表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
72/94

六章 倭国大乱 九話 天の岩戸隠れ

 不弥国攻防戦の敗報が筑紫へ届いてから一か月が過ぎていた。


 山門の丘に建つ大倭壱国の主祭殿には、これまでにない重苦しい空気が漂っている。普段なら各地から訪れた使者や巫女たちが慌ただしく行き交う広間も、この日は誰もが言葉少なで、足音さえ遠慮がちだった。


 奴国は陥落し、不弥国でも大敗を喫し、さらに伊都国までもが降伏した。

 北部防衛線は、わずかな期間で音を立てるように崩れ始めていたのである。


 そんな主祭殿へ、一人の男が静かに姿を現した。

 壱岐から急ぎ帰還した月読だった。


「姉上。ただいま戻りました」


 祭壇の前に立っていた日巫女は、振り返ると弟へ静かに頷いた。その美しい顔には隠しきれない疲労が滲んでいたが、女王としての威厳だけは少しも揺らいでいない。


「ご苦労だった。熱田での働きも含め、詳しく聞かせておくれ」

「承知いたしました」


 月読が答えたその時、広間の外から足音が響いた。


「失礼いたします」


 姿を現したのは、不弥国攻防戦から生還した忍穂耳だった。新しい鎧に身を包んでいるものの、その瞳には須佐之男と対峙した際の恐怖が、今なお色濃く残っている。


 日巫女は二人を見渡した。


「二人とも座っておくれ。まずは現状を整理しよう。忍穂耳は戦場の様子を、月読は熱田での成果を、知っていることをすべて話してほしい」


 二人は一礼して席に着いた。大倭壱国の命運を左右する評議が始まる。忍穂耳は深く頭を下げた。


「戦況をご報告いたします」


 その声には、敗軍を率いて帰還した将としての重い責任が滲んでいた。


「奴国は陥落。不弥国もまた攻略され、伊都国も降伏いたしました。不弥国攻防戦においては、我が大倭壱国連合軍は出雲軍に敗北しております」


 忍穂耳は拳を固く握り締めながら、さらに言葉を続けた。


「そして現在、出雲軍は兵を再編し、投馬国への侵攻を開始しております」


 月読は静かに一歩前へ進み、日巫女へ向かって深く頭を下げた。


「ご報告いたします」


 広間は静まり返り、忍穂耳も月読へ視線を向ける。


「熱田の首長・尾張壱彦との交渉は成功いたしました。熱田軍はすでに三輪山へ侵攻を開始しております」


 日巫女は小さく頷いた。


「それで、邇芸速日にぎはやひは?」


「使者より報告が入りました。三輪山が侵攻を受けたことで、邇芸速日は筑紫の戦場を離れ、本国へ帰還しております」


 その言葉に、忍穂耳は目を見開いた。


「本当に戦場を離れたのか」


「はい。これで出雲軍は最も厄介な頭脳を失いました。以後は三輪山勢と邇芸速日が筑紫へ戻る可能性は低いでしょう」


 月読の声は淡々としていたが、その瞳には確かな手応えが宿っていた。


「さらに、奴国・不弥国・伊都国で略奪した食糧や物資は、八千矛やちほこが護衛の指揮を執り、船団で出雲本国へ輸送しております」


 日巫女は静かに考え込む。


「つまり、筑紫にいる出雲軍の蓄えは減るということだね」


「はい。八千矛まで戦場を離れました。出雲軍は依然として強大ですが、邇芸速日と八千矛という二人の将が不在です」


 月読は地図の上に手を置き、静かに口を開いた。


「出雲軍は奴国、不弥国、伊都国を押さえました。次は南下して投馬国へ侵攻し、その先にある大倭壱国を狙うでしょう」


 日巫女は地図を見つめたまま、静かに頷く。


「ならば、投馬国が戦場になる前に手を打たなければならないね。難民を受け入れる準備を進めると同時に、投馬国の中央部にある倉の食糧は順次奥地へ運び、住民にもできる限り避難を勧めてください」


 その言葉に広間がざわめいた。


「敵には食糧も人も渡しません。持ち運べるものはすべて移し、何も残さず退くのです」


 忍穂耳は驚きの表情を浮かべた。


「母上……まさか焦土作戦を?」


「そうです。須佐之男の軍は食糧を奪わなければ戦えません。ならば奪う物そのものをなくします」


 重苦しい沈黙が広間を包む。自ら育てた田畑や町を捨てるこの策は、敵だけでなく自国の民にも犠牲を強いる苦渋の決断だった。


 しかし、月読は迷うことなく頷いた。


「姉上のお考えに賛成です。出雲軍の強さは不弥国攻防戦で証明されました。正面から戦を挑めば勝機は薄く、持久戦へ持ち込む以外に勝つ道はありません。敵の補給を断ち続ければ、やがて須佐之男も進軍を続けられなくなるでしょう」


 忍穂耳は固く拳を握り締めた。


 武人としては受け入れ難い策だったが、この戦は武勇ではなく、互いに飢えに耐え抜いた者だけが生き残る戦いなのだと、ようやく理解した。


 月読は静かに口を開いた。


「出雲軍の力は、我らの想像をはるかに超えていました。正面から早急に決着をつけようとすれば、こちらの損害ばかりが増えるでしょう。今は持久戦に徹するべきです」


 卓上の地図へ視線を落としながら続ける。


「投馬国の食糧は奥地へ運び、住民も可能な限り避難させます。出雲軍には土地だけを与え、食糧は一粒たりとも渡さない。そして海は私が押さえます。海上封鎖と各地での襲撃を繰り返して補給を断てば、寒冷化の被害が深刻な出雲の方が先に疲弊するはずです」


 忍穂耳は腕を組みながら静かに頷いた。


「焦土作戦と海上封鎖か……確かに、それなら須佐之男の軍も無傷では済まない」


 月読はさらに声を落とした。


「もう一つ、忘れてはならないことがあります。須佐之男の真の狙いは、大倭壱国そのものではありません」


 二人の視線が月読へ向けられる。


「狙われているのは姉上……女王日巫女です。大倭壱国連合は姉上という存在を中心に結ばれています。もし姉上が捕らえられれば、多くの国は戦う理由を失い、連合は瓦解するでしょう。須佐之男ほどの人物なら、そのことを理解しているはずです」


 広間は静まり返った。


「だからこそ、大軍で攻め込む必要はありません。精鋭だけで主祭殿を急襲し、姉上の身柄を確保できれば、それだけで戦局は大きく傾きます」


 月読は一度言葉を切り、姉の表情を静かに見つめた。


「ゆえに姉上には、しばらく山門を離れていただきたいのです」


 日巫女の瞳がわずかに揺れる。


「敵に行方を悟られぬ地へ拠点を移し、出雲軍の手が届かぬ場所から連合をお導きください。姉上が捕らえられれば、この戦は終わります。しかし姉上さえ無事であれば、奴国や不弥国を失おうとも、何度でも立て直すことができます」


 月読の声は穏やかだったが、その言葉には反論を許さぬほどの覚悟が込められていた。


「これは逃亡ではありません。戦い続けるための退避です。どうか一時だけ、この山門をお離れください」


 大倭壱国を離れる……月読の言葉を聞いた日巫女は、静かに口を閉ざした。


 この国は父・伊邪那岐から受け継ぎ、自らも王として人々と共に築き上げてきた祖国である。その地を自らの意思で去るという決断は、理屈では理解できても、心が激しく拒んでいた。


 しかし、月読の進言はあまりにも理にかなっており、日巫女はしばらく目を閉じて沈黙した末、静かに顔を上げた。


「……分かりました。月読の策を採りましょう」


 その一言に居並ぶ者たちは静かに頭を垂れ、こうして日巫女は苦渋の末に遷都を決断することとなる。


 新たな拠点として選ばれたのは、大倭壱国の南西、険しい山々に囲まれた盆地……高千穂だった。


 急遽、高千穂の盆地には新たな祭殿が築かれ、日巫女は即位以来初めて拠点を移すことになった。


 夜明け前、主祭殿へ入った日巫女は祭壇の前に立ち、長年絶やすことなく守り続けてきた神火を静かに見つめる。


「必ず戻ります」


 そう小さく誓うと、自らの手で神火を消した。揺らめいていた炎が消え、祭殿は深い静寂に包まれる。その光景を前に、従者たちは涙を堪えきれず膝をついて深く頭を垂れた。


 日巫女は振り返ることなく宮を後にし、用意された輿へ静かに乗り込む。道の両側には民が膝をついて並び、誰一人として声を上げなかった。幼子でさえ母の胸に抱かれたまま黙って輿を見送り、毎朝、東の空へ昇る日に祈りを捧げ、その前に立つ日巫女を仰いできた人々は、この日初めて、自らの太陽がこの地を去っていく姿を見つめることになった。




 日巫女が高千穂へ向かう輿は、多くの兵や供を従えながら、静かに山門の地を離れていった。

 伊邪那岐は、その列から少し離れた丘の上に立ち、遠ざかっていく姿をただ見つめていた。


 日巫女からは幾度も同行を願われていた。それでも伊邪那岐は首を横へ振った。娘の日巫女も、息子の須佐之男も、その周りで戦おうとしている孫たちも、皆それぞれの国を守るために命を懸けようとしている。父であり祖父でもある自分には、その誰か一人の側へ立つことなどできなかった。


 人が争わずに暮らせる国を願い、川を治め、土地を拓き、数百年もの歳月を費やして国々を築いてきた。だが今、その国々は互いに刃を向け、生き残るための戦を始めようとしている。


 やがて行列は山並みの向こうへ消え、その姿は見えなくなった。

 伊邪那岐は小さく息を吐くと、人の気配を避けるように山門の奥へ足を向けた。


 木々に囲まれた静かな丘の上には、丸い石を一つ一つ積み重ねただけの小さな墓がひっそりと佇んでいる。伊邪那美いざなみの墓だった。


 伊邪那岐は墓の前へ腰を下ろし、風雨に磨かれた丸い石をそっと撫でる。

 長い沈黙の末、小さく笑みを浮かべながら呟いた。


那美なみ……どうしたらいいんだろうね」


挿絵(By みてみん)


 風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが静かに森へ響いた。


 返事をする者はいなかった。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。


 歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。


 少しでも面白いと感じていただけましたら、感想や評価、ブックマークなどで応援していただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ