八章 国譲り 四話 建御雷と布都御魂
西暦二百十九年。大倭壱国連合による出雲侵攻が始まってから、すでに十年の歳月が流れていた。
かつて国境から遠く離れていた戦線は、長い年月をかけて少しずつ東へ押し進められていた。
その歩みは決して速いものではなく、一度に広大な土地を奪うような華々しい勝利も少ない。
砦を一つ落としては周辺を治め、村々を従わせ、道と物資の流れを確保する。反撃を受ければ守り、敵の守りが薄くなった土地があれば再び攻める。そうした戦いを十年もの間、繰り返してきたのである。
だが、遅くともその歩みは確実だった。十年前には出雲の影響下にあった国々の多くが、今では大倭壱国連合へ組み込まれている。
一つの国を従わせれば、そこへ兵を残し、次の土地へ進む。新たに得た土地を足場としてさらに東へ進むことで、大倭壱国連合の勢力圏は着実に広がり続けていた。
そして、その長い戦いの先頭に立っていたのが建御雷であった。
まだ一兵卒に過ぎなかった頃から幾度となく戦場を経験し、砦を落とし、敵の反撃を退け、少しずつ武功を積み重ねてきた。
忍穂耳が病によって前線を離れてからは、その存在感はさらに大きくなり、今では出雲方面軍そのものを任されるまでになっている。
敵の隙を見れば攻める。退けば追う。しかし、無闇に兵を失うような攻撃は避け、必ず勝てる場所を見極めて兵を動かす。
かつての建御雷には、ただ出雲への憎しみだけがあった。今も、その炎が消えたわけではない。
しかし十年という長い戦場での経験は、怒りだけで軍を動かすことができないことを建御雷に嫌というほど教えていた。
一人で敵を斬るだけなら武人でよい。しかし千、二千、その先の兵を預かるならば、戦う場所だけではなく、退く時も、兵へ食わせる物も、それを運ぶ道も考えなければならない。
失った兵は戻らず、どれほど苦労して落とした砦であろうと守れなければ意味がない。敵を破るだけでは戦には勝てても、その土地を得ることはできないのだ。
建御雷はそうして戦場で学び続け、今では出雲方面軍を率いる指揮官となっていた。
ある日の朝、建御雷は前線の陣近くにある丘へ上がり、東の山々を眺めていた。眼下には大倭壱国連合軍の陣が広がり、幾つもの幕舎が並んでいる。
その間を武器を抱えた兵や荷を運ぶ者たちが絶えず行き交い、荷車には穀物や武具が積み上げられていた。
遠くでは新しく築かれた柵の補強が進められ、見張り台に立つ兵が周囲へ目を光らせている。
十年前には敵地の遥か奥にあった場所だった。それが今では大倭壱国連合軍の前線となり、ここからさらに東へ進むための兵と物資が集められている。
建御雷は腰に手を置いたまま、じっと東を見つめていた。
その先にあるものを、彼は知っている。
出雲本国。
父と母を奪った軍が生まれた土地であり、幼い頃から何度も思い浮かべてきた場所でもあった。
だが、その距離はあまりにも遠かった。
少年だった自分には到底届かぬ場所に思え、伊邪那岐のもとで田を耕し、新田を拓きながら暮らしていた頃には、なおさら夢のように遠い場所だった。
それでも建御雷は武人になる道を選んだ。
兵となり、戦場へ出て、幾度も死地を潜り抜けながら前へ進んできた。そして出雲侵攻が始まってから、さらに十年の歳月をかけてここまで来たのである。
出雲本国への侵攻を目前に控えた頃、建御雷のもとへ宇佐から使者が訪れ、女王日巫女の命により、ただちに宇佐へ参上するよう告げられた。
建御雷は前線の指揮を副将へ預け、わずかな供回りだけを連れて宇佐へ向かった。
宇佐に到着した建御雷は、そのまま丘の上に建つ三階建ての主祭殿へ通され、静まり返った内部を進んで二階へ上がると、その奥には忍穂耳が待っていた。
「ご無沙汰しております、忍穂耳様」
建御雷は膝をつき、深く頭を下げた。
「うむ、久しぶりだな、建御雷。聞いているぞ。出雲方面軍とお前の活躍をな。よくぞここまでやってくれた」
「はっ」
顔を上げた建御雷は、久しぶりに見る忍穂耳の姿にわずかに目を見開いた。
病によって前線へ戻れないとは聞いていたが、以前と比べて頬は明らかに痩せ、顔色も悪く、身体そのものまで一回り小さくなったように見える。
それでも、その声には昔と変わらぬ張りが残っていた。
「そして、いよいよ出雲本国への侵攻を残すのみとなったところで、一つ問題があってな」
「問題とは?」
「天之菩卑が出雲との和平交渉を続けていることは知っておるか?」
「はい。交渉を続けていることは聞いております」
「その天之菩卑から報告が届いた。出雲の大国主の息子の一人に、建御名方という若武者がおる」
「建御名方……」
「まだ少年と言ってよい歳らしいが、身体は大きく、武芸にも秀でている。そして何より厄介なのが、妖気を身に纏えるということだ」
建御雷は眉を寄せた。
「妖気とは?」
妖気という言葉そのものを聞いたことがないわけではなかったが、それを実際に戦場で目にしたことは一度もなかった。
忍穂耳はすぐには答えず、遠い昔を思い出すように視線を落とした。
「儂は若い頃、一度だけ戦場で須佐之男王を見たことがある。あれは……人の戦いではなかった」
低くなった声に、建御雷は黙って耳を傾ける。
「全身に圧倒的な妖気を纏い、兵を薙ぎ倒しながら進んでくる。刃を受けても傷一つつかず、弓矢を浴びせても身体を通らぬ。さらに十人はいなければ持ち上げられぬほどの金棒を、片手で振り回しておった」
「……」
「何人で囲もうが意味がなかった。正面に立った者から次々と薙ぎ倒されていく。戦場において、まさに圧倒的な武力であった」
忍穂耳はそこで一度言葉を切り、自嘲するように口元を歪めた。
「儂など、何もできなかったよ。あれを前にしては戦うという考えすら浮かばず、ただ逃げることしかできなかった」
建御雷は信じ難そうに忍穂耳を見つめた。
「信じられません。そんな人間がいるはずがない」
「須佐之男王は人間ではなかった。少なくとも、儂にはそう見えた」
建御雷は返す言葉を失った。
須佐之男の名は幼い頃から何度も聞いてきた。
出雲を率いて筑紫へ侵攻し、数え切れぬほどの国と人を戦乱へ巻き込み、最後は月読の夜襲での暗殺で命を落とした男である。
……よく、そのような化け物を倒せたものだ。
建御雷は心の中で、そう感じずにはいられなかった。
「もっとも、今回の建御名方が須佐之男王ほどの妖気を持っているわけではないそうだ。あの男と比べること自体が間違いであろう」
「ならば……」
「それでも、普通の人間には荷が重いことに変わりはない」
そこで建御雷は、ようやく自分が宇佐へ呼ばれた理由に気づいた。
「それで俺をここに?」
「そうだ。対策となる武器を授けるためにな」
忍穂耳は部屋の奥へ視線を向けると、そこに置かれていた一振りの剣を手に取り、建御雷の前へ差し出した。
「建御雷。この剣を授ける」
「俺に、ですか」
「うむ」
建御雷は両手で受け取った。
飾り気の少ない鞘に収められていたが、手にした瞬間、見た目以上の重みを感じる。それでいて握った感触はよく、奇妙なほど手に馴染んだ。
「よき剣のようですな。ありがたく頂戴いたします」
そう言って柄に手を掛け、そのままゆっくりと鞘から引き抜いた瞬間、建御雷の目が大きく見開かれた。
「……なんだ、これは」
刃が淡い赤色の光を放っていた。
祭殿の灯火を反射しているのではない。剣そのものから赤い光が滲み出し、刃の周囲をゆらめくように覆っている。
「この光は一体……」
「この剣には、女王日巫女様が妖気を込めておられる」
「日巫女様が?」
「そうだ。妖気そのものを刃に宿した特別な剣だ。生半可な武器であれば打ち砕き、妖気を纏った者であろうとも斬りつけることができる」
建御雷は赤い光を放つ刃から目を離せなかった。
「これなら、建御名方にも……」
「届くであろう。名を布都御魂剣」
「布都御魂……」
建御雷はその名を確かめるように呟き、ゆっくりと剣を振った。
鋭く空気を裂く音が祭殿の中に響く。
手応えが違う。ただ鋭いだけではなく、剣そのものに異質な力が宿っていることが、握っているだけでも伝わってきた。
「なんて素晴らしい剣だ!」
建御雷は思わず笑みを浮かべた。
これほどの剣であれば、相手が妖気を纏っていようと恐れる必要はない。布都御魂をしばらく眺めた後、建御雷はふと祭殿の中を見回した。
ここは女王日巫女のために建てられた主祭殿であり、自分を宇佐へ招聘したのも日巫女である。それにもかかわらず、ここへ来てから本人の姿を一度も見ていなかった。
「ところで、日巫女様は来られないのでしょうか?」
その問いに、忍穂耳の表情がほんの一瞬だけ止まった。
「うむ、決まりが変わってな。女王日巫女様は三階から降りられないことになっておる」
「三階から?」
「今は儂が女王様の神託を代弁する役目をしておる。女王様は三階にて神託と祭祀に専念されることになったのだ」
「なるほど……」
建御雷は答えたものの、どこか納得しきれない表情を浮かべた。
以前なら日巫女へ直接謁見することもあった。
わざわざ女王自身の命によって宇佐まで呼び寄せられ、その女王が力を込めた剣まで授けられたというのに、姿を見ることすらできないというのは、どうにも妙に思えた。
忍穂耳は、そのわずかな表情の変化を見逃さなかった。
「なんだ」
「いえ」
「しばらく見ない間に、儂にそのような顔をするようになったとはな。儂では不満だというのか?」
「い、いえ、そのようなことは」
建御雷は反射的に姿勢を正した。
「本当か?」
「もちろんです」
「ならばよい」
忍穂耳は昔と変わらぬ調子で言った。
病で身体こそ衰えていても、建御雷にとっては兵として一から鍛えられた頃から頭の上がらぬ相手である。
昔と同じように凄まれてしまえば、今や一軍を率いる将となった建御雷であっても反論できなかった。
建御雷は改めて布都御魂を見つめると、ゆっくり鞘へ戻した。赤い光が刃とともに隠れ、祭殿には再び静けさが戻る。
「忍穂耳様。必ずや、この剣に恥じぬ働きをしてみせます」
「うむ」
「出雲を降し、必ず戻って参ります」
「期待しておる」
建御雷は深く一礼すると、布都御魂を腰に差して主祭殿を後にした。
その後、宇佐に長く留まることなく出立し、再び出雲の戦地へと向かった。
建御雷が主祭殿を後にする姿を見届けると、忍穂耳は三階へ続く階段を上がり、日巫女のいる部屋へ向かった。
三階は今や、日巫女と身の回りの世話をする限られた者しか立ち入ることを許されていない。
「申し上げます。建御雷に布都御魂を授けました。これで出雲本国への侵攻も成功することでしょう」
部屋の奥では、日巫女が床に横になっていた。忍穂耳の報告を聞くと、ゆっくりと上半身を起こす。
「ご苦労でした」
その姿を見た忍穂耳の胸の奥が冷たくなった。数年前までの日巫女は、忍穂耳より遥かに若く、十八ほどの少女にしか見えない姿を保っていた。
長い年月を生きても変わらなかった美しい顔には、今では深い皺が刻まれ、頬は痩せ、髪にも白いものが混じっている。
わずか数年の間に急速な老化が進み、今では四十代ほどの女に見えるまで衰えていた。
「母上……やはり妖力を使い過ぎています。このまま使い続けてはいずれ……」
忍穂耳はその先を口にすることができなかった。
日巫女から生まれた一族には、その血を引きながらも強い妖力を受け継いだ者はほとんどいなかった。
忍穂耳自身も同じであり、僅かな妖力を持つ者がいたとしても、日巫女や月読たちとは比較にもならない子供騙し程度の力に過ぎない。
不老長寿の力を受け継いだ者もおらず、皆が普通の人間と同じように年を取り、世代を重ねていた。
それでも日巫女は長年にわたり、自らの妖力だけでは足りなくなるたび、一族が僅かに持つ妖力を吸い上げて補い続けてきた。
国を守り、神託を示し、大倭壱国を導くために必要となれば躊躇することなく力を使った。
その積み重ねによって一族の妖力は次第に失われ、今となっては妖力をまともに保有している者すら皆無となっていた。
もはや一族から得られる妖力は残されていない。それでも日巫女は力を使うことをやめなかった。
不足した妖力を補うため、今度は自らの生命力を妖力へ変えていたのである。
「母上、もうおやめください。出雲はすでに追い詰めています。建御雷もおります。月読叔父上も瀬戸内で勢力を広げています。これ以上、母上ご自身が力を使われる必要はありません」
「いいえ、まだです」
日巫女は静かに首を横へ振った。
「まだ終わってはいません」
「しかし、このままでは母上のお身体が……」
「忍穂耳」
日巫女は穏やかな声で息子の言葉を遮った。
「出雲を下しただけでは、倭は一つになりません。瀬戸内の先には三輪山があります。そのさらに東にも、まだ多くの国があります」
弱々しい声だったが、その言葉に迷いはなかった。日巫女は衰えた自らの手へ視線を落とす。かつて若い娘と変わらなかった細く美しい手にも、今では年齢を示す皺が刻まれていた。
「ここまで来たのです。あと少し……あと少しなのです」
「その『あと少し』のために、母上のお命が失われては何の意味もありません」
忍穂耳が訴えても、日巫女の決意は変わらなかった。
「今は耐える時期です。もう少しだけ……」
忍穂耳はそれ以上、何も言えなかった。幼い頃から見続けてきた母は、誰よりも若く、誰よりも美しく、どれだけ年月が過ぎても変わらない存在だった。
民から神の使いと崇められる母が老いる姿など、忍穂耳自身も想像したことさえなかった。
日巫女は急速に衰え始めてから、自らの姿を民の前に見せることをやめていた。
主祭殿の三階から降りることもなくなり、神託や命令は忍穂耳をはじめとする代弁者を通じて伝えるようになった。
民の前から姿を消すことで、日巫女は今なお老いることのない神秘的な女王として存在し続けている。
民は知らない。
主祭殿の最上階で、かつて少女の姿を保ち続けていた女王が急速に老い、自らの生命まで妖力へ変えながら国を動かしていることを。
日巫女は倭国統一という長年の悲願を成し遂げるため、衰えた容姿を隠し、代理の代弁者を立ててでも歩みを止めようとはしなかった。
その身に残された妖力も、生命も。
自らが持つすべてを、倭を一つにするために捧げようとしていた。




