八章 国譲り 五話 建御名方(たけみなかた)の活躍
西暦二百十九年。大倭壱国連合が出雲への侵攻を開始してから、すでに十年が経過していた。
かつて筑紫へ攻め込み、大倭壱国そのものを滅亡寸前まで追い込んだ出雲であったが、今や立場は完全に逆転している。
西から伸びてきた大倭壱国連合の勢力は、周辺の国々や邑を一つずつ取り込みながら東へ進み、ついには出雲本国を直接脅かすところまで迫っていた。
出雲各地から届く報せは日に日に悪くなっていた。砦が落ち、邑が降り、豪族が大倭壱国側へ寝返る。
そのたびに国境は少しずつ後退し、大国主の館では朝から重臣や有力豪族たちが集められ、今後の方針を巡って激しい議論が続いていた。
広間には二十人を超える男たちが座していたが、そこにかつての出雲を支えた面々は少ない。
三十年以上に及んだ戦乱の中で多くが死に、あるいは老いて第一線から退き、今ではその子や孫にあたる世代が席の多くを占めていた。
「これ以上の戦は無意味だ! 西の砦はほとんど失った。兵も足りぬ。田を耕す者まで戦へ駆り出して、これ以上何を守るというのだ!」
一人の老いた豪族が声を荒らげると、すぐさま若い武人が立ち上がった。
「だからといって、戦わずして国を渡せと申すのか! ここは出雲ぞ! 我らが父祖より受け継いできた国だ! 大倭壱国の言いなりになどなれるものか!」
「その父祖を守るために、子らを死なせるのか!」
「死を恐れて国が守れるか!」
「死ねば国そのものが残らぬと言っておる!」
降伏を唱える者と徹底抗戦を叫ぶ者の怒号が飛び交った。
今のうちに条件を整えて大倭壱国連合へ臣従すべきだと説く者もいれば、東の三輪山や諸国へ援軍を求めるべきだと主張する者もいる。
だが、どの意見にも反対する者が現れ、議論はいっこうにまとまらなかった。
大国主は広間の上座の中央に座る事代主の横に座り、その様子を黙って見ていた。
すでに政務の多くは息子の事代主へ譲っており、今では自らを出雲の主として振る舞うことも少ない。
それでも国を二分するほどの問題となれば、最後には大国主の言葉を求める者が現れる。
「大国主様は、いかがお考えなのです!」
ついに一人が問いかけると、広間は静まり返った。
大国主はすぐには答えず、膝の上に置いていた手をゆっくりと組み、そこに集まった者たちの顔を見渡した。
若い者が増えた、と大国主は思った。自分が八千矛と呼ばれていた頃から知る顔など、今では数えるほどしか残っていない。
須佐之男が出雲を率いて筑紫へ兵を向けたのは、三十二年も前のことである。当時は須佐之男の命令一つで出雲中の兵が動き、反対する者などほとんどいなかった。
あの男が戦場に立つだけで兵は熱狂し、豪族たちは競うように従った。
世界に敵などいない、出雲は負けない、須佐之男王がいる限りどこまでも勝ち続けられる……誰もが本気でそう信じていた。
だが、その須佐之男もすでにいない。
彼とともに戦った者たちも一人、また一人と姿を消し、広間で徹底抗戦を叫んでいる若者の多くは須佐之男を直接見たことすらなかった。
彼らが知っているのは、父や祖父から聞かされた、最強の王、敗北を知らぬ武神、出雲を天下へ導こうとした英雄としての須佐之男だけである。
須佐之男という男は、いつしか人々の記憶の中にいる人物から、語り継がれる伝説へと変わりつつあった。
「大国主様!」
再び声が飛ぶと、大国主はわずかに息を吐いた。
「……戦えば、勝てると思うか?」
穏やかな問いだったが、強硬派の男たちは一瞬言葉を失った。
「そ、それは……」
「勝てるかどうかを聞いておる」
大国主の声に怒気はなかった。それだけに、誰も軽々しく答えることができない。しばらくして、一人の若い武人が口を開いた。
「勝たねばなりませぬ」
「それは答えではないな」
大国主は静かに返した。
「勝たねばならぬことと、勝てることは違う」
広間に沈黙が落ちる。大国主はわずかに視線を伏せ、長い年月の中で自分が見てきたものを思い返していた。
「私は長く戦を見てきた。勝った戦もある。負けた戦もある。そのたびに、戦が終われば残るものを見てきた」
焼けた邑、踏み荒らされた田、夫を失った女、父を失った子。そして、帰ってこなかった少彦名。
今でも大国主は、時折湯呑みを二つ並べてしまう。
もう一つの茶に手を伸ばす者などいないと分かっていても、それだけは長い年月が過ぎても変わらなかった。
「国とは、土地ではない」
大国主は皆を見渡した。
「そこに住む者がおって、初めて国になる」
降伏派の者たちが静かに頷いたが、強硬派は納得しなかった。
「ならばなおさらです! 民を大倭壱国の支配に渡すことなどできませぬ!」
「支配されれば、民は皆殺しになるのか?」
「それは……」
「田を奪われるのか。妻子を殺されるのか。奴隷にされるのか」
「しかし……」
「大倭壱国が求めているのは、出雲を連合へ加えることだと聞いておる」
大国主はそこで言葉を止めた。当然ながら、大倭壱国の言葉をすべて信じているわけではない。
勝者が約束を守る保証などどこにもないが、だからといって勝ち目の薄い戦を続け、出雲そのものを荒廃させることが正しいとも思えなかった。
広間の端では、八島士奴美が黙って座っていた。
かつて須佐之男の長男として戦場を駆け、大国主と何度も激しく対立した男である。だが今では身体を悪くし、背はわずかに曲がり、頬も痩せていた。
長く病を患ったことで、もはや鎧を身に着けて戦場へ出ることもできない。
「八島士奴美殿は、どうお考えか」
誰かが尋ねると、八島士奴美はゆっくりと顔を上げた。須佐之男王の長男であり、かつてであれば誰より先に徹底抗戦を叫んだはずの男へ、皆の視線が集まる。
八島士奴美は痩せた手を膝の上で握りしめ、しばらく黙っていた。
「……儂は、もう、戦場には立てぬ」
掠れた声で、それだけを答えた。
強硬派の若者たちは言葉を失い、八島士奴美は再び俯いた。
三十二年という歳月はあまりにも長かった。
須佐之男が筑紫へ侵攻した頃にはまだ幼かった者が、今では子を持つ年齢になっている。生まれてから一度も、出雲が戦のない時代を知らずに育った者すらいた。
それでも議論は終わらなかった。
「大倭壱国の軍はすでに国境近くまで来ております!」
「ならば今こそ総兵力を集めるべきだ!」
「その兵をどこから出す!」
「民から募ればよい!」
「これ以上、田から男を奪えば来年の収穫はどうする!」
「国がなくなれば収穫も何もない!」
再び怒号が飛び交う中、大国主は静かに目を閉じた。
どちらの言い分も分かるからこそ、決断は難しい。降伏すれば国が残る保証はなく、戦えば国そのものが滅びるかもしれない。どちらを選んでも、必ず誰かが後悔する。
かつての自分ならどうしただろう、と大国主は思った。
まだ八千矛と呼ばれていた頃なら、おそらく迷わず剣を取っただろう。
敵がいるなら戦えばよい、勝てばよいと考え、忠告する少彦名の声すら振り切って前へ進んだ。
大国主はゆっくりと目を開いた。
広間では今もなお、国を守るために戦うべきだと叫ぶ声と、民を守るために戦を終わらせるべきだと訴える声がぶつかり続けている。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
須佐之男の時代は、もう終わっていた。
そのことだけは、誰よりも長く出雲を見てきた大国主には分かっていた。
窮地に立たされた出雲で、救世主のように期待を集める若武者が台頭していた。
建御名方である。
大国主と須勢理姫との間に生まれた子で、幼い頃から体格に恵まれ、力も強く、武芸を好んで槍や剣の鍛錬を欠かさなかった。
その腕前は若くして出雲でも名を知られるほどであり、近年になって妖力にも目覚めていた。
精神を集中させれば妖気を全身へ纏うことができ、その状態になった建御名方の力は常人の比ではない。
武芸の鍛錬で彼に敵う者は、もはや出雲国内にはほとんどいなかった。
長く続く敗戦の中、その存在は若い兵たちにとって希望そのものとなっていた。
「建御名方様ならば、大倭壱国の軍を退けられる」
「まだ出雲は負けてはいない」
そうした声は日に日に大きくなっていった。
一方、大国主はすでに長男の事代主へ国の政を譲り、自らは隠居していた。
大国主も事代主も戦況を冷静に見ており、大倭壱国連合の勢力が出雲本国の目前まで迫った今、これ以上の抵抗に意味はないと考えていた。
長年にわたる戦で兵も民も疲弊し、各地の砦や属国も次々と失われている。
降伏したとしても出雲という土地そのものが消えるわけではなく、大倭壱国連合に組み込まれ、その支配を受け入れるだけである。
それならば、これ以上民を戦火に巻き込むより、今ここで武器を置いた方がよい。
だが、若い者たちの考えは違った。
彼らの多くは須佐之男が倭国大乱を始めた頃を知らない。生まれた時から出雲は大国であり、自分たちはその国を守る者として育ってきた。
その出雲が戦わずして他国へ屈することなど、容易に受け入れられなかった。
「まだ戦えます」
重臣たちが集まった席で、建御名方は力強く言い放った。
「俺が兵を率います。大倭壱国の軍など、必ず追い返してみせます」
若さゆえの迷いのない言葉だった。
それに呼応するように、若い武人たちから次々と賛同の声が上がる。
「建御名方様に兵を!」
「一度も戦わず国を明け渡すなどできませぬ!」
「我らにも最後まで戦わせてください!」
声は瞬く間に広がっていった。
事代主は黙ってその様子を見つめ、大国主もまた息子の顔を静かに見ていた。
二人とも、この戦に勝てるとは考えていない。
だが、これほどまでに徹底抗戦を望む者が多い以上、その声を力ずくで押さえつけることもできなかった。ここで無理に降伏を決めれば、今度は出雲国内で争いが起こりかねない。
やがて事代主は重く息を吐いた。
「……分かった」
建御名方が顔を上げる。
「兵を預ける」
その言葉に、若い武人たちの表情が一斉に明るくなった。
「建御名方。そなたが軍を率いよ」
「はい!」
建御名方は勢いよく頭を下げた。
こうして降伏へ傾きかけていた出雲は、強硬派に押し切られる形でもう一度武器を取ることになり、建御名方が出雲軍を率いて出兵することとなった。
出雲軍は日本海沿いを西へ進み、道中の小さな村々を次々と掌握していった。やがて大倭壱国連合の兵が駐屯する砦に到達すると、そのまま攻略を開始する。
周囲に濠を巡らせ、土塁と木柵で囲んだ砦では、守備兵たちが木柵の上から矢を射かけてきた。
出雲軍は盾で矢を防ぎながら前進し、やがて兵たちの間から屋根付きの巨大な破城槌を押し出した。
太い丸太の上には木材と獣皮を重ねた屋根が設けられ、降り注ぐ矢を防げるようになっている。
「門まで運べ!」
兵たちは破城槌を押して前進した。屋根に矢が次々と突き刺さる中、破城槌は門の正面へ到達する。
建御名方も力自慢の兵たちの中へ入ると、太い丸太へ両手を掛けた。
「俺も押す!」
「建御名方様!」
「遠慮するな! 一気に壊すぞ!」
兵たちは破城槌を大きく後ろへ引いた。
「押せ!」
建御名方の号令とともに巨大な丸太が門へ叩きつけられ、轟音とともに門全体が激しく震えた。
「もう一度!」
二撃目で門を支える柱が軋み、三撃目では蝶番が悲鳴のような音を立てる。それでも門はまだ倒れなかった。
建御名方は歯を見せて笑った。
「頑丈じゃないか。なら、もっと強くやればいい!」
その身体から淡い妖気が立ち上り始める。建御名方は妖力を全身へ巡らせ、再び破城槌を押した。
「押せぇ!」
四撃目。凄まじい衝撃とともに門を支えていた柱へ大きな亀裂が走り、木片が弾け飛んだ。
「あと一度だ! 行くぞ!」
兵たちが破城槌を大きく引き、建御名方とともに一斉に押し込む。
五撃目。
轟音とともに柱が割れ、支えを失った門が内側へ倒れ込んだ。土煙が舞い上がった瞬間、建御名方は妖気を全身に纏い、倒れた門を飛び越えて真っ先に砦へ飛び込む。
「続け!」
待ち構えていた大倭壱国連合の兵たちが槍を突き出したが、建御名方は真正面から踏み込み、大槍を振るって数人をまとめて薙ぎ倒した。
「建御名方様に続け!」
「おおおおおっ!」
出雲兵たちが次々と門から雪崩れ込み、砦の中ではたちまち激しい乱戦となった。
槍と槍がぶつかり、剣が盾を叩き、怒号と悲鳴が入り乱れる。その先頭では建御名方が妖気を纏ったまま大槍を振るい、守備兵たちを押し退けながら進んでいった。
しばらくは双方一歩も譲らない激戦が続いたが、破られた門から出雲兵が次々と流れ込んでくるにつれて、大倭壱国連合の守備兵は徐々に押され始めた。
やがて戦列の一角が崩れると、それをきっかけに退却する兵が相次ぎ、残った兵たちも砦を捨てて逃げ始める。
「逃げたぞ!」
「砦は我らのものだ!」
出雲兵たちから歓声が上がった。
建御名方は砦の中央に立つと、大槍を高々と掲げる。
「勝ったぞ!」
「おおおおおおお――!」
出雲兵たちは一斉に武器を掲げ、勝鬨を上げた。
久しく押され続けていた出雲軍が自ら攻め込み、大倭壱国連合の砦を奪い取ったのである。




