六章 倭国大乱 二十三話 瓊瓊杵(ににぎ)
西暦百八十九年、冬。
高千穂の宮より、一族を招集せよとの命が発せられた。
命を下したのは、大倭壱国の女王、日巫女である。
長く続く戦乱によって国々の境は揺らぎ、かつて従っていた豪族の中にも、独自の動きを見せる者が現れ始めている。大倭壱国が今後も一つの国として立ち続けるためには、各地に散らばる王族の意思を改めて一つにまとめなければならなかった。
招集を受け、日巫女の息子たち忍穂耳をはじめ、各地を治める四人の息子たちも高千穂へ参集した。
五人は皆、日巫女を母としていたが、父親はそれぞれ異なっている。
日巫女が女王として大倭壱国を治める中で結ばれた、有力豪族たちとの縁。その間に生まれた息子たちは、王家の血を引く者であると同時に、各地の豪族を大倭壱国へつなぎ留める存在でもあった。
長子の天之忍穂耳は、大倭壱国本国において軍を預かっている。
出雲軍との戦いでは不弥国の守りを任され、敗北を経験しながらも軍を立て直し、その後も本国の防備を担い続けていた。慎重で堅実な性格は華々しさに欠けるものの、戦乱の世にあって国の中枢を守るには欠かせない人物である。
残る四人は、遠方の地方豪族としてそれぞれの土地を治めていた。
彼らは日巫女の息子でありながら、普段は高千穂を離れ、自らに与えられた土地と民を守っている。今回の招集を受け、それぞれわずかな供回りだけを伴って高千穂へ参上していた。
宮の広間に集まった息子たちは、久方ぶりに顔を合わせた兄弟でありながら、どこか互いを探るような空気をまとっていた。
同じ母から生まれたとはいえ、育った土地も、背負う豪族も異なる。
それぞれが一国の長に近い立場にあり、軽々しく胸の内を明かすことはない。兄弟としての情よりも、統治者としての慎重さが先に立っていた。
その中に、一人だけ明らかに異なる気配を放つ若者がいた。
天之忍穂耳の子、瓊瓊杵である。
新たに大倭壱国の支配地となった南部を任され、現地の統治にあたっている。今回の招集に加わった者の中では最も若く、日巫女にとっては孫にあたる。
他の者たちが少数の従者のみを連れて高千穂へ入ったのに対し、瓊瓊杵は南部の兵を率いて参上していた。
宮の外には、揃いの武具を身につけた兵たちが整然と並んでいる。戦を前提とした招集ではない。
それにもかかわらず兵を伴ってきた瓊瓊杵の姿勢に、叔父たちは少なからず警戒の眼差しを向けていた。
「瓊瓊杵」
父である忍穂耳が、低い声で名を呼んだ。
「此度は一族の話し合いだ。兵を率いてくる必要はなかったはずだ」
咎めるような言葉を向けられても、瓊瓊杵は臆する様子を見せなかった。若々しい顔には自信が満ち、瞳には隠しきれない闘志が宿っている。
「いつ戦が始まるか分からぬ世です。兵を置いてくる理由の方が、私には分かりません」
「高千穂で戦が起こると申すのか」
「先の禍根を断つために、今戦うのです」
瓊瓊杵は広間を見渡した。
そこにいるのは、大倭壱国の中でも特に強い血統と権威を持つ者たちである。しかし、その多くは自らの土地を守ることを第一に考え、これ以上の戦いを望んではいないように見えた。
日巫女は、御前に座する瓊瓊杵をしばらく見つめたあと、穏やかに目を細めた。
「瓊瓊杵。そなたも、ずいぶんと立派になりましたね」
思いがけない言葉に、瓊瓊杵はわずかに目を見開いた。
「南部の統治も滞りなく進んでいると聞いています。新たに得た土地の者たちを力で押さえつけるのではなく、旧来の長たちを残し、その声を聞きながら治めているそうですね。田畑の再建も、食糧の分配も、よく考えられている」
「身に余るお言葉にございます」
瓊瓊杵は深く頭を下げた。
日巫女にとっては孫にあたるとはいえ、この場は祖母と孫が親しく言葉を交わす場所ではない。大倭壱国の女王と、南部を任された将として向き合う場である。
それでも日巫女の眼差しには、隠しきれない慈しみがあった。
「若さゆえに気が急くところはありますが、それでも民を見ようとする心を失ってはいない。そこは、そなたの良いところです。これからも忘れてはなりません。国を治めるとは、土地を得ることではありません。その地に生きる者たちの明日を守ることです」
「はい。肝に銘じます」
瓊瓊杵が真っ直ぐに答えると、日巫女は静かに頷いた。だが、その表情から柔らかな微笑みが消えていく。
「では、本題に入りましょう」
広間の空気が変わった。日巫女は背筋を伸ばし、女王としての冷静な眼差しを瓊瓊杵へ向けた。
「須佐之男王が亡くなりました」
瓊瓊杵の顔が引き締まる。
「王を失った今、出雲軍は大きく揺れています。すぐに兵を退く者もあれば、なお戦い続けようとする者もいるでしょう。父の仇を討とうとする者、領地を守ろうとする者、敗北を認められぬ者。それぞれの思惑が入り乱れ、もはや一つの軍とは言えません」
日巫女は一度言葉を切った。
「だからこそ、対応を誤ってはなりません」
「残る出雲軍を討てと、お命じになるのですか」
瓊瓊杵が問うと、日巫女はすぐには答えなかった。
「須佐之男王の死を、出雲そのものを滅ぼす機会と考えてはなりません。今こそ戦を終わらせる機会とするのです」
日巫女の瞳に、強い意志が宿った。
「そなたには、そのための働きをしてもらいます」
軍議の席で最初に口を開いたのは、大倭壱国軍を代表する将、忍穂耳だった。
「出雲軍が退くというのであれば、こちらから無理に手を出す必要はない」
静かな声ではあったが、その言葉には長年にわたり軍を率いてきた者の重みがあった。
「敵が撤退したことを確かめた後、奪われた土地を一つずつ取り戻せばよい。焦って追えば陣形が崩れ、思わぬ反撃を受けることもある。空白地を残さず、兵站を整えながら確実に前へ詰めるべきだ」
忍穂耳の考えは、敵を一度の戦いで打ち砕くことではなく、二度と押し返されぬ形で領土を回復することにあった。
その意見に、列席していた兄弟たちも次々とうなずいた。
彼らは須佐之男王の恐ろしさだけを警戒しているのではない。長きにわたる戦いを通じ、出雲軍そのものが精強であることを知っていた。たとえ敗走に見えたとしても、追撃する側を誘い込む策である可能性は捨てきれない。
「父上の仰せの通りです」
「今は勝ちを急ぐ時ではありません」
「敵が退くならば、その後を確実に埋めていけばよいでしょう」
慎重論が軍議の大勢を占めていく。
出雲軍が撤退せず、現在の駐屯地にとどまり続ける場合も同様だった。これまで通り補給路を圧迫し、兵糧を削り、持久戦によって徐々に追い詰める。大倭壱国軍には地の利があり、時間が経つほど遠征軍である出雲側が不利になる。
無理に決戦を求める理由はない。忍穂耳をはじめ、多くの将がそう考えていた。だが、その方針にただ一人、正面から異を唱えた者がいた。忍穂耳の子、瓊瓊杵である。
「お待ちください」
若い声が軍議の場に響いた。瓊瓊杵は父を見据えながら、臆することなく立ち上がった。
「慎重であることが大切なのは、私にも分かります。しかし、今は反撃に転じる絶好の機会です。ここで敵を無傷のまま退かせるべきではありません」
忍穂耳は息子を制止せず、その言葉を黙って聞いていた。
「出雲軍が撤退を始めたならば、陣を保ったまま進む時よりも守りは弱くなります。兵は疲れ、隊列は伸び、荷駄を抱えたまま長い道を戻らねばならない。その時こそ、敵の戦力を削る最大の好機です」
瓊瓊杵は卓上に広げられた地図へ手を伸ばし、出雲軍の退路を指でなぞった。
「失地を取り戻すだけでは足りません。敵を追い払ったとしても、その兵が無傷で出雲へ戻れば、いずれ態勢を整え直します。兵を集め、武器と兵糧を蓄え、さらに大きな軍勢となって筑紫へ戻ってくるでしょう」
「それは先の話だ」
兄弟の一人が口を挟んだが、瓊瓊杵はひるまなかった。
「先の禍根を断つために、今戦うのです」
若き将の瞳には、迷いのない強い光が宿っていた。
「我らは守り続けるだけでよいのでしょうか。敵が攻めてくるたびに土地を奪われ、耐え抜いた末に取り戻す。それを繰り返していては、民も兵も疲弊します。次の侵攻を防ぐためには、出雲軍に再び筑紫へ攻め入る力を残してはなりません」
瓊瓊杵は父へ向き直った。
「撤退する敵を追撃し、その戦力を徹底して削るべきです。今こそ守勢から攻勢へ転じ、出雲軍の壊滅を狙う時です」
日巫女は、二人の意見が交わされる間、口を挟まずに黙って聞いていた。
忍穂耳の主張にも理がある。兵の消耗を避けながら奪われた地を一つずつ確実に取り戻し、その後の治安まで立て直す。国を守る立場としては堅実であり、民に余計な犠牲を強いない策でもあった。
一方で、瓊瓊杵の意見も軽んじることはできない。ここで退く出雲軍を追撃し、立ち直ることが困難なほどの被害を与えておけば、再び侵攻を受ける危険を減らすことができる。今後の憂いを断つという意味では、十分に正当な考えだった。
どちらを選んでも、得るものと失うものがある。
討論は次第に同じ主張を繰り返すようになり、やがて膠着し始めた。
そこで日巫女は、静かに口を開いた。
「忍穂耳」
名を呼ばれ、忍穂耳が姿勢を正す。
「そなたには北方軍を預けます。奪われた地を確実に取り戻しなさい。出雲軍を追い払うだけでは足りません。現地の治安を回復させ、その後も乱れぬよう維持するのです」
「御意」
忍穂耳が深く頭を下げると、日巫女は瓊瓊杵へ視線を移した。
「瓊瓊杵。そなたには、自ら率いてきた南部の軍と、大倭壱国本国の軍を預けます」
瓊瓊杵の瞳に、鋭い光が宿る。
「退却する出雲軍を追撃しなさい。ただし、敵が拠点に留まり、駐屯を続けるのであれば、無理に攻めてはなりません。その場合は持久戦を継続し、敵が自ら崩れる時を待ちます」
「承知いたしました」
瓊瓊杵は力強く答え、頭を下げた。失地の回復と、敵軍への追撃。
日巫女は二つの策のどちらか一方を退けるのではなく、それぞれに軍を与え、同時に実行させることを選んだのである。




