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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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一章 徐福伝説 九話 逃亡

 紀元前二百八年 冬。


 不死草の探索が始まってから、幾日もの時が流れていた。


 徐福は北麓の村に伝わる伝承にすがるように、不死草を採取しては奴隷たちに服用させ続けていた。煎じ方を変え、乾燥させるか否かを変え、根と葉の割合を変えながら実験を繰り返したが、結果は何一つ変わらなかった。


 服用した者たちは激しい苦痛にもがき、血を吐き、やがて命を落としていく。最初の数日で十人、そして犠牲者は二十人を超えた。死体を運ぶ者たちの顔からは感情が失われ、集落には重苦しい沈黙が広がっていた。次は自分が選ばれるかもしれないという恐怖が奴隷たち全員の胸に根を下ろし、那岐と漣もまた例外ではなかった。


 その日の夕刻、那岐は薪を運びながら、集落の片隅に設けられた奴隷たちの小屋の前を通りかかった。


 かつては何十人もの人間が肩を寄せ合うように暮らしていた場所だったが、今は妙に静まり返っている。隙間から中を覗くと、十人ほどの男女が身を寄せ合うように座っていた。しかし誰一人として言葉を交わさず、笑顔を見せる者もいない。ただ、自らの順番を待つ罪人のように俯き、重苦しい沈黙の中に沈んでいた。


「……また減ったな」


 思わず漏れた那岐の呟きに、一人の老人が乾いた笑みを浮かべた。


「昨日までは十三人いた」


 その言葉に那岐は息を呑んだ。たった一日で三人が姿を消したことになるが、その行き先を尋ねる必要はなかった。誰もが答えを知っていたからである。


「もう終わりだ」


 小屋の奥から別の男が力なく呟いた。


「あと十人も残っていない」

「俺たちが尽きたらどうなる」


 誰かの問いに、男は虚ろな目のまま笑った。


「決まっている。周辺の村から人を攫うか、ここにいる俺たち以外を使うだけだ」


 その言葉が落ちた瞬間、小屋の中は再び静まり返った。誰も反論しなかったのではない。反論できなかったのである。徐福が不死草に取り憑かれてからの変貌を見てきた彼らには、それが十分にあり得る未来だと分かっていた。


 那岐もまた同じ考えに至っていた。不死草への執着は、すでに人の命の価値を呑み込み、徐福から理性を奪いつつある。このまま奴隷たちが尽きれば、次は通訳か、あるいは周辺の村人たちにまで犠牲が広がるかもしれない。


 脳裏に浮かんだのは漣の顔だった。


 一人、また一人と死んでいけば、その先に何が待っているのかは明らかだった。そしてその瞬間、那岐はようやく悟った。


 もう待ってはいけない。

 逃げるなら、今しかないのだと。


 人目を避けて海辺へ出た那岐は、遠くで揺れる篝火を見つめながら、隣に立つ漣へ静かに告げた。


「逃げよう。このままここに残れば、俺たちもいずれ実験台にされる」


 那岐の言葉に、漣は驚いたように顔を上げた。


「逃げるって……どこへ?」


「分からない。だけど、ここ以外ならどこでもいい。徐福様はもう止まらない。このまま待っていても順番が来るだけだ」


 徐福の命令に逆らえる者は、もう集落には残っていなかった。だからこそ実験台にされる前に動くなら今しかないと那岐は考えていた。漣もしばらく俯いていたが、やがて決意を固めるように小さく頷いた。


「……うん」


 二人は夜陰に紛れて集落を抜け出した。


 実験場から離れるたびに、鼻を刺す薬草と死臭の混じった匂いが薄れていく。それでも二人の足取りは重かった。逃げれば助かるかもしれない。しかし集落にはまだ多くの奴隷たちが残されており、明日には誰かが実験台にされるかもしれないと思うと、胸の奥には拭いきれない罪悪感が残った。それでも二人には、彼らを救う力がなかった。


 漣は何度も後ろを振り返った。闇の向こうに揺れる灯火は、数年間を過ごした集落の明かりだった。熊野へ渡ってからの年月は決して短くない。畑を耕し、魚を獲り、祭りを開きながら暮らした日々もあったからこそ、今の狂気に支配された集落の姿が信じられなかった。


「徐福様は……変わってしまったのかな」


 何度目かに振り返った後、漣はぽつりと呟いた。

 漣の脳裏には、文字を教え、農耕を教え、人々の未来を語っていた頃の徐福の姿が浮かんでいた。皆の尊敬を集めていた賢者の面影は、今やどこにも見当たらない。


 那岐は返す言葉を持たなかった。徐福が変わったのか、それとも最初からそういう人間だったのかは分からない。ただ、不老長寿への執着によって本性が露わになったのだとすれば、もはや元の徐福へ戻ることはないだろう。


 二人は山道を進み続けた。


 夜の樹海は底知れぬ闇に包まれ、枝葉が月光を遮っている。火山岩の隙間を縫うように進むたびに足元が崩れ、漣が転倒しそうになる瞬間、那岐はその腕を掴んで引き起こした。背後を何度振り返っても追手の姿は見えなかったが、安心することはできなかった。


 やがて前方に崩れた溶岩が作り出した岩壁が現れ、その根元には人ひとりが身を隠せるほどの窪地が口を開けていた。奥は浅い洞窟のようになっており、外からはほとんど見えない。


「ここに隠れよう」


 那岐は漣の手を引いて岩陰へ身を滑り込ませた。二人は肩を寄せ合うようにして息を潜める。耳に聞こえるのは荒い呼吸と、激しく脈打つ心臓の音だけだった。張り詰めた沈黙の中では、それさえも周囲へ響いてしまいそうに思えた。


 どれほどそうしていたのか分からない。


 やがて遠くから複数の足音と怒号が聞こえ始め、揺れる松明の灯が木々の隙間を赤く染めながら近づいてきた。追手はすでに放たれていた。


「この辺りを探せ!」

「遠くへは行けん!」


 衛士たちの声が森に響くたび、漣の身体は小さく震えた。その手は無意識のうちに那岐の腕を強く掴んでいる。那岐もまた息を殺しながら腰の小刀へ手を伸ばしていたが、もし見つかれば到底敵わないことは分かっていた。


 松明の光は次第に近づき、ついには洞窟の入口付近まで差し込んできた。岩壁には衛士たちの影が揺れ、あと数歩踏み込まれれば見つかる距離だった。

 しかし追手は洞窟の存在に気づかぬまま、別の方向へ走り去っていった。


 足音が遠ざかっても、二人はすぐには動けなかった。再び戻ってくるかもしれないという不安が拭えず、岩陰に身を寄せたまま息を潜め続ける。

 やがて空がわずかに白み始めた頃、那岐は慎重に洞窟の外を覗き込み、周囲を見渡した。


「もういないみたいだ」


 那岐が囁くと、漣は岩壁にもたれたまま小さく頷いた。だが、その表情に安堵はなかった。追手が去ったとしても、まだ逃げ切れたわけではない。二人は夜明けを待たず、再び北へ向かうしかなかった。




 一方その頃、徐福の館には重苦しい緊張が漂っていた。


「まだ見つからぬのか」


 苛立ちを滲ませた徐福の問いに、衛尉の長は頭を下げた。


「捜索隊を増やしております。北麓の道は封鎖し、海岸にも見張りを配置いたしました」


 徐福は無言で頷いた。かつて熊野で人々を導いた賢者の面影はすでに失われ、目の下には濃い隈が刻まれている。痩せこけた顔には、不死草への執着だけが色濃く残っていた。


 その時、静かな声が広間に響いた。


「徐福様」


 振り返ると、一人の老人が立っていた。徐福と共に海を渡ってきた方士の一人であり、文字や農耕、薬学を村人たちへ教えてきた人物だった。漣や那岐も幾度となく教えを受け、その知識と穏やかな人柄を慕っていた。


「何用だ」

「どうか、あの二人を見逃してください」


 老人の願いに、広間は静まり返った。

 不死草の実験が始まって以来、徐福へ異を唱える者はいなくなっていた。反論しても聞き入れられないことを、誰もが理解していたからである。それでも老人は深く頭を下げたまま、言葉を続けた。


「あの子たちはまだ若く、漣は聡明で、那岐もまた心優しい若者です。文字を覚えるのも早く、人の痛みを理解できる。あの二人なら、いずれこの地の人々へ知識を伝え、未来を支える存在になれるはずです。どうか命だけはお助けください」


 声は震えていた。だが、それは恐怖からではない。長年見守ってきた教え子を救いたいという切実な願いからであり、答えを返さぬ徐福を前にしても、老人はなお言葉を重ねた。


「これ以上、犠牲を増やしてはなりません」


 その一言に方士たちは息を呑んだ。不死草の実験で死んだ者はすでに二十人を超えていた。それでも成果は何一つ得られず、積み上がったのは死体ばかりだった。


「どうか思い出してください。あなたが本当に目指していたものを」


 長い沈黙の末、徐福はゆっくりと顔を上げた。その瞳に宿っていたのは迷いでも後悔でもなく、底知れぬ執念だけだった。


「……黙れ」


 押し殺した声が響いた。


「徐福様……」

「黙れと言った」


 鋭くなった声に、老人は言葉を失った。

 徐福は老人を睨み据えながら、狂気を滲ませる口調で言った。


「あと少しなのだ。十人死んだ。二十人死んだ。だが、それが何だという。ここで止めれば、これまで死んだ者たちの命が無駄になる。必ず不老長寿へ辿り着く。それこそが、死んだ者たちへの報いとなる」


 徐福の目は、老人を見ていなかった。その向こうにある、まだ誰も辿り着いていない不老の影だけを見つめていた。

 老人は静かに目を閉じた。目の前にいる男が、もはや自分たちの知る徐福ではないことを悟ったのである。


「捕らえろ」


 冷たい命令とともに、衛士たちが老人を押さえつけた。


「徐福様!」

「お前も人体実験に加える」


 あまりにも冷酷な宣告に、広間は凍りついた。


「長年仕えてくれたことには感謝している。ならば最後に役立て」


 感情のない目で見下ろす徐福に、老人は抵抗することなく悲しげな視線を向けた。その瞳には失望と哀れみが滲んでいたが、徐福はもはやそれを受け止めることすらできなかった。


「あなたは……もう戻れないところまで来てしまわれた」


 老人はそれだけを残し、衛士たちに連れられて広間を去っていった。

 老人の姿が広間から消えても、誰一人として声を上げる者はいなかった。方士たちは俯き、衛士たちも表情を消したまま立ち尽くしている。沈黙だけが広間を支配し、その重苦しさは冬の冷気よりもなお人々の胸を締め付けていた。




 夜明け前、那岐と漣は樹海を抜けて北側の斜面へ辿り着いていた。

 東の空はわずかに白み始めている。凍えるような夜気の中をひたすら走り続けてきた二人は、大きな岩陰へ身を寄せるように腰を下ろした。那岐は荒い息を整えながら背後を振り返ったが、そこには松明の光も怒号もなく、風が木々を揺らす音だけが静かに山を渡っていた。


「もう……追ってこないかな」


 漣が不安と期待の入り混じった声で呟くと、那岐はしばらく耳を澄ませて周囲の気配を探り、小さく頷いた。


「かもしれないな。ここまで来れば簡単には見つからないはずだ」


 樹海は複雑に入り組み、夜の間に足跡も分かりにくくなっている。運が良ければ、このまま北へ抜けられるかもしれない。そんな希望が、那岐の胸にも芽生え始めていた。

 漣は安堵したように息を吐きながら、那岐の隣へ身を寄せる。


「助かったら……どこへ行こうか」

「山を越えた先だな。どこでもいい」


 那岐は苦笑しながら答えた。


「今度は誰にも命令されない場所で暮らそう」


 その言葉に、漣も小さく笑みを浮かべた。熊野で畑を耕し、海を眺めながら過ごした穏やかな日々が脳裏をよぎる。失われたと思っていた未来が、ほんの少しだけ手の届く場所へ戻ってきたような気がした。


 しかし、その希望は突然響いた低く長い音によって打ち砕かれた。

 山の向こうから鳴り響いた角笛が静寂を切り裂き、続いて別の方向からも同じ音が重なった。まるで山全体が呼応するかのように、複数の角笛が夜明け前の空へ響き渡る。


 その音を聞いた瞬間、二人の表情は凍りついた。

 追手は諦めていなかった。それどころか、すでに周囲一帯へ捜索網を広げていたのである。


「まずい……」


 那岐が呟いた直後、遠くの尾根に小さな火が灯った。一つ、また一つと増えていく灯火はやがて無数の松明となり、夜明けの薄闇の中で山肌をゆっくりと埋め尽くしていく。


 逃げ切れたかもしれないという淡い希望は、一瞬で砕け散った。


「走るぞ!」


 那岐は漣の手を強く握り、再び斜面を駆け下りた。しかしその背後では、無数の松明が獲物を追う狼の群れのように動き始めていた。


 二人は必死に逃げ続けた。


 火山岩に足を取られ、枝に腕を引っかかれ、凍った土に膝を打ちつけながらも、那岐は漣の手を離さなかった。漣も息を切らしながら懸命についてきたが、長く逃げ続けた疲労はすでに限界に達していた。


「那岐……ごめん……」


 漣が掠れた声で呟く。


「謝るな。絶対に逃げ切る」


 那岐は振り返らなかった。

 だが、自分でもその言葉に確信は持てなかった。追手は多く、二人だけで逃げ切れる可能性は極めて低い。それでも立ち止まるという選択肢だけはなかった。漣を実験台にさせるくらいなら、自分も一緒に死んだ方がましだった。


 やがて二人は崖際まで追い詰められた。

 前方は切り立った斜面。背後には追手。もはや逃げ場は残されていなかった。松明の光が次々と二人を囲み、武装した衛士たちの影が薄闇の中で揺れている。


「終わりだ」


 衛士の一人が告げた。

 那岐は漣を庇うように前へ出た。金立を離れる時に父から託された小刀を握り締めていたものの、武装した兵たちに敵うはずもない。


「抵抗するな」


 衛士たちがじりじりと距離を詰める。

 漣は込み上げる不安を押し殺すように、那岐の服を強く握り締めた。


「那岐……」


 その声は恐怖に震えていた。

 那岐は振り返らなかった。ただ漣を守るという一心で立ちはだかり続ける。しかし次の瞬間、背後から回り込んでいた衛士に押し倒され、数人がかりで腕を押さえつけられた。


「離せ!」


 那岐は全身の力を振り絞って抵抗した。だが背中に膝を押し当てられ、腕を容赦なく捻り上げられると、いかに暴れても拘束を振りほどくことはできなかった。漣もまた別の衛士たちに取り押さえられ、縄を掛けられながら涙声で叫んだ。


「いや……!」


 だが、その叫びに耳を貸す者は誰一人としていなかった。


 二人は縄で縛られたまま集落へ連れ戻された。暗い森には漣の嗚咽だけがいつまでも響き続け、その音もやがて冬の夜気に溶けるように消えていく。


 代わって二人の目に映ったのは、集落の先に立ち昇る不死草を煎じる煙だった。

 夜空へ細く伸びる白煙を見つめながら、那岐は悟った。

 次にあの薬を飲まされるのは、自分たちなのだと……


ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。

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