六章 倭国大乱 八話 それぞれの帰路
西暦百八十七年、冬。
夜が更けても、八千矛は眠ることができなかった。
ようやく浅い眠りに落ちても、瞼の裏には不弥国の砦で見た光景が鮮明によみがえる。見渡す限りに転がる死体、門前で幾重にも折り重なった兵たち、土を黒く染める夥しい血。雨に洗われても消えない血の匂いが鼻の奥にまとわりつき、何度吐いても消えることはなかった。
耳には助けを求める悲鳴が残っていた。子を抱いて逃げ惑う母親の叫び、命乞いをする兵の声、老人の震えるような嘆き。そのすべてをかき消すように、出雲兵たちの怒号だけが響き続ける。
「殺せ!」
「まだ息があるぞ!」
兵たちは笑いながら剣を振るい、倒れた者へ容赦なく刃を突き立てていく。泣き叫ぶ幼子を抱いた母親は親子ごと斬られ、逃げ惑う老人は背中から槍で貫かれ、命乞いをする兵の首はためらいなく刎ねられた。血に濡れた小さな木の玩具が足元へ転がり、それすら誰かの足に踏み潰されていく。
「やめろ……!」
夢の中で叫んでも誰一人として手を止めない。自分もまた、その場で剣を握ったまま立ち尽くしているだけだった。
「違う……違う!」
八千矛は激しく息を吸い込みながら飛び起きた。全身は汗で濡れ、鼓動は激しく脈打っている。辺りを見回せば、そこは静まり返った陣屋で、遠くから夜番の兵の足音だけが微かに聞こえてきた。
夢だった。
しかし胸の締めつけだけは現実だった。
「あれは……戦ではない」
震える両手で顔を覆いながら呟く。
「あれは勝利でもない。ただ、人が人であることを忘れてしまう場所だ」
しかも、自分はその場に立ちながら何一つ止めることができなかった。その事実が胸を鋭く抉り続ける。
夜明け前、八千矛は一人で砦の外へ歩き出した。朝霧の向こうには、焼け焦げた柵と折れた槍、そして今も黒く変色した地面が広がっている。風が吹くたび、そこに血の匂いが残っているような錯覚に襲われ、思わず口元を押さえてその場へ膝をついた。
胃の中はすでに空だった。それでも吐き気だけは込み上げ、しばらく立ち上がることができない。
少し離れた場所では近習たちが黙って主の姿を見守っていた。誰も声を掛けようとはしない。八千矛の心が深く傷ついていることを、誰もが悟っていたからだった。
この日を境に、八千矛は夜ごと悪夢にうなされるようになる。そして本人だけは、まだ気づいていなかった。
戦場で失ったものは兵でも土地でもない。
剣を振るう覚悟そのものが、静かに砕け始めていたことに。
出雲軍は各地で確保した食糧や武具を奴国の港へ集め、兵たちは休む間もなく船への積み込み作業に追われていた。港には米俵や粟袋が山のように積み上げられ、勝利を喜ぶ兵たちの笑い声が響いている。
その喧騒の中で荷の確認をしていた邇芸速日は、八千矛の様子に違和感を覚えた。
積み荷の確認や兵への指示は普段と変わらず的確だったが、呼び掛けられても返事が一拍遅れ、同じ荷札を何度も見返したかと思えば、何もない空間を見つめたまま立ち尽くすことがある。その異変には近習たちも気付いており、心配そうな視線を向けていた。
「八千矛様、お疲れではありませんか」
恐る恐る声を掛けられると、八千矛はようやく我に返ったように顔を上げ、小さく首を横へ振る。
「……いや、大丈夫だ」
そう答える声には、いつもの張りがなかった。
邇芸速日は静かに目を細める。不弥国の砦で起きた惨劇は、自分にとっても衝撃だった。しかし軍の指揮に追われていた自分とは違い、八千矛はあの虐殺を最初から最後まで目の当たりにしていた。血に染まった砦で、女も子供も老人も容赦なく斬られていく光景を見続けた彼の心には、想像以上に深い傷が刻まれてしまったのだろう。
邇芸速日は港の喧騒を眺めながら、胸の内で静かに呟いた。
『……このままでは、八千矛は焼ききれるな』
軍議を終えた邇芸速日は、静かに須佐之男のもとへ歩み寄った。
「父上、お願いがございます。八千矛を、しばらく前線から外していただけないでしょうか」
須佐之男は怪訝そうに眉をひそめる。
「傷でも負ったのか」
「いえ、身体に傷はございません。ただ……心が限界にございます。不弥国で見た光景が、今も八千矛を苛んでおります」
須佐之男も八千矛へ目を向けた。兵の報告を聞いてはいるものの、どこか上の空で受け答えをしている姿は、確かに以前の八千矛ではない。しばらく黙って見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……そうか」
その一言には責める色も否定する色もなかった。王である須佐之男もまた、不弥国で何が起きたのかを理解していたのである。
やがて須佐之男は机上の地図へ視線を落とした。そこには各地で集めた兵糧や武具の集積地が記されている。
「ちょうどよい。この物資は何としても出雲へ届けねばならぬ。これを失えば本国は冬を越えられん。八千矛に護送軍の総大将を任せ、兵糧を出雲まで運ばせよう」
邇芸速日は静かに一礼した。
「ありがとうございます。その任なら八千矛殿も必ず果たしてくださいます」
まもなく八千矛は須佐之男の前へ呼び出された。
「八千矛。集めた兵糧と武具を船へ積み込み、護送軍を率いて出雲へ帰れ。これよりお前を護送軍の総大将とする」
一瞬だけ八千矛は目を見開いたが、すぐに深く頭を下げる。
「承知いたしました。必ずや、この命を果たしてみせます」
いつもと変わらぬ力強い返答だった。しかし胸の奥では、しばらく戦場を離れられることに、言葉にできないほど小さな安堵を覚えている自分がいることを、八千矛だけは静かに感じていた。
須佐之男王の命に従い、八千矛は奴国の港で物資の積み込みを指揮していた。米俵や干し魚、塩、布、鉄器が次々と船腹へ運び込まれ、役人たちは竹簡に積荷の数を書き記していく。港には兵たちの掛け声と足音が絶え間なく響き、出雲へ向かう船団が静かな波間に揺れていた。
八千矛は積荷を見回りながら、兵たちへ穏やかに声を掛ける。
「その俵はもう少し奥へ寄せよう。重い荷は船底から積んだ方が船も安定する」
兵たちは力強く返事をすると、指示に従って荷を運び直した。
その時、歩みに合わせて腰の剣が揺れ、柄へ添えた手にぬるりとした感触が伝わった。
八千矛は思わず手を離し、息を呑んで掌を見つめる。
真っ赤だった。
指先から手首まで、血がべっとりとまとわりついている。
瞬間、不弥国の砦で見た光景が脳裏に鮮明によみがえった。血に染まった櫓、積み重ねられた無数の死体、泣き叫ぶ子を抱いたまま倒れた母親、鼻を突く鉄臭い血の匂い──。
八千矛の呼吸が乱れる。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせるように深く息を吸い、ゆっくり吐いてからもう一度掌へ視線を落とした。
そこには血など一滴も付いていなかった。
あるのは、いつもと変わらぬ自分の手だけだった。
八千矛は誰にも悟られまいと静かに息を整え、何事もなかったように再び歩き始める。しかし、その背中を見つめていた近習たちは、主の異変に気付いていた。
一瞬立ち尽くし、青ざめた顔で手を見つめていたことを。
それでも誰一人として声を掛けることはしない。ただ黙って荷を運び続け、何も見なかった振りをした。
それが今、自分たちにできる唯一の気遣いだと知っていたからである。
その日の夕刻、一隻の船が奴国の港へ滑り込んだ。船首には三輪山の紋が掲げられており、ただならぬ様子に気づいた港の兵たちは道を開け、使者は船から飛び降りると息を切らしながら須佐之男王のいる宮へ駆け出した。
その頃、宮では軍議が開かれていた。広げられた地図には投馬国までの進軍路が記され、諸将が次の戦について協議を重ねる中、須佐之男は腕を組んで座り、邇芸速日は静かに地図へ視線を落としている。
そこへ兵が慌ただしく駆け込み、三輪山から急使が到着したことを告げた。
「通せ」
須佐之男の短い一言で使者は広間へ通されると、膝をついたまま乱れた息を整える間もなく声を張り上げた。
「申し上げます! 三輪山が熱田勢の侵攻を受けております! 敵は軍を小分けにして各地の村々を襲い、長髄彦様が迎撃しても山中へ退いて捕捉できません。安日彦様より、一刻も早く邇芸速日様にお戻りいただきたいとのことにございます!」
広間は水を打ったように静まり返った。
邇芸速日は静かに目を閉じる。敵が自分の出陣を待っていたかのような絶妙な時機であり、偶然ではないことは明らかだった。大倭壱国側が自分を筑紫の戦場から引き離すために仕掛けた策……そう考えれば、すべてに説明がつく。
須佐之男は邇芸速日に視線を向けた。
「どうする、邇芸速日」
邇芸速日はゆっくりと立ち上がる。
「三輪山は、私が守るべき国にございます。筑紫には王と諸将がおられますが、三輪山には私しかおりませぬ」
迷いのない返答に、須佐之男はしばらく黙した後、小さく頷いた。
「よい。戻れ。熱田など蹴散らしまえ」
「はっ」
邇芸速日は深く一礼すると軍議は事実上そこで打ち切られ、ただちに帰還の支度が始まった。自らの兵を率いて港へ向かうその胸中には、これが筑紫での最後の戦になるかもしれないという予感が静かに芽生えていた。
翌朝、奴国の港には冷たい潮風が吹いていた。岸壁には幾隻もの船が並び、兵たちは黙々と米俵や武具を積み込んでいる。戦利品を満載した船団は、間もなく出雲へ向けて出航するところだった。
その船の前で、八千矛と邇芸速日は静かに向かい合う。しばらくは互いに何も語らず、潮騒だけが二人の間を流れていた。
やがて八千矛が海へ視線を向けたまま、小さく口を開く。
「俺はもう戦は懲り懲りだ、もう殺戮を見るに耐えん」
脳裏に浮かぶのは、不弥国の砦で目にした惨劇だった。血に染まった石畳、泣き叫ぶ子供たち、虫けらのように積み上げられた死体。その光景は、何度忘れようとしても消えることはない。
「俺は出雲へ戻る。田を耕し、川を直し、人が安心して暮らせる国を作る。それが俺の役目だと思う」
その決意を聞いた邇芸速日は静かに頷き、遠く東の空へ目を向けた。
「私も三輪山へ戻る。熱田の件を片付けたら、筑紫へ戻るつもりはない」
八千矛は意外そうに目を見開く。
「戻らないのか」
「筑紫の戦場は、まるで修羅の国だ。こんなことに命を懸けるくらいなら、自分の国で国造りをしっかり進め、そもそも戦が起きる原因を減らす方がよい」
八千矛はその言葉を聞き、ようやく穏やかな笑みを浮かべた。
「考えることは同じか」
「案外、昔からそうだったのかもしれない」
二人は思わず笑い合った。東方遠征から三輪山、そして筑紫まで、共に歩んできた歳月を思えば、言葉を重ねなくとも互いの苦しみも覚悟も理解できた。
邇芸速日は右拳を差し出す。
「生き延びろ、八千矛」
「ああ、お前もな」
拳と拳が静かにぶつかる。その触れ合いは武人同士の誓いではなく、戦を終え、これからは国を築く者として歩む二人の約束だった。
「また会おう」
「今度は、戦場ではなく」
そう言葉を交わした八千矛は船へ乗り込み、邇芸速日は岸壁からその姿を静かに見送る。船がゆっくりと港を離れ、互いの姿が小さくなっても、二人は最後までその場を動かなかった。
この時、二人はまだ知らなかった。
一人は出雲を立て直し、やがて大国主と呼ばれる者となる。
一人は三輪山に君臨し、死してなお大物主と崇められる者となる。
戦場で別れた二つの背中は、やがて倭という国の形そのものを支える柱となっていく。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
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