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邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


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六章 倭国大乱 十五話 熱田平定戦後編

 邇芸速日は、朝日砦を包囲する兵を一部だけ残し、主力を率いて西へ進んだ。砦を力攻めするつもりはなかった。


 朝日砦に籠もる兵を外へ出さず、熱田軍の主力と合流させなければ、それで十分である。堅固な砦を攻めて兵を失うよりも、守兵を閉じ込めたまま敵の本隊を誘い出す方がよい。


 軍勢が領内西端の村へ到達すると、邇芸速日は馬上から周囲を見渡した。


「村の食糧と家畜を運び出せ。ただし、家には火を放つな。村人も殺すな」


 命令を受けた兵たちは、一斉に村へ散っていった。


 倉から穀物が運び出され、囲いの中にいた家畜が引かれていく。抵抗する者は取り押さえられたが、傷つけることは禁じられていた。


 やがて荷駄への積み込みが終わると、邇芸速日は村外れに立つ物見櫓と、空になった倉を指し示した。


「あれらを焼け。外柵にも火を放て」


 側近の一人が、乾ききっていない木柵へ目を向けた。


「この木では、さほど燃え広がらぬかと」

「油を使え」


 邇芸速日は迷いなく答えた。


「焼き尽くす必要はない。遠くから見えるほど、炎と煙を上げればよい」


 油を染み込ませた藁が、物見櫓と倉の周囲へ積み上げられた。さらに薪や湿った草が運び込まれ、村の家々から少し離れた場所へ置かれていく。


 火が放たれると、赤い炎が櫓の柱を這い上がった。


 湿った草からは濃い黒煙が立ち昇り、やがて村全体を覆い隠していく。柵にも油が浴びせられ、火は木肌へ無理やり食らいついた。


 遠くから見れば、村そのものが焼き払われているようにしか見えず、邇芸速日は西の空へ広がる黒煙を見上げた。


「これでよい」


 朝日砦からも、山中に潜む熱田軍からも、この煙は見えるはずである。三輪山軍が領内西部へ回り込み、村々を焼き始めた。そう思わせることこそが、邇芸速日の狙いだった。


 どこに潜んでいるか分からないのであれば、こちらから探す必要はない。敵が放置できぬものを傷つける姿を見せ、自ら姿を現させればよい。


 邇芸速日は村を離れると、朝日砦から離れた場所に広がる湿地帯へ向かった。


 そこは背の高い葦に覆われ、表面だけを見れば草地と見分けがつかない。だが、一歩深く踏み込めば足首まで泥へ沈み、さらに進めば膝近くまで足を取られる場所もある。


 邇芸速日は湿地の東側に弓兵を並べ、その前へ少数の槍兵を薄く配置した。正面から見れば、兵数の少ない脆弱な横陣に見える。


 その一方で、主力の歩兵は湿地の左右に広がる葦原と林の中へ潜ませた。中央へ敵を引き込んだ後、両翼を前進させて包囲するためである。


 地形を知らぬ者が見れば、背水ならぬ背湿地の陣であった。だが、実際に泥へ足を取られるのは、陣へ攻め寄せる側である。邇芸速日は、湿地そのものを城壁として使おうとしていた。


 一方、西方の山中に兵を潜ませていた尾張壱彦は、立ち昇る黒煙を目にしていた。三輪山軍の主力が本国に残っているなど、夢にも考えていなかった。


 九州へ大軍を派遣している今こそ、三輪山は手薄になっている。そう見込んだからこそ、尾張壱彦は兵を集め、領境を越えようとしていたのである。


 ところが、本領の朝日砦はすでに包囲され、西の村からは空を覆うほどの煙が上がっている。


 山裾から見下ろすかぎり、村の建物は黒煙に包まれ、赤い炎がその間から幾筋も立ち昇っていた。


 あれほどの煙が上がっているのなら、被害が一つの村だけで済んでいるはずはない。

 目に見えぬ場所でも同じような略奪が行われ、領内の村々が次々と焼かれているに違いない。


 尾張壱彦はそう判断した。だが、実際に襲われたのは西端の村一つだけだった。村の住居は一軒も焼かれていない。


 邇芸速日は、空の倉や物見櫓、柵の周囲へ大量の藁と薪を積み、湿った草を混ぜることで、必要以上に大きな炎と煙を作り出していた。


 空を覆う黒煙そのものが、尾張壱彦を山から引きずり出すための餌だったのである。


「全軍を集めよ!」


 尾張壱彦は直ちに命じた。


「村を焼いている敵を討つ。急げ!」


 山中の各所に潜んでいた熱田兵が、次々と集結していく。


 本来であれば、斥候を出して敵の兵数と進路を確かめるべきであった。しかし、領内が焼かれていると信じた尾張壱彦には、その時間さえ惜しく感じられた。


 兵が揃うと、一刻の休息も与えず、西端の村へ向けて全軍を急行させた。ところが、村へ到着した時には、すでに三輪山軍の姿はなかった。


「敵はどこへ向かった!」


 尾張壱彦が村人へ問い詰めると、東へ向かったという答えが返ってきた。焼けたのは倉や櫓だけであり、家々は無事である。


 冷静に村を見渡せば、火が略奪を誇示するための見せかけだったと気づけたかもしれない。だが、尾張壱彦は立ち止まらなかった。


「追え! 奪われた食糧を取り戻すぞ!」


 熱田軍は直ちに東への追撃を開始した。ほどなくして、前方に三輪山軍の荷駄隊が見えた。


 食糧を積んだ荷車と家畜を引く兵たちが、街道を進んでいる。熱田兵が声を上げて追いすがると、荷駄隊は慌てた様子で速度を上げた。


「逃がすな!」


 熱田軍は陣形を細長く伸ばしながら追い続けた。

 やがて追いつかれようとした瞬間、荷駄隊は左右へ二手に分かれ、そのまま林の中へ姿を消した。


 前方には、広く開けた草地が見えていた。その奥には、三輪山軍が横陣を敷いて待ち構えている。


 兵列は薄く、中央に並ぶ兵の数も多くはない。背後には葦の生い茂る低湿地が広がっており、一見すれば退路を誤った未熟な布陣に見えた。


 尾張壱彦は馬上から敵陣を見据えた。荷駄を守るため、急ごしらえで兵を並べたのだろう。正面を一気に突けば、敵は湿地へ追い落とされる。そう判断した。


「陣を崩すな!」


 尾張壱彦は剣を抜き、前方を指した。


「中央を突き破れ! 敵を湿地へ追い込め!」


 熱田軍は縦に厚い陣形を保ったまま、三輪山軍へ向けて突撃を開始した。先頭の兵が槍を構え、後続がその背を押すように続いていく。だが、敵陣へ届くよりも早く、先頭の足並みが乱れた。


 草に覆われていた地面の下には、深い泥が隠れていた。踏み込んだ足が地面へ沈む。

 勢いよく駆けてきた者ほど深く足を取られ、引き抜こうとして身体を傾けた。後ろから押し寄せた兵は止まりきれず、立ち尽くす味方の背へ次々と衝突していく。


「止まれ!」

「押すな!」


 兵たちの叫びが重なった。

 だが、縦に厚く並んだ後続部隊には、前方で何が起きているのか見えない。突撃命令に従い、なおも前へ進もうとする。


 前列は後続に押され、さらに湿地の奥へ追いやられていった。邇芸速日は、その様子を静かに見つめていた。


 敵の先頭が湿地の中央まで入り込み、後続も容易には止まれなくなったところで、片手を上げる。


「弓兵、放て」


 弦の鳴る音が重なった。横陣の後方から放たれた無数の矢が、空を覆って熱田軍へ降り注ぐ。泥に足を奪われた兵たちは、盾を並べることも、身をかわすこともできなかった。


 矢を受けた兵が倒れ、その身体につまずいた者が泥へ転ぶ。倒れた者を避けようとして隊列がさらに乱れ、そこへ二度目、三度目の矢が降り注いだ。

 それでも尾張壱彦は退かなかった。


「後続も進め!」


 剣を振り上げ、兵を叱咤する。


「前が止まれば押し退けろ! 数で泥を踏み固め、そのまま敵陣を破れ!」


 後続部隊が再び前へ押し寄せた。倒れた兵や泥へ沈んだ盾を足場とし、犠牲を重ねながら湿地を越えようとする。


 その命令を聞き、邇芸速日はわずかに目を伏せた。敵将は、兵の命を積み上げれば道になると考えている。ならば、その道が完成する前に戦を終わらせなければならない。


 邇芸速日は静かに手を振り下ろした。

 角笛の音が響いた。それまで湿地の左右に伏せていた三輪山軍が、一斉に姿を現した。

 葦原の中から槍兵が立ち上がり、林の陰から歩兵の列が進み出る。左右の兵列は大きな弧を描き、湿地へ入り込んだ熱田軍の側面を包み始めた。


 正面に見えていた薄い横陣は、敵を懐深くへ招き入れるための口にすぎなかった。

 三輪山軍は、巨大な鶴が翼を閉じるように、左右から熱田軍を呑み込んでいく。


「両脇に敵だ!」

「伏兵だ!」


 熱田兵の間に動揺が広がった。

 さらに両翼の先端は側面を圧迫するだけでなく、そのまま熱田軍の後方へ回り込み始めた。


 正面には湿地と弓兵。左右には迫る三輪山兵。背後へ続く道も、急速に閉ざされようとしている。尾張壱彦は、そこでようやく自らが罠へ誘い込まれたことを悟った。


 燃える村も、逃げる荷駄隊も、薄く見えた敵陣も、すべては自分をこの湿地へ導くために用意されたものだった。


「後ろを開けろ!」


 尾張壱彦は馬首を巡らせた。


「包囲される前に退け!」


 だが、その命令は遅すぎた。

 正面では泥に足を取られた兵が折り重なり、後方では退こうとする者と、なお前進しようとする者が衝突している。


 命令を伝える使者も、乱れた兵列に阻まれて進めない。尾張壱彦は自ら退路を切り開こうとした。


「儂に続け! 西へ抜けるぞ!」


 その声に応じ、近くの兵たちが集まろうとする。しかし、指揮官の位置を示すその叫びは、三輪山軍の弓兵にも届いていた。一本の矢が、尾張壱彦の肩へ突き刺さった。身体が大きく揺れる。


 続けて放たれた二本目の矢が、馬の首をかすめ、三本目が尾張壱彦の太腿を射抜いた。

 尾張壱彦は馬上で踏み止まろうとしたが、力を失った脚では身体を支えきれず、泥の中へ投げ出された。


「壱彦様!」


 側近たちが駆け寄ろうとした。

 だが、その前へ三輪山兵が殺到する。側近たちは主君を守ろうと剣を振るったものの、次々と取り押さえられ、あるいは斬り伏せられていった。


 総大将が倒れたという報せは、瞬く間に熱田軍へ広がった。辛うじて残っていた統制は、そこで完全に失われた。


 退こうとする者。踏み止まろうとする者。武器を捨てて降伏する者。誰も隣の者の声を聞かぬまま、わずかに残された退路へ殺到した。


 我先に逃れようと味方を押し退け、倒れた者を踏み越えながら戦場を離れていく。もはや、そこに軍としての姿はなかった。恐怖に駆られた兵の群れが、崩れ落ちるように西へ逃げ去っていった。


 邇芸速日は追撃を命じなかった。


「逃げる者は追うな。武器を捨てた者も殺すな」


 側近が意外そうに振り返った。


「今ならば、熱田軍を残らず討ち取れます」

「残らず殺せば、残るのは我らへの恨みだけだ」


 邇芸速日は、泥の中へ武器を捨てていく兵たちを見つめた。


「我らが必要としているのは、屍に覆われた土地ではない。二度と敵対する必要のない隣国だ」


 泥の中に倒れていた尾張壱彦は、三輪山兵によって生け捕りにされた。




 矢傷を負った尾張壱彦は、兵たちに支えられて邇芸速日の前へ引き出された。


 肩と太腿を布で固く縛られ、全身は血と泥にまみれている。それでも尾張壱彦は、膝をつくことを拒んだ。


挿絵(By みてみん)


「殺すならば殺せ」


 苦痛に顔を歪めながら、邇芸速日を睨みつける。


「だが、儂を殺したところで、熱田の者すべてが従うとは思わぬことだ」

「そなたを殺すつもりはない」


 邇芸速日は静かに答えた。怒りも嘲りも、その声には含まれていなかった。


「朝日砦へも使者を送った。そなたが降伏すれば、砦への攻撃は行わない。兵たちも武器を置くならば、故郷へ帰す」


 尾張壱彦の顔に、わずかな動揺が浮かんだ。邇芸速日は、その反応を見定めてから言葉を続けた。


「降伏を受け入れる条件を申し上げる」


 周囲が静まり返る。


「第一に、そなたの息子を三輪山へ預けてもらう」


 尾張壱彦の眉が動いた。


「人質か」

「その意味は持つ」


 邇芸速日は否定しなかった。


「だが、命を奪うためではない。三輪山で学ばせ、相応の待遇を与える。そなたが約束を守るかぎり、傷つけることもない」


 曖昧な慰めでごまかさず、人質であることを明言する。その上で、必要以上の残酷さは加えない。それが邇芸速日の示した方針だった。


「そなたの息子には、熱田が再び三輪山へ刃を向けぬことを示す証になってもらう」


 尾張壱彦は唇を噛んだが、何も答えなかった。


「第二に、今後、熱田の対外交易は三輪山を通して行うこと。他国と勝手に武器や兵糧を融通し、再び兵を挙げることは認めない」


 邇芸速日は、さらに続けた。


「保有する鉄製の武器は、すべてこちらで接収する」

「鉄をすべて奪えば、田を耕すことも、木を切ることもできぬ」


 尾張壱彦が低い声で言った。


「武器だけだ」


 邇芸速日は即座に答えた。


「農具や工具まで取り上げるつもりはない。鍬も鎌も斧も、そのまま使ってよい。民が田を耕し、家を建て、生きていくために必要な鉄まで奪えば、国そのものが衰える」


 それは熱田を滅ぼすための条件ではなかった。再び戦う力だけを奪い、民が暮らしていく力は残すための取り決めだった。


「なぜだ」


 尾張壱彦は訝しげに問いかけた。


「儂は三輪山が手薄と見て兵を挙げた。そなたを討ち、領土を奪おうとしたのだぞ」

「だからといって、熱田の民すべてを敵にする必要はない」


 邇芸速日はまっすぐ尾張壱彦を見据えた。


「そなたが兵を挙げた原因の一つは、三輪山との交易が途絶え、国が立ち行かなくなったことにあるはずだ」


 尾張壱彦は答えなかった。だが、その沈黙が肯定を示していた。


「我らが望むのは、そなたの国を荒れ果てさせることではない。久しく途絶えていた交易を再開し、三輪山と熱田の双方を栄えさせることだ」


 邇芸速日は声を強めることなく告げた。


「武器を交わし続ければ、いずれどちらかが滅びる。だが、品を交わせば、双方の国に富が残る」


 勝者として相手を屈服させながらも、敗者の誇りまで踏みにじろうとはしなかった。


「そなたが約束を守るなら、熱田の国と民の存続は三輪山が保証する。外敵が攻めてきた時には、我らも熱田を守ろう」


「儂らを従属させておきながら、守ると申すか」

「従わせるだけでは、国は長く続かぬ」


 邇芸速日は答えた。


「恐怖によって結ばれた者は、より大きな恐怖が現れればそちらへ従う。だが、ともに利益を得られる関係ならば、容易には崩れない」


 尾張壱彦は、しばらく何も言わなかった。戦では完膚なきまでに敗れた。

 朝日砦は包囲され、主力も崩壊している。拒めば、自分だけでなく息子や民まで危険にさらすことになる。


 それでも、提示された条件は熱田の国を消し去るものではなかった。

 武力は奪われる。外交の自由も制限される。だが、民の暮らしと国の名は残される。やがて尾張壱彦は、ゆっくりと膝を折った。


「条件を受け入れる」


 絞り出すような声だった。


「息子を三輪山へ預ける。武器も差し出す。今後の交易も、三輪山を通そう」


 尾張壱彦は地面へ手をついた。


「二度と、三輪山へ刃を向けぬと誓う」


 邇芸速日は勝ち誇ることなく、その言葉を聞いた。


「その誓いを信じる」


 そして側近たちへ目を向けた。


「尾張壱彦殿を手厚く治療せよ。朝日砦には降伏が成立したことを伝え、包囲を解く。熱田兵の武器を集めた後、全員を故郷へ帰せ」


 戦は終わった。敵将の首を掲げることも、村を焼き払うこともなかった。

 それでも熱田は武力を失い、三輪山の勢力下へ組み込まれた。以後、尾張壱彦が誓いを破ることはなかった。


 やがて三輪山と熱田の間では交易が再開され、鉄製の農具や塩、布、木材などが行き交うようになる。


 邇芸速日は、戦によって領地を奪ったのではない。戦を終わらせた後の仕組みによって、熱田を三輪山へ結びつけたのである。


 すべての処置を終えると、邇芸速日は熱田に長く留まることなく兵をまとめた。九州では今も、父・須佐之男が大倭壱国連合軍と戦っている。


 三輪山へ戻り、次に備えなければならない。帰路につく軍勢の中で、側近の一人が邇芸速日へ尋ねた。


「熱田を直接治める者を置かなくても、よろしいのでしょうか」

「必要ない」


 邇芸速日は馬上から、遠ざかっていく熱田の山々を振り返った。


「我らが役人を送り込めば、熱田の者は国を奪われたと思う。尾張壱彦に治めさせた方が、民の反発は少ない」

「しかし、再び裏切る可能性もございます」

「だから息子を預かり、武器と交易を押さえる」


 邇芸速日は前方へ視線を戻した。


「国を治めるということは、すべてを自分の手で動かすことではない。相手が約束を守る方が得だと思える形を作ることだ」


 側近は黙って頭を下げた。邇芸速日は、それ以上語らなかった。力で敵を倒すだけならば、父には遠く及ばない。


 だが、倒した敵を再び立ち上がらせ、二度と刃を向けぬ隣人へ変えることならば、自分にもできる。


 邇芸速日は、そのために剣ではなく策を学んできた。

 三輪山軍は、戦火の消えた熱田を背にし、静かに東への道を進んでいった。

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