六章 倭国大乱 二十二話 伊邪那岐と月読
壱岐へ追放されてからというもの、那岐はひどく暇を持て余していた。
月読の監視下に置かれているとはいえ、牢に閉じ込められているわけではない。島を歩くこともでき、衣食住にも不自由はない。だが、村を治めることも、堤を築くことも、誰かに教えを請われることもなく、何百年も働き続けてきた那岐にとって「何もしなくてよい」という毎日は、安らぎではなく退屈そのものだった。
初めのうち、那岐は島中を歩き回った。土地の高低や水の流れを確かめ、土を手に取っては指先で砕きながら、誰にも告げず新しく田を作れそうな場所を探していたのである。
もちろん、日巫女からは「余計なことをしないでくださいませ」と厳しく言い渡され、月読からも「父上は静かに暮らしてください」と念を押されていた。それでも那岐は、自分一人が食べるだけの小さな田なら見つからないだろうと考えていた。
しかし、壱岐は那岐の想像以上によく開拓された島だった。水が得られ日当たりの良い平地には隙間なく稲が植えられ、山裾には段々田、谷間には細い水路が巡らされている。
荒れ地を探して島の奥まで歩いても残るのは岩場や痩せた土地ばかりで、妖力を使えば開墾できるとはいえ、そんなことをすれば月読に見つかるのは目に見えていた。
「本当に、何もありませんね……」
丘の上から島を見渡し、那岐は肩を落とした。
手を加える余地がないほど豊かな島であることは、本来なら喜ぶべきことだった。人々が自らの力で土地を耕し、暮らしを築いている証なのだから。
だが、何百年も土と共に生きてきた那岐には、その豊かさが少しだけ寂しく感じられた。
結局、田を作ることを諦めた那岐は、毎日のように海岸へ通うようになった。
朝になると釣り竿を肩に担ぎ、小さな餌籠を持って岩場へ向かう。波の音を聞きながら糸を垂らし、釣れた魚は自分が食べる分だけ持ち帰る。
監視役の兵も少し離れた場所から見守っていたが、国のための漁ではなく、あくまで夕餉のための釣りだと分かると、特に咎めることはなかった。
ある日、那岐はふと監視役へ振り返った。
「あなたも釣りますか」
兵は戸惑ったように顔を見合わせる。
「我らは、伊邪那岐様を見張る役目ですので」
「見ているだけでは退屈でしょう」
「退屈ではありません」
きっぱりと言い切る兵だったが、その隣の若い兵は那岐の浮きを食い入るように眺めていた。
那岐は思わず微笑む。
「では、余分な竿を一本置いておきます。使わなくても構いません」
そう言って岩へ竿を立てかけると、その日は誰も手を伸ばさなかった。
だが翌朝、浜へ向かった那岐は思わず笑みを浮かべる。昨日の若い兵が、自分の釣り竿を抱えて立っていたからだ。
「監視をしながらです」
「ええ。それで構いません」
二人は少し離れて腰を下ろし、それぞれ海へ糸を垂らした。しばらくは波音だけが続いていたが、不意に若い兵の竿が大きくしなった。
「引いていますよ」
「分かっております!」
兵は慌てて竿を立てたものの、勢い余って魚は海面を飛び越え、そのまま岩の上へ落ちて激しく跳ね回る。兵は慌てて追いかけ、那岐は目を丸くしたあと、堪えきれず吹き出した。
「ずいぶん元気な魚ですね」
「笑わないでください」
「すみません。ですが、逃がす前に掴んだ方がよいと思います」
兵は顔を真っ赤にしながら魚を追い回し、その様子を見ていた年長の兵まで肩を震わせて笑っていた。
それ以来、監視役たちは交代で一本だけ竿を持ち、那岐の傍らで釣りをするようになった。
もちろん見張りの役目は忘れない。必ず他の兵が周囲を警戒し、一人だけが糸を垂らす。
それでも浜辺には以前より穏やかな空気が流れていた。
「今日は釣れませんね」
年長の兵が海を眺めたまま言う。
「そうですね」
「場所を変えますか」
「いいえ。このままで」
魚が釣れなくても構わなかった。
潮の流れを読み、浮きの小さな揺れを眺めているだけで、何か仕事をしているような気持ちになれたからだ。
やがて夕日が海へ沈み、那岐は空になった籠を持って立ち上がる。
「今夜は魚がありませんね」
「館には食事が用意されております」
「ええ。分かっています」
那岐は釣り竿を肩へ担ぎ、ゆっくりと歩き始めた。その後ろを、いつものように監視役たちが静かについて行く。穏やかで退屈な壱岐の日々は、今日もまた静かに過ぎていった。
その日、月読の率いる海人族の船団が、壱岐の港へ帰還した。
水平線の彼方に帆影が現れたとの報せを受け、那岐は自ら港へ足を運んでいた。やがて幾艘もの軍船が波を割って近づき、船体に刻まれた傷や、破れた帆が長い戦いの激しさを物語る。
それでも、月読が無事に帰ってきた。
その姿を見つけた那岐の顔には、安堵の笑みが浮かびかけた。
「月読……」
声をかけようとした那岐は、途中で言葉を止めた。船を降りてきた月読の表情に、帰還を喜ぶ明るさはなかった。
勝利を誇る様子も、故郷へ戻った安堵もない。疲れ切った顔には深い陰が落ち、伏せられた瞳には、海の上へ置き去りにしてきた何かが重く残されていた。
那岐は笑みを消し、静かに息子を見つめた。
宮へ戻った二人は、静かに膳を囲んでいた。
湯気の立つ粥と焼き魚が並ぶ食卓には、箸の触れ合う小さな音だけが響いている。
那岐は向かいに座る月読を見つめた。
いつもと変わらぬ表情を保とうとしている。しかし、その瞳の奥には隠し切れない疲労と重い影があった。
那岐は箸を置き、静かに問いかけた。
「月読……何かあったの?」
月読は手を止めた。しばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
「父上には、お話ししなければなりません」
その声は、どこか張り詰めていた。
「偽装攻撃を仕掛けました」
那岐は黙って耳を傾ける。
「敗走したように見せかけ、酒を奪わせました」
月読は感情を押し殺したような口調で続けた。
「須佐之男軍は酒宴を開きました。そして夜更け……その隙を突いて夜襲を仕掛けました」
部屋に静寂が落ちる。月読はゆっくりと視線を伏せた。
「私は須佐之男に、致命的な傷を負わせました」
その一言だけで、那岐の表情が固まる。
「さらに、剣に塗った毒と、呪いの妖術を重ねました」
月読の声は震えてはいなかった。だからこそ、その言葉は重く響く。
「……須佐之男は」
那岐がようやく絞り出した声に、月読は静かに頷く。
「仕留めました」
短い言葉が、部屋の空気を凍らせた。那岐は動かなかった。
月読が須佐之男を討った。兄が、弟の命を絶った。
理解した瞬間、胸の奥から何かが抜け落ちた。涙も声も出ない。ただ、二度と帰ってこない息子の姿だけが、脳裏に浮かんでは消えていく。
「あの子が……死んだのですか」
掠れた声で尋ねると、月読は目を伏せたまま頷いた。それだけで十分だった。
那岐の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。震える手が床に触れた。
須佐之男がどれほど遠くへ行ってしまっても、いつかは戻ってくると信じていた。自分が間に立ちさえすれば、月読も須佐之男も、再び同じ食卓を囲めると思っていた。
だが、その日はもう来ない。
「どうして……」
声が床へ落ちた。
「どうして、兄弟で……」
月読は何も答えられなかった。
「この大乱を終わらせるためでした」
絞り出すような声だった。
「須佐之男が生きている限り、兵たちは戦いをやめません。もう、こうするしかなかったのです」
その言葉を聞いた瞬間、那岐の中で悲しみに押し潰されていた何かが、激しく燃え上がった。
気づけば立ち上がり、月読の胸ぐらをつかんでいた。細い指が衣へ食い込み、白い手の甲に筋が浮かぶ。
「うるさい……」
低く震える声だった。国のため。大乱を終わらせるため。そんなことは分かっている。
それでも、父親である那岐には受け入れられなかった。
「父上……」
「須佐之男は、あなたの弟だったのですよ」
月読の顔が苦しげに歪んだ。
「分かっています」
「分かっていて……殺したのですか」
「はい」
月読は逃げずに答えた。
那岐の指から、ゆっくりと力が抜けていく。衣をつかんでいた手が離れ、そのまま力なく垂れ下がった。
怒りさえ、もう長くは続かなかった。残ったのは、息子を失った悲しみだけだった。
「……どうして……」
最後まで言葉にはならなかった。
那岐の細い肩が震え、身体が崩れ落ちそうになる。
月読は父をそっと抱き締めた。責められるままに、その背へ腕を回す。まるで幼い子を慰めるように、震える身体を強く支えた。
「申し訳ありません」
耳元で呟いた月読の声も、僅かに震えていた。那岐は月読の胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。
月読も固く目を閉じる。やがて、その頬を一筋の涙が伝った。




