七章 大国主 五話 建御雷と忍穂耳
倭国大乱が始まってから、五年の歳月が流れていた。
投馬国の片隅で戦災孤児たちの面倒を見ながら暮らしていた伊邪那岐の集落は、いつしか村と呼べるほどの規模へ成長していた。
かつては主を失った家々が朽ち、荒れた田には背丈ほどの草が生い茂る廃墟同然の小さな集落だったが、今では朝になると家々の竈から煙が立ち上り、田畑へ向かう者たちの声が行き交っている。水路には澄んだ水が流れ、耕された田では青々とした稲が風に揺れていた。
住んでいるのは孤児だけではない。戦で腕や脚を失い、働けないことを理由に故郷の村を追われた者や、家族を失って行き場をなくした者たちも、那岐は分け隔てなく引き取っていた。
田を耕すことが難しい者には、その者にできる仕事を与えた。脚に障害を持つ者には座ったままで作業のできる土器作りを教え、片腕を失った者には、複数人で行う鋳型の成形や青銅器の研磨を任せた。指先の動く者には細かな装飾を施す技術を身につけさせ、力仕事ができる者には土を運び、窯を築く役目を与えた。
失ったものを数えるのではなく、今も残っているものを見つける。それが那岐のやり方だった。
「急がなくていいよ。できることから始めればいいから」
那岐は決して無理をさせなかった。うまく土器の形を整えられず、苛立ちから粘土を叩きつけた男にも、責めることなく隣へ腰を下ろした。
「最初から上手にできる人なんて、ほとんどいないよ。私も昔は、よく水路を崩してしまったから」
「……伊邪那岐様でも、失敗するのですか」
「もちろん。失敗しなかったら、今頃もっと立派な人になっていたと思うよ」
那岐が困ったように笑うと、男はしばらく呆気に取られた後、もう一度粘土へ手を伸ばした。
村では文字や計算を学ぶ時間も設けられており、那岐は子供たちだけでなく、戦で身体を損なった者たちにも、できる限り勉学を教えていた。田畑に出られなくても、文字を知っていれば記録を残せる。数を理解していれば、倉の管理や物資の分配ができる。人に教える力を身につければ、次の世代を育てることもできる。
那岐は特に、学ぶ意欲を見せた者には熱心に向き合った。将来、その者たちが村々を巡り、子供たちに文字や知識を教える仕事に就けるようにするためだった。
身体の一部を失ったことで、生きる役目まで失ったと思い込んでいた者たちも、自分にはまだ誰かへ渡せるものがあると気づくにつれ、少しずつ顔を上げるようになっていった。
戦災孤児の中には、すでに成人を迎えた者もいた。那岐は一人前になった者へ田を分け与え、小さくとも自分の家を持たせた。農具や種籾も準備し、最初の収穫を迎えるまでは食糧にも困らないよう支援した。
「ここを出ていかなくてもいいのですか」
新しい家の前で、一人の若者が不安そうに尋ねた。
「出ていく必要はないよ。ここで暮らしたければ、ここにいればいい」
「でも、俺はもう子供ではありません」
「そうだね。だから今日からは、守られるだけではなく、この村を支える一人になってくれたら嬉しいな」
那岐がそう告げると、若者は唇を噛み、深く頭を下げた。
孤児として拾われた子供が、やがて田を持ち、家を持ち、次の子供たちを支える側へ回っていく。その流れは、少しずつ村の中に根づき始めていた。
あと五年、長くとも十年ほどあれば、今いる孤児たちの多くが成人し、それぞれの生活を築けるようになるだろうと、那岐は考えていた。
すでに村の運営も、那岐一人が担う必要はなくなっている。大倭壱国からやってきた一人の老人が、村長の役目を引き受けてくれていた。かつては大倭壱国の小さな村で長を補佐していた人物で、年を重ねてからは静かに暮らすつもりだったという。
だが、那岐が孤児たちを集めていると聞き、自ら投馬国までやってきたのだった。
「この歳になって、もう一度村を作ることになるとは思いませんでした」
老人が笑うと、那岐も穏やかに笑い返した。
「私も、国を離れて静かに暮らすつもりだったんだけどね」
「伊邪那岐様が静かに暮らせたことなど、一度でもございますか」
「……言われてみれば、ないかもしれないね」
二人の間に、小さな笑いがこぼれた。
那岐が何かを命じたわけでも、国を作ろうと呼びかけたわけでもなかった。ただ行き場のない者を受け入れ、荒れた田を耕し、壊れた水路を直し、生きるための知識を教えただけだった。
それでも人は集まり、家が建ち、田畑が広がり、やがて一つの村になった。戦によって見捨てられた小さな集落は、孤児たちと、彼らを支えようと集まった人々の手によって見事に蘇っていた。
夕暮れになると、村の中央から子供たちの笑い声が聞こえてくる。那岐は水路の傍らに立ち、茜色に染まる田と、風に揺れる稲穂を静かに眺めていた。
かつて何もなかった場所に、今は人が暮らしている。明日食べるものを心配せず、帰る家があり、自分を待つ誰かがいる。それだけでよかった。
戦はいまだ終わっていない。それでもこの場所では、失われたものの中から、新しい暮らしが確かに芽吹き始めていた。
建御雷は十三歳になっていた。
相変わらず畑仕事は嫌っていたものの、荒れ地を拓く仕事には誰よりも熱心で、大きな鍬を振るって木の根を掘り起こし、切り倒した丸太も一人で運んでいた。
年齢の近い子供たちと比べて体格はひと回り大きく、力仕事ではすでに大人にも引けを取らなかったが、その胸の内には、開拓とは別の願いが育ち始めていた。
建御雷が那岐に相談を持ちかけたのは、那岐が投馬国の中心地から戻ってきた日のことである。
投馬国内で戦災孤児を保護し、主を失った集落や田畑を再利用することについては、すでに投馬国の許しを得ていた。しかし、村長をはじめ、集落の中核を担う大人には大倭壱国の出身者が多かったため、勝手に勢力を広げていると疑われぬよう、那岐は定期的に投馬国の長へ状況を報告し、必要な相談を行っていた。
その日も数日ぶりに村へ戻ると、建御雷が入口近くで待っていた。
「お帰りなさい」
「ただいま。何かあったの?」
建御雷は周囲を気にするように見回した。
「話があります」
いつになく真剣な顔をしていたため、那岐は荷を下ろすと、建御雷を集落の外れへ連れていった。新しく拓いた田の向こうでは、夕日が山の端へ沈みかけている。
「それで、話というのは?」
建御雷は迷うことなく答えた。
「兵士になりたいです」
那岐はしばらく黙って、その顔を見つめた。
「兵士に?」
「はい」
「でも、君はまだ十三歳でしょう。兵士になるには少し早いと思うよ」
「俺はほかの十三歳より大きいです」
建御雷は胸を張った。
「力もあります。木も切れますし、大人と同じ荷物も運べます。訓練にもついていけます」
「力があることと、戦場へ出られることは同じではないよ」
「できます」
その返事に迷いはなく、那岐は困ったように眉を下げた。
「どこの国の兵士になりたいの?」
「大倭壱国です」
予想していなかった答えに、那岐はわずかに目を見開いた。
建御雷は不弥国の出身であり、今いる場所は投馬国である。それにもかかわらず、そのどちらでもなく、大倭壱国の兵士になることを望んでいた。
「どうして大倭壱国なの?」
理由は尋ねるまでもないような気がしたが、それでも那岐は、建御雷自身の口から聞かなければならないと思った。
「大倭壱国にいなければ、出雲へ攻め込む機会がないからです」
建御雷は夕日を見つめながら言った。
「いつか大倭壱国連合が出雲へ攻め込むなら、その中心になるのは大倭壱国です。投馬国や不弥国の兵士になっても、出雲まで行けるか分かりません。でも、大倭壱国の兵士になっておけば、きっと機会が来ます」
「そのために兵士になるの?」
「はい」
「復讐するために?」
「はい」
建御雷は那岐から目を逸らさなかった。
「父と母を殺した者たちを、俺は許しません」
戦で家族を失い、復讐のために兵士となる者は少なくないのだろう。すでに大倭壱国の軍にも、同じような思いを抱く者がいるはずだったが、建御雷はまだ十三歳であり、鍬よりも剣を選ぶにはあまりにも幼かった。
「私は、賛成したくないな」
那岐は静かに言った。
「君には、ここで田を拓いて生きてほしい。いつか家族を持って、戦とは関係のない暮らしをしてほしいと思っているよ」
「俺は忘れられません」
「忘れなくてもいいんだよ」
「だったら、戦わせてください」
「それは別のことだよ」
柔らかな言葉で諭されても、建御雷は引き下がらなかった。
「俺は必ず兵士になります。ここで駄目だと言われても、一人で大倭壱国へ行きます」
那岐は小さく息を吐いた。止めれば止めるほど、建御雷は自分だけで進もうとするだろう。何も知らないまま軍へ入り、誰にも守られず戦場へ送られるかもしれず、それだけは避けたかった。
「分かったよ」
那岐が答えると、建御雷の表情が明るくなった。
「では――」
「ただし、すぐ兵士になれるとは思わないでね。まず、君を預かってくれる人物に当てがあるから、私からお願いしてみるよ」
「誰ですか?」
「大倭壱国北部の軍を預かっている、忍穂耳という人だよ」
数日後、那岐は建御雷を連れて大倭壱国北部へ向かった。
忍穂耳は軍営の一角にある建物で二人を迎え、那岐から事情を聞くと、建御雷の顔から足元までをゆっくりと見回した。
「十三歳だと?」
「はい」
建御雷は背筋を伸ばして答えた。
「早すぎる」
忍穂耳は即座に言った。
「体が大きかろうと、十三は十三だ。軍は子供の遊び場ではない」
「遊びのつもりはありません」
「皆、最初はそう言う」
「俺は逃げません」
「戦場に出たこともない者が、軽々しく口にする言葉ではない」
厳しい言葉を向けられても建御雷は俯かず、真っ直ぐに忍穂耳を見返した。
「訓練してください。それで使えないと思ったら、追い出しても構いません」
忍穂耳は腕を組み、那岐へ視線を向けた。
「おじい様は、これを認めておられるのですか」
「認めているわけではないよ」
那岐は困ったように微笑んだ。
「できることなら、連れて帰りたいと思っている。でも、この子は一人でも来ると言っているから。だったら、信頼できる人の傍に置いた方がいいと思ったんだ」
「それで私のところへ?」
「迷惑をかけてしまうね」
忍穂耳は深く息を吐き、再び建御雷を見た。
「分かった。兵としてではなく、まずは訓練を受ける者として置く」
建御雷の顔が上がった。
「本当ですか」
「勘違いするな。当面、前線へ出すつもりはない。雑用も訓練の一つとして扱う。いずれ使えるようになれば、私の護衛兵として傍に置くことを考える」
「はい」
「それから、訓練を怠けた時、命令に背いた時、兵としての節度や規則を守らなかった時は、その場で追放する」
忍穂耳は建御雷を真っ直ぐに見据えた。
「復讐心だけで軍を乱す者は必要ない。分かったか」
「分かりました」
「声が小さい」
「分かりました!」
建御雷の声が建物の中に響いたが、その様子を見つめる那岐は笑うことができず、忍穂耳もまた、引き受けたことを喜んではいなかった。
戦争で親を失った子供が、復讐のために兵士を志し、いつの日か出雲へ攻め込むことを望んでいる。倭国大乱が残した憎しみは消えておらず、戦が終わりに向かっていても、その傷から新たな戦いを望む者が育ち始めていた。
忍穂耳は建御雷を伴い、建物の外へ出た。
軍営の奥に設けられた訓練場では、若い兵たちが掛け声を上げながら木剣を振っていた。乾いた打撃音が響き、土を踏み込むたびに細かな砂埃が舞い上がる。
建御雷は足を止めた。
その目は、木剣を打ち合わせる兵たちへ釘づけになっていた。村で鍬や斧を手にしていた時とは違う、抑えきれない熱が瞳の奥に宿っている。
「見ているだけでは強くなれん。まず荷を置き、訓練用の衣へ着替えろ」
忍穂耳が声をかけると、建御雷は勢いよく振り返った。
「はい!」
迷いのない返事だった。
建御雷は忍穂耳の後を追い、訓練場へ向かって歩き出した。これまで暮らしてきた村を離れることにも、初めて軍営へ足を踏み入れることにも、ためらう様子はなかった。
那岐はその背中を、黙って見送っていた。戦で両親を失った少年が、今度は自ら戦へ向かおうとしている。それを止めることも、胸の中に燃える憎しみを消すことも、那岐にはできなかった。
建御雷の足取りは力強く、少しの迷いもなかった。
そのことが、那岐には何よりも悲しかった。




