七章 大国主 四話 吉備冠者との和解
出雲と三輪山を結ぶ道のほぼ中ほどに、吉備はあった。
かつては出雲軍の侵攻を受け、いくつもの村を焼かれ、多くの田畑を荒らされた土地である。戦が終わった直後には、もはや以前の姿を取り戻すことはできないだろうとさえ囁かれていた。
だが、吉備の主である吉備冠者は、その荒廃の中から国を立て直した。
焼け落ちた村を再建し、崩された堤を修復し、荒れ果てた田畑へ再び水を引いた。戦で失われた人手を補うため、離散した民を呼び戻し、周辺の集落から逃れてきた者たちも受け入れた。そうして人口を増やす一方、山間では木を採り、平野では稲を育て、川と海を利用して各地との交易を広げていった。
復興を果たした吉備は、やがて出雲侵攻以前を上回るほどの力を蓄えるようになった。
周囲の邑や村は次々と吉備冠者のもとへ集まり、その支配は東西へ広がっていく。今では単なる吉備国ではなく、諸国を束ねる「吉備王国」であると呼ぶ者さえ少なくなかった。
その吉備冠者のもとへ、出雲と三輪山から幾度も使者が訪れていた。
両国が求めているものは、和解と同盟だけではない。出雲と三輪山の間に、安定した交易路を設けることも含んでいた。
出雲からは鉄器や塩、海産物が運ばれ、三輪山からは銅鐸や大陸から伝わった銅鏡、それを三輪山独自に発展させた改良品である三角縁神獣鏡、布、中部や北陸の諸国から集められた品々が届けられる。両者が往来を盛んにすれば、戦によって疲弊した国々の復興はさらに進む。
しかし、その道を通すには吉備を避けることができなかった。
北の陸路を選べば険しい山々に阻まれ、南の海路を選んでも瀬戸内海に面する吉備の領海を通ることになる。吉備冠者の承諾を得ずに大勢の商人や船を通すことは、極めて危険な行為であった。
たとえ武器を持たぬ商人であっても、数十、数百と集まれば兵と変わらぬ圧力を持つ。ましてや吉備にとって、出雲はかつて国土を踏みにじった相手であり、三輪山もまた、その出雲軍とともに近畿へ進出した者たちが治める国だった。交易という名目だけで、容易に門戸を開けるはずがなかった。
これまでにも出雲と三輪山から数度にわたり使者が遣わされていた。
街道の整備に必要な人足と資材は両国が負担すること。吉備国内に宿場を設け、通行する商人から得られる税の一部を吉備へ納めること。出雲と三輪山の兵は、吉備冠者の許可なく領内へ入らないこと。道中で争いが起きた場合には、吉備の法に従って裁きを受けること。
提示された条件は使者が訪れるたびに整えられ、吉備にとっても十分な利益を得られる内容へと変わっていた。吉備冠者も、そのすべてを把握している。
出雲と三輪山の間に陸路と海路が開かれれば、吉備には多くの品と人が集まる。各地から運ばれてきた荷は吉備で積み替えられ、商人たちは宿を取り、食糧を買い、通行のための税を納めるだろう。吉備で作られた鉄器や土器、穀物もまた、出雲や近畿へ売ることができる。
国をさらに豊かにする好機であることは、吉備冠者にも分かっていた。それでも彼は承諾を与えず、使者を追い返すことも要求を拒絶することもなく、ただ返答を保留し続けていた。
吉備の重臣たちの中には、早く話を受けるべきだと進言する者もいた。
「これほど有利な条件を、いつまでも退けておく理由はございません。道が開かれれば、吉備は西と東を結ぶ要となりましょう」
評定の席で告げられた言葉に、吉備冠者は黙ったまま目を伏せた。
彼の前には、出雲から送られた書状と、三輪山から送られた書状が並べられている。どちらにも丁寧な言葉が記され、過去の戦に触れた詫びと、今後の和平を望む旨が記されていた。
条件だけを見れば、断る理由はない。だが、書状に並ぶ言葉だけで消えるほど、戦の記憶は軽くなかった。
吉備冠者は、焼け落ちる邑も、踏み荒らされた田も、家族を失って泣く民も、その目で見ていた。戦が終わった後も、飢えと病で命を落としていく者たちを幾人も見送っている。国が再び栄えたからといって、失われたものが戻ったわけではなかった。
「利益があることは分かっている」
吉備冠者は、ようやく口を開いた。
「道を通せば、吉備はさらに豊かになる。それも分かっている」
重臣たちは黙って次の言葉を待った。
「だが、出雲に攻め込まれた者たちが、すべて過去を忘れたわけではない。国が豊かになるから敵を許せと言って、民が納得すると思うか」
誰も答えることができなかった。交易によって得られる富はこれから手に入るものだが、戦によって失われた命は二度と戻らない。
「出雲も三輪山も、和平を望んでいると言う。だが、送られてくるのは使者は利益を説くばかりだ」
吉備冠者は二通の書状へ視線を落とした。
「国を焼かれた者に向かって、顔を見せることもなく、道だけを開けと言われて、どうして信じられる」
吉備冠者が承諾を保留し続けていたのは、提示された条件が足りないからではなかった。
出雲と三輪山が、本当に過去の戦を終わらせるつもりなのか。かつて敵であった吉備を、ただ都合のよい通り道として扱うのではなく、対等な国として向き合う覚悟があるのか。それを見極めようとしていたのである。
その時、城門を守る兵が評定の間へ駆け込んできた。
「申し上げます。出雲と三輪山より、再び使者が参りました」
重臣の一人が小さく息を吐いた。
「また使者か」
「いえ……」
兵は言い淀み、顔を上げた。
「此度は使者だけではございません」
吉備冠者の目が、わずかに細められる。
「出雲より大名持が、三輪山より邇芸速日が、自ら参っております」
評定の間に、どよめきが広がった。
二人とも、かつて出雲軍を率いて吉備の地を脅かした者である。その二人が、わずかな供だけを連れ、自ら吉備へ赴いたのだ。
吉備冠者はしばらく何も言わなかったが、やがて立ち上がると、腰に佩いた剣を確かめるように手を添えた。
「お会いになるのでございますか」
「会おうではないか」
吉備冠者は二通の書状を卓上へ置いたまま、評定の間の出口へ向かって歩き出した。
「今までの使者の言葉が真であるか、今度こそ本人たちの口から聞く」
三輪山からは邇芸速日が、出雲からは大名持が、それぞれ直接使者として吉備を訪れた。
二人は護衛こそ伴っていたものの、吉備冠者の前へ進み出る際には剣を預け、腰には何ひとつ帯びていなかった。かつて兵を率いて吉備へ攻め込み、領内の食糧を奪った当人たちが、今は使者として並んでいる。
上座から二人を見下ろした吉備冠者は、しばらく無言のまま険しい目を向けていた。
「……よくもまあ、二人揃って儂の前へ来られたものだ」
低く押し殺された声が広間に響いた。
「一人は兵を率いて我が国へ攻め入り、一人は民が命を繋ぐための食糧を奪った。ぬけぬけと儂の前へ現れるとは、たいした度胸よ。本来ならば八つ裂きにしても飽き足らん」
大名持も邇芸速日も、弁明しなかった。
飢饉のためだったとも、命令に従っただけだとも、自らの行いには理由があったとも口にしない。ただ吉備冠者の怒りを正面から受け止め、深く頭を垂れていた。
いかなる事情があろうとも、吉備の民が苦しんだ事実は変わらない。二人とも、それを理解していた。
長い沈黙の後、吉備冠者は深く息を吐いた。
「されど、儂は丸腰で礼を尽くして訪れた使者を斬るほどの野蛮人ではない。ましてや、使者として来た者を害するほど礼儀を知らずでもない」
その言葉に、控えていた吉備の重臣たちがわずかに緊張を解いた。
吉備冠者は肘掛けへ腕を置き、なおも厳しい表情のまま二人を見据えた。
「そなたらが何を求めて来たのかは分かっておる。だが、同盟には加わらぬ」
大名持は顔を上げず、静かにその言葉を聞いていた。
「儂一人が過去を水に流したところで、民の心まで同じとは限らん。焼かれた村も、奪われた蓄えも、飢えの中で失われた命も、忘れられるものではない。今なお出雲と三輪山を恨む者は少なくない」
吉備冠者はそこで言葉を切った。
「その民に向かって、今日からそなたらを友と仰げとは言えぬ。それでは王が民の痛みを踏みにじることになる」
拒絶の言葉でありながら、その声に先ほどまでの激しい怒りはなかった。
「ただし、交易は認める」
大名持がゆっくりと顔を上げた。
「商人が品を運び、互いの民が行き来することまでは妨げぬ。鉄も、塩も、布も、穀物も、正当な値で取り引きすればよい。時を重ねれば、民の心も変わることがあるやもしれん」
同盟ではない。
過去を許すという言葉もない。
それでも、閉ざされていた道は開かれた。敵国として刃を向け合った者たちが、交易を通じて再び言葉を交わすことを認められたのである。
大名持は両手をつき、深々と頭を下げた。
「ご配慮、心より感謝いたします」
その声に喜びを露わにする響きはなかった。ただ与えられた決定を真摯に受け止め、謝意を示している。
「吉備の民が我らを許してくださるまでには、長い時が必要でありましょう。これ以上を求めるつもりはございません」
邇芸速日もまた、無言で深く一礼した。
二人は同盟への参加を重ねて求めることも、条件を引き上げようと交渉することもなかった。吉備冠者の判断を受け入れ、その場を辞した。
吉備の宮を離れた二人は、護衛たちを後方に従え、並んで帰路を歩いていた。しばらくの間、どちらも口を開かなかった。
やがて邇芸速日が、前方へ目を向けたまま静かに言った。
「これで十分だ」
大名持は足を止めず、わずかに頷いた。
「ああ。これで十分だ」
二人が望んだのは、過去を忘れてもらうことではない。
再び関わることを許される、その最初の一歩だけだった。




