八章 国譲り 二話 宇佐遷都
西暦二百十四年。
大倭壱国は、宇佐の地に新たな主祭殿を完成させていた。
広く整えられた祭祀の場、その中央にそびえるのは三階建ての巨大な高床建築である。太い柱を幾重にも組み合わせ、遠くからでもその姿を望むことができた。
この主祭殿は、単なる政務のための建物ではない。
女王日巫女が神託の儀を執り行うために造られた、大倭壱国にとって最も神聖な場所であった。
建物の内部にも、厳しい決まりが設けられている。
一階には祭祀に必要な品々が収められ、許された者であれば出入りすることができた。
二階へ上がることを許されるのは、重臣や各地の有力者など、ごく限られた者だけである。
そして三階。
そこは女王日巫女のためだけに設けられた空間だった。
日巫女本人と、その身の回りの世話を任された僅かな者を除き、何人たりとも足を踏み入れることは許されない。
たとえ日巫女の血族であろうと、その決まりに例外はなかった。
その日、忍穂耳は主祭殿の二階にいた。外から差し込む日の光が、板張りの床へ長く伸びている。
階下では人々が慌ただしく行き交っていたが、二階まで上がってくる者はほとんどいない。
忍穂耳は入口から少し離れた場所に座り、静かに待っていた。待っている相手は、この大倭壱国を率いる女王。そして、自らの母でもある日巫女であった。
そこに山門から移動してきた日巫女の一行が到着し、日巫女は新たに築かれた主祭殿へと足を踏み入れた。三階建ての主祭殿の二階では、すでに忍穂耳が母の到着を待っていた。
階段から日巫女が姿を現すと、忍穂耳はすぐにその場へ伏し、深く頭を下げる。
「お待ちしておりました。遠路、ご苦労様でした」
日巫女は忍穂耳の前まで歩み寄ると、まずは主祭殿の内部を見回した。太い柱が規則正しく並び、床や壁も丁寧に仕上げられている。山門を発ってから宇佐へ入るまでに目にした周辺の様子もよく整えられていた。主祭殿だけではなく、周囲には新たな建物が建ち並び、道や水路も整備されている。短期間でここまで形にした息子の働きに、日巫女は満足そうに頷いた。
「忍穂耳、この祭殿をよく建ててくれました。周辺もよく治めていますね」
「はっ」
忍穂耳は再び深く頭を下げた。
忍穂耳は以前、出雲方面軍を率いて前線に立っていたが、その最中に病に倒れていた。一度は療養によって体調を取り戻し、本人の強い希望もあって前線へ復帰したものの、間もなく再び倒れてしまったのである。
二度目に倒れたとの報告を受けた日巫女は、これ以上前線で指揮を執らせることはできないと判断した。忍穂耳から出雲方面軍の指揮官としての役目を解き、代わって宇佐の地に建てる主祭殿の建築と、その周辺に築かれる建物や土地の整備を監督する役目を与えたのである。
もっとも、病み上がりの忍穂耳へすべてを任せたわけではなかった。建築や物資の管理、周辺の整備など、それぞれの仕事を担当する補佐を複数置き、忍穂耳一人に負担が集中しないよう日巫女自身が配慮していた。
それでも忍穂耳は任された仕事に手を抜かなかった。前線から離されたことに思うところがなかったわけではない。それでも母から新たに与えられた役目である以上、やるべきことを果たそうと、補佐の者たちに指示を出しながら主祭殿の建築を進め、周辺の整備にも目を配ってきた。
その成果が、今の日巫女の目の前に広がっていた。
幸い、出雲方面では建御雷を中心に侵攻は順調に進んでおり、大倭壱国連合の勢力は着実に東へ伸び、ついには出雲本国へ迫りつつあるという報告まで届いていた。長い年月を費やしたものの、出雲との戦いにもようやく終わりが見え始めている。
日巫女は祭殿から宇佐の地を眺めながら、ここへ至るまでの長い道のりを思い返すように静かに口を開いた。
「やっとこの地に来ることができました。この地であれば瀬戸内にも近く、さらに近畿への道も開けます」
「たしかに、出雲方面軍にも目が届きやすく、まさに良き土地です」
忍穂耳も日巫女の言葉に同意した。宇佐は山門よりも東に位置し、出雲方面で戦う軍との距離も近くなる。それだけではなく、瀬戸内海を通じてさらに東へ勢力を伸ばしていくことを考えれば、大倭壱国にとって重要な拠点となることは間違いなかった。
しばらく新しく完成した祭殿について話していた忍穂耳だったが、やがて姿勢を正すと、以前から胸の内に抱えていた願いを日巫女へ申し出た。
「母上、遷都の任務は果たしました。体の調子も戻ってきました。私をどうか前線に戻していただけないでしょうか?」
日巫女はすぐには答えなかった。忍穂耳が前線へ戻りたがっていることは以前から分かっていた。一度は病を治して出雲方面軍へ復帰しようとしたものの、その途中で再び体調を崩して倒れてしまったのである。そのため日巫女は忍穂耳から出雲方面軍の指揮を外し、宇佐での主祭殿建築と周辺整備の監督を任せていた。
忍穂耳自身にしてみれば、病によって戦場から離れたことへの悔しさが残っていた。体調さえ戻れば再び軍を率いるつもりでおり、宇佐での役目を無事に終えた今こそ前線へ復帰する機会だと考えていたのである。
しかし、日巫女の考えは違っていた。忍穂耳の体を心配していたこともあるが、すでに出雲方面では建御雷をはじめとした新しい世代の将たちが育ち始めている。忍穂耳が無理をして再び前線へ戻らなくとも、侵攻そのものは順調に進んでいた。
「忍穂耳……今の出雲方面軍には、すでに新しい将たちが育っています。新しい力で順調に進軍しています。今はそっと見守っておけばよいのです。あなたが出る時は問題が起きた時でよい。それよりも、この新しい宇佐の地を守り、私の警護も兼ねて傍に控えてほしい」
忍穂耳はすぐには返事をしなかった。自分はまだ戦えるという思いがあり、若い将たちに負けるつもりもなかった。建御雷たちが活躍していることは喜ばしいことである一方、自分だけが戦場から離れたままでいることには、どうしても歯痒さを覚えてしまう。
それでも、日巫女が自分を前線へ戻すつもりがないことは、その言葉から十分に伝わってきた。何より女王から直接与えられた役目である以上、忍穂耳に逆らうという選択肢はなかった。
前線への未練を残しながらも、忍穂耳は日巫女の命を受け入れ、当面の間は宇佐に留まり、この地の守りと日巫女の身辺警護を務めることになった。
日巫女は忍穂耳の身を案じながらも、新たな地へ移った意味を改めて胸に刻んでいた。宇佐は山門とは違い、瀬戸内海へ進むにも、出雲へ目を向けるにも都合がよく、さらにその先には近畿がある。長く続いた倭国大乱を終え、大倭壱国の勢力はすでに筑紫だけに留まるものではなくなっていた。
ここから先は、失った土地を取り戻すための戦いではない。倭を一つにするための戦いになる。出雲への侵攻を進めながら瀬戸内海の国々を少しずつ連合へ取り込み、その道をさらに東へ伸ばしていく。そして、その先にある最大の勢力が三輪山だった。
かつて自ら養子として迎え、十種神宝を授けた邇芸速日。今では近畿のみならず、その東にまで強い影響を持つ一国の主となっている。日巫女は静かに東の方角へ目を向けた。
宇佐への遷都は、ただ都を移しただけではない。大倭壱国が倭国統一へ向けて本格的に東へ進み始めたことを意味していた。いずれ、この地から三輪山と向き合う時が来る。日巫女には、それが避けて通れぬ道であることが分かっていた。




