六章 倭国大乱 十話 焦土作戦
西暦百八十八年、春。
不弥国攻防戦からしばらくの時が流れた。
奴国の宮では、出雲軍の再編成が急いで進められていた。占領した奴国・不弥国・伊都国には、それぞれ守備兵が配置され、港や街道には物資輸送のための拠点が築かれていく。
一方で、三輪山を守るため邇芸速日の軍は近畿へ帰還し、八千矛もまた、奪い集めた物資を護衛しながら出雲本国への帰路についていた。
須佐之男のもとに残された兵は、およそ六千。
東方遠征以来、共に戦場を駆け抜けてきた将を二人欠いた軍ではあったが、その士気はなお衰えてはいない。
須佐之男は奴国の宮を静かに見渡すと、金棒を肩へ担ぎ、低く告げた。
「進むぞ。次は投馬国じゃ」
その一声で、六千の兵が一斉に動き始める。
槍を掲げる者、荷車を押す者、兵糧を背負う者……長く伸びる隊列は土煙を巻き上げながら南へ向かい、筑紫南部への侵攻を開始した。
いくつかの村を占領した頃、出雲軍は異変に気付き始めていた。村には人影がほとんどなく、残っているのは風に揺れる空き家ばかりだった。
倉を改めても米一粒見当たらない。家畜は一頭もおらず、翌年の作付けに必要な種籾までもが運び出されていた。食糧だけではない。人々は暮らしそのものを持ち去り、出雲軍に何一つ残していなかったのである。
出雲軍はすでに奴国、不弥国、伊都国で確保した食糧のほとんどを船で出雲本国へ送り返していた。自軍に残していた兵糧は進軍を続けるための必要最低限にすぎず、現地で補給できることを前提としていた。
その見込みは、日巫女と月読が命じた徹底した焦土作戦によって、無残に打ち砕かれようとしていた。
出雲軍はさらに南へ進軍し、最初の環濠集落へ攻撃を開始した。
抵抗は小規模だった。柵が破られると、投馬国兵は戦いを続けることなく撤退し、山中へ姿を消していく。不弥国砦での撫で斬りの惨劇はすでに各地へ伝わっており、住民たちも兵より先に避難を終えていたのである。
出雲軍はほとんど損害を受けることなく集落を占領した。しかし、兵たちが倉の扉を開いても、中は空だった。米俵は一つも残されておらず、家畜の姿も見当たらない。畑には収穫を終えた跡だけが残り、人の気配はどこにもなかった。
そして皮肉なことに、不弥国での凄惨な虐殺は、出雲軍自らがその作戦を成功させる後押しとなっていた。逃げ遅れれば皆殺しにされる……その恐怖が各地へ瞬く間に広がり、住民たちは村を捨てて姿を消していたのだ。
須佐之男は空になった倉の奥を見つめたまま、しばらく動かなかった。
敵兵ならば打ち砕ける。城柵ならば押し潰せる。王が立ちはだかるならば、その首を刎ねればよい。これまで須佐之男は、力で開けぬ道などないと信じてきたし、実際にその力でいくつもの国を屈服させてきた。
だが、目の前にある空白だけは違った。
奪うべき米がなければ、降すべき民もいない。恐怖を与える相手すら、すでに山の奥へ消えている。戦うべき敵が姿を隠し、手に入れるべき糧が持ち去られた時、いかに金棒を振るおうとも、そこに残るのは土と風ばかりだった。
須佐之男は、そこで初めて理解した。
姉と兄が挑んできたのは、軍勢同士の戦ではない。須佐之男の力が届く場所そのものを消し去る戦だった。
そして兵士が報告してきた。
「須佐之男王よ……本当にどこにも何もありません」
須佐之男は倉を見て回ったが、どこにも食糧は残されていなかった。
「……やってくれたな」
その短い一言だけで十分だった。
これは姉・日巫女と兄・月読が仕掛けた反撃であることを、須佐之男は一瞬で見抜いていた。勝利を重ねながらも食糧だけは決して手に入らない……出雲軍は、最も恐れていた長期戦へ引きずり込まれようとしていた。
出雲軍は深刻な兵糧不足に備え、ただちに補給体制の立て直しへ動いた。須佐之男の命を受けた各隊は周辺の海や川で魚を捕り、干潟では貝を採り、山では山菜を摘み、猪や鹿などの獣を狩って食糧を確保するよう命じられる。戦の合間には槍を弓へ持ち替え、兵たちは生き延びるために山野を駆け回った。
さらに、住民が避難したことで耕す者を失った畑はすべて接収され、出雲軍自らが鍬を手に取って耕作を始めた。戦を続けるためには、奪うだけでは足りない。自ら食糧を生み出さなければ、この長い戦は戦い抜けないことを、誰もが理解し始めていた。
八島士奴美は焦りを隠せなかった。
「まだ手の付いていない村があるはずだ。食糧を探せ」
命を受けた兵たちは数十人ずつの小部隊に分かれ、周辺の村々へ散っていく。
しかし、戻ってきた者たちの報告はどれも同じだった。
「村にはほとんど人がおりません」
「倉はすべて空でした」
「米も粟も見当たりません」
中には畑だけが風に揺れ、誰一人いない村もあった。家々は荒らされた形跡もなく、住民たちは食糧や家畜を持ち出した上で計画的に避難していたのである。
八島士奴美は報告を聞くたびに眉間へ深い皺を刻んだ。
「……徹底しているな」
それは偶然ではなかった。投馬国は住民ごと食糧を退避させ、出雲軍へ何一つ残さぬ焦土作戦を徹底していたのである。
投馬国は、一つの大きな領域から成る国ではなかった。山々や海に隔てられた村々や小国家が連合して成り立つ国であり、拠点は各地に点在している。
一つの集落を制圧しても、次の拠点へ向かうには険しい山を越えるか、海路を進まなければならない。その道中で補給を受けられる場所はほとんどなく、食糧を確保できなければ軍は途中で足を止めざるを得なかった。
出雲軍は大規模な作戦行動を展開できなくなった。周辺で食糧を確保しながら兵糧を切り詰め、限られた物資で戦線を維持するほかなかった。進軍は続けられるものの、その歩みは確実に鈍り始めていた。
壱岐の港には、夜明け前から無数の船が集結していた。
大小さまざまな船が入り江を埋め尽くし、帆柱はまるで森のように立ち並ぶ。甲板には日に焼けた屈強な男たちが並び、その胸や腕、背中、そして顔にまで青い刺青が刻まれていた。波や渦、魚や海獣を象ったその文様は、海神の加護を願い、荒ぶる海や魔を退けるために代々受け継がれてきた海人族の証である。
壱岐、対馬、末盧をはじめ、各地の海人族が率いる船団は百隻を超え、港は槍や櫂を手にした男たちの熱気で満ちていた。
やがて人々の間に道が開き、白い衣をまとった月読がゆっくりと桟橋へ姿を現す。海風に黒髪を揺らしながら歩みを進めるその姿を認めた瞬間、港を埋め尽くしていた海人族は一斉に槍を掲げ、大歓声を上げた。
「月読様!」
「おおおおっ!」
怒号にも似た歓声が静かな入り江に何度も反響する。
月読は集まった男たちを静かに見渡し、その歓声が自然と収まるのを待ってから口を開いた。
「皆、よく集まってくれた。大倭壱国連合が海を結び、交易路を守ってきたからこそ、鉄も塩も米も倭中へ行き渡り、海人族もまた豊かに暮らしてこられた。」
その穏やかな声は次第に力を帯びる。
「だが今、その海が出雲によって奪われようとしている。筑紫が倒れれば、次に飢えるのは海に生きる我らだ。」
男たちの表情から笑みが消え、握る槍に力がこもった。
月読は水平線へ視線を向ける。
「今こそ海人族の力を倭中へ示そう。海は出雲軍のものでもない。海を知る我らのものだ。」
一瞬の静寂のあと、港全体を揺るがす雄叫びが轟いた。
「おおおおおっ!」
槍が一斉に突き上げられ、櫂が甲板を打ち鳴らす音が重なる。その熱狂を前に、月読は静かに右手を掲げると、海の彼方を指し示した。
「……出航だ。」
法螺貝が高らかに鳴り響き、太鼓が一斉に打ち鳴らされる。無数の帆が朝風を受けて膨らむと、百を超える船団は白波を蹴立てながら港を離れ、筑紫沿岸へ向かって一斉に動き始めた。まるで海そのものが、大倭壱国連合のために進軍を始めたかのようだった。




