六章 倭国大乱 十二話 伊都海戦
八島士奴美は、奴国から逃れてきた敗残兵と水兵を合わせた約二千名を率い、七十隻の船団を編成して出航の準備を進めていた。
奴国を奪還した海人族を、このまま逃がすわけにはいかない。
斥候が駆け寄り、膝をつく。
「海人族の船団は西へ向かっております」
八島士奴美は海の彼方へ視線を向けると、小さく頷いた。
「よし、全船出航だ。全速で追え」
法螺貝が高らかに鳴り響き、港は一斉に慌ただしく動き始めた。兵たちは持ち場へ駆け込み、帆が風を受けて大きく膨らむ。七十隻の船団は次々と岸を離れ、櫂を打つ音を重ねながら西の海へ速度を上げていった。
船首に立つ八島士奴美は、水平線の彼方を鋭く見据えながら低く呟く。
「逃がさん……」
そして伊都国の港付近で、海人族の船団を捕捉した。
発見された海人族の船団は、一列縦隊のまま北へ進み続ける。逃走を図っているようにも見えたが、やがて先頭の船がゆっくりと右へ舵を切ると、それに続く船々も一斉に進路を変え始めた。
船首が次々と揃い、長く伸びていた隊列は、まるで一枚の板を広げるように左右へ展開していく。熟練の漕ぎ手たちは乱れることなく船間を保ち、あっという間に横一直線の陣形を完成させた。
波間に整然と並ぶ五十隻の船団は、海そのものを塞ぐかのような威容を見せていた。
八島士奴美も素早く指示を飛ばし、船団を左右へ広げて横陣を敷かせた。敵船を包み込むように陣形を整えながら、双眼のように鋭い視線で海原を見渡す。
「……伏兵は」
周囲の海域を警戒させたが、水平線のどこを見ても敵船は五十隻しか確認できなかった。島影にも不審な動きはなく、海面は静まり返っている。
八島士奴美はわずかに口元を緩める。
「七十隻あれば十分だ。いかに海人族が海戦に長けていようと、五十隻では数が足りぬ」
そう判断すると、右腕を力強く振り下ろした。
「全軍、突撃! 一気に敵船を飲み込め!」
月読は静かに右手を上げ、旗手へ合図を送った。
海人族の船団は一斉に帆を降ろし、櫂だけでゆっくりと後退を始める。海面を滑るように距離を保ちながら、決して隊列を乱さない。
八島士奴美はその動きを見て口元を歪めた。
「逃がすな! 一気に追い詰めよ!」
出雲船団は櫂を激しく漕ぎ立て、一斉に速度を上げる。波しぶきを巻き上げながら船首が迫り、両軍の距離はみるみる縮まっていった。
軍は互いに櫂を止めることなく接近し、船首同士が激しく衝突し、鈍い音が海上へ響き渡る。
「接舷!」
船縁がぶつかり合うや否や、先に動いたのは海人族だった。
「乗り込め!」
刺青を刻んだ戦士たちは雄叫びを上げながら次々と敵船へ飛び移り、槍や剣を振るって一気に斬り込んでいく。
不意を突かれた出雲兵も応戦し、狭い甲板の上は瞬く間に乱戦と化した。刃と刃が激しくぶつかり合い、怒号と悲鳴が海上に響き渡る。
受けに回ることを良しとしない八島士奴美は、怒声を張り上げた。
「押し返せ! 一気に叩き潰せ!」
その号令とともに出雲兵も攻勢へ転じ、敵船へ次々と乗り移っていく。海人族も応戦し、船上では弓矢が交わり、剣戟が響き、怒号と悲鳴が入り乱れた。波間には転落した兵がもがき、血で染まった海面を船が激しく掻き分ける。互いに一歩も譲らぬ白兵戦となり、戦場は混沌の渦へ飲み込まれていった。
まさにその時だった。
後方を警戒していた兵が震える声を漏らす。
「……あれは」
八島士奴美が振り返ると、水平線の彼方に白い帆が次々と姿を現していた。一つ、二つと増え始めた帆影は、瞬く間に十、二十、五十と数を増し、百を超えてなお現れ続ける。
誰かが息を呑んだ。
「う、嘘だろ……」
海の果てまで白い帆が連なり、海そのものを埋め尽くしていく。その数、およそ百五十隻。
正面の五十隻と合わせれば、二百隻にも迫る大船団だった。
主力船団は志賀海の奥深くへ身を潜め、出雲船団が囮を追って港を離れるのを待ち続けていた。そして十分に引き離したことを見届けると静かに出航し、その背後を追尾してきたのである。
後方から新たな大船団が迫る光景に、出雲軍の兵たちは一斉に振り返った。
「な……何だ、あの数は!」
「まだ敵がいたのか!」
動揺が船団全体へ瞬く間に広がる。しかし、すでに前方では海人族と接舷して激しい白兵戦の最中だった。敵船と縄で結ばれた船も多く、今さら船首を返すことも、隊列を立て直すこともできない。
その隙を逃すことなく、海人族の主力船団は勢いよく出雲船団の後背へ突入した。
激しい衝突音とともに船体が大きく揺れ、次々と鉤縄が投げ込まれる。海人族の戦士たちは鬨の声を上げながら一斉に甲板へ躍り込み、前後から挟撃を開始した。
出雲軍は完全に包囲されていた。
八島士奴美は船首から四方を見渡した。
前方では最初に接舷した海人族の船団が行く手を塞ぎ、後方には百五十隻の主力船団が波を割って迫る。左を見ても、右を見ても、そこには敵船しかなかった。
味方の船は敵船と縄で絡み合い、身動きが取れない。船首を返そうにも進路は塞がれ、隊列を立て直す余地すら残されていなかった。
前後左右、すべて敵船だった……逃げ場がない。八島士奴美は、その事実を一瞬で悟った。
「囲まれたぞ!」
「退け! 退けぇ!」
「船が動かん!」
怒号と悲鳴が入り乱れる中、統制は急速に崩壊していく。味方の船同士が衝突し、海へ投げ出される兵も現れた。泳いで逃れようとした者は槍で突き落とされ、船上では白兵戦が各所で続き、血が甲板を赤く染めていく。
勝敗は、この瞬間に決した。
完全包囲された出雲軍は反撃の術を失い、混乱の中で一隻、また一隻と制圧され、兵たちは次々と討ち取られていった。
八島士奴美は混乱の中、船首へ駆け上がると声の限り叫んだ。
「聞こえる者だけでよい! 儂に続け! 一点突破だ!」
その怒号に応えられたのは、ごくわずかな船だけだった。接舷戦の最中、四方を海人族の船に囲まれた出雲軍には、もはや全軍へ命令を伝える術はない。それでも八島士奴美は迷わなかった。
「前を切り開け!」
先頭の船が敵船へ激突する。鈍い衝撃音が海へ響き、兵たちは雄叫びを上げながら一斉に乗り移った。狭い甲板では槍も剣も入り乱れ、海へ転落する者が次々と現れる。八島士奴美自身も剣を振るい、行く手を阻む海人族を力任せに斬り伏せながら活路を切り開いていった。
敵船を押し退け、ようやく包囲網の一角に裂け目が生まれる。
「今だ! 突っ切れ!」
数隻の船がその隙間へ雪崩れ込み、必死に櫂を漕いで沖へ離脱していく。海人族も追撃を試みたが、混戦で味方の船が入り乱れたため追い切ることはできなかった。
八島士奴美は辛うじて戦場から脱出した。しかし、その代償はあまりにも大きかった。
振り返れば、海は炎と黒煙に覆われている。沈みゆく船、燃え上がる帆、海へ投げ出され助けを求める兵たちの叫びは、やがて波音に飲み込まれていく。
七十隻の船団はその大半を失い、水兵を含む多くの兵が海へ消えた。出雲水軍は壊滅だった。
八島士奴美は歯を食いしばる。あまりの力みに口唇は裂け、滲んだ血が顎を伝う。それでも怒りは収まらない。充血した目はなお海を睨み続けていたが、失われた船も兵も戻ることはなかった。
「……月読」
低く絞り出したその名だけを残し、八島士奴美は敗残の船団を率いて奴国への撤退を命じた。
一方、勝利を収めた海では、なお掃討戦が続いていた。
月読は逃げ遅れた出雲兵を確実に包囲し、一隻たりとも逃さぬよう命じる。海人族の船団は四方から迫り、抵抗を続ける敵船を次々と制圧していった。
やがて最後の戦いが終わった。
静まり返った海の中央で、月読は船首へ歩み出ると、ゆっくりと剣を天へ掲げる。その表情に笑みはなく、勝利に酔う様子もない。これは終わりではなく、長い戦の流れを変えるための一手に過ぎないことを、誰よりも理解していたからである。
その姿を見た海人族の戦士たちは一斉に武器を掲げた。
「うおおおおおおおっ!」
天地を震わせるような勝鬨が海原へ響き渡る中、月読は歓声を背に静かに南の海へ視線を向け、小さく呟いた。
「……これでようやく、同じ土俵に立てる」
その声は歓声にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
こうして伊都海戦は、海人族の圧勝という形で幕を閉じた。
この敗北により、出雲軍は以後しばらく海の制海権を完全に失うことになる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
少しでも面白いと感じていただけましたら、感想や評価、ブックマークなどで応援していただけると励みになります。




