六章 倭国大乱 十七話 出雲の岐路
倭国大乱は決着の見えぬまま膠着し、戦は長期化していた。大倭壱国連合も出雲軍も決定打を欠き、各地では兵糧と兵力だけが消耗していく。
その一方、出雲本国では大名持の指揮による復興が進められていた。荒れた田畑を耕し、水路や堤を修復し、各地に食糧を蓄える倉を設ける。大名持自身も民とともに泥に入り、国を立て直すために働いた。
戦場へ送る兵糧や武器を求める声は絶えなかったが、大名持は種籾を守り、鉄の一部を武器ではなく農具へ回した。
「今の戦に勝つために、出雲の未来まで失うことはできない」
大名持が目指したのは、敵を滅ぼす国ではなかった。誰かから奪わずとも、民が自らの力で生きていける国だった。
倭国全体が戦乱によって疲弊していく中、出雲は静かに、しかし着実に国力を取り戻しつつあった。
筑紫にいる須佐之男王から、兵の増援と物資の補給を命じる使者が到着した。命令が評定の場で読み上げられると、集まった者たちの間に重い沈黙が落ちた。
だが、その沈黙は長く続かなかった。
「これ以上、兵を送るべきではない」
真っ先に反対したのは、大名持を支持する者たちだった。
「筑紫では戦が長引いている。補給路も安定せず、兵は飢えと病に苦しんでいると聞く。今さらに兵を送り込めば、戻れぬ者を増やすだけだ」
「物資とて同じだ。出雲の蓄えにも限りがある。筑紫へ送り続ければ、この国に残る民が冬を越せなくなる」
彼らの言葉には、単なる臆病さではない切実さがあった。
大名持に従う者たちは、これまで東方遠征でも筑紫の戦でも、常に厳しい役目を負わされてきた。先陣を任され、危険な土地を進み、退路のない戦場で幾度も血を流している。
戦の恐ろしさを知らぬ者は、一人もいなかった。
どれほど勇敢な兵でも、矢に当たれば死ぬ。食が尽きれば動けなくなる。傷を負ったまま雨に打たれれば、翌朝には冷たくなっている。
筑紫の戦況が泥沼に陥っていると知れば、彼らが撤退を望むのは当然だった。
「王には一度、軍を退いていただくべきだ」
「出雲へ戻り、兵を休ませ、国を立て直す。それから先を考えるべきだ」
その主張に対し、須佐之男を支持する者たちは激しく反発した。
「王が戦っておられる時に、兵も物資も送らぬというのか!」
「王命だぞ。臣下が従わずして、何が出雲王国か!」
「今ここで支援を断てば、筑紫にいる同胞を見捨てることになる。王を孤立させるつもりか!」
彼らの多くは、普段から出雲に残されていた者たちだった。
国の守りや宮の警護を任されることはあっても、大規模な戦を経験した者は少ない。東方や筑紫の戦場がどれほど過酷なものか、報告として知ってはいても、その目で見たわけではなかった。
彼らにとって須佐之男王は、これまであらゆる敵を打ち破り、出雲を大国へと押し上げてきた英雄である。
王が敗れる姿など想像できない。兵と物資さえ送れば、須佐之男は必ず勝利する。その信頼は、もはや信仰に近かった。
「王が必要だと仰せなのだ。ならば送る。それ以外に何がある」
「命令に疑いを挟むこと自体が不忠だ」
「撤退など進言すれば、王の御心を挫くことになるぞ」
「御心ではなく、兵の命を考えよ!」
大名持派の一人が机を叩いた。
「戦場を知らぬ者ほど、簡単に兵を送れと言う! 筑紫へ行くのは、お前たちではないのだぞ!」
「何を言う!」
須佐之男派の者も立ち上がる。
「我らとて命じられれば戦う! 王のためならば、筑紫で骨を埋める覚悟もある!」
「覚悟だけで戦ができるものか!」
「王を疑う腰抜けが!」
「民を飢えさせることが忠義か!」
怒声が評定の間を満たした。互いに相手を出雲の未来を危うくする者と考えていた。
大名持派は、これ以上戦を続ければ国そのものが疲弊すると恐れていた。須佐之男派は、王命を拒めば軍が崩れ、出雲の威信も失われると恐れていた。
どちらも出雲を守ろうとしていた。だが、守ろうとするものが同じであるからこそ、互いに譲ることができなかった。
兵を送るのか。物資を送るのか。それとも、須佐之男王に帰国を求めるのか。
評定は日が暮れても終わらず、翌日も、その翌日も繰り返された。声を荒らげ、机を叩き、互いの忠義を疑いながら、それでも結論だけは出なかった。
大名持は少彦名を祀った社を訪れると、箒を手に取り、黙々と掃除を始めた。
石段に積もった落ち葉を払い、拝殿の床を磨き、柱や壁に付いた埃まで丁寧に拭き取っていく。人に任せようとはせず、自らの手で神社の隅々まで清め終えると、持参した穀物や山の幸を供物として奉納した。
それから社の前に腰を下ろし、いつものように茶を二つ用意する。一つは自分の前に、もう一つは向かいの空いた場所に置いた。大名持は湯気の立つ茶を手に取り、静かにひと口すすった。
「兵を送るべきかな」
しばらく黙り込み、誰かの返事を待つように耳を傾ける。
「……なるほど」
大名持は小さく頷いた。
「主張している連中に行かせるのか」
再び沈黙が落ちる。やがて大名持は困ったように眉を下げ、向かいに置かれた茶へ目を向けた。
「そう皮肉をいうなよー」
その声には、咎める響きよりも親しみが込められていた。風が社殿を吹き抜け、軒先の木札をかすかに揺らす。
大名持はその音を聞きながら、しばらく考え込んでいたが、やがて何かを理解したように表情を和らげた。
「分かった。そうしてみるよ」
向かいの茶からは、まだ細い湯気が立ち上っている。それを見つめながら、大名持は向かいの茶へ小さく頭を下げると、迷いの消えた顔で立ち上がった。
翌朝、大名持が評定の間へ入っても、家臣たちの争いは続いていた。
「これ以上の増援は出雲を滅ぼします」
「王を見捨てる方が、出雲を滅ぼすのだ!」
昨日と同じ言葉が飛び交い、昨日と同じ怒声が広間を満たしている。大名持は上座へ進むと、争う者たちを静かに見渡した。
「結論を申し渡す」
その声に、家臣たちは口を閉ざした。
「兵については、出したいと望む者たちの邑から出してもらう」
広間がざわめいた。
「戦を続けるべきだと考える者まで、私が止めるつもりはない。須佐之男様のもとへ兵を送りたい者は、その志に従えばよい。だが、戦を望まぬ邑から無理に若者を連れ出すことは認めない」
須佐之男を支持してきた家臣たちは、互いに顔を見合わせた。
戦を続けよと声高に訴えながら、自らの邑からは兵を出さない。そのような振る舞いが許される決定ではなかった。
「前線で戦う者たちもまた、出雲の民だ。兵糧を一切送らぬことはできない。物資は国中で分担する。ただし、民が生きるために必要な種籾と、冬を越すための食糧には手をつけない。各邑が出せる範囲で、最低限の兵糧と武具を集める。それ以上は求めぬ」
「それでは、前線の兵が足りませぬ」
須佐之男派の一人が声を上げた。大名持は、その男をまっすぐに見つめた。
「兵が必要だと申すのであれば、必要だと考える者が出せばよい」
「しかし……」
「そなたたちは、筑紫での戦を続けなければ出雲は滅びると主張してきたはずだ」
責めるような口調ではない。だからこそ、その言葉は重かった。
「その覚悟を示す時が来ただけのことだ」
反論する者はいなかった。
こうして、兵は須佐之男を支持する豪族や邑を中心に編成されることとなった。戦の継続を声高に訴えていた者ほど、多くの兵を差し出さざるを得なくなったのである。
表向きは、志願する者たちの意思を尊重した公平な決定であった。
だが、その実、大名持に反対する勢力の兵力は、次々と筑紫へ送られていくことになる。
大名持は誰ひとり処罰することなく、誰の領地も奪うことなく結果、戦の継続を強く主張していた豪族ほど、多くの兵を筑紫へ送ることになった。
大名持がそれをどこまで見越していたのかは、誰にも分からなかった。
大名持は、新たな田を拓くための水路工事へと戻った。
鍬を振るう者たちの先頭に立ち、自ら地形を確かめ、土の硬さを見て、水の流れを指し示す。衣が泥に汚れることも、手のひらに血が滲むことも厭わなかった。
王が自ら働く姿を見て、民は一人、また一人と集まってくる。命じられたからではない。その背中を支えたいと、誰もが自然に思ったのだ。やがて水路には多くの鍬音が響き、荒れていた大地に細い水の道が刻まれていった。
大名持は、もう剣を取らなかった。戦で奪われたものを、戦によって取り戻そうとはしなかった。水を引き、田を拓き、種を蒔き、人が生きていける土地を増やしていく。
それこそが、己のなすべき戦いだと信じていた。大名持はこれまで以上に、国造りへと身を捧げていった。




