六章 倭国大乱 十九話 女王の苦難
投馬国陥落の報せが海を越えて届くと、月読は一瞬たりとも迷わなかった。海人族の大船団はただちに進路を変え、奴国、不弥国、伊都国へと一斉に襲いかかる。
出雲軍の主力は投馬国攻略に兵を割いており、三国に残された守備兵は決して多くはなかった。各地の守備隊は十分な抵抗もできぬまま次々と撃退されていく。
わずか数日のうちに、奴国、不弥国、伊都国は再び大倭壱国連合の支配下へと戻った。
しかし、月読の目的は領土の奪還ではなかった。彼が真に狙っていたのは、飢えとの戦いである。
三国の倉に残されていた食糧を徹底的に集めさせると、海人族は昼は漁船を装い、夜は静かな海を渡って志賀島へ運び込んでいった。
島の奥深く、人目の届かぬ森には新たな隠れ倉が次々と築かれ、運び込まれた米や粟、干魚、塩が厳重に保管されていく。
その食糧は、海人族の兵糧として蓄えるためだけではない。
飢えに苦しむ奴国、不弥国、伊都国の民へ、必要に応じて密かに送り届けるためでもあった。
民には生き延びる糧を与え、出雲軍には一粒の食糧も渡さない。それこそが、月読の描いた兵站戦であった。
やがて、八島士奴美率いる出雲軍が北上してきたとの報せが届いた。月読は迷うことなく命じる。
「全軍、撤退せよ」
海人族は奴国、不弥国、伊都国に築いた拠点を一つ残らず放棄した。砦も港も見張り台も、そのすべてを捨て去る。
だが、出雲軍が奪い返した先に残されていたのは、空になった倉だけだった。
三国に残されていた穀物は、すでに志賀島へと運び込まれている。さらに海人族の船は夜陰に紛れ、三国の民へ密かに食糧を届け続けていた。
兵には飢えを、民には生を、それが月読の描いた兵站戦であった。
八島士奴美は領土を取り戻した。しかし、その地には軍を養うだけの食糧は一粒も残されていない。
勝ってなお、出雲軍は兵糧不足から逃れられなかった。
海人族の船団を率いた月読は、大倭壱国本国の港へ上陸した。
長きにわたり海を駆け続けた船団は、補給もそこそこに港を後にする。その足は休むことなく内陸へ向かい、女王・日巫女が政を執る高千穂を目指した。
山々を越え、幾つもの村を抜けた末、月読は王宮へ到着する。玉座の間へ通されると、そこには静かに待つ日巫女の姿があった。
月読は跪き、深く頭を垂れる。
「姉上。ご報告があります」
日巫女は静かに頷いた。
「申してみなさい」
月読は顔を上げ、揺るぎない眼差しで姉を見据えた。
「奴国、不弥国、伊都国の三国はすでに奪還いたしました。出雲軍の守備隊は撃退し、兵糧もすべて移送しております」
その声には勝利の喜びはなかった。ただ次に訪れる決戦だけを見据えた、冷静な響きだけがあった。
「そして、これより私は海人族を率いて須佐之男との直接対決に臨みます」
広間の空気が静まり返る。
月読は一切迷うことなく、はっきりと言い切った。
「必ず……須佐之男を仕留めます」
月読の報告を聞きながら、日巫女の心は遠い昔へと引き戻されていた。
まだ幼かったあの日、母・那美は、生まれたばかりの須佐之男をその腕に抱いたまま、静かに命の灯を失っていった。
姫だった日巫女は震える手で赤子を抱き上げ、小さな身体を胸へ強く抱き締めた。
……私が守る。……この子だけは、何があっても。
幼い胸に刻んだその誓いは、長い歳月を経ても一度たりとも色褪せることはなかった。
須佐之男は暴れ者になっても、誰よりも強き武人となっても、日巫女にとっては母が命と引き換えに遺した弟だった。
その弟を、自らの手で死へ向かわせる。その現実だけは、どうしても受け入れられなかった。沈黙する日巫女を見つめ、月読は静かに口を開く。
「姉上。このまま出雲軍の南下を許せば、北方軍は正面からこれを迎え撃つことになります」
その声に感情はない。だが、それは冷酷だからではない。現実だけを語ろうとする覚悟の声だった。
「北方軍を率いる忍穂耳は、守備を命じられた地を決して離れません」
月読は一度だけ目を伏せる。
「忍穂耳は堅実な武人です。敵がいかに強大であろうと、命令を違えることはないでしょう。」
その一言が意味するものを、日巫女は誰よりも理解していた。忍穂耳は退かない。国を守るため、最後の一人になるまで戦い続ける。
そして――戦死する。息子は、自らの使命を果たしながら命を落とす。母として、それだけは絶対に避けたかった。
月読は姉をまっすぐ見つめた。
「だからこそ、出雲軍が本格的に大倭壱国へ侵攻する前に、須佐之男を仕留めなければなりませ。」
静まり返った広間には、二人の呼吸だけが響いていた。日巫女は、静かに月読を見つめた。
「……私は、何をすればよいのです」
その問いに、月読は迷うことなく答える。
「姉上には、妖力を遠く離れた者へ届ける力があります」
穏やかな口調だった。しかし、その言葉が意味するものを、日巫女は誰よりも理解していた。
「私が須佐之男と対峙した時、その妖力を私に与えてください」
月読はまっすぐ姉を見据えた。
「それがあれば、私は確実に須佐之男を仕留められます」
部屋の空気が凍りつく、日巫女は何も言えなかった。
月読は静かに続ける。
「このまま出雲軍が南下すれば、北方を守る忍穂耳は必ず最後まで持ち場を離れません。」
その声には、感情よりも現実だけがあった。
「忍穂耳は堅実な武人です。命じられた守備を放棄することはありません」
一つ息を置き、月読は静かに告げる。
「……つまり、このままでは姉上の御子は、国を守るために戦い、命を落とします」
その言葉は、刃よりも鋭く日巫女の胸を貫いた。息子を救うには、弟を討たねばならない。弟を守れば、息子は死ぬ。
女王として選ぶべき答えは、誰の目にも明らかだった。だが、姉として、その答えを口にすることだけはできなかった。
脳裏によみがえるのは、遠い日の記憶、母・那美が静かに息を引き取ったあの日、幼い日巫女は、生まれたばかりの須佐之男を胸に抱き、その小さな温もりを震える腕で守っていた。
……この子だけは、私が守る。泣きたいのを必死に我慢しながら、そう誓った。その温もりは、何十年という歳月を経た今も、決して消えることはない。
その弟を、今度は自らの妖力で殺さなければならない。
女王として、姉として、その二つの道は、もう二度と交わることはなかった。
日巫女は何も答えなかった。否定することも、肯定することもできない。重く張りつめた沈黙だけが、静かに二人の間を支配していた。




