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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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六章 倭国大乱 十六話 伊邪那岐追放

 西暦百八十八年、夏。

 筑紫へ侵攻した出雲軍は、五十猛に兵を与えて伊都国へ向かわせた。


 海人族の攻撃によって一度は奪い返された伊都国だったが、守備に残された兵は少なく、五十猛の率いる軍勢を正面から押し返せるほどの力は残されていなかった。


 五十猛は無用な戦を避けるため、降伏する者には危害を加えないと告げたうえで城門を包囲した。ほどなくして伊都国の兵は抵抗を断念し、門を開いて武器を置いた。


 こうして伊都国は、再び出雲軍の支配下へ置かれた。


 奴国に入った八島士奴美は、散り散りになっていた兵を集め、部隊の再編成を急いだ。負傷者を後方へ下げ、残った兵を隊ごとにまとめ直すと、直ちに奴国全土から食糧を集めるよう命じた。


 出雲兵は村から村へと踏み込み、倉や納屋だけでなく、床下や土壁の奥、藁の下に隠された甕まで残さず探し回った。民が家族のために蓄えていた穀物も、種籾も、干した芋や木の実さえも奪い取っていく。


 だが、そうして奴国の隅々から食糧をかき集めても、得られた量は八島士奴美が期待したものには遠く及ばなかった。


 奴国の民もまた、長く続く凶作によって飢えていたのである。倉はすでに空に近く、隠されていた食糧も、ひとつの家族が冬を越せるかどうかという僅かな量にすぎない。


 奪った食糧は兵へ配られたその日から消費され、後方へ送る余裕さえほとんどなかった。奴国を制圧し、その村々を徹底して略奪してもなお、出雲軍全体を蝕む食糧不足は解消されなかった。




 那岐は山門をはじめ、各地に二十か所を超える倉を所有していた。


 そのほとんどには穀物や干し肉、塩漬けの魚、豆類などが隙間なく蓄えられている。いずれも一朝一夕に集めたものではない。幾度となく飢饉に苦しむ民を見てきた那岐が、豊作の年にも決して備えを怠らず、長い歳月をかけて少しずつ用意してきた食糧だった。


 那岐はそのうち二つの倉を開放した。


 固く閉ざされていた扉が開かれると、内部に積み上げられた俵や木箱が次々と運び出されていく。集められた牛馬の背や荷車へ食糧を積み込み、護衛と人足を加えた大規模な荷駄隊が編成された。


 すべての準備が整うと、那岐は自らその先頭に立ち、出雲軍本隊のもとへ向かった。




 出雲軍の食糧不足は、もはや一刻の猶予も許されないほど深刻になっていた。焦土と化した土地には、兵が口にできるものなど何一つ残されていなかった。


 前へ進めば飢える。その場に留まっても飢える。かといって出雲へ引き返すには、長い帰路を支えるだけの食糧がない。出雲軍は、進むことも退くこともできない八方塞がりの状態に陥っていた。


 宮の広間には重苦しい沈黙が漂っていた。

 須佐之男は上座に座り、眼前に広げられた地図を睨みつけていた。周囲には八島士奴美をはじめとする将たちが控えていたが、誰の口からも打開策は出てこない。


 戦えば勝てる。どれほど多くの敵が立ちはだかろうと、須佐之男が先頭に立てば打ち破れる。だが、空腹だけは力で殴り倒すことができなかった。


 兵の腹を満たせなければ、どれほど強大な軍であろうと動かすことはできない。須佐之男が苛立たしげに地図から目を上げた、そのときだった。

 廊下の向こうから慌ただしい足音が響き、一人の兵が広間へ駆け込んできた。


「申し上げます!」


 兵は床へ膝をつき、荒い息を整える間もなく声を上げた。


「宮の外に、伊邪那岐様がお見えになりました!」


 広間にざわめきが走った。須佐之男は眉を上げる。


「父上が?」

「はっ。それだけではございません。宮の外には、大量の食糧を積んだ荷駄隊が待機しております」

「何?」


 須佐之男は立ち上がった。すぐさま広間を出て宮の外へ向かう。将たちもその後に続いた。


 門を抜けた須佐之男は、目の前に広がる光景に足を止めた。街道を埋め尽くすように、荷車と駄馬が延々と連なっていた。


 俵に詰められた米や粟、乾燥させた芋、豆、干し魚、塩漬けの肉。荷台にはありとあらゆる食糧が山のように積まれ、その列は遠く道の向こうまで続いている。最後尾がどこにあるのか、門前からでは見通すことすらできなかった。


 食糧を目にした兵たちの間から、抑えきれない歓声が上がった。飢えに沈んでいた顔に、久しく失われていた生気が戻っていく。そして荷駄隊の先頭には、変わらぬ若々しい姿の伊邪那岐が立っていた。


 那岐は兵たちの歓声を聞きながら、どこか困ったような、穏やかな笑みを浮かべている。須佐之男の顔にも、久しぶりに明るい表情が戻った。


「父上!」


 巨体を揺らしながら歩み寄ると、須佐之男は大きく腕を広げて那岐を迎えた。


「よくぞ来てくださった! さあ、外では落ち着いて話もできぬ。まずは中へ」

「須佐之男、私は……」

「話は奥で聞こう。父上のために席を用意させる」


 須佐之男は上機嫌に笑い、那岐の肩を抱くようにして宮へ向かおうとした。

 だが、那岐はその場から動かなかった。


「待って、須佐之男。中へ入る前に、ここで話しておきたいことがあるんだ」


 須佐之男が足を止める。

 二人が立っているのは、宮の門を入ってすぐの広場だった。背後には、荷駄隊から降ろされた俵や木箱が次々と積み上げられ、周囲では兵たちが食糧を前に歓声を上げている。


 那岐は、その食糧の山を背にしながら、須佐之男をまっすぐ見上げた。


「須佐之男。もう、やめてほしい」


 責める声ではなかった。むしろすがるような、弱い声だった。


「私はこれ以上、兄弟が争う姿も、孫たちが殺し合う姿も見たくない。誰が勝っても、私にとっては大切な家族が傷つくだけなんだ」


 須佐之男は黙って父を見下ろしていた。那岐は背後の食糧へ視線を向ける。


「ここにあるものは、すべて渡すよ。兵たちを飢えさせずに出雲へ帰るには、十分な量があるはずだ。だから、この食糧を持って帰ってほしい」


 須佐之男の眉が、わずかに動いた。


「出雲の民を救うために戦っていることは分かっている。だからこそ、これを持ち帰って、まずは国を立て直してほしい。筑紫を攻め続けなくても、民を救う道はある」


 那岐は一歩近づき、須佐之男の腕へそっと手を添えた。


「お願いだ。もう家族同士で争うのは終わりにしよう」


 しばしの沈黙が落ちた。須佐之男は積み上げられた俵へ目を向ける。

 これだけの食糧があれば、遠征軍はしばらく飢えずに済む。さらに出雲本国から増援が到着すれば、兵力も補える。疲弊した筑紫の諸国を押し切り、平定することも不可能ではない。


 須佐之男の口元が、ゆっくりと歪んだ。次の瞬間、太い腕が那岐の肩へ回された。


「え……?」


 須佐之男の腕は、那岐の細い肩を丸ごと包み込み、逃げられぬよう強く抱え込んだ。親しげな仕草に見えたのは、ほんの一瞬だけだった。


 那岐が顔を上げると、すぐ間近に須佐之男の顔があった。口角を大きく吊り上げ、目を細めたその表情は、とてつもなく悪い。到底、父親へ向ける顔ではなかった。


挿絵(By みてみん)


「ち・ち・う・えー」


 一音ずつ、わざとらしく区切った声が響く。那岐の頬が引きつった。


「須佐之男……その顔は、何かな」

「儂のために、これほどの食糧を用意してくださるとは。さすが父上じゃ」

「いや、帰るための食糧として持ってきたんだよ」

「分かっておる。分かっておるとも」


 須佐之男は何度もうなずきながら、さらに腕へ力を込めた。


「これだけあれば、兵を休ませることができる。出雲から増援が届けば、筑紫平定も見えてくるのう」

「見えてこなくていいんだ。帰ってほしいと言っているんだよ」

「父上の厚意、決して無駄にはせぬ」

「話を聞いてくれるかな」


 須佐之男は那岐の肩を抱いたまま、兵たちへ顔を向けた。


「者ども! 食糧をすべて運び込め!」


 待っていた兵たちが、一斉に俵へ駆け寄った。


「待って。全部は駄目だよ。帰路の分だけでいいから」


 那岐が止めようとするが、須佐之男の腕はびくともしない。次々と俵が運び去られていく。須佐之男は満足そうにその光景を眺めていた。


「助かったぞ、父上。これで戦える」

「戦わないでほしいから持ってきたんだけれど……」

「心配するな。必ず勝ってみせる」

「そこを心配しているんじゃないよ」


 やがて、最後の一俵まで運び終えられた。須佐之男はようやく腕を解くと、呆然と立つ那岐の背を軽く叩いた。


「では父上。帰り道には気をつけられよ」


 那岐は食糧の消えた地面を見つめた。しばらく何も言えなかった。


「……私の帰りの食糧までなくなっているね」

「父上なら食わずとも帰れるであろう」

「そういう問題ではないんだよ」


 那岐は深く肩を落とした。

 結局、争いを止めることもできず、持ってきた食糧だけをすべて取り上げられ、何一つ持たぬまま帰ることになった。




 高千穂の宮へ呼び出された那岐が広間へ入ると、上座に座る日巫女は、挨拶すら許さなかった。


「父上は、いったい何をなさったのですか!」


 鋭い声が広間に響き渡る。那岐は足を止め、その場で静かに頭を下げた。


「……須佐之男と話をするつもりだったんだよ」

「話をするつもりだった?」


 日巫女は立ち上がった。白い祭服の袖が大きく揺れ、怒りに染まった瞳が那岐を射抜く。


「交渉など、何一つ成立していないではありませんか! 父上はただ、大量の食糧を出雲軍へ差し出しただけです!」

「奪われたわけではないよ。私が渡したんだよ」

「なお悪いです!」


 即座に返された言葉に、那岐は口を閉ざした。


「その食糧があれば、投馬国から逃れてきた民を何人救えたと思っているのですか。焼かれた村を離れ、幼い子を抱いて山を越えてきた者たちが、今も粥一杯を分け合っているのですよ」

「……分かっています」

「いいえ、分かっておられません!」


 日巫女は玉座の前まで進み、那岐を真っすぐに見据えた。


「父上は、須佐之男なら話せば分かると思っていたのでしょう。食糧を見せれば、兵を退いてくれると。ですが、あの者は食糧を受け取っても退かなかった。むしろ出雲軍を立て直す力を与えただけです」


 那岐の指先が、袖の中でわずかに震えた。


「……あの子にも、飢えている民がいます」

「大倭壱国にもおります!」


 日巫女の声がさらに強くなる。


「投馬国にも、不弥国にも、奴国にもおります! 父上が須佐之男の民だけを救おうとしたことで、こちらの民がどれほど危険にさらされたか、お考えになりましたか!」


 那岐は何も答えなかった。答える言葉を持たなかった。日巫女は荒く息を吐くと、傍らに控えていた役人へ視線を向けた。


「調べさせたところ、父上が各地に所有している穀物倉は、まだ二十か所残っているそうですね」


 那岐がゆっくりと顔を上げる。


「……うん」

「すべて、大倭壱国が接収します」


 その言葉にも、那岐は反論しなかった。


「倉の穀物は高千穂へ集めなさい。投馬国をはじめ、戦で住む場所を失った者たちへ配ります。種籾に回す分を除き、村ごとの人口に応じて分配してください。隠されている倉や穀物がないかも、もう一度調べるのです」

「承知いたしました」


 役人たちが一斉に頭を下げる。日巫女は再び那岐を見た。


「父上にも異存はありませんね」


 那岐はしばらく黙っていた。

 長い年月をかけて蓄えた穀物だった。飢饉や洪水に備え、民が一人でも多く冬を越せるよう、各地へ分散して守ってきたものだった。

 だが、その穀物を須佐之男へ渡した自分に、拒む資格はなかった。


「……元々飢饉の備えで用意していた物だから好きにしていいよ」

「では、倉の場所をすべて役人へ渡してください」

「わかった……」


 日巫女の怒りは収まらなかった。


「父上は、いつも御自分だけで何とかしようとなさる。争っている者同士の間へ入り、食べ物を分ければ、きっと昔のように皆が手を取り合えると思っている」


 那岐は黙って聞いていた。


「ですが、今は戦なのです。父上の優しさで救われる者もいれば、その優しさのために死ぬ者もいるのです」

「……うん」

「なぜ、私に相談してくださらなかったのですか」


 その声には、怒りだけではないものが滲んでいた。

 那岐は伏せていた目をわずかに上げたが、娘の顔を正面から見ることはできなかった。


「戦を止めたい一心だったんだよ」

「止められなかったではありませんか」

「……そうだね」

「父上が運んだ食糧で、出雲軍はまた戦えます。父上が救おうとした命によって、別の命が奪われるのです」


 娘の怒りも、接収の命令も、すべて正しいと分かっていた。ただ静かに頭を垂れたまま、日巫女の言葉を受け入れていた。


 日巫女は、父を再び自由にしておくことを許さなかった。

 那岐は争いを好まない。敵味方を分けて考えることも苦手だった。飢えた者がいれば食べ物を与え、困窮する邑があれば田を拓き、水路を引く。それがたとえ大倭壱国と刃を交える出雲であっても、その姿勢が変わることはない。


 今は倉を失っている。

 だが、那岐を放っておけば、いずれまた土地を耕し、種を集め、短い間に大量の作物を生み出すだろう。そして飢えに苦しむ出雲軍を目の前にすれば、再び食糧を届けかねない。


 日巫女は、その可能性を危惧した。

 父が善意で動くことを、誰よりも理解していたからこそ、その善意を止めなければならなかった。


「伊邪那岐を、壱岐へ送ります」


 下された処分は、島流しだった。行き先は壱岐。


 海を隔てたその島は、月読が長く治め、海人族を束ねている地でもある。那岐を監視し、その行動を制限できる者として、日巫女が選んだのは弟だった。


 護送の船が壱岐の浜へ着いた時、那岐は縄を掛けられることもなく、静かに船を降りた。


 罪人として送られたとは思えぬほど、その足取りは穏やかだった。浜には月読が待っていた。


 父を迎えるために立っていた月読は、船から降りてくる那岐の姿を見るなり、深く息を吐いた。


「父上……何をなさっているのですか」


 呆れを隠そうともしない声だった。那岐は困ったように眉を下げる。


「飢えていると聞いたから、食べ物を届けただけだよ」

「その相手は、こちらへ攻め込んできている軍です」

「でも、兵たちも食べなければ死んでしまう」

「その兵が食べれば、また武器を持ってこちらへ向かってくるのです」


 月読の言葉に、那岐は黙り込んだ。理解していないわけではない。

 食糧が軍を支えることも、その食糧によって多くの命が奪われることも、那岐は分かっていた。それでも飢えて倒れる者を前にすると、見捨てることができなかった。

 月読は父の顔を見つめ、もう一度ため息をついた。


「父上のやり方は、昔なら通じたのかもしれません」

「昔なら?」

「村と村が争っても、間に立って水路を引き、田を分ければ収まった。食べ物を増やせば、奪い合う理由も減らせた。父上は、そうやって国を作ってこられたのでしょう」


 月読は浜の向こうへ目を向けた。

 海には海人族の船が浮かび、遠くの見張り台では兵が絶えず水平線を監視している。


「ですが、今は違います」


 その声は静かだった。


「今の戦は、一つの村を救えば終わるものではありません。大きな国が兵を集め、食糧を奪い、道を塞ぎ、海を押さえる。誰か一人に米を与えれば、その米が百人を殺す力になる時代です」


 那岐は月読の横顔を見た。

 かつて文字を学ぶことを好み、戦よりも書物に心を向けていた息子は、今では海を支配する将となっている。


「そんな時代にしてしまったのは、私たちなのかな」


 那岐が小さく呟くと、月読はすぐには答えなかった。


「父上だけの責任ではありません」


 やがて、低い声で告げる。


「けれど、時代が変わったことは認めてください。善いことをすれば、必ず善い結果になるとは限らないのです」


 那岐は海へ視線を移した。

 穏やかな波が浜へ寄せ、足元の砂をさらっていく。

 長い年月を生きてきた。


 荒れた土地を耕し、川を治め、飢えた人々へ種籾を渡してきた。食べ物が増えれば人は争わなくなると信じ、そのために国を作ってきた。

 だが今、その作物さえも戦の道具になる。


「難しいね」


 那岐は寂しげに笑った。


「私は、人を助けることしか考えてこなかったから」

「だから姉上は、父上をここへ送ったのです」


 月読は父へ向き直った。


「父上を罰したいのではありません。これ以上、父上の優しさが戦に利用されることを恐れているのです」


「姫は、怒っていたよ」

「怒っていたでしょうね」


 月読はわずかに口元を緩めた。


「父上が相手では、怒るしかありませんから」


 那岐も少しだけ笑った。だが、その笑みはすぐに消えた。


「月読。私はここで、何をしていればいいのかな」

「何もしないでください」


 即座に返された言葉に、那岐は目を瞬いた。


「田を拓かない。倉を建てない。種籾を集めない。船も出さない。まして、出雲へ食糧を送ろうなどとは考えないでください」


「ずいぶん厳しいね」

「父上を管理するよう命じられていますので」


 月読はそう言いながら歩き出した。数歩進んだところで振り返り、まだ浜に立っている那岐へ告げる。


「住む場所は用意してあります。食事にも困らせません。しばらくは、海でも眺めていてください」


 那岐はおとなしくその後を追った。


「畑を少し作るのも駄目かな」

「駄目です」

「薬草を育てるくらいなら」

「それも駄目です」

「魚を獲るのは?」

「父上が獲ると、島中へ配り始めるでしょう」


 那岐は再び困ったように眉を下げた。月読はそんな父を横目で見て、呆れたように息を吐く。


「本当に、時代が変わっても父上は変わりませんね」

「変わらないことは、悪いことかな」


 その問いに、月読はしばらく沈黙した。


「悪いことではありません」


 やがて、静かに答える。


「ただ、変わらないまま生きるには、この時代はあまりにも複雑になりすぎたのです」

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