たちへ指示を出した。
「声を出すな。武具の音にも気をつけろ。林の中を進み、敵の背後へ回る」
命令を受けた兵たちは木々の間へ入り、枝を踏み折らぬよう足元に注意しながら、互いに声を掛けることもなく進んでいく。建御雷も先頭近くを進み、ときおり木々の隙間から砦の様子を確認したが、出雲軍の意識は完全に砦へ向いており、こちらの動きに気づいた様子はなかった。
林を利用して大きく回り込んだ建御雷の部隊は、やがて敵主力の後方へ到達した。兵たちを配置し、突撃に備えて隊列を組み直していた、その時だった。
砦の方角から、腹の底まで響くような轟音が鳴った。
建御雷が顔を上げると、破城槌が何度も叩きつけられていた門が大きく傾き、次の一撃を受けてついに内側へ倒れ込んだ。
「門が破られた……」
出雲兵たちから大きな歓声が上がり、開かれた入口へ向かって次々と兵が殺到していく。
建御雷は目を細めた。まだこちらの隊列は完全には整っておらず、本来ならもう少し時間をかけて兵を配置してから攻撃するつもりだったが、砦を落とされてからでは遅い。
迷っている時間はなかった。
建御雷は腰の剣を抜き放った。
「もう待てん」
周囲の兵たちが一斉に建御雷を見る。
建御雷は剣先を出雲軍の背へ向けた。
「このまま敵の後ろへ突っ込む。砦へ入らせるな!」
そう叫ぶと自ら駆け出した。
「行くぞ!」
その号令を合図に千を超える兵が一斉に林から飛び出し、砦の陥落を目前にしていた出雲軍の後方へ一気に襲いかかった。
破城槌の一撃でついに砦の門が崩れ落ちると、出雲兵たちは歓声を上げた。
「門が開いたぞ!」
「押し込め!」
砦を落とすまであと一歩と見た出雲軍の意識は完全に正面へ集中し、後方への警戒が疎かになっていた。それは建御雷にとって幸運だった。林を利用して回り込んだ部隊は気づかれることなく敵主力の背後へ迫り、建御雷は好機を逃さず号令を下した。
「今だ。突撃!」
鬨の声とともに千を超える兵が一斉に出雲軍の後方へ襲いかかる。
「なっ……!」
「敵だ! 後ろに敵がいるぞ!」
「援軍だと!?」
砦を落とす寸前まで追い詰めていたはずの出雲軍にとって、背後からの急襲はまったくの想定外だった。前へ進もうとする兵と後方へ向き直ろうとする兵が入り乱れ、陣形は瞬く間に崩れていく。
その騒ぎに砦の守備兵たちも援軍の到着を悟った。
「援軍だ!」
「援軍が来たぞ!」
「押し返せ!」
「ここを通すな!」
失いかけていた士気を取り戻した守備兵たちは、破壊された門へ殺到していた出雲兵を逆に押し返し始める。前からは砦の守備兵、後ろからは建御雷の軍に攻め立てられ、挟み撃ちとなった出雲軍には急速に混乱が広がった。
「下がるな!」
「後ろにも敵がいるぞ!」
指揮官たちが必死に怒鳴るものの、恐慌に陥った兵たちを止めることはできなかった。
「もう駄目だ!」
「逃げろ!」
一人が背を向けると、それにつられるように次々と兵が逃げ始める。砦を落とす寸前まで迫っていた出雲軍は、前後からの挟撃によって一気に統率を失い、その陣は雪崩を打つように崩壊していった。
「逃げるな! 持ち場を離れるな!」
出雲軍の指揮官が声を張り上げるが、一度崩れ始めた兵たちは聞く耳を持たなかった。砦の入口から押し返され、さらに背後からも攻撃を受けたことで完全に浮き足立ち、指揮官の命令を無視して我先にと戦場から逃げ出していく。
その叫び声を耳にした建御雷は、逃げ惑う兵たちの向こうに必死で部隊を立て直そうとしている男を見つけた。
「貴様が指揮官か」
低く呟いた直後、凄まじい殺気を放ちながら逃げる兵たちの間を一直線に駆け抜ける。出雲兵が慌てて進路を塞ごうとしたが、建御雷は足を止めず、剣を振るいながら強引に突破して指揮官へ迫った。
「止めろ! そいつを――」
指揮官が命じ終えるより早く建御雷の剣が一閃し、次の瞬間には出雲軍の指揮官がその場へ崩れ落ちた。
勝敗は決した。そもそも出雲軍は砦を完全に包囲する陣形を敷かず、兵力の多くを東側へ集中させていた。その背後を突かれ、砦の守備兵との挟撃を受けたうえに指揮官まで失ったことで、もはや軍としての統率を保つことはできず、兵たちは武器を捨て、あるいは負傷した仲間を置き去りにしながら散り散りになって逃げていった。
建御雷はその様子を見渡すと、すぐに砦の守備兵へ声を飛ばした。
「門を直せ。濠と柵も確認しておけ。ここは任せる」
そして自軍へ向き直る。
「追うぞ」
周囲の兵たちが一瞬だけ顔を見合わせた。すでに砦は守り切り、敵も敗走している。本来ならば、ここで足を止めて守り切った拠点を固めるべき場面だった。
忍穂耳であれば、そうしただろう。まず橋頭堡を確保し、兵站を整え、周囲の敵情を調べてから次の進軍を考える。慎重ではあるが敗北しにくい、忍穂耳らしいやり方である。
だが今、その忍穂耳は前線にいない。
建御雷は遠ざかっていく出雲兵の背中を睨んだ。敵は崩れ、指揮官も失っている。ここで立ち止まれば、敵に立て直す時間を与えるだけだった。
「これほどの機を逃してどうする」
建御雷は剣についた血を振り払い、その切っ先を逃げる敵へ向けた。
「追撃する。立ち直る暇を与えるな」
号令とともに兵たちが動き出した。忍穂耳がいれば止められていたかもしれない。だが今、建御雷を縛る者はいなかった。
建御雷の軍は、逃走する出雲軍を追ってさらに西へ進んだ。敗走した兵たちは各地へ散り、近隣の村や砦へ逃げ込んでいたが、建御雷は立て直す暇を与えなかった。追撃の勢いそのままに敵方の村々へ兵を進め、抵抗する者を退けながら次々と制圧していく。
さらに一つの小国へ踏み込み、守備兵が籠もる砦へ攻撃を仕掛けた。先ほどの敗戦はすでに周辺へ伝わっていたらしく、出雲側の兵たちにも動揺が広がっている。守備側は十分な態勢を整えることができず、一つ目の砦はほどなく陥落した。
建御雷はそこで止まらなかった。
「次へ進む」
兵を休ませる間も惜しむように軍を動かし、さらに先にある砦へ迫った。二つ目の砦も抵抗を続けたものの、敗走兵が流れ込んだことで内部の指揮は乱れていた。建御雷はその隙を逃さず攻撃を集中させ、ついには門を破って兵をなだれ込ませた。
こうして援軍から始まった戦いは、複数の村、一つの国、そして二つの砦を大倭壱国連合の勢力下へ置くという大きな戦果へと変わった。地図の上で見ればわずかな変化に過ぎないが、それまで慎重に少しずつ西へ伸びていた大倭壱国連合の勢力圏が、この戦いだけで大きく出雲側へ食い込んだのである。
兵たちは勝利に沸いた。しかし、建御雷だけは西の空を見つめたままだった。その視線の遥か先にあるのは出雲である。
「……まだだ」
本心では、このまま進みたかった。敗走する敵を追い、さらに国を落とし、砦を奪い、そのまま出雲本国まで攻め込みたかったのである。
だが、さすがに進み過ぎていた。数日間、追撃で戦い続けた兵たちは疲れ切り、負傷者も少なくない。補給のための道も急いで確保しなければならず、占領した村や国には兵を残して治安を維持する必要もあった。軍は戦に勝つだけでは前へ進めない。兵に食わせる米が必要であり、武器を修理する者も、傷ついた兵を治療する場所も、奪った土地を治める者も必要になる。ここからさらに西へ進めば、今度は伸び切った自軍が敵地の中で孤立しかねなかった。
建御雷にも、それが分からないほど戦が見えていないわけではない。それでも西の先に出雲があると思えば、拳には自然と力が入った。あと少し進みたい。その思いを抑えきれなかったが、その「あと少し」を無理に進めば、今日手に入れたものまで失いかねないことも理解していた。
「ここまでだ」
建御雷はようやく進軍を諦めた。
「追撃を止める。負傷者を集めろ。落とした砦を修復し、道を確保する」
命令を受けた兵たちがそれぞれの役目へ動き始める中、建御雷はその様子を見届けてから、もう一度西へ目を向けた。
出雲はまだ遠い。それでも以前より確実に近くなっている。幼い頃から胸の奥に焼きつき、決して消えることのなかった場所。両親を奪った者たちの国が、この先にある。
いつか必ず、あそこまで行く。
今日、一歩近づいたのなら、次の戦でもう一歩近づけばいい。何年かかろうとも構わなかった。
出雲へ辿り着くことは、もはや一軍の将として与えられた任務だけではない。それこそが、建御雷が人生を懸けて追い続けてきた目的だった。




