六章 倭国大乱 十一話 海人族参戦
初夏の海は、朝靄に包まれていた。
静まり返った玄界灘を、無数の船影が音もなく進んでいく。
先頭を進むのは壱岐の船団。その左右には末盧、さらに後方には対馬の海人族の船が幾重にも列を成して続いていた。大小合わせれば二百隻近い船団である。船首には全身へ入れ墨を施した海人たちが立ち、波を切る櫂の音だけが海上へ規則正しく響いていた。
彼らを率いる男は船首に静かに立ち、遠く筑紫の海岸線を見つめていた。
月読である。
奴国、不弥国、伊都国……北の三国は、すでに出雲軍の旗に染まっていた。もしこのまま出雲軍が南へ進めば、やがて壱岐や対馬の海も脅かされる。もはや海人族にとっても対岸の火事ではなかった。
月読はゆっくりと海図を閉じた。
「……始めよう」
その一言を合図に、壱岐・末盧・対馬を中心とした海人族の船団は一斉に帆を広げる。潮風を受けた帆は大きく膨らみ、二百隻近い大船団は白波を蹴立てながら、出雲軍の補給拠点となった奴国の港へ向けて加速した。
夜明けとともに、その大船団は港へ姿を現した。
港を守っていた出雲軍の守備隊は突然の襲撃に慌てて迎え撃つ。しかし須佐之男の主力軍はすでに南方へ進軍しており、奴国に残されていたのは最低限の守備兵のみだった。兵力差は歴然としていた。
「敵襲だ! 海人族だ!」
怒号が港中に響く中、海人族は一斉に船から飛び降り、波打ち際を駆け抜けて守備隊へ襲い掛かった。出雲軍も懸命に応戦したものの、多勢に無勢で次第に押し込まれ、防衛線はほどなく崩壊する。
「持ち場を放棄するな!」
将の叫びも空しく、守備隊はこれ以上の抵抗は不可能と判断し、南方の本隊との合流を目指して撤退を開始した。
港を制圧した月読は、その勢いのまま海人族を率いて奴国の奥地へ進軍する。守備隊はすでに南へ退いており、奴国の宮には組織的な抵抗は残されていなかったため、海人族は一気に宮まで進出し、これを占領した。
こうして奴国は、再び出雲の手を離れることになった。
月読は奴国の宮へ入ると、真っ先に倉を確認させた。中には、わずかではあるが食糧が残されている。
「残っている食糧は、すべて運び出せ」
家臣たちが顔を見合わせる。
「どこへ運ぶのですか」
「村々だ。一か所に集めるな。各家に少しずつ分け、山や床下にも隠せ。出雲軍の目につく場所へは、一粒たりとも残すな」
命を受けた家臣たちは民へ協力を求め、食糧を各地へ運び始めた。
それは慈悲から出た命令ではなかった。
飢えた兵は、床を剥がし、壁を壊し、隠された米を探し出す。だが、一か所へ集められた備蓄は奪われても、村中に散らされた食糧は奪い尽くせない。
月読が守ろうとしたのは、食糧ではない。
奴国の民の心だった。
飢えた出雲軍は、この先さらに激しい略奪を繰り返すだろう。そのたびに民の憎しみは積み重なり、やがて支配者へ向けられる刃となる。
占領した土地は武力だけでは支配できない。民の心を失えば、その国は何度でも牙を剥く。
月読の狙いは、出雲軍が奴国を支配し続けることを不可能にすることだった。
投馬国での焦土作戦により、出雲軍の食糧事情は急速に悪化していた。占領した村々の倉は空で、畑も家畜も住民も姿を消し、六千の兵を養うだけの食糧は到底確保できない。
須佐之男は、このままでは前線が立ち行かなくなると判断し、焦土作戦が始まる以前に占領した奴国へ目を向けた。住民が隠した備蓄や見落としていた食糧がまだ残されている可能性に賭け、八島士奴美へ命じる。
「兵を率いて奴国へ戻れ。残された食糧を一粒残らず集め、前線へ補給せよ」
命を受けた八島士奴美は、兵を率いて北へ向かった。しかし、奴国へ続く道中では、武器や鎧を失い疲弊しきった出雲兵たちが次々と合流してくる。
「八島士奴美様! 奴国は海人族の襲撃を受け、港も宮も奪われました!」
敗残兵たちの報告に、八島士奴美は顔色を変えた。補給の生命線と考えていた奴国は、すでに月読率いる海人族の手へ落ちていたのである。
八島士奴美率いる出雲軍は、奴国方面から逃れてきた敗残兵を次々と吸収しながら北上を続けた。兵たちは口々に、海人族の襲撃によって港も宮も奪われたと訴え、恐怖を滲ませていたが、八島士奴美は眉一つ動かさない。
「宮を取り戻すぞ」
その一言で軍勢は再び前進を始めた。
やがて奴国の宮へ到着すると、門は開かれたまま静まり返り、人影はどこにも見当たらない。慎重に兵を進めたものの抵抗はなく、宮はすでに空城となっていた。
兵たちは急いで倉を調べ始める。しかし、いくつある倉を開けても米俵は一つも見当たらず、食糧は完全に持ち去られていた。
宮を奪い返したにもかかわらず、肝心の食糧だけが消えている。その報告を受けた八島士奴美は周囲を鋭く見回すと、迷うことなく港を指差した。
「港へ急げ」
出雲軍は直ちに北へ進軍を再開し、やがて港へ到着すると、そこには、出雲軍を待ち受けるように海人族の一隊が残っていた。両軍はたちまち激突し、港一帯で小規模な戦闘が始まるのだった。
海人族はそれ以上戦おうとはせず、港から素早く船へ乗り移ると、一斉に帆を張って西へ向けて漕ぎ出していった。
八島士奴美は港へ駆け上がり、遠ざかる船団へ鋭い視線を向ける。
「……五十隻か」
波間を滑る船を数え終えると、その口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「物資を積んで逃げる気だな」
奴国の宮にも倉にも食糧は残されていなかった。ならば奪われた食糧は、あの船団に積み込まれていると考えるのが自然だった。
「逃がすな!」
八島士奴美の怒声が港に響く。
「船を出せ! すぐに追撃する!」
出雲兵たちは港に残されていた船へ慌ただしく駆け寄り、係留していた綱を解き始めた。次々と兵が乗り込み、武器を手に配置へ就いていく。
「七十隻は出せます!」
「十分だ。五十隻程度なら撃ち破れる」
ここで逃がすわけにはいかなかった。
須佐之男から託された使命は、前線を支える食糧を集めることにある。焦土作戦によって兵たちは日に日に飢え、補給が途絶えれば六千の将兵が戦えなくなる。
『ここで失敗すれば、父上の期待を裏切る』
八島士奴美は拳を強く握り締めた。何としても食糧を奪い返さなければならない。その思いが、目の前の船団だけへ意識を向けさせていた。
八島士奴美は即座に追撃を決断した。
兵数でも船数でも勝っている。海人族が積んだ物資を奪い返し、そのまま殲滅すればよい。それだけの話だった。
しかし、その胸中に一つの疑問が浮かぶことはなかった。
……なぜ月読は、奴国の港を占領した時、出雲の船を焼かなかったのか。
港を奪ったのであれば、船を焼き払うことなど容易だったはずである。それにもかかわらず、一隻たりとも手を付けられてはいなかった。
八島士奴美は、その不自然さに気付くことなく、ただ目の前を逃げる船団だけを見据えていた。
「全船、出航!」
命令とともに七十隻の船団が港を離れ、白波を立てながら西の海へと走り始めた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
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