八章 国譲り 三話 月読の瀬戸内侵略
八章 国譲り 三話 月読の瀬戸内侵略
西暦二百十五年。大倭壱国連合の影響力は、すでに筑紫だけに留まるものではなくなっていた。長く続いた倭国大乱を経て、その勢力は海を越え、瀬戸内海へと深く浸透している。その中心にいたのが、伊予を治める月読であった。
月読が伊予の地を治めるようになってから、すでに二十一年の歳月が流れていた。当初、月読が何よりも優先したのは、新たな土地を奪うことではなかった。まず伊予の国内を安定させ、争っていた豪族同士を仲裁し、海沿いの邑を整え、港を広げる。さらに海人たちをまとめ、船の往来を増やし、島々との交易路を整えていった。
もともと壱岐を中心に対馬や末盧の海人族を束ね、長く海とともに生きてきた月読である。海路をどのように押さえれば物が動き、人が集まり、国が豊かになるのかをよく知っていた。瀬戸内海には大小無数の島が浮かび、その沿岸には数多くの邑や小国家が存在している。一つ一つを兵で攻め落としていては、いくら兵があっても足りない。だからこそ月読は急がなかった。
まず船を送り、米を運び、鉄器を運び、布を運び、塩を運ぶ。帰りの船には、その土地で採れた産物を積ませた。交易が続けば人が往来し、人が往来すれば互いの事情も分かる。やがて伊予へ使者を送ってくる国が現れ、海賊への対処を頼む国もあれば、争いの仲裁を求める邑もあった。凶作の年には食糧の融通を願い出る者もいる。
月読は、それらを可能な限り受け入れた。ただし、その見返りとして服従を迫るようなことはしなかった。交易を続け、困った時には助ける。そして大倭壱国連合に加われば、さらに広い地域との交易が可能になることを伝える。それだけであった。
一年、二年で大きく勢力が変わったわけではない。五年、十年と歳月を重ねるうちに、少しずつ状況は変わっていった。最初は伊予と交易するだけだった国が、やがて周辺国との争いを月読に仲裁してもらうようになり、その次には大倭壱国連合の国々とも交易を始める。そして最後には、自ら連合への加盟を願い出る。そのような国が一つ、また一つと増えていったのである。
月読は軍勢を率いて国境を踏み越えることなく、瀬戸内海に大倭壱国連合の影響を広げ続けていた。もちろん、すべてが穏やかに進んだわけではない。大倭壱国連合への加盟に反対する豪族もいれば、伊予の勢力拡大を警戒する国もあった。だが月読は、そのたびに兵を出すことを避けた。反対する者がいるなら待ち、交易だけを続けたのである。
隣国が豊かになっていく様子を見せればよい。大倭壱国連合へ加わったことで港が栄え、鉄器が手に入り、凶作の際には他国から米が届く。それを見れば、人の心は少しずつ変わる。月読にとって、二十年という年月は決して長くなかった。
普通の人間ならば、一人の統治者が二十年以上同じ政策を続けることは容易ではない。老いもすれば病にも倒れ、やがて次の世代へ国を渡さなければならない。しかし月読には、その必要がなかった。七十を越えてなお、その姿は若い頃とほとんど変わらない。
昨日まで交渉していた豪族が年老いて息子へ家督を譲っても、その息子の前に現れる月読は昔のままである。さらに年月が過ぎ、その息子まで白髪になっても月読は変わらない。瀬戸内の人々にとって、それは次第に当たり前ではない存在となっていった。
伊予には、歳を取らぬ主がいる。大倭壱国の女王と同じく、神に近い血を持つ者なのだという噂さえ広がった。月読自身は、そのような噂を否定も肯定もしなかった。ただ、これまでと変わらず船を出し、人と会い、交易を続けた。
そうして二十一年。かつては伊予だけであった大倭壱国連合の勢力は、今や瀬戸内海の各地へ点々と広がり、それぞれが海路によって結ばれていた。船が行き交い、人が行き交い、物が行き交う。そして、それとともに大倭壱国という名も東へ運ばれていった。
武力によって一気に奪った土地ではない。二十年以上の歳月をかけて、一つずつ結んできた国々である。月読が築いていたものは、単なる伊予の勢力圏ではなくなりつつあった。瀬戸内海そのものが、大倭壱国連合の東西を結ぶ巨大な道へと変わろうとしていたのである。
ただ一つ、吉備の国だけは大倭壱国連合に加わることなく、長く中立の立場を維持していた。
吉備の主である吉備冠者は、大倭壱国連合との交易を続ける一方、東の三輪山とも交易を行っている。どちらか一方に与することはなく、双方との関係を保つことで独立した立場を守り続けていたのである。
だが月読にとって、吉備の存在は無視できるものではなかった。吉備は瀬戸内海沿岸でも三輪山に次ぐ大きな勢力を持ち、その位置も三輪山に近い。大倭壱国連合が今後さらに東へ勢力を伸ばし、いずれ三輪山へ兵を進めることになれば、吉備はその進路のすぐ後方に位置することになる。
もし三輪山への侵攻中に吉備が敵へ回れば、進軍する軍の背後を突かれるだけではない。瀬戸内海を通じて運ばれる兵糧や物資を狙われ、退路まで脅かされる恐れがあった。いかに大軍を送り込もうとも、後方にこれほど大きな勢力を残したまま戦うことは危険だった。
大倭壱国連合が瀬戸内海への進出を進め、その先にある三輪山を見据える以上、吉備はどうしても外すことのできない国なのである。
月読は使者を送って交渉を重ねるより、自ら吉備冠者と話をすることを決めた。長く中立を守ってきた相手だけに、他人に任せるより自分が直接出向いた方がよいと考えたのである。
月読は留守の間の伊予を息子たちと重臣に任せ、それぞれに政務や軍、海人たちの統率を命じた。自らがしばらく国を離れても支障が出ないよう必要な指示を済ませると、供を連れて伊予を発つ。
目指す先は吉備。
長く中立を貫いてきた吉備冠者を、大倭壱国連合へ引き入れるためであった。
吉備に到着した月読は、吉備冠者との面会を求め、その本拠である山城へと向かった。険しい山道を登り、幾重もの柵や門を抜けた先で、ようやく吉備冠者との面会が叶った。
広間に姿を現した月読を見るなり、吉備冠者は挨拶もそこそこに、その姿を上から下まで眺めた。しばらく黙っていたが、やがて不思議そうに尋ねる。
「伊予の主殿よ、貴殿はいくつになられる?」
唐突な問いに月読は少し考え込み、記憶を辿るように視線を上へ向けた。
「さあ、数えるのをやめましたが、たしか七十を超えたかと」
「七十……」
吉備冠者は思わず呟き、改めて月読の顔をまじまじと見つめた。どう見ても七十を越えた老人には見えない。顔には深い皺一つなく、髪にも白いものは見当たらず、身体にも老いによる衰えは感じられない。目の前に立っている姿だけを見れば、せいぜい二十代ほどの青年にしか見えなかった。
もちろん吉備冠者も、月読の名は以前から知っていた。半世紀以上も前に壱岐の主となり、対馬や末盧を含めた海人族を束ね、倭国大乱では海上から出雲軍を苦しめ続け、大倭壱国連合を勝利へ導いた功労者の一人である。その後は伊予へ渡り、すでに二十年以上にわたって国を治めている。
経歴だけを聞けば、とっくに老境へ入っていて当然の人物だった。
大倭壱国の女王日巫女や、その弟である月読は歳を取らない。人ならざる力を持ち、神の使いとも呼ばれている。そのような話は遠く離れた吉備にも以前から伝わっていた。
だが吉備冠者にとって、それはあくまで人づてに聞いた噂でしかなかった。遠い土地の話など、伝わる間に尾ひれがつき、実際より大きな話になることなど珍しくもない。日巫女や月読についての話も、その類だろうと思っていた。
ところが、その月読本人が今、目の前にいる。
半世紀以上前から名を知られ、七十を越えてなお、青年と変わらぬ姿をしている。
吉備冠者はしばらく言葉を失い、月読の顔を見つめ続けた。
「……なるほど」
「何か?」
「いや。噂というものは、大抵は話が大きくなるものだと思っていたのでな」
吉備冠者はそう言って、自分の顎を撫でながら苦笑した。
「どうやら今回は、噂の方が控えめだったらしい」
月読はその言葉を聞くと、特に否定することもなく、わずかに口元を緩めた。
吉備冠者はすでに五十を越えていた。身体はまだ動き、頭の衰えも感じてはいない。自分が健在である間なら、吉備を守り、三輪山とも大倭壱国連合とも渡り合っていける自負がある。
だが、いつまでも自分が吉備を治められるわけではない。そろそろ後継者へ国を託すことも考えなければならない時期に来ていた。
問題は、その後だった。
自分がいなくなった後、次の世代が目の前の男と渡り合えるのか。
月読が壱岐の主となったのは半世紀以上も昔のことである。倭国大乱では海人族を率いて大倭壱国連合を支え、その後は伊予の主となり、二十年以上にわたって瀬戸内海へ影響力を広げ続けてきた。
それだけ長い年月を生きているというのに、目の前の月読は青年にしか見えない。
自分が老いて死んでも、月読は変わらぬ姿で吉備の前に立ち続けるのかもしれない。吉備冠者には、そのことが何よりも不気味だった。
そんな胸中を知ってか知らずか、月読は穏やかな口調で語りかける。
「我ら大倭壱国連合は倭国を一つにする為に、様々な国々を連合に加盟させてきました。これも平和の為、そして将来の倭国の為です」
吉備冠者は腕を組んだまま、月読を見据えた。
「だが、三輪山は参加すまい。須佐之男王の息子が主だしな、しかも邇芸速日は戦で負けたこともない無敗の将でもある。あの天才に勝てるとでも?」
それを聞いた月読は、不敵な笑みを浮かべた。
「甥の邇芸速日はよく知っています。政治では東の諸国を従わせ、その勢力は大倭壱国連合に負けません。戦となれば必ず勝ち、負けたことがない無敗の将。私も、あれを侮るつもりはありません」
月読は邇芸速日の力を否定しなかった。むしろ誰よりも近しい血縁だからこそ、その恐ろしさを理解していた。父である須佐之男のような圧倒的な武力も妖力も持たず、それでも知略だけで戦に勝ち続け、三輪山を中心として東の諸国にまで影響力を伸ばした。月読から見ても、甥の能力は疑いようのないものだった。
だが、月読には一つだけ決定的な違いが見えていた。
「だが、邇芸速日は我ら一族の妖力も長寿もない」
「ほう」
吉備冠者は目を細めた。言われてみれば、その通りだった。吉備冠者も邇芸速日とはこれまで数度会ったことがある。最初に会った頃と最後に会った時とでは、その容姿は明らかに変わっていた。若者だった男が年齢を重ね、顔には歳月が刻まれ、髪にも白いものが混じり始めている。どれほど優れた知略を持ち、戦場で無敗を誇ろうとも、邇芸速日は普通に歳を取っているのである。
目の前の月読とは違う。七十を越えてなお青年の姿を保っている月読と違い、邇芸速日は須佐之男の子でありながら妖力も不老長寿も受け継がなかった。戦場では誰にも負けない男であっても、老いにだけは勝つことができない。
月読は静かに続けた。
「邇芸速日もいつかなくなります。何も生きている間に無理に戦いをすることもない」
吉備冠者はしばらく何も言わなかった。その言葉の意味を考えるうちに、月読が何を見据えているのかが少しずつ分かってきた。
月読は邇芸速日に勝つ方法を考えているのではない。そもそも邇芸速日と戦って勝つ必要がないと考えているのだ。戦えば必ず勝つ男ならば、その男が生きている間は戦わなければよい。十年でも二十年でも待ち、邇芸速日が老いてその生涯を終えるまで三輪山との決戦を避ければいい。それまで瀬戸内海の国々を少しずつ大倭壱国連合へ取り込み、交易と婚姻を通じて影響力を広げ、三輪山の周囲を時間をかけて固めていけばよいのである。
邇芸速日がどれほど優れた統治者であっても、その生涯には終わりがある。だが月読には、その終わりを待つことのできる時間があった。しかもただ待つだけではない。その間にも伊予を固め、瀬戸内海へ勢力を広げ、三輪山へ至る道を一つずつ大倭壱国連合の側へ引き寄せていくことができる。
吉備冠者は改めて月読の顔を見た。七十を越えたという男の顔には、老いの影などほとんど見当たらない。その姿を見ているうちに、自分と月読では国を考える時の尺度そのものが違うのだと気づかされた。
吉備冠者が考える十年は、自らの残された生涯の大きな部分を占める。二十年ともなれば、自分が生きているかどうかさえ分からない。だが月読にとっての十年や二十年は、待つことのできる年月なのだ。
自分がこの世を去れば、吉備は後継者の時代になる。その後継者もいずれ老いて、さらに次の世代へ国を渡す時が来るかもしれない。それでも月読は、変わらぬ姿で瀬戸内海に君臨している可能性がある。
そして、そのことは三輪山も同じだった。今は邇芸速日という天才がいる。だから大倭壱国連合も容易には手を出さない。だが邇芸速日が亡くなれば、その後を継ぐ者まで同じように無敗の将である保証などない。優れた統治者の子が、同じだけ優れた統治者になるとは限らないのである。
吉備冠者はそこで、自分自身の不安と月読の考えが同じ場所へ行き着いていることに気づいた。自分が最初に考えていたのも、まさに後継者の問題だった。自分ならば月読とも交渉できる。三輪山とも付き合っていける。だが自分の後を継ぐ者まで同じことができるとは限らない。
月読はその弱点を三輪山にも見ているのだろう。
戦場で無敗の邇芸速日を倒す必要などない。邇芸速日が老いて亡くなった後、その後継者と向き合えばいい。その頃まで月読が生き続けているのであれば、経験の差は今よりもさらに大きくなる。
吉備冠者は思わず小さく息を吐いた。
武力でも兵力でもない。月読にとっては、歳月そのものが武器なのだ。相手が自分より強ければ、弱くなるまで待てばよい。弱くならないのであれば、その者が死ぬまで待てばよい。その間、自分は国を治め、味方を増やし、次の機会に備え続けることができる。
それは戦場で敵を打ち破るような華々しい勝利ではない。しかし国同士の争いとなれば、これほど厄介な相手もいなかった。
吉備冠者は目の前に座る青年の姿をした男を、先ほどまでとは違う目で見た。
「……なるほどな」
低く呟いてから、吉備冠者はわずかに口元を歪めた。
「お前たちを相手にするというのは、そういうことか」
月読は何も答えなかった。ただ、その言葉を否定することもなく、不敵な笑みを浮かべていた。
「それで月読殿、我らに何を求めるのか?」
吉備冠者の問いに、月読はすぐには答えなかった。目の前の男が何を警戒しているのか、それを確かめるように静かに見つめてから口を開いた。
「今すぐでなくてもよい。いずれ大倭壱国連合に加盟されよ」
吉備冠者は眉をわずかに上げた。予想していた要求ではあったが、月読の口調には今すぐ返答を迫るような強さがなかった。
「ただ、三輪山の脅威を感じておられるのなら、表立って大倭壱国連合に加わる必要もありません」
「というと?」
「つまり密約です。表立ってはこれまで通り中立を保ち、三輪山との交易も続ければよい。その裏で我ら大倭壱国連合と盟を結んでいただきたい」
吉備冠者は黙ったまま月読を見つめた。月読はその視線を受けながら、さらに言葉を続ける。
「吉備が大倭壱国連合への加盟を公にすれば、邇芸速日も警戒するでしょう。三輪山に近い吉備にとって、それは望まぬ緊張を生むことになります。ならば、あえて今まで通りの関係を続ければよいのです」
「表では中立を装えということか」
「装うというより、今の立場を変えなくてよいということです。吉備は三輪山とも交易を続け、大倭壱国連合とも交易を続ける。その上で、いざという時には我らと協力する。それだけで構いません」
「随分とこちらに都合のよい条件だな」
「無理に従わせても長くは続きません。それに私は、吉備と争うためにここまで来たわけではありませんから」
吉備冠者は腕を組んだ。すぐに答えを出すことはせず、月読の言葉の裏に何があるのかを探る。
「だが、その密約が三輪山に知られればどうする?」
「知られなければよいのです」
月読は何でもないことのように答えた。
あまりに平然とした返答に、吉備冠者は一瞬言葉を失ったが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「簡単に言ってくれる」
「そのために私が直接ここまで来たのです。大勢の使者を行き来させれば、それだけ人の目につきます。今日ここで決めたことを知る者を必要以上に増やさなければよい」
「なるほどな」
吉備冠者は改めて目の前の月読を眺めた。武力をちらつかせるでもなく、服従を迫るでもない。三輪山との関係を断てとも言わず、むしろ今まで通り交易を続けろと言っている。それでいて吉備を確実に自分たちの側へ引き込もうとしていた。
「つまり吉備は表向き中立を保つ。三輪山とも今まで通り付き合う。その一方で、大倭壱国連合にも加盟しておく。そういうことだな」
「ええ。それで十分です」
「そして、いずれ三輪山と大倭壱国が争うことになれば?」
「その時は、その時の情勢を見て判断していただければよいでしょう。今ここで吉備に兵を出せと約束させるつもりもありません」
「そこまでこちらに任せるのか?」
「吉備には吉備の事情があります。それを無視して盟を結んでも意味がありませんから」
月読は穏やかな表情を崩さなかった。
「今すぐすべてを決める必要はありません。大倭壱国連合と吉備が敵ではない。それだけでも、私にとっては十分な成果です」
吉備冠者はしばらく何も答えなかった。
三輪山と敵対する危険を冒さず、大倭壱国連合との関係も深められる。しかも月読は今すぐ兵を出せとも、交易相手を選べとも言わない。吉備にとって失うものは少なく、得られるものは多かった。
だが同時に、吉備冠者には分かっていた。一度この密約を結べば、吉備は完全な中立ではなくなる。月読は剣を一本も抜かず、吉備を大倭壱国連合の側へ一歩引き寄せようとしているのである。
吉備冠者はそんな月読をしばらく見つめた後、口元をゆっくりと吊り上げた。
「なるほど……そういうことか」
月読もまた、わずかに笑みを浮かべる。
「いかがでしょう?」
吉備冠者はすぐには答えなかった。
やがて、その顔に不敵な笑みを浮かべるのであった。




