七章 大国主 二話 山門へ
高千穂の館では、数日後に迫った帰還に向けて慌ただしく準備が進められていた。大倭壱国の女王たる日巫女が山門へ戻るとなれば、護衛の兵だけでなく、道中の食糧や宿営に必要な道具、それらを運ぶ荷車まで整えねばならなかった。
館の庭では兵たちが荷を運び、長旅に備えて荷車の車輪や縄を確かめている。日巫女はその喧騒から離れた奥の一室で、各地から届けられた報告に目を通していた。
戦が終わったからといって、すべてが元に戻るわけではない。焼かれた村、耕す者を失った田畑、食糧を求めて故郷を離れた民、親を失った子供たち。竹簡に記された数字の一つ一つが、長く続いた戦の傷そのものだった。
日巫女が竹簡を置いた時、廊下の向こうから近侍の声がした。
「日巫女様、お目通りを願う方がおられます」
「誰です」
返事はすぐにはなかった。近侍がその名を口にすることをためらっているのが分かった。
「伊邪那岐様にございます」
日巫女の指先がわずかに止まったが、それだけだった。
「通しなさい」
やがて戸が開き、一人の少年が部屋へ入ってきた。長い髪に、少女と見紛うほど整った顔立ち。そして長い年月を生きているとは思えぬ若々しい姿。伊邪那岐は以前と何も変わっていなかった。
けれど日巫女には、父が以前よりも少しだけ小さく見えた。身体が縮んだわけではない。肩に背負うものが増え、その重みに耐えるように、立ち姿が静かになったのだ。
那岐は日巫女の前まで進むと、深く頭を下げた。
「久しぶり、姫」
「姫ではなく、日巫女ですわ」
「そうだったね」
責めるでもなく、困ったように微笑む。その表情が昔と変わらないことに、日巫女はわずかな苛立ちを覚えた。同時に、どうしようもない安堵もあった。
「それで、何の用ですか」
日巫女が努めて淡々と尋ねると、那岐もすぐに本題へ入った。
「追放処分を解いてほしい」
あまりにも率直な言葉に、日巫女は目を細めた。
「それだけですか」
「もう一つある」
那岐は顔を上げた。
「投馬国でしばらく暮らしたいと考えている」
「投馬国へ?」
「戦で親を失った子供たちを集めて、村を再建したい。家を建てて、田畑を拓いて、子供たちが自分で生きられる場所を作る」
日巫女は黙って父の話を聞いていた。いかにも父らしい話だった。国を得ようとするのではなく、地位を求めるのでもない。目の前に救われぬ者がいれば手を差し伸べ、その者たちが生きていける土地を作る。父は昔から何一つ変わっていなかった。
「そのために、倉を一つでいいので返してほしい」
那岐は続けた。
「父上が長年蓄えていた食糧のことですか?」
「うん。全部とは言わない。一つでいい。子供たちが最初の収穫を迎えるまで食べていけるだけあれば、それで十分だから」
日巫女は返事をしなかった。倉の一つなど、今の日巫女の権限であれば、すぐに返すことができる。追放処分についても同じだった。父を罰し続ける理由は、もうほとんど残っていない。
それでも日巫女は、すぐに許可することができなかった。父を完全に許したわけではなかったからだ。
父は須佐之男を守り、最後まで弟を見捨てようとはしなかった。大倭壱国の女王として見れば、それは国を危険に晒す行為だった。多くの民が死に、村が焼かれ、何十年にもわたって争いが続いた。父の選択を正しいとは思えない。おそらく、これから先も思うことはないだろう。
けれど父には、父の立場があった。
母、那美が死の間際に残したのは、子供たちとその子孫を守ってほしいという願いだった。父はその遺言を、あまりにも忠実に守り続けていた。たとえ国を敵に回しても、娘から追放を言い渡されても、守ろうとした息子自身から拒絶されても、父は最後まで須佐之男を見捨てなかった。
一方で、自分と月読は弟を死なせた。国を守るためとはいえ、母の願いを破った側にいる。
どちらが正しいのか、答えなど出るはずがない。立場が違い、見ていたものが違い、守ろうとしたものが違った。ただ、それだけのことだった。
「父上」
「何だい?」
「私や月読を、責めないのですか」
那岐は静かに日巫女を見つめた。
「何を?」
日巫女の眉がわずかに寄る。
「弟を死なせたことです」
那岐の表情から笑みが消えたが、怒りは浮かばなかった。
「責めて、須佐之男が戻ってくるの?」
「戻りません」
「姫や月読の傷が癒える?」
「……いいえ」
「なら、言っても仕方がないよ」
那岐はそれだけを答えた。あまりにも穏やかな声だった。
責められた方が、日巫女には楽だったかもしれない。罵られれば反論できる。怒りを向けられれば、女王として受け止められる。だが父は、過ぎたことを裁こうとはしなかった。今後どうするのか、生き残った者たちをどう救うのか、その話だけをしていた。
「父上は、また同じことが起きても、同じ選択をするのでしょうね」
日巫女が言うと、那岐は少し考えてから頷いた。
「たぶん」
「少しは迷ってください」
「迷うとは思うよ」
「それでも同じことをするのでしょう」
「……たぶんね」
日巫女は小さく息を吐いた。父は変わらない。息子と娘のどちらかを選べと言われれば、選ぶことそのものを拒み、双方を守ろうとするだろう。そして結局、どちらからも恨まれる。呆れるほど愚かで、救いようがないほど優しい。
日巫女は目を閉じた。
「追放処分は解除します」
「ありがとう」
「食糧も返しましょう。倉を一つと言わず、必要なだけ持っていってください」
「一つでいいよ」
「必要なだけと言っています」
「でも山門にも必要だろう?」
「これは女王としての命令です」
「……分かった」
父が素直に引き下がったのを見て、日巫女はわずかに口元を緩めた。
「ただし、条件があります」
「条件?」
「山門まで、私と同行すること」
那岐は目を瞬いた。
「それだけ?」
「まだあります」
日巫女は父から視線を逸らし、何でもないことのように続けた。
「道中、眠る時は私と同じ場所で休むこと」
「護衛の近くで?」
「違います」
日巫女は再び父を見た。
「私と一緒に添い寝してください」
沈黙が落ちた。庭から聞こえていた兵たちの声が、やけに遠く感じられた。
「もう子供じゃないだろう」
「私は父上の娘です」
「それはそうだけど」
「嫌なのですか」
日巫女の声は平静だったが、その目だけがわずかに揺れていた。
那岐は困ったように眉を下げた。日巫女がどれほど孤独だったのか、那岐には分かっているつもりだった。
女王となった日から、彼女は誰にも弱さを見せなくなった。夫を持たず、国のために子を儲け、父親となった男たちを愛することもなかった。それでも生まれた子供たちには、母として惜しみない愛情を注いでいる。那岐も孫たちを愛していた。
娘の選んだ方法に賛成しているわけではない。けれどそれは、日巫女が女王として歩んだ道だった。那岐にできることは、否定することではなく、見守ることだけだった。
きっと娘は疲れている。戦が終わり、張り詰めていたものが緩んだことで、幼い頃のように父へ甘えたくなったのだろう。那岐はそう考え、それ以外の感情が娘の胸にあるなど、思いもしなかった。
「分かったよ」
那岐は折れた。
「山門に着くまでだからね」
「ええ。それで構いません」
日巫女は静かに答えた。けれどその顔には、ほんのわずかに少女の頃の面影が戻っていた。
二人はそれ以上、過去について話さなかった。須佐之男の名も口にしなかった。何が正しかったのか、誰が間違っていたのか。今さら言葉にしても、互いの傷を広げるだけだと分かっていた。
父も傷つき、娘も傷ついている。そして失った者は帰ってこない。だから二人は、語らないことを選んだ。
数日後、日巫女の一行は高千穂を出発した。護衛の兵たちは徒歩で隊列を組み、食糧や寝具を積んだ荷車を引きながら、山門へ続く道を進んでいった。
道中、輿に乗った日巫女を横で歩く那岐は、並んで歩くこともあれば、それぞれ別の場所で民の様子を見ることもあった。
夜になると、一行は道沿いの村や開けた土地に宿営した。その夜も、日巫女のために張られた天幕の中には、二人分の寝具が並べられていた。
那岐は端に横になり、日巫女との間にわずかな距離を空けていた。
「父上」
「何?」
「遠いです」
「近いと思うけど」
「遠いです」
日巫女は身体を寄せた。那岐が少し離れると、日巫女はさらに寄る。
「父上、こちらを向いてください」
那岐はしばらく迷った末、日巫女の方を向いた。次の瞬間、日巫女は父の胸元へ額を寄せた。那岐の身体がわずかに固まる。
「これでは本当に、子供の頃と同じだね」
「何か不満でも?」
「いや」
那岐はゆっくりと腕を伸ばし、娘の背へ回した。
触れ合うことには、今でもわずかなためらいがある。かつて大切な者を失い続けた那岐にとって、誰かを強く抱き締めることは、その者をいつか失う恐怖を受け入れることでもあった。それでも、娘を拒絶するという選択はなかった。
日巫女は那岐の胸へ頬を寄せた。父の胸から聞こえる鼓動は、遠い昔と何も変わっていない。母を失った夜、王となる前の夜、初めて戦へ兵を送り出した夜。眠れぬ時には、いつもこの鼓動を思い出した。
日巫女にとって、父ほど深く心を許せる相手は一人もいなかった。それが娘としての思慕だけではないことを、彼女自身はとうに理解している。けれど、その想いを言葉にすることはなかった。
口にすれば、父を苦しめる。父が自分へ注ぐ愛が、娘へ向けられた無限の慈愛であることも分かっていた。
だから、今のままでよかった。父の娘として傍にいられるのなら、それ以上を望むつもりはなかった。
「父上」
「何だい?」
「山門に戻っても、時々は会いに来てください」
「会いに行くよ」
「時々ではなく、何度もです」
「分かった」
「約束ですよ」
「約束する」
那岐は娘の髪を静かに撫で、日巫女は目を閉じた。
長い戦の間、眠りは浅かった。誰かが襲ってくる夢を見た。弟が血を流して倒れる夢を見た。母が背を向けて去っていく夢を見た。自分の命令で死んだ兵たちが、何も言わずこちらを見つめている夢も見た。
だが、その夜は何も見なかった。父の胸の中には、女王も、神託を告げる巫女もいなかった。国を背負う必要もなく、そこにいるのは、ただ一人の娘だった。
那岐は娘が眠りについた後も、長い間目を閉じなかった。胸元で眠る顔には、疲労の色が濃く残っている。幼い頃は、眠ればすぐに穏やかな顔になった。今は眠っていても、眉間にわずかな皺が寄っている。
那岐は指先でその皺をそっと撫でた。
「よく頑張ったね、姫」
小さな声で呟いたが、日巫女から返事はなかった。ただ、眠ったまま父の衣を掴む指に、わずかに力がこもった。那岐はその手を解こうとはしなかった。
父と娘の間に残された傷は、消えてはいない。完全に許し合えたわけでもなかった。それでも二人は互いの痛みを理解し、傷を暴くのではなく、静かに覆うことを選んだ。
夜は深まり、天幕の外では風が木々の葉を揺らしていた。日巫女は父の胸の中で眠り続けた。
そこだけが、長い年月を孤独に生きてきた彼女に残された、唯一の安らぎだった。
数日後、一行は山門へ到着した。
民衆や役人たちが街道の両脇へ並び、女王の帰還を静かに迎える。日巫女を乗せた輿が祭殿前で静かに降ろされると、那岐は何も言わず歩み寄り、そっと右手を差し伸べた。
日巫女は一瞬だけその手を見つめると、小さく微笑み、ためらうことなくその手を取る。
二人は並んで祭殿への石段を歩き始めた。
父に手を引かれて歩く日巫女の姿は、女王として民の前に立つ威厳を失うことはなく、それでいて幼い頃、父と手を繋いで歩いた日の面影をわずかに残していた。
祭殿へ続く道を歩きながら、日巫女は一度もその手を離そうとはしなかった。




