六章 倭国大乱 二十一話 覇者の夢のかけら
西暦百八十八年、冬。
宴が終わったあとも、宮のあちこちには酒と笑いの余韻が残っていた。
広間には空になった酒甕が転がり、食べ残された肉や魚が皿の上に散らばっている。床に座ったまま柱へ寄りかかる者、卓に突っ伏したまま眠る者、廊下まで這い出したところで力尽きた者……久方ぶりの勝利の宴に、出雲の将兵たちは誰もが深く酔い潰れていた。
長く続いた飢えと戦。
焦土と化した大地を進み、幾度となく兵糧に苦しみながらも、ついに投馬国を陥落させた。その喜びはあまりにも大きく、今宵ばかりは歴戦の兵たちでさえ警戒を忘れていた。
夜はすでに深い。月明かりの届かぬ森の中で、月読は静かに宮を見つめていた。
黒い衣の上から軽い革鎧をまとい、腰には細身の剣を差している。その背後には、闇に溶け込むように海人族の兵たちが身を伏せていた。
誰一人として声を発しない。虫の音と、遠くから聞こえる酔漢のいびきだけが、夜の静けさをかすかに乱していた。
月読は動かなかった。焦ってはならない。
宴が終わった直後であれば、まだ眠りの浅い者がいる。酒に強い将が起きているかもしれない。何より、須佐之男が眠りについたという確信が必要だった。
あの男だけは、起きている間に近づいてはならない。いかなる大軍を率いようと、正面から挑めばすべてが無駄になる。
月読は宮から漏れる灯火を一つずつ見つめていた。広間の火が消えた。続いて、将たちの詰め所からも人の声が途絶える。
しばらくすると、須佐之男の居所がある宮の奥から、低く重い笑い声が聞こえた。何事かを誇るような声だった。だが、それもほどなく途切れた。
再び静寂が訪れ、月読はさらに待った。
一刻、また一刻、冷たい夜気が肌を刺し、草葉に露が降りても、身じろぎ一つしなかった。
やがて宮の見張り台にいた兵が大きく欠伸をし、手にしていた槍へ体重を預けた。宴に加わることを許されなかった兵でさえ、周囲の浮かれた空気には抗えない。何度も瞼を擦り、暗い庭へ虚ろな視線を向けている。
それでも、すべての兵が油断していたわけではなかった。
門の脇には二人、外廊には三人、宮の裏手にも数人の兵が残り、決められた持ち場を離れずに警戒を続けている。
月読はゆっくりと右手を上げ、海人族の兵たちが弓を構える。
矢筒から抜かれた矢には、光を反さぬよう煤が塗られていた。弦を引く音さえ聞こえぬほど慎重に、兵たちはそれぞれの標的へ狙いを定める。
月読の指が下がった。闇の中から、幾筋もの矢が放たれた。門に立つ兵の喉へ一本、隣の兵の胸へ一本、見張り台の兵は声を上げる間もなく額を射抜かれ、そのまま柵を越えて地面へ落ちた。
外廊を歩いていた兵が異変に気づき、槍を構えようとする。
だが、その胸と脇腹へ二本の矢が突き立った。
「敵――」
叫びは最後まで続かなかった。三本目の矢が口元から入り、男は仰向けに倒れた。
乾いた音が夜に響く、月読は眉一つ動かさず、宮の方角を見つめ続けていた。
起きる者はいない。酒に酔った兵たちは、物音を誰かが転んだ音だとでも思ったのか、寝返りを打つだけだった。
海人族の兵が素早く駆け寄り、倒れた見張りの身体を柱の陰へ引きずり込む。血が床へ広がる前に布を当て、足音を立てぬよう一人ずつ片づけていった。
宮の裏手へ回った者たちも、同じように警備兵を仕留めていた。闇の中で弦が鳴るたび、出雲兵が一人、また一人と倒れていく。やがて、宮の周囲から立っている兵の姿が消えた。
月読は森を出た。その足取りは静かで、迷いがない。
倒れた兵の横を通り過ぎ、開かれた門をくぐる。海人族の兵たちも二列に分かれ、弓を構えたまま後に続いた。
広間へ続く廊下には、酔い潰れた出雲兵たちが無防備な姿で眠っていた。枕元には剣が置かれている。だが、それを握る者はいない。
ある者は笑みを浮かべ、ある者は涙の跡を残し、ある者は故郷の名を寝言で呟いていた。
彼らは皆、勝ったのだと思っている。長き戦の果てに、ついに筑紫を手中へ収めたのだと信じている。
月読は一人の兵の傍らで足を止めた。若い兵だった。
抱えるように酒器を胸へ寄せ、穏やかな顔で眠っている。頬にはまだ幼さが残り、戦場に立つより田を耕す方が似合うように見えた。
月読はその顔を見下ろしたあと、視線を伏せた。今夜、殺すべき相手は彼らではない。
月読が小さく手を動かすと、海人族の兵たちは眠る者たちを避けながら左右へ散った。出口を押さえる者、武器庫へ向かう者、将たちの部屋を見張る者。
すべては、事前に定めたとおりだった。宮の奥へ進むにつれ、いびきの音は少なくなっていく。
須佐之男の居所に近づけば近づくほど、建物は広く、装飾も豪奢になった。奪った金や玉、異国の織物が柱や壁に飾られている。戦の最中とは思えぬほど華美な宮だった。
その中央を、月読は音もなく歩いた。やがて月読は、一際大きな戸の前へ辿り着いた。左右には近衛兵が倒れている。先に回り込んだ海人族の兵が仕留めたのだろう。二人とも剣へ手を掛けた姿勢のまま、首に矢を受けて息絶えていた。
戸の向こうから、地を震わせるような低いいびきが聞こえた。月読の足が止まる。
その音だけで、背後に控える海人族の兵たちの身体がわずかに強張った。眠っている。それでもなお、戸一枚隔てた先にいる男の存在は圧倒的だった。
数え切れぬ国を滅ぼし、幾万もの兵を退け、倭国の大半を戦火へ巻き込んだ覇者。
月読の弟、須佐之男、月読は目を閉じ、静かに息を整えた。腰に差した剣の刃には、宮へ忍び込む前から猛毒が塗られている。
わずかな量でも常人の命を奪う毒を、長い歳月をかけてさらに調えたものだった。須佐之男の強靱な肉体を内側から蝕み、妖力の巡りを乱すため、幾種類もの毒が混ぜ合わされている。
毒が鞘へ付着しないよう、刃は薄い布で幾重にも包み、その上から鞘へ収めてあった。剣を抜く際に布だけが鞘の内側へ残り、毒を塗った刃が露わになる仕掛けである。
一度抜けば、二度と鞘へ戻すことはできない。
そして、抜いた後に須佐之男を仕留め損なえば、月読自身も生きて宮を出ることはできないだろう。
それでも迷いはなかった。
正面から戦えば、須佐之男を討つことはできない。矢を射ても、槍で突いても、致命傷を負わせるより先に目を覚ます。ひとたび金棒を握って立ち上がれば、この宮へ侵入した者は一人残らず殺される。
だからこそ、今夜まで待った。酒に酔い、勝利に浸り、出雲の覇権を疑わず、誰よりも深く眠りにつくこの夜を。月読は戸へ手を掛けた。
わずかに開いた隙間から、酒と血肉の濃い匂いが流れ出す。月読はしばらく動かず、室内から聞こえる呼吸へ意識を集中させた。
深く、規則正しいいびきが続いている。月読は音を立てぬよう戸を押し開け、足音を殺して中へ入った。
広い室内の奥では、須佐之男が寝台へ巨大な身体を横たえ、深い眠りに落ちていた。傍らには、十五の時に父の那岐から贈られた金棒が置かれている。
月読は一歩進むたびに立ち止まり、須佐之男の呼吸を確かめた。わずかな衣擦れも聞き逃さず、風の流れすら疑いながら、少しずつ距離を詰めていく。
やがて寝台の傍らへ辿り着くと、月読は須佐之男の顔を見下ろした。閉じられた瞼。規則正しい呼吸。微動だにしない巨躯、眠りが偽りではないことを確かめると、月読は腰の剣へ手を掛けた。刃をゆっくりと引き抜く。
鞘の内側へ残された布が、微かな音を立てて擦れた。現れた刃には、黒く濁った猛毒が薄く塗り広げられている。
剣を抜いた瞬間、もう後戻りはできなかった。
筑紫の民を守るため、大倭壱国を守るため、そして何より、姉である日巫女を守るため、月読は剣を両手で握り締めると、その切っ先を須佐之男の身体へ深く突き刺した。
ただの一撃ではない。
刃に塗られた猛毒が須佐之男の血へ流れ込み、強靱な肉体を内側から蝕んでいく。同時に月読は、剣を通して膨大な妖力を一気に解き放った。
妖力は強烈な呪いとなって須佐之男の全身を巡り、傷を癒やす力を封じ、肉体の再生を阻害していく。
毒が命を奪い、呪いが回復を許さない。須佐之男を確実に死へ導くために用意された、二重の刃であった。
「ぐふっ……!」
須佐之男は目を覚ますなり、手近にあった剣を掴み、横薙ぎに振り抜いた。
月読は身を沈めて刃をかわし、素早く後方へ跳んで距離を取る。
「……兄上か」
須佐之男は月読の姿を認めると、握っていた剣を無造作に投げ捨てた。そして、すぐ後ろに置かれていた金棒へ手を伸ばす。
十五の時、父の那岐に造ってもらったものだった。
幾度となく戦場を共に駆け、数え切れぬほどの敵を打ち砕いてきた、須佐之男にとって唯一無二の相棒である。
太い柄を掴み、いつものように持ち上げようとした。
だが、その瞬間だった。
「がっ……」
須佐之男の身体が大きく揺らぎ、膝から崩れ落ちる。金棒の先端が床へ叩きつけられ、重い音が室内に響いた。
腕に力を込めても、持ち上がらない。立ち上がろうとしても、足が身体を支えようとしない。
十五の頃から片腕で振り回してきた金棒が、今はまるで巨大な岩のように重かった。その重さを、須佐之男は生まれて初めて支えきれなかった。
一連の騒ぎに叩き起こされた出雲兵たちが、次々と宮へ駆け込んできた。
暗がりの中、怒号と足音が幾重にも重なり、静まり返っていた宮は瞬く間に戦場へと変わっていく。侵入を阻もうとする出雲兵を、海人族の兵たちが廊下や門前で迎え撃ち、激しい斬り合いが始まった。
その混乱を背に、月読は倒れ伏した須佐之男へ歩み寄る。
毒と呪いに蝕まれてなお、須佐之男の巨体から放たれる威圧感は衰えていなかった。完全に息の根を止めなければならない。ここで仕留め損なえば、二度と同じ機会は訪れないだろう。
月読は剣を構え、一気に間合いを詰めようとした。
その瞬間、横合いから凄まじい殺気が迫った。
月読は反射的に身を引く。直後、先ほどまで立っていた場所を五十猛の刃が薙ぎ払った。空を裂く鋭い音が響き、床板が深く抉られる。
「父上に近寄るな!」
五十猛は怒りに顔を歪め、間髪を入れずに踏み込んできた。
一撃、二撃と繰り出される斬撃は、若さに任せたものではない。須佐之男から鍛え上げられた剛力と速度を兼ね備え、受けることさえ容易ではなかった。
月読は剣で軌道を逸らしながら後退する。須佐之男まで、あとわずか、しかし、そのわずかな距離を五十猛が許さなかった。
月読が進路を変えようとすれば、先回りするように刃が振るわれる。強引に突破すれば深手を負う。五十猛を相手にしながら、須佐之男へとどめを刺すことは不可能だった。
さらに、須佐之男の前へ八島士奴美が駆け寄った。父を庇うように立ちはだかり、月読を鋭く睨みつける。
「月読……貴様だけは逃がさぬ」
周囲では出雲兵の数が増え続けていた。海人族の兵たちは奮戦しているものの、このまま長居をすれば退路を断たれる。
月読は五十猛の刃を受け流し、大きく後方へ跳んだ。そして、宮中に響き渡る声で命じる。
「撤退せよ!」
海人族の兵たちは即座に戦列を崩し、互いを援護しながら宮の外へ退き始めた。月読も五十猛の追撃を牽制した後、身を翻して廊下を駆け抜ける。
「追え!」
八島士奴美が怒声を上げた。
「一人も逃がすな! 月読を討ち取れ!」
出雲兵たちが一斉に鬨の声を上げ、撤退する海人族を追って宮を飛び出していく。
八島士奴美も剣を握り締め、自ら先頭に立った。その視線の先には、闇の中を駆ける月読の背があった。
「待て、月読!」
父を襲われた怒りを胸に、八島士奴美は月読を追って夜の宮を駆け抜けた。
月読は宮を飛び出すと、待機させていた海人族の兵たちと合流し、闇に包まれた森へ向かって駆けた。
しかし、背後から迫る出雲兵の足音は予想以上に速かった。父を襲われた怒りに駆られた兵たちは、酒に酔っていたことさえ忘れ、鬨の声を上げながら次々と追い縋ってくる。
「先に行け!」
海人族の一人が振り返り、追手へ矢を放った。先頭を走っていた出雲兵が胸を射抜かれて倒れる。だが、その身体を踏み越え、さらに多くの兵が押し寄せてきた。
海人族の兵たちは狭い門前や廊下の曲がり角に立ち止まり、数人ずつに分かれて追手を食い止めた。矢を射尽くした者は短刀を抜き、迫る槍を受け止める。刃が交わるたびに火花が散り、怒号と悲鳴が夜の宮へ響き渡った。
一人が倒れれば、別の一人がその場所へ立つ。
すべては月読を逃がすためだった。
月読は一度だけ足を緩めた。背後では、共に宮へ忍び込んだ兵たちが次々と出雲兵に呑み込まれていく。長く仕えてきた者も、壱岐から付き従った者もいた。
それでも、戻ることはできなかった。
ここで足を止めれば、彼らが命を懸けて開いた退路が無駄になる。何より、自分が討たれれば、須佐之男を止めるために重ねてきた年月のすべてが失われる。
月読は唇を強く噛み、再び前を向いた。
須佐之男へとどめを刺すことはできなかった。だが、刃は確かに深く届いた。猛毒はすでに血の中へ流れ込み、呪いは傷の再生と妖力の巡りを封じている。
あの毒と呪いを同時に受けて、生き延びられる者はいない。たとえ、須佐之男であっても。
「退け! 森へ入れ!」
月読の命に従い、残った海人族の兵たちは互いを援護しながら木々の間へ散っていった。追撃してきた出雲兵が森へ踏み込むと、あらかじめ張られていた縄に足を取られ、折り重なるように倒れる。その隙に、月読たちはさらに深い闇へと身を沈めた。
なおも宮の方角から剣戟と叫び声が聞こえていた。
その中には、置き去りにした海人族の兵たちの声も混じっていた。だが、やがて一つ、また一つと途絶えていく。
月読は振り返らなかった。
弟の死を毒と呪いに託し、犠牲となった者たちの名を胸に刻みながら、月読は夜の森の奥へ消えていった。
静まり返っていた宮は、瞬く間に怒号と足音に呑み込まれた。
逃げ去る敵を追おうとする兵の声。負傷者を運ぶ者たちの叫び。床を踏み鳴らす無数の足音。倒れた武具が引きずられ、戸が乱暴に開け放たれる音。
五十猛も月読を追おうと、床を強く蹴った。
父をこのような目に遭わせた男を、逃がすわけにはいかない。たとえ地の果てまで逃げようとも追いつき、その首を父の前へ差し出してやる。
怒りのまま廊下へ踏み出そうとした、その時だった。背後で、重い金属が床板を擦る音がした。
金棒の先端が、力なく床を引きずられている。五十猛の足が止まった。
振り返ると、須佐之男の巨体が大きく傾いていた。金棒へ全身を預けながらも支えきれず、今にもその場へ崩れ落ちようとしている。
「父上……」
闇の向こうへ消えていく月読と、血に染まり膝をつく父。
五十猛は一瞬だけ歯を食いしばった。胸の内では、月読を追えと怒りが叫び続けている。だが、その足はもう一歩も宮の外へ向かなかった。
敵を討つことよりも、父の傍らにいることを選んだ。五十猛は剣を投げ捨てると、月読とは反対の方向へ駆け出した。
その瞬間、周囲の音が消えた。怒鳴り声も、足音も、誰かが自分を呼ぶ声さえも聞こえない。
五十猛の目には、ただ一人しか映っていなかった。膝をついたまま、深く顔を伏せている父、須佐之男だけだった。
「父上……」
声にならない声が、五十猛の喉から漏れた。
須佐之男の胸には、月読の剣によって穿たれた深い傷が開いていた。傷口から溢れ出した血は胸板を濡らし、脇腹から腰へと流れ落ちている。さらに太い腕を伝い、指先から床へ絶え間なく滴り続けていた。
すでに足元には、黒々とした血溜まりが広がっている。それでも血は止まらなかった。
傷が閉じない。裂けた肉が元に戻らない。あれほど強大な生命力を持つ父の身体が、再生していない。
五十猛は、目の前の光景を理解できなかった。
どれほど深く斬られようと、どれほど激しく打ち砕かれようと、須佐之男は立ち上がった。血を流しながら豪快に笑い、次の瞬間には敵を叩き伏せてきた。
誰よりも大きく、誰よりも強く、決して倒れることのない男。
その父が今は、立つことさえできずに膝をついている。
須佐之男は、すでに握っていた金棒を床へ深く突き立てていた。十五の時、父の那岐から贈られ、幾度の戦場を共に越えてきた唯一無二の相棒だった。
今はその太い柄に全身の重さを預けることで、辛うじて姿勢を保っている。もし手を離せば、そのまま前へ崩れ落ちてしまうのではないか。
そんな姿は、想像したことさえなかった。想像できるはずもなかった。
「父上!」
五十猛は叫んだ。
何をすればよいのか分からなかった。傷を押さえるべきなのか。誰かを呼ぶべきなのか。父を抱き起こすべきなのか。
何一つ考えられない。ただ、叫ぶことしかできなかった。
「父上! 父上!」
その声が届いたのか、須佐之男の身体がわずかに動いた。
血に濡れた金棒を支えにしながら、ゆっくりと顔を上げる。いつもなら獣のような力に満ちている瞳は、今は深く霞んでいた。
それでも須佐之男は、真っ直ぐに五十猛を見つめた。そして、金棒の柄を両手で握り締めると、杖代わりにして立ち上がろうとした。
腕に力を込める。床を踏み締めようとする。巨大な身体がわずかに持ち上がり、片膝が地面から離れかけた。だが、次の瞬間には力を失い、再び膝が床へ落ちた。重い音が響く。
須佐之男は荒い息を吐き、なおも金棒を握り締めた。もう一度、さらにもう一度と立ち上がろうとする。
しかし、どれほど力を込めても、両脚はもう彼の意志に応えなかった。
「父上!」
五十猛が咄嗟に手を伸ばした。
「……触るな」
須佐之男はその手を強く払い除けた。
倒れかけた身体を金棒へ預け、歯を食いしばりながら、なおも立ち上がろうとする。太い腕に力を込め、床へ突き立てた金棒を支えに、震える膝を持ち上げようとした。
だが、身体はわずかに浮いただけだった。
次の瞬間には両脚から力が抜け、須佐之男の巨体は再び膝から床へ落ちた。金棒の先端が床板を深く抉り、鈍く重い音が室内に響く。
須佐之男は荒い息を吐きながら、自らの脚を見下ろした。
動かない。
どれほど力を込めても、指先ひとつ思うようにならない。胸に開いた傷口からは今も血が流れ続け、いつもなら瞬く間に塞がるはずの肉は、裂けたまま微動だにしていなかった。
身体の奥深くでは、得体の知れぬ熱と冷たさが絡み合い、血の流れを伝って全身へ広がっている。妖力を巡らせようとしても、何かに縛りつけられたように力が散り、傷へ届く前に消えていった。
毒だけではない。自らの命を内側から蝕む毒と、再生を許さぬ呪い。須佐之男は、ようやく月読が何をしたのかを悟った。
これまでにも、幾度となく死に近づいたことはあった。矢を受け、槍に貫かれ、全身を血に染めたこともある。それでも、自分が死ぬとは一度も思わなかった。
どのような傷も塞がった。どのような敵も打ち砕いた。立ち上がろうと思えば、身体は必ずその意志に応えた。
だが、今は違う。
傷は閉じず、血は止まらず、あれほど己に従順だった肉体が、もはや須佐之男の命令を聞こうとしない。
須佐之男は震える手で金棒の柄を握り締めた。その時になって初めて、自らの内側へ迫りつつあるものの名を理解した。
死。
これまで数え切れぬほど他者へ与えながら、自分にだけは決して訪れぬと信じていたものが、今、確かに目の前まで迫っていた。
「儂は……まだ死ねない」
掠れた声が漏れた。須佐之男は金棒へ縋りついたまま、俯いていた顔をゆっくりと上げる。
「死にたくない……死ぬわけにはいかない」
その瞳には、死への恐怖ではなく、なお消えぬ執念の炎が燃えていた。
「王としての責務がある。出雲の民のためにも……そして、倭国を一つにするためにも……」
途切れかけた息を無理に繋ぎ、須佐之男は言葉を絞り出す。
「目前にまで……来ておるのだ……」
五十猛には、大倭壱国を征服することも、倭国を一つにすることも、どうでもよかった。
王になることも、天下を得ることも望んではいない。ただ父と共にいたかった。それだけだった。
「父上……もう横になってください。傷が深すぎます。いくら父上でも、このままでは……」
声が震える。須佐之男の顔から血の気が失われていくのが、五十猛にははっきりと分かった。唇は青ざめ、荒かった呼吸さえ次第に弱くなっている。
「早く治療を……」
五十猛が再び身体を支えようとした時、須佐之男の手が伸び、その服を掴んだ。凄まじい怪力を誇った指には、もはや僅かな力しか残っていなかった。
「あと少しで……全てを……」
須佐之男は顔を上げた。視線は五十猛を通り越し、遥か遠くを見つめているようだった。
「倭国を一つにし……さらに韓にも……大漢にも、挑んで……」
言葉は最後まで続かなかった。金棒へ身体を寄せ、片膝をついていた須佐之男の指から、力が抜けていく。
五十猛の服を掴んでいた手が、ゆっくりと滑り落ちた。
「父上……?」
返事はなかった。須佐之男は金棒に縋った姿のまま、もう息をしていなかった。
五十猛にとって、父はいついかなる時も、巨大で偉大な壁だった。
仰ぎ見ても頂の見えぬ壁であり、決して倒れることのない象徴であり、人の姿を借りた神そのものだった。
幼い頃から、父の背を追い続けてきた。
相撲の稽古では、何度投げ飛ばされても立ち上がった。土にまみれ、息を切らし、それでも父の足元へ向かっていった。父は滅多に褒めなかった。ただ大きな手で五十猛の頭を掴み、豪快に笑った。
その一瞬だけで、どれほど苦しい稽古にも耐えることができた。やがて成長し、父と共に武器を携えた。
筑紫の大地を駆け、敵陣へ踏み込み、幾度も勝利を重ねた。父が前へ進めば、その背後には道が生まれた。どれほど多くの敵が立ちはだかろうと、どれほど堅固な砦が築かれていようと、父の歩みを止めることはできなかった。
五十猛は、そんな父の隣で戦えることを誇りに思っていた。いつしか父は、筑紫の先を見据えるようになった。
海の向こうを望み、この倭の地だけではなく、さらに広大な世界へ挑もうとしていた。五十猛は、父ならば成し遂げられると信じて疑わなかった。
世界が欲しかったわけではない。
国を支配したかったわけでもない。
ただ父と共に、父の夢へ向かって進みたかった。
父の隣に立ち、同じ景色を見たかった。
それだけだった。
だからこそ、目の前にある現実を、五十猛は受け入れることができなかった。
あれほど巨大だった身体が動かない。どれほど呼び掛けても、あの豪快な声は返ってこない。
決して崩れぬと思っていた壁が、今、音もなく目の前で崩れ落ちている。五十猛は父の傍らへ膝をつき、その肩を掴んだ。
「父上……」
力を込めて揺すった。
「父上……父上……」
しかし、須佐之男の頭がわずかに揺れるだけで、閉じられた瞼が開くことはなかった。
五十猛は震える手を父の胸へ当てた。
分厚い胸板には、まだかすかな温もりが残っている。戦場に立てば大地を震わせるほど力強く鳴っていたはずの鼓動を探し、何度も手の位置を変えた。
だが、何も感じられなかった。
「そんなはずは……」
五十猛は須佐之男の胸へ耳を押し当てた。聞こえるのは、宮の外から響く怒号と、廊下を駆け回る兵たちの足音だけだった。父の胸の内には、何の音もなかった。あれほど激しく燃えていた命が、どこにもない。
「父上……」
五十猛は父の身体へ縋りついた。
血に濡れることも構わず、その胸へ額を押しつける。まだ温かい身体を強く抱き締めれば、再び心臓が動き出すような気がした。
「起きてください……」
返事はなかった。
「まだ、儂は父上に何も返しておりません……」
幼い頃に投げ飛ばされたこと。初めて武器を握らせてもらったこと。
戦場で背中を預けてもらったこと。父を地面へ投げ倒したあの日、初めて認めてもらえたような気がしたこと。すべてが胸の奥から溢れ出した。
「父上と、まだ見たいものが……」
声が続かなかった。認めてしまえば、すべてが終わってしまう。
共に見ようとした夢も、追い続けた背中も、いつか肩を並べて歩くのだと信じた未来も、すべて失われてしまう。
五十猛は父の胸へ顔を埋めたまま、肩を震わせた。
「父上……」
巨大で偉大な壁は、もう動かなかった。
それでも五十猛は、呼び続ければ再び父が立ち上がり、いつものように豪快に笑ってくれると信じるように、いつまでもその名を呼び続けていた。
正直にいいます。古事記の作者達は須佐之男の魅力を引き出せていません。
そう感じていました。
須佐之男は古代最大の英雄で英傑。
世界の舞台で活躍させたかった。。。
須佐之男退場を書いている時、脳内で『オルフェンズの涙』が永遠と流れてました。
お疲れ様でした須佐之男、書いてて楽しかったです。ありがとう。




