六章 倭国大乱 二十話 勝利の宴
北部三国を制圧した出雲軍は、その勢いのまま南への進軍準備を進めていた。しかし、戦況は須佐之男の思い描くようには進んでいなかった。
陸では連戦連勝を重ねる出雲軍も、海では海人族に翻弄され続けていたのである。補給船が夜陰に紛れて襲われる。
海岸に築いた物資集積地は火を放たれ、追撃に出れば敵は小舟で岩礁や浅瀬へ逃げ込み、その姿を見失う。
海人族は決して正面から戦わない。出雲軍の目をかいくぐって現れ、獲物だけを奪い去ると、潮の流れに乗って忽然と姿を消してしまう。
その報告は、日を追うごとに増えていた。伊都国の本陣では、将たちが重苦しい空気の中で地図を囲んでいた。
須佐之男は腕を組んだまま地図を見下ろし、一言も発しない。静かな沈黙が、かえって将たちの緊張を高めていた。
「本日も輸送船二隻が襲撃を受けました。」
「海人族は十五隻ほど。沿岸へ逃れ、追撃は叶いませんでした。」
報告が終わる。その瞬間だった。
『バキッ!!』
須佐之男の握っていた机の端が、音を立てて砕け散った。
「また逃がしたか。」
低い声だった。だが、その一言だけで本陣の空気が凍り付く。
「申し訳ございません……。」
「謝罪など求めておらぬ。」
須佐之男はゆっくりと顔を上げた。鋭い眼光が将たちを射抜く。
「儂が欲しいのは海人族の首だ。」
誰一人として口を開けなかった。須佐之男の怒りは、すでに頂点へ達していた。
北部三国を制圧した今、本来ならばその勢いのまま南へ進軍し、投馬国を攻略するはずだった。
しかし、このまま軍を進めればどうなるか。海人族は必ず補給路を襲う。兵糧を焼き、船を奪い、背後を乱し続けるだろう。
陸でどれほど勝とうとも、補給が断たれれば大軍は動けない。海人族を放置したままでは、南征は成り立たなかった。
須佐之男は地図の上へ視線を落とした。海岸線をなぞるように、巨大な指がゆっくりと動いていく。
「奴らは賢い。」
誰に言うでもなく呟く。
「同じ場所には現れぬ。こちらが待てば姿を消し、兵を動かせば別の港を襲う。」
しばらく地図を見つめた後、須佐之男はふっと口元を歪めた。
「……ならば次はここだ。」
その指が止まったのは、投馬国沿岸だった。将たちは互いに顔を見合わせる。
「北部三国は制圧された。奴らが次に狙うとすれば、南へ進む我らの補給路しかあるまい。」
「投馬国の海岸沿い……。」
「そうだ。」
須佐之男は力強く頷いた。
「海人族は、必ずそこへ現れる。」
その声には確信があった。彼らは補給を断つことで出雲軍の進軍を遅らせてきた。ならば、投馬国攻略を始めれば、今度はその沿岸で必ず襲撃を仕掛けてくる。
それが須佐之男の読みだった。
「主力五千を南へ向かわせよ。」
将たちの表情が引き締まる。
「投馬国沿岸の港々へ兵を駐屯させ、見張りを倍に増やせ。沖合にも軍船を待機させる。」
一拍置いて、須佐之男は静かに言い放った。
「今度こそ、奴らの逃げ場をなくす。」
将たちは一斉に頭を下げた。
「はっ!」
命令は瞬く間に各軍へ伝えられ、出雲軍の主力は南へ向けて動き始める。
その一方で、投馬国沿岸にはこれまでにない数の兵と軍船が配置されていった。須佐之男は本陣の外へ出ると、遥か南の海を見つめた。
夕陽に染まる海面は静かだった。だが、その静けさの下で、海人族もまた次なる戦いに向けて動き始めていることを、彼はまだ知らなかった。
予想どおり、沖合に海人族の船団が姿を現した。
大小の船が横一列に広がり、波を押し分けながら海岸へ近づいてくる。甲板には弓や槍を携えた兵たちが並び、その数は遠目にも多い。
五十猛は迎撃を急がなかった。
海岸近くに兵を伏せ、海人族の船が浅瀬へ入り、兵たちが次々と浜へ降り立つのを黙って見守る。敵の半数以上が上陸し、船へ戻るにも時間がかかるほど隊列が伸びた、その瞬間だった。
「今だ。叩け!」
五十猛の号令とともに、潜んでいた出雲兵が一斉に姿を現した。
矢が降り注ぎ、続いて槍を構えた兵たちが海人族の隊列へ突入する。上陸したばかりの海人族は足場の悪い砂浜で陣を整えることもできず、波打ち際へ押し戻された。
それでも海に生きる兵たちは容易には崩れなかった。
小舟を盾代わりにして矢を防ぎ、浅瀬に踏みとどまって激しく槍を突き返す。波と血飛沫が入り混じる中、両軍は何度も押し合い、浜辺では怒号と武器のぶつかる音が絶え間なく響いた。
長い激戦の末、海人族はついに撤退を始めた。
浜に残された者たちが後退し、小型船へ飛び乗って沖の大型船を目指す。出雲軍は逃げ遅れた船へ殺到し、数隻の小型船をそのまま奪い取った。
「逃がすな! 追え!」
五十猛の命令を受け、出雲兵は拿捕した船にも乗り込み、撤退する海人族を追撃した。
浅瀬を抜けようとする海人族の船団へ、出雲軍の小船が四方から迫る。矢を射かけ、櫂を必死に漕ぎながら、逃げる船の側面へ食らいついていった。
その混乱の中、一隻の出雲軍の小船が、海人族の大型船へ激しく衝突した。大型船は衝撃を避けようと急に舵を切る。
だが、その先には浅瀬が広がっていた。
船底が砂地へ乗り上げ、船体が大きく傾く。船員たちが帆を下ろし、櫂で押し戻そうとするが、巨大な船はびくともしない。
大きすぎる船体が災いし、完全に浅瀬へ捕らえられていた。出雲軍の小船が次々と取りつく。
兵たちは船縁へ鉤縄を掛け、側面をよじ登って甲板へ侵入した。逃げ場を失った海人族の兵たちは抵抗したが、次々と乗り込んでくる出雲兵を防ぎ切ることはできなかった。
やがて船上から海人族の旗が引きずり下ろされ、代わって出雲軍の旗が掲げられた。
海人族が誇る大型船は、そのまま五十猛の軍に拿捕された。
拿捕した船の船倉を改めると、そこには米や粟、干し魚をはじめとする食糧が隙間なく積み込まれていた。さらに、いくつもの大甕に満たされた酒まで大量に見つかる。
積荷はすべて没収され、食糧も酒も一つ残らず出雲本隊へと送られた。
長く続く食糧不足により、出雲軍の兵たちは心身ともに疲弊していた。
腹を満たすことさえままならない日々の中で、士気は目に見えて落ちている。このままでは、迫り来る大倭壱国本国との決戦を前に、軍が内側から崩れかねなかった。
それを察した須佐之男王は、蓄えていた酒と食糧を惜しみなく兵たちへ振る舞うことを命じた。
陣中には久しく聞かれなかった歓声が響いた。大鍋には肉や穀物が煮込まれ、兵たちは器を手に列を成す。焚き火の周りでは酒が注がれ、誰かが笑えば、つられるように周囲からも笑い声が上がった。
腹いっぱいに食べられる。
ただそれだけのことが、今の兵たちには何よりの喜びだった。
皆が飢えを忘れ、酒を酌み交わし、束の間の宴を楽しんでいた。戦で死んだ仲間の話をする者もいれば、出雲へ戻った後の暮らしを語る者もいた。中には声を上げて歌い、隣の兵と肩を組む者までいる。
だが、その明るさの奥には、誰も口にしようとしない予感があった。これほど貴重な食糧と酒が振る舞われる理由を、兵たちは理解していた。
大倭壱国本国との最終決戦は、もう近い。この宴が、戦いの前に許された最後の安らぎになるかもしれない。
誰もがそう感じながら、それでも今だけは不安を押し隠し、差し出された酒を飲み干した。
燃え盛る篝火の向こうで、須佐之男王は兵たちの姿を静かに見つめていた。
林の奥深く、月明かりさえ届かぬ木々の陰から、月読と海人族の者たちは遠くの宴を静かに見つめていた。
篝火の周囲では、兵たちが勝利に酔いしれ、酒を酌み交わしている。笑い声と歓声が夜の森に響き渡っていたが、月読たちは誰一人として声を発さなかった。
月読は暗闇の中でゆっくりと目を閉じる。
「姉上、私にご加護を……」
祈るような呟きが、夜風に溶けて消えた。
しばらくすると、月読の身体の奥から冷たく重い妖気が滲み出した。それは瞬く間に全身を包み込み、衣と髪をわずかに揺らしながら、周囲の空気を震わせていく。
強大な妖気に触れた木々はざわめきを止め、虫の声さえ途絶えた。海人族の者たちは息を呑み、月読の背を無言で見つめる。
暗闇の中に立つその姿は、もはや一人の将ではなかった。
月のない夜に降り立った、静かなる死神のようであった。




