七章 大国主 一話 帰還と旅立ち
西暦百八十九年、春。
壱岐の海は、朝の光を受けて静かに輝いていた。
港には幾艘もの小舟が並び、漁へ出る海人たちが慌ただしく荷を運んでいる。その傍らで、那岐は一人、筑紫へ渡る船を見つめていた。
食糧に窮した出雲軍のもとへ無断で大量の食糧を運び、須佐之男に帰国を促そうとしたこと。しかも交渉は失敗し、須佐之男を連れ戻すどころか、食糧だけを渡す結果となった。それが日巫女の怒りを買い、那岐は壱岐へ追放されたのである。
もっとも、牢へ閉じ込められていたわけではない。
島内を歩くことも、海人たちの仕事を手伝うことも許されていた。ただし、筑紫へ戻ることだけは禁じられ、月読の監視下に置かれていた。
監視とはいっても、月読が四六時中そばにいるわけではない。壱岐の者たちは那岐を丁重に扱い、月読も父を罪人として扱おうとはしなかった。ただ、日巫女の命令を破らせないため、船を出す者たちへ厳しく言い含めていたのである。
それでも今日、那岐は筑紫へ戻るつもりでいた。
日巫女から追放を解くとの知らせが届いたわけでも、許しを得たわけでもない。だからこそ、まずは高千穂へ向かい、日巫女に直接会うつもりだった。
黙って筑紫へ戻ることが許されないのであれば、自ら出向いて許しを請えばよい。拒まれたなら、その時は再び壱岐へ戻ればよいと考えていた。
那岐は港の先に広がる海を眺めながら、小さく息を吐いた。
「いつまでも、ここにいるわけにはいかないからね……」
壱岐での暮らしが嫌だったわけではない。海人たちは親切で、月読も何かと気を配ってくれた。島の田畑や水路を直し、漁具の改良を手伝いながら、終わりの見えない余生を、静かに送ることもできただろう。
だが、海の向こうでは今も、戦の傷に苦しむ者たちがいる。
須佐之男が率いた出雲軍と、大倭壱国を中心とする連合諸国との戦いは、あまりにも長く続いた。須佐之男が亡くなった後も争いの爪痕は深く残り、各地には焼かれた村や荒れ果てた田が広がっている。家族を失った者も、帰る場所を失った者も、数え切れないほどいるはずだった。
それを思えば、自分だけが島で穏やかに暮らしていることに、那岐は耐えられなかった。
背後から重い足音が近づき、やがて聞き慣れた声がかけられた。
「やはり、行くのですか」
振り返ると、月読が立っていた。旅装に身を包んだ那岐を見れば、何をしようとしているかは聞くまでもなかった。
那岐は困ったように微笑んだ。
「うん。高千穂へ行って、姫に会ってくるよ」
「姉上は、まだ父上の追放を解いておりません」
「分かっているよ。だから、許してもらいに行くんだ」
月読はしばらく黙っていた。父を止めるべき立場にありながら、力ずくで引き留めることもできずにいる。その迷いが、わずかに眉間へ現れていた。
「許されなかった場合は、どうなさるおつもりですか」
「その時は戻ってくるよ。姫がここにいなさいと言うなら、もう少し壱岐にいることにする」
「本当に戻りますか」
「戻るよ。私はもう、姫と争いたいわけではないからね」
穏やかな声だったが、月読は父の言葉をそのまま信じてよいものか迷っていた。
那岐は争いを好まず、厳しい言葉を口にすることも、誰かを憎むこともほとんどない。だが、目の前で困っている者を見つけると、日巫女の命令であろうと国の決まりであろうと、簡単に忘れてしまうところがあった。
出雲軍へ食糧を渡した時も、そうだった。
敵へ利する行為だと何度説明されても、那岐にとっては飢えている者へ食べ物を渡したに過ぎない。出雲軍の中に息子や孫がいたことも、その判断をさらに鈍らせていた。
「父上」
「なにかな」
「姉上の前で、余計なことは言わないでください」
那岐は目を瞬かせた。
「余計なこと?」
「須佐之男のことです」
その名が出た瞬間、那岐の表情からわずかに笑みが消えた。月読もそれ以上は言葉を続けず、二人の間を海風だけが通り抜けていく。
須佐之男の死をめぐっては、日巫女も、月読も、そして那岐も、それぞれに深い傷を負っていた。今さら誰が正しかったのかを論じたところで、亡くなった者が戻るわけではない。責め合えば、残された家族の傷をさらに深くするだけだった。
那岐はしばらく海を見つめた後、静かに頷いた。
「分かっているよ。過ぎたことを責めるために行くんじゃない」
「では、何を話すおつもりですか」
「これからのことかな」
那岐は再び微笑んだ。
「筑紫へ戻って、戦で困っている人たちを見て回りたいんだ。田が荒れているなら直したいし、食べる物がないなら、一緒に作ればいい。家を失った人がいれば、住める場所も必要でしょう?」
「また、国造りを始めるおつもりですか」
「そんな大げさなことではないよ」
那岐は少し困ったように首を傾けた。
「ただ、放っておけないだけだから」
月読は小さく息を吐いた。父は昔から変わらない。
本人に国を作っている自覚などなく、ただ川を整え、土地を拓き、人が生きていけるよう手を貸す。そうして人が集まり、村が生まれ、いつしか国と呼ばれるほど大きくなっていく。それを何百年も繰り返してきたのが、伊邪那岐という人物だった。
「船は用意してあります」
月読が告げると、那岐は驚いたように目を見開いた。
「止めないの?」
「止めたところで、父上は別の船を探すでしょう」
「泳いで渡るようなことはしないよ」
「空を飛んで渡ることは考えたのではありませんか」
那岐は気まずそうに目をそらし、月読はそれを見て深くため息をついた。
「監視役としては、父上を島から出すべきではありません。しかし、息子としては……これ以上、父上を閉じ込めておきたくもありません」
「月読……」
「ただし、高千穂へ向かうこと。姉上に直接会い、許しを得ること。それまでは勝手な行動を慎んでください」
「うん。約束するよ」
「困っている者を見つけてもです」
那岐の返事が止まった。
「父上」
「……できるだけ、そうするよ」
「約束になっておりません」
呆れた声を出しながらも、月読の表情はどこか柔らかかった。
やがて筑紫へ向かう船の準備が整い、船頭が出航を知らせる声を上げた。那岐が荷物を背負い、船へ乗り込もうとすると、その背中へ月読が声をかける。
「父上」
那岐は足を止めて振り返った。
「姉上も、父上を憎んでいるわけではありません」
那岐は何も答えず、ただ少しだけ寂しそうに笑った。
「分かっているよ」
船が岸を離れると、月読は港に立ったまま、徐々に遠ざかっていく父の姿を見送った。那岐もまた船尾に立ち、壱岐の島影が小さくなるまで月読へ手を振り続けた。
海の先には、長い戦乱によって傷ついた筑紫がある。そして高千穂には、いまだ父を許していない娘が待っている。
それでも那岐は、許しを得るため、残された者たちを救うため、もう一度自分の手で荒れた土地を耕すために、故郷へ戻ることを選んだ。
船は穏やかな波を割りながら、筑紫の方角へ進んでいった。
奴国へ入った那岐は、街道を進みながら戦の跡を見て回った。
かつて家々が立ち並んでいた場所には、焼け落ちた柱と黒く焦げた土壁だけが残り、風が吹くたびに灰が舞い上がった。すでに火が消えてから長い時が過ぎているはずなのに、炭の匂いがまだ微かに鼻を突く。
集落の外に広がる水田も荒れ果てていた。
田を耕す者も、水路を直す者もいなくなったのだろう。崩れた畦から水が漏れ、乾いた田面には背の高い草が生い茂っている。稲穂が揺れていたはずの土地は、今では虫と小動物の住処となっていた。
道端には片腕を失った男が座り込み、ぼんやりと遠くを眺めていた。別の村では片脚を失った元兵士が杖に縋りながら、残された家族のために薪を運んでいた。
夫が戦から戻らぬまま、幼い子を抱えて街道を見つめ続ける女もいた。誰もが、生きていた。しかし、それを救いと呼んでよいのか、那岐には分からなかった。
戦は終わった。けれども、戦によって失われたものは戻ってこない。国境が定まり、王たちが勝敗を受け入れたところで、焼け落ちた家が元へ戻るわけでも、失われた手足が生えてくるわけでもなかった。
そして、その犠牲を最も深く受けていたのは、戦う力さえ持たなかった子供たちである。
ある日の夕暮れ、那岐は焼け残った倉の軒下で、小さな子供を見つけた。年は五つか六つほどだろう。薄汚れた衣をまとい、膝を抱えて座り込んでいる。
「一人なのかい?」
子供は怯えたように顔を上げ、小さく頷いた。
「父上と母上は?」
「……帰ってこない」
父は兵として戦へ赴き、母は村が焼かれた際に命を落としたという。このままでは冬を越えることはできない……そう悟った那岐は、子供の前へ屈み込んだ。
「私と一緒に来るかい?」
子供は不安そうに那岐を見つめる。
「……本当に?」
「ああ」
「捨てない?」
「捨てないよ」
その言葉を聞いた子供は、おずおずと那岐の差し出した手を握った。
それが最初の一人だった。
その後も那岐は、明日を生きることさえ難しい孤児を見つけるたびに足を止めた。焼け跡で幼い弟を守る少女、戦死した兵の子として村を追われた少年、病で母を失い飢えに苦しむ幼子……引き取る者がいないと分かれば、誰一人見捨てることはできなかった。
奴国を離れる頃には六人となり、年長の子が幼い子の手を引き、歩けなくなれば那岐が背負う。食事も寝床も分け合いながら旅を続けるうち、子供たちの表情には少しずつ笑顔が戻り始めていた。
しかし、投馬国へ入っても光景は何一つ変わらなかった。焼けた村、荒れ果てた田畑、家族を失った人々……戦の傷跡は国の違いなど関係なく広がっていた。
那岐は投馬国でも孤児を見つけるたびに連れていった。
一人、また一人と増え続け、いつしか子供たちの数は二桁に達していた。
食料も寝る場所も十分とは言えない。それでも那岐には、助けを求める子供を置き去りにすることだけはできなかった。
さすがに幼い子供たちを高千穂まで連れていくわけにはいかなかった。険しい山道を越える長旅になるうえ、この先で何が起こるかも分からない。
那岐は大倭壱国の領内へ入ったところで進路を変え、北部に展開する軍を預かっていた忍穂耳の陣を訪れた。
「すまないが、この子たちをしばらく預かってもらえないだろうか」
突然の頼みに忍穂耳は驚いたものの、那岐の傍らに身を寄せる子供たちの姿を見ると、詳しい事情を尋ねることなく頷いた。
「承知しました。ここにいる間は、私が責任を持ってお守りします」
その言葉を聞き、那岐は安堵したように微笑んだ。子供たちには必ず戻ると約束し、一人ひとりの頭を優しく撫でてから忍穂耳へ託す。
そうして身軽になった那岐は、再び南へと向き直った。
目指すは高千穂。いまだ自分を許していない娘と向き合うため、那岐は再び一人で旅路を急いだ。
那岐が荒れ果てた筑紫を南へ進んでいた頃、出雲ではもう一人、戦後の倭を歩く決意を固めた者がいた。
その頃、大名持は荒廃した農地を立て直すため、水路の拡張工事に追われていた。川から引いた水を遠くの田畑まで届けるため、人夫たちとともに泥にまみれて鍬を振るい、流れの傾きや堤の高さを自ら確かめる日々を送っている。
その日も掘りかけの水路へ降り、崩れやすい土壁を見上げていた。
「ここはもう少し広げろ。雨が続けば、この幅では溢れる」
周囲の者たちへ指示を出していると、背後から重い足音が近づいてきた。振り返った先に立っていたのは五十猛だったが、いつもの武装姿ではなく、腰に剣こそ帯びているものの鎧は身につけず、背には旅支度の荷を負っていた。
その姿を見ただけで、大名持は何かを察した。
「行くのか」
「ああ」
五十猛が短く答えると、大名持は手にしていた鍬を地面へ置き、水路から上がった。
「どこへ行く」
「まずは韓へ渡る」
「韓に?」
「木の種を集める」
思いがけない答えに、大名持はわずかに眉を動かした。
五十猛は掘り返された土の向こうへ目を向けた。かつて田畑であった場所には戦火によって焼かれた木々の黒い幹が残り、遠くの山肌にもところどころ禿げた斜面が見えている。
「武人としての立場も、出雲での地位も捨てる」
静かな声でそう告げた五十猛は、そのまま続けた。
「これからは倭中の山々を巡り、木を植えて回る。韓で種を仕入れ、筑紫から始めるつもりだ」
「筑紫から出雲までか」
「それだけではない」
五十猛は首を横へ振った。
「人が暮らしている限り、木は伐られる。家を建てるにも、船を造るにも、火を焚くにも木が要る。このままでは、戦が終わっても山は戻らぬ」
五十猛は、これまで幾度となく剣を握り、敵を斬ってきた自らの大きな手を見下ろした。
「だから植える。筑紫も、吉備も、出雲も、近畿もだ。倭中の山々を、再び緑で覆いたい」
大名持は何も言えなかった。
自分は荒れた田畑を耕し、水路を掘り、飢える民へ食を与えることで精いっぱいだった。出雲を再び豊かな国へ戻すことこそが自らに課せられた責務だと信じ、そのためだけに走り続けてきたのである。
だが五十猛が見ているものは、出雲一国ではなかった。かつて敵として戦った筑紫も、まだ足を踏み入れたことのない遠い土地も区別せず、倭そのものを緑豊かな国へ変えようとしている。
戦場で幾多の武功を立てた男が剣を捨て、名も地位も求めず、何十年、あるいは一生をかけても終わらぬ道を選ぼうとしていた。
「大きなことを考えるな」
ようやく大名持が言うと、五十猛はわずかに口元を緩めた。
「お前ほどではない」
「俺は出雲のことしか考えていない」
「それでいい」
五十猛は掘りかけの水路を見渡した。
「国を立て直せる者は多くない」
大名持もまた、荒れ地の向こうに広がる田畑へ目を向けた。水路にはすでに細い流れが生まれ、陽光を受けてきらめいている。この水が行き渡れば、来年には再び稲穂が揺れるだろう。
五十猛が植える木々もすぐには森にならず、芽を出して根を張り、幹を伸ばし、人々がその木陰で休めるようになるまでには長い年月が必要になる。どちらも今日明日に成果が見える仕事ではないが、誰かが始めなければ何も残らない。
「いつ発つ」
「今日だ」
「そうか」
それ以上、引き止める言葉はなかった。
大名持が五十猛の前に立ち、右手を固く握って無言で差し出すと、五十猛もその拳を見つめた後、自らの拳を軽くぶつけた。
言葉数の少ない二人にとって、それだけで十分だった。互いの道を認め、互いの無事を願う二つの拳が、二人の最後の別れの挨拶となった。




