六章 倭国大乱 二十四話 英雄の帰郷
出雲軍の本陣には、重苦しい沈黙が満ちていた。
戦場から運び込まれた須佐之男の亡骸は厚い白布に覆われ、その巨躯を収めるために急ごしらえされた台の周囲には、折れた剣や泥に汚れた旗が並べられていた。
誰もが、白布の下に横たわる男の死を信じられずにいた。敵陣へただ一人で踏み込み、幾百の兵を蹴散らしてきた王である。どれほど深い傷を負っても立ち上がり、いかなる猛将を前にしても一歩たりとも退かなかった。出雲の兵たちにとって須佐之男とは、敗北も死も寄せつけぬ存在だった。
その王が、今は動かない。
陣中には泣き声すらほとんどなかったが、それは悲しみが浅いためではない。誰もが深すぎる喪失を前に、何をすればよいのか分からなくなっていたのである。
やがて諸将が集められた軍議の場で、八島士奴美は膝の上に置いた拳を強く握り締めた。父王の死を知らされてから、彼は一度も涙を見せていなかったが、充血した目と青ざめた顔には、抑え込んだ悲痛と怒りが深く刻まれている。
「兵を南へ向ける」
八島士奴美の声が、静まり返った幕舎に響いた。
「このまま出雲へ帰ることなどできぬ。父上を殺したのは大倭壱国だ。月読だけではない。日巫女も、奴国も、伊都国も、父上に刃を向けた者はすべて同じだ」
居並ぶ将たちの間に小さなどよめきが走る中、八島士奴美は立ち上がり、敷かれていた地図の南部を指し示した。
「父上を失った今こそ、敵は我らが崩れると考えている。ゆえに、ここで退いてはならぬ。残る兵をまとめ、南へ進む。父上が成し遂げられなかった大倭壱国の制圧を、我らの手で果たすのだ」
その言葉には、王の長男として軍を引き継ごうとする覚悟と、父を奪われた息子の激しい怒りが込められていた。
「父上の亡骸を前にして、背を向けて帰るというのか。出雲の兵が、そのような恥を受け入れられるはずがない!」
八島士奴美は声を強め、地図を睨みつけた。
「大倭壱国へ進み、父上の仇を討つ。それこそが、我らが今なすべきことだ!」
だが、五十猛はすぐには答えず、幕舎の中を見渡して集められた諸将の顔を一人ずつ確かめていった。
皆、疲れ果てていた。鎧は傷つき、頬は痩せこけ、腕や頭に布を巻いた者も少なくない。将たちですらその有様であるならば、外にいる兵たちはさらに深く疲弊している。
長い遠征、終わらぬ戦、減り続ける食糧、故郷へ帰れぬ日々。そして、絶対に敗れぬと信じていた父王の死。出雲軍を支えてきたものは、すでに根元から崩れかけていた。
「兄上」
五十猛は静かに口を開いた。
「今の兵では、南へ進めません」
八島士奴美が鋭く睨みつける。
「進めぬだと?」
「進ませることはできます。命じれば、兵は歩くでしょう。しかし、戦えるかどうかは別です」
「父上の仇を討つのだぞ。出雲の兵ならば……」
「父上の死を知ってから、陣を抜ける者が増えています」
五十猛の言葉に、八島士奴美の顔が強張った。
「何だと」
「昨夜だけで数十人です。逃げた者ばかりではありません。故郷へ帰りたいと正面から願い出た者もいます。武具を置き、もう戦えぬと泣いた者もいました」
「そのような者は兵ではない!」
八島士奴美は地図を拳で叩いた。
「父上が死んだ今だからこそ、奮い立たねばならぬのだ!」
「皆、父上のようにはなれません」
五十猛の声は低かったが、はっきりとしており、その一言で幕舎の空気が張り詰めた。
「父上は、どれほど兵が疲れていようと、御自身が先頭に立つことで軍を進ませてきました。父上が敵陣へ踏み込めば、兵は勝てると信じられた。あの背中についていけば、必ず故郷へ帰れると思えたのです」
五十猛は一度言葉を切り、白布に覆われた亡骸へ目を向けた。
「ですが、もう父上は立ちません」
八島士奴美の唇が震えた。
「兵たちは、無敵の王を失ったのです。王だけではありません。勝てるという確信も、帰れるという望みも失った。今の軍を南へ向かわせれば、途中で崩れます」
「ならば、我らが父上に代わればよい!」
「今すぐ父上の代わりになれる者など、どこにもおりません」
五十猛は兄から目を逸らさなかった。
「兄上にも、私にもです」
八島士奴美は言葉を失い、その場にいる誰も五十猛の言葉を否定できなかった。
須佐之男はただの王ではなく、戦場に立つだけで軍を一つにし、その存在だけで兵に勝利を確信させる男だった。その巨大な力と名声によって、出雲軍は限界を越えて戦い続けてきたのである。その代わりを、息子であるというだけで務められるはずがなかった。
「一度、出雲へ戻るべきです」
五十猛は続けた。
「父上の葬儀を行い、兵を休ませ、負傷者を癒やす。減った兵を補い、食糧を集め、軍を立て直すのです。戦うにしても、その後です」
「戻れば、敵に時を与えることになる」
「ここで軍を失えば、時すら残りません」
「敵は父上を殺したのだぞ!」
「分かっています!」
五十猛が初めて声を荒らげると、その拳もまた強く震えていた。
「私とて、父上を殺した者を許したわけではありません! 今すぐ月読を追い、首を落とせるものなら、そうしたい!」
五十猛は奥歯を噛み締めた。
「ですが、怒りだけで兵を死なせることはできません」
八島士奴美は弟を睨んだまま動かなかった。
「父上ならば、退かぬ」
「父上だから退かなかったのです」
五十猛は答えた。
「ですが、父上はもうおられません。今の我らが父上の真似をすれば、ただ兵を無駄に死なせるだけです」
「父上の戦いが、無駄だったと言うのか」
「違います」
五十猛は静かに首を横に振った。
「父上の戦いを無駄にしないために、帰るのです」
幕舎の外からは風に揺れる旗の音が聞こえていた。かつて力強く空を打っていた出雲の旗は、長い戦で裂け、泥と血に汚れている。
軍議はそれからも続き、八島士奴美は南進の主張を譲らなかった。父王を討たれたまま故郷へ帰れば、出雲の威信は地に落ちる。敵は勢いづき、従っていた国々も離反する。ここで大倭壱国を攻めなければ、須佐之男の死は敗北として人々の記憶に刻まれる。
その主張にも道理はあったが、南進を支持する将は次第に口を閉ざしていった。
軍の現状を知らぬ者はいない。兵糧は乏しく、武具は傷み、軍馬も減っている。負傷者を運ぶだけでも多くの人手が必要であり、何よりも兵たちの心が戦場から離れていた。
父王の仇を討てと叫んでも、応える声は日に日に弱くなっている。
軍議の最中にも一人の将が幕舎へ入り、兵の一団が武器を置いたことを告げた。彼らは反乱を起こしたのではなく、ただ出雲へ帰してほしいと地面に額をつけていた。
須佐之男のために何年も戦ってきた兵たちである。仲間を失い、飢えに耐え、故郷から遠く離れた土地を進み続けてきた。王が生きている間は、それでも耐えられたが、その王はもういない。
八島士奴美は報告を聞き、目を閉じた。
父の仇を討たねばならない。父が築いた国を守らねばならない。長男である自分が、父の死後も出雲軍は健在だと示さねばならない。
その思いは変わらなかったが、軍を動かすのは意地だけではない。兵が歩かぬ軍は、もはや軍ではなかった。
長い沈黙の末、八島士奴美は低く尋ねた。
「出雲へ戻れば……兵は再び戦えるのか」
五十猛は即答しなかった。
「分かりません」
その答えに、八島士奴美は目を開いた。
「必ず立て直せるとは申せません。父上を失った傷が、どれほど深いのか、私にも分からないのです」
「ならば……」
「ですが、ここに留まれば確実に崩れます」
五十猛は言った。
「故郷へ帰り、家族に会い、父上を弔う。それをせずに兵へ次の戦いを命じても、誰も心から従いません」
八島士奴美は、白布に覆われた父を見つめた。
須佐之男が生きていれば、迷うことなどなかっただろう。進むと決めれば進み、敵が立ちはだかれば打ち砕く。その決断に反対する者がいても、最後には力で正しさを示してきた。
だが、息子たちにはその力がない。父の死によって初めて、彼らは須佐之男という巨大な存在に守られていたことを思い知らされていた。
「……分かった」
八島士奴美のかすれた声に、諸将が一斉に顔を上げた。
「全軍に命じる」
八島士奴美は、父の亡骸の前に膝をついた。
「南への進軍を中止する。負傷者をまとめ、父上の御身体をお守りしながら、出雲本国へ撤退する」
その言葉を口にした瞬間、八島士奴美の肩がわずかに揺れた。
復讐を諦めたわけではなく、父の死を受け入れたわけでもない。ただ、今は帰らねばならなかった。
「ただし、これは敗走ではない」
八島士奴美は振り返り、諸将を見渡した。
「父王を故郷へお連れするための帰還だ。武具を捨てることは許さぬ。旗を伏せることも許さぬ。隊列を整え、出雲の軍として帰る」
将たちは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
軍議が終わり、撤退の命が陣中へ伝えられた。
南へ進むのではなく、出雲へ帰る。
その知らせを聞いた兵たちの間から歓声は上がらなかった。父王を失ったままの帰郷である以上、喜べるはずがない。
それでも、多くの兵が静かに息を吐き、目を閉じた。中には、その場に膝をつき、故郷の方角へ額を下げる者もいた。長く張り詰めていたものが、ようやく緩んだのである。
撤退の準備が始まると、兵たちは須佐之男の亡骸を運ぶため、最も頑丈な輿を作った。太い木材を組み、何重にも縄を巻き、上から雨風を防ぐ布を張る。王の身体を載せても揺れぬよう、何度も確かめながら作業を続けた。
誰も手を抜かず、疲れ果てていた兵たちも、その輿を作るときだけは黙々と力を尽くした。
やがて、白布に覆われた須佐之男が輿へ移され、八島士奴美と五十猛はその両脇に立った。
二人の前には父王の旗を掲げた兵が並び、傷ついて端が裂けた旗を高く掲げている。その旗が地面へ伏せられることはなかった。
「出発する」
八島士奴美が命じると、軍列はゆっくりと動き始めた。
先頭を行くのは勝利を告げる使者ではなく、奪い取った財宝を積んだ荷車でもない。幾つもの国を打ち破り、出雲の名を天下へ轟かせた王の亡骸だった。
兵たちは誰一人として歌わず、勝鬨も上げなかった。ただ、王の輿を守るように隊列を組み、北東へ続く道を歩いていく。
須佐之男は生前、一度として敵に背を向けなかった。誰にも敗れず、誰にも膝を屈することなく、戦場の覇者として生き続けた。
その英雄が、初めて戦地を去る。
出雲の兵たちは、王を失った大きな空白を抱えたまま、その身体を故郷へと運んでいった。
軍議の末、八島士奴美は少数の兵を率いて先行し、奴国へ向かうこととなった。任務は、出雲軍が安全に撤退できるよう街道を確保し、海へ辿り着いた後に兵を出雲へ送り返すための船舶を集めることである。
一方、本隊の指揮は五十猛に託された。父王・須佐之男の亡骸を守りながら、全軍を率いて出雲まで撤退するという重い役目であった。
しかし、出雲軍が撤退を開始すると、大倭壱国軍は数日と待たずに激しい追撃を開始する。隊列の後方へ絶え間なく圧力をかけ、休息の隙さえ与えず、敗走する出雲軍を徹底的に叩き潰そうとしていた。
五十猛には、もはや戦う意思はなかった。父王を無事に出雲へ連れ帰り、王として弔いたい。今の五十猛の願いは、それだけである。
それでも、出雲本軍を預かる総大将として指揮を放棄することは許されなかった。隊列の中央には父王の亡骸が安置され、その周囲には傷兵や疲弊しきった兵たちが続いている。ここで統制を失えば、父も兵も故郷へ帰ることはできない。
「後軍を止めるな。傷兵を先へ送れ」
五十猛は静かに命じると馬首を返し、迫り来る追撃軍へ視線を向けた。
「弓兵は林際へ配置しろ。敵を十分引きつけてから射て。槍兵は街道を塞げ。深追いはするな」
命令は冷静で的確だった。
そこには敵を討ち果たそうという闘志も、勝利への執着もない。ただ一人でも多くの兵を故郷へ帰すため、その一点だけを胸に必要な指示を淡々と重ねていく。
やがて街道の彼方に土煙が立ち上り、大倭壱国軍の先鋒が姿を現した。五十猛は無言で剣を抜く。戦いたくはない。それでも、戦わなければ父を出雲へ帰すことはできない。
迫り来る敵を見据えるその表情には、憎しみも怒りもなく、深い悲しみと、最後まで兵を守り抜こうとする覚悟だけが静かに宿っていた。
瓊瓊杵にとって、戦そのものが初めてというわけではなかった。
南部ではすでに幾度か小規模な戦闘を経験し、自ら兵を率いて敵と刃を交えたこともある。だが、数千の兵が動き、わずかな判断の遅れが軍全体の生死を分けるほどの大戦は、これが初めてであった。
それでも、彼の立てた作戦には若さゆえの勢いだけではない、鋭い読みがあった。
瓊瓊杵は全軍を三隊に分けた。一隊には出雲軍の後方から襲いかからせる。残る二隊は左右へ展開し、敵の両脇を抉るように進ませた。狙うのは末端の兵ではない。出雲軍の中枢そのものである。
後方を断ち、左右から包み込み、指揮系統ごと圧し潰す。逃げ道を奪ったうえで包囲し、一気に殲滅する策であった。
「止まるな! 敵の中枢まで突き進め!」
瓊瓊杵の声が戦場に響く。
その声に応えるように、大倭壱国軍の兵たちは勢いを増した。若き将が先頭に立ち、恐れることなく前へ進む姿が、兵たちの士気を大きく奮い立たせていた。
左右に分かれた二隊は、出雲軍の抵抗を押し退けながら深く食い込んでいく。
敵兵が防ごうとしても、勢いは止まらない。盾を打ち鳴らし、鬨の声を上げ、崩れた箇所へ次々と兵が雪崩れ込む。やがて両隊は出雲軍の中枢近くまで追いつき、左右から同時に襲いかかった。
さらに遅れて、迂回していた一隊も後方へ到達する。三方から挟まれた出雲軍の陣形は、大きく歪んだ。
前へ進もうにも左右から攻め込まれ、退こうにも後方を塞がれている。命令を伝える使者は混乱する兵の群れに阻まれ、将たちの声も戦場の喧騒に呑み込まれていった。
瓊瓊杵の作戦は、ほとんど成功していた。
三方から同時に攻め立てられては、歴戦の出雲軍といえども容易には持ち堪えられない。まして今の彼らは、長く続く戦と飢えによって疲れ果て、戦う意味さえ見失いかけていた。
もともと低かった士気は、包囲されたと知った瞬間、さらに崩れた。
敵へ向けていた槍を下げる者が現れ、後方を振り返る者が増えていく。逃げ道を求めて兵同士が押し合い、整然としていたはずの隊列は、たちまち乱れ始めた。
大倭壱国軍の挟撃は、出雲軍の中枢を確実に締め上げていた。
五十猛は戦場を駆け抜け、中枢へと急いでいた。
敵兵は幾重もの守りを突破し、このままでは陣の奥深くまで踏み込まれる。味方を立て直し、侵入した敵を押し戻さなければならない。
しかし、五十猛が中枢へ戻った時には、すでに一人の若き将がその場所へ到達していた。
瓊瓊杵である。
彼の背後には大倭壱国の兵が続き、その前には厳重に守られていた須佐之男王の棺が置かれていた。
瓊瓊杵は棺を見据え、勝機を確信する。
敵王の棺を確保すれば、出雲軍はこれを捨てて撤退することはできない。必ず奪還のために兵を差し向ける。その隙に包囲すれば、出雲軍をこの地へ縛りつけ、一気に追い詰められる。
敵王の遺骸さえ押さえれば、戦の主導権はこちらへ移る。そう計算していた。だが、それは決定的な誤算だった。
棺の前に立つ瓊瓊杵の姿を認めた瞬間、五十猛の足が止まる。その視線は瓊瓊杵から棺へと移り、敵が父の棺へ手をかけている光景を映した。
次の瞬間、凄まじい妖気が五十猛の全身から噴き上がる。
空気が震え、大地の砂塵が一斉に舞い上がった。その場にいた兵たちは敵味方を問わず息をのみ、身体を強張らせる。
瓊瓊杵も異変を察知して振り返った。視界の先には剣を握る五十猛が立っている。その姿が揺らいだ。いや、消えた。
「……っ!」
瓊瓊杵は反射的に剣を抜き、迎え撃とうとする。
しかし、妖気を全身に纏った五十猛は一直線に突進し、その速度は人の目で捉えられるものではなかった。
瓊瓊杵には妖気がない。その一撃を見切ることも、受け止めることもできなかった。
銀色の閃光が走る。五十猛の剣は、構えかけた瓊瓊杵の剣ごと、その身体を一刀のもとに両断した。
何が起きたのか理解する間もなく、瓊瓊杵の身体は崩れ落ちる。五十猛は足を止めることなく、そのまま棺へ押し寄せる敵兵の中へ飛び込んだ。
一振りごとに血飛沫が舞い、剣を向けた兵は武器ごと断たれ、逃げる兵も容赦なく斬り伏せられる。槍も盾も甲冑も、妖気を纏った刃の前では何の意味もなかった。
五十猛は咆哮すら上げず、ただ無言のまま父の棺へ近づく者を一人、また一人と薙ぎ倒していく。
そこにいたのは戦況を見極める将ではない。
亡き父を穢そうとした者を、一人たりとも生かして帰さぬと決めた、一人の息子だった。
指揮官を失った大倭壱国軍では、たちまち命令系統に乱れが生じた。
前進を命じる声と後退を促す声が入り交じり、各隊は互いの動きを見失っていく。包囲を狭めていた兵たちの足並みは崩れ、戦場の各所で進退の判断が分かれ始めた。
出雲軍はその混乱を見逃さなかった。
押し込まれていた部隊が一斉に反撃へ転じ、綻び始めた包囲網を力任せに押し返していく。各将も散らばっていた兵を呼び戻し、崩れかけていた陣形を組み直した。やがて出雲軍は全軍の態勢を立て直し、再び大倭壱国軍と正面から対峙できるだけの戦列を整えた。
一方、大倭壱国軍では指揮官の戦死が確認された。
これ以上戦いを続ければ、統制を失ったまま出雲軍の反撃を受けることになる。追撃の続行は不可能と判断され、全軍に撤退の命が下された。
大倭壱国軍は負傷者と遺体を収容しながら、出雲軍への警戒を解かぬまま、静かに戦場から退いていった。
出雲軍はそのまま奴国へ到達すると、長い戦いを終えた兵たちを船へ乗せ、出雲へ向けて出港した。
船団は静かな海を進み続けた。
幾日もの航海を経て、水平線の彼方に懐かしい山影が浮かび上がる。
「出雲だ!」
誰かが叫ぶと、甲板のあちこちから歓声が上がった。
兵たちは故郷の山々を指差し、互いの肩を叩き合う。長く続いた遠征から、ようやく帰ることができる。その喜びに、船上はたちまち沸き立った。
だが、五十猛だけは声を上げなかった。船の中央に安置された棺の傍らに立ち、故郷へ近づく山影を静かに見つめている。
やがて五十猛は棺の上に手を置いた。
厚い木板の下に眠る父へ、その温もりを伝えようとするかのように、掌を動かさずに押し当てる。
「父上。ようやく出雲です……」
歓声に満ちた船上で、その声だけが深い悲しみを帯び、海風の中へ静かに消えていった。




