七章 大国主 六話 月読の伊予併呑
倭国大乱が始まってから、五年の歳月が流れていた。
出雲軍が筑紫から撤退して以降、大倭壱国連合では荒れた田畑の復旧が進み、途絶えていた交易路も少しずつ繋がり始め、戦乱によって大きく損なわれた国力にも、ようやく回復の兆しが見えていた。
山門へ帰還していた日巫女は壱岐へ使者を送り、弟の月読を呼び寄せた。
数日後、山門の宮を訪れた月読は広間へ通されると、上座に座る姉へ深く頭を下げた。
「お久しぶりでございます、姉上」
「よく来きてくれました月読。海の様子はどうです?」
「壱岐、対馬、末盧ともに大きな問題はございません。出雲の船も、近頃は姿を見せなくなりました」
「そうか。それは何よりです」
日巫女は穏やかに頷きながら、弟の姿を静かに見つめた。
月読の容姿は以前とほとんど変わっていなかった。那岐の血を濃く受け継いだためか、歳月はその姿に僅かな変化しか与えていなかったが、表情には以前よりも深い疲れが刻まれている。
長年連れ添った妻は数年前に病で亡くなり、月読は最期までその傍を離れなかった。妻を失ってからしばらくは政務の多くを息子たちへ任せていたというが、その子供たちも今では皆、成人していた。
日巫女はしばらく月読の顔を見つめた後、静かに口を開いた。
「月読。そろそろ壱岐の当主の座を、子供たちへ譲ってもよいのではないですか?」
月読は僅かに眉を動かした。
「突然、何を仰るのです」
「突然でもないよ。あなたの子供たちは、もう皆立派な大人だろう?」
「成人したというだけです。まだ一国を任せるには経験が足りませぬ」
「経験というものは、任されなければ身につかないものですよ」
「壱岐はただの島ではございません。対馬や末盧を繋ぎ、大陸との交易を支える要地です。判断を一つ誤れば、多くの船と人命を失います」
「それは分かっています」
日巫女は頬杖をつき、僅かに笑みを浮かべた。
「だからこそ、あなたの子供たちなら任せられると思っているのですよ」
「姉上は、あの者たちを過大に評価しております」
「私はあなたほど甘くはないよ」
「私も甘やかしているつもりはございません」
「そうでしょうか?」
日巫女の口調には、わずかにからかうような響きがあり、月読は不満そうに姉を見返した。
「まだ早いのです。少なくとも、あと十年は私の傍で学ばせるべきかと」
「十年とは、随分と長いね」
「国を預けるのであれば、それくらい慎重であるべきです」
月読が迷いなく言い切ると、日巫女はしばらく黙っていたが、やがて何かを思い出したように目を細めた。
「ところで月読。あなたが壱岐の当主になったのは、何歳の頃だったかな?」
月読の表情が固まった。
「それは……」
「今のあなたの息子たちより、ずっと若かったはずだね」
「私の場合は事情が違います」
「どこが違うというの?」
「当時は壱岐を早急にまとめる必要がありました。それに、父上も傍におられましたので」
「父上がいたから任せられたというなら、あなたが見守っていたら、息子たちにも任せられるのではないかい?」
月読は口を開いたものの、すぐには言葉を返せなかった。
日巫女の言うことは正しい。若かった自分が壱岐を任された時も、十分な経験を積んでいたわけではなく、父や周囲の者たちに支えられ、失敗を重ねながら当主として成長してきたのである。
「……姉上は、昔から人の逃げ道を塞ぐのがお上手ですね」
「あなたが分かりやすいだけだよ」
「それは褒め言葉ではございませぬ」
「もちろん、褒めてはいませんよ」
日巫女が楽しそうに笑う一方、月読は小さく息を吐いて視線を床へ落とした。
「息子たちは、まだ頼りなく見えるのです」
「親から見れば、子供はいくつになっても子供なのだろうね」
「姉上に言われたくはございません」
「なぜ?」
「姉上も御子たちを、必要以上に案じておられるでしょう」
今度は日巫女が黙る番となり、月読は僅かに口元を緩めた。
「姉上も同じではありませんか」
「……私は女王です。国の将来を案じているだけです。」
「では、私も壱岐の将来を案じているだけです」
「随分と口が達者になったものね」
「姉上に鍛えられましたので」
二人はしばらく互いの顔を見つめていたが、やがて日巫女が姿勢を正すと、先ほどまでの柔らかな表情は消えた。
「月読」
「はい」
「あなたには、壱岐の外でしてもらいたいことがある」
月読もまた表情を引き締めた。日巫女が自分を山門まで呼び寄せた理由が、単なる家督の相談ではないことは最初から分かっていた。
「そのためにも、壱岐をいつまでもお前一人で抱えていてもらっては困るんだ」
月読は目を伏せ、しばらく考え込んだ。
妻を亡くしてから、月読は以前にも増して壱岐の政務へ深く関わるようになっていた。忙しくしていれば余計なことを考えずに済み、息子たちに当主の座を譲らずにいるのも、未熟さを案じているだけではなく、自分が壱岐を離れずに済む理由を失いたくなかったからなのかもしれない。
「……すぐにすべてを譲るわけにはまいりませぬ」
月読は静かに答えた。
「ですが、政務の大半を息子たちへ任せることは考えましょう」
「それでよい」
「それで、私に何をさせるおつもりですか?」
日巫女は広間の脇に置かれていた木簡へ視線を向けた。そこには、筑紫から海を隔てた東の地について集められた情報が記されている。
月読が姉の視線を追って木簡を見つめる中、日巫女は静かに告げた。
「今度は、お前に西の海ではなく、東の海を任せたい」
それと、日巫女は月読に新たな結婚を勧めた。さすがに月読も、ただ妻を娶れと言っているわけではないと察し、その意図を尋ねる。
「……私に結婚を勧めるのは、何か別の理由があるのでしょう?」
「大倭壱国連合は、これから瀬戸内海へ進出します。手始めに伊予国を押さえ、そこを拠点に周辺諸国へ勢力を広げるつもりです」
日巫女は十八歳ほどにしか見えない美しい顔に、落ち着いた表情を浮かべていた。
「伊予とはすでに交易を増やし、交流を深めています。使者も何度となく送りました。婚姻についても、伊予側からは然るべき人物であれば受け入れるとの返事が届いています」
そこまで聞いた月読は、姉の狙いを理解した。
「その然るべき人物が、私だと?」
日巫女は迷わずうなずいた。
「あなた以上に適した者はいません」
月読は小さく息を吐いた。姉は自分を、いつまでも当主の座を譲ろうとしない老人のように扱っているらしい。そのことには不満もあったが、いずれ子供たちへ当主の座を渡さなければならないとも考えていた。
自分が伊予へ向かい、壱岐から距離を置くことは、子供たちの自立を促す意味でも悪くない。
「分かりました。伊予へ向かいましょう」
「引き受けてくれますか」
「姉上は、初めから私に断らせるつもりなどなかったのでしょう?」
「そのようなことはありません」
日巫女は涼しい顔で答えたが、月読には到底信じられなかった。それでも、それ以上は追及せず、新たな婚姻と伊予行きを受け入れた。
伊予では、月読本人が訪れたという報せに、たちまち驚きが広がっていた。
「あれが、大倭壱国連合の月読様なのか」
「三十年以上も前から、御姿が変わっておらぬというぞ」
「人ではない。日巫女様と同じ、神の御一族だ」
女王日巫女の弟にして、壱岐を中心に海人族を束ねる当主。さらに先の倭国大乱では、海上から出雲軍を追い詰めて退けた優れた将として、その名は伊予にまで広く知られていた。それほどの人物が自ら海を渡ってきたうえ、年月を感じさせぬ若々しい姿を保っていることから、人々の間では神の一族が伊予の地へ降臨したのだと囁かれていた。
もっとも、月読が伊予へ到着する以前から話の大筋はすでに決まっていた。伊予の現当主から娘との婚姻が申し出され、月読もそれを快く受け入れている。大倭壱国と伊予の間では使者を通じて幾度も話し合いが重ねられており、この日の会談はもはや最後の確認に近いものであった。
広間には伊予の有力者たちが並び、上座に座る月読へ畏れと好奇の入り交じった視線を向けていた。話が滞りなくまとまりかけた時、その中の年嵩の豪族が口を開いた。
「お待ちいただきたい」
「この婚姻が結ばれれば、伊予はいずれ大倭壱国に飲み込まれましょう。名目は婚姻であっても、実際には服属を迫られているのではありませぬか」
広間の空気が張り詰め、周囲の者たちが息を潜めて月読の反応を窺う。月読は怒りを見せることなく、その豪族へ静かに目を向けた。
「取り込みに来ている。それが何か?」
あまりに明瞭な返答に豪族が言葉を失うと、月読は淡々と続けた。
「それとも、大倭壱国連合と一戦を御所望か?」
「そ、そのようなことは……」
「ならば、何を懸念している」
声を荒らげたわけでも、威圧するように身を乗り出したわけでもない。それでも先の大乱を勝ち抜いた将の視線を正面から受け、豪族の顔から血の気が引いていった。
月読はわずかに間を置き、広間に集まった者たち全員へ聞かせるように語る。
「大倭壱国連合は、伊予の名も、祭祀も、風習も奪わぬ」
それまでの鋭さを少しだけ和らげ、さらに続けた。
「伊予の民が伊予の民であることまで、変えるつもりはない。ただ海を隔てた国々を、大倭壱国連合の名の元、一つの道で結ぶだけだ」
伊予から筑紫へ、伊予から瀬戸内へ、そしてその先にある国々へ。海を越えて人と物が行き交う道を築き、争いではなく結びつきによって勢力を広げる。それが大倭壱国の示した条件であった。
「孤立した国は、飢饉にも戦にも弱い。だが道があれば、食糧を運べる。兵を送れる。互いに助け合うこともできる」
月読は反対した豪族を再び静かに見据えた。
「それでも一国だけで立つというなら、止めはせぬ。ただし、その先に何が起きようと、大倭壱国の助けを当然と思わぬことだ」
豪族は俯き、それ以上何も言わなかった。他の者たちからも反対の声は上がらず、婚姻の話は正式にまとまった。
会談が終わると、伊予の姫が月読の前へ進み出た。まだ若い娘であったが、その振る舞いには当主の娘として育てられた落ち着きがある。噂どおり若々しく、物静かな佇まいでありながら広間全体を圧する月読の姿を、姫は何度か確かめるように見つめていた。その様子から、月読を気に入っていることは十分に窺えたが、それでも姫はあえて問いかけた。
「月読様は、この婚姻を国のためだけにお受けになるのでしょうか」
周囲の者たちがわずかにざわめいた。国同士の婚姻である以上、答えは分かりきっている。それでも姫にとっては、これから生涯を共にする相手に、どうしても確かめておきたいことであった。
月読はすぐには答えず、少しだけ目を伏せて言葉を選ぶ。やがて姫へ向き直ると、飾ることなく答えた。
「始まりは、国のためであろう」
姫の表情にわずかな緊張が走る。
「だが、その後まで偽りにするつもりはない」
月読は静かに続けた。
「夫婦となる以上、そなたを政の道具としてのみ扱うつもりもない。今は互いをほとんど知らぬ。ならば、これから知ればよい」
甘い言葉でも、愛を誓う言葉でもなかった。しかし国のための婚姻であることを隠さず、その先は誠実に向き合うと告げた月読を、姫はしばらく見つめた後、安堵したように微笑んだ。
「そのお言葉を聞けただけで、十分にございます」
月読も小さく頷いた。
その夜、与えられた部屋の窓辺に立った月読は、海の向こうから届く風に庭の木々が揺れる音を聞きながら、伊予の空に浮かぶ月を見上げていた。壱岐で見るものと変わらぬはずの月が、今夜はどこか違って見える。
これもまた運命なのだろうか。
新しい妻を迎え、新しい国で暮らす。これまで姉を支え、海人族を束ね、戦の中を歩いてきた自分が、今度は伊予に根を下ろしてこの地の者たちと生きていくことになる。
迷いがないわけではない。それでも、すでに受け入れた道であった。
伊予を大倭壱国へ結ぶためだけではなく、妻となる娘と、この国の民を、自らが守るべき者として受け入れるために、月読は新たな土地で生きる覚悟を胸の内で静かに固めるのだった。
伊予から始まる瀬戸内海進出は近畿の三輪山に向けての最初の布石であった。




