六章 倭国大乱 五話 不弥国攻防戦後半
忍穂耳の胸は、戦場の熱に煽られるように高鳴っていた。戦場を見渡せば、自ら率いる大倭壱国軍だけが着実に前進しており、このまま敵部隊を押し潰せば勝利に大きく貢献できると確信していた。若き将として名を上げる絶好の機会だと胸を高鳴らせ、さらに前進を命じる。
しかし、その確信は一瞬で打ち砕かれた。
大倭壱国軍が前進したことで、左翼の大倭壱国軍と中央の奴国・不弥国合同部隊との間に大きな空間が生まれていた。
その隙を見逃さず、須佐之男王の部隊が一気に突入し、大倭壱国軍の後方へ回り込んで猛烈な攻撃を開始したのである。
後方から上がる悲鳴に忍穂耳が振り返ると、前後を敵に挟まれた兵たちはたちまち混乱に陥り、崩れ始めていた。自分たちが優勢だと思っていた前進こそ、敵が仕掛けた罠だったのだ。
邇芸速日は、須佐之男王の部隊が大倭壱国軍の後方へ回り込み、攻撃を開始したのを確認すると、間髪入れず伝令を走らせた。
「八千矛隊、反転攻勢に移れ」
その命令を待ち続けていた八千矛は槍を高く掲げる。
「反撃だ! 前へ! 押し返せ!」
これまで耐え続け、じりじりと後退を続けていた兵たちは鬱憤を晴らすように一斉に反転し、勢いそのまま敵陣へ襲いかかった。前方では八千矛隊が猛烈な反撃を開始し、後方では須佐之男王の軍勢が襲いかかる。前後から挟み撃ちにされた大倭壱国軍は、瞬く間に大混乱へ陥った。
叫び声が飛び交い、命令は掻き消され、兵たちは押し合い、踏み合いながら次々と隊列を乱していく。もはや陣形を立て直す術はなく、この時点で勝敗そのものは決していた。邇芸速日の策は、大倭壱国連合軍の指揮系統と陣形を完全に崩壊させ、戦場の主導権を奪い去っていたのである。
もっとも、その決着をさらに早めたのは須佐之男王だった。妖気を全身に纏い、巨大な金棒を携えた王が敵陣へ踏み込むたび、兵は吹き飛び、盾は砕け、槍は宙を舞う。その姿は武人というより災厄そのものであり、すでに崩れ始めていた大倭壱国軍へ最後の一撃を叩き込み、崩壊を決定的なものへと変えていった。
急速に崩壊する戦列の中、それでも忍穂耳は退却を許さなかった。
「退くな! ここで踏み止まれ! 一歩たりとも退かせるな!」
自ら槍を構えて兵を鼓舞し、崩れかけた前線を支えようと踏み出した、その瞬間だった。
背筋を凍らせるような圧倒的な気配が戦場を覆い、忍穂耳は思わず振り返る。そこには山が動いているかのような巨躯が迫り、全身からは黒く揺らめく妖気が立ち上り、黄金色に輝く両眼は、人のものとは思えなかった。逃げ遅れた兵たちは金棒の一振りでまとめて吹き飛ばされ、その光景だけで兵の戦意は音を立てて崩れていく。
……人ではない。
忍穂耳がそう悟った時には、すでに須佐之男王は眼前まで迫っていた。
巨大な金棒が唸りを上げて振り下ろされ、何をされたのか理解する暇もないまま、忍穂耳は凄まじい衝撃を全身に受けて宙へ吹き飛ばされる。幾人もの兵を巻き込みながら地面へ叩きつけられ、その意識は一瞬で白く染まった。
意識を失いかけるほどの衝撃が全身を駆け抜け、肺から空気が一気に吐き出され、視界は激しく揺れ、何が起きたのか理解することすらできない。
それでも、生きていた。
周囲では同じ一撃を受けた兵たちが血を流して倒れ、ほとんどが即死している。金棒が振るわれた場所だけが暴風でも吹き荒れたかのように薙ぎ払われていたが、忍穂耳だけは激痛に苦しみながらも命を繋いでいた。
忍穂耳には妖力も不老長寿の力も受け継がれていない。ただの人間である。自分がなぜ生きているのか、その理由は本人にも分からなかった。
一方、須佐之男もまた仕留めたはずだった。それなのに、忍穂耳を見てわずかに眉を動かす。
「……ほう」
金棒を肩に担いだまま、須佐之男はゆっくりと歩み寄った。全身を包む濃密な妖気は陽炎のように揺らめき、その巨体は忍穂耳には山のような鬼が迫ってくる姿にしか見えない。
忍穂耳は恐怖で身体が凍り付き、逃げようとしても指一本動かなかった。
須佐之男は金棒を肩に担ぎ、吹き飛ばされた忍穂耳を静かに見下ろした。戦場を覆う喧騒の中で、須佐之男だけは不自然なほど冷静だった。
その視線が忍穂耳へ向けられた瞬間、わずかに眉が動く。確かに妖気を感じる。しかし、それは目の前の男の内から湧き出るものではなく、身体の表面を薄く覆うように流れ続けていた。まるで誰かが遠く離れた場所から守るように妖気を纏わせているかのようだった。
「妙だな……これは貴様の妖気ではあるまい」
違和感はすぐに確信へ変わる。これほど繊細に、しかも遠く離れた相手へ妖気を送り続けられる者など、須佐之男の知る限り一人しかいない。
姉……日巫女。
あの女ならば可能だ。
須佐之男は腰を抜かしたまま震える忍穂耳へ視線を落とした。
「貴様、名は何という」
喉を震わせながら、忍穂耳はようやく声を絞り出す。
「わ……私は……女王日巫女の子……忍穂耳だ……」
一瞬、須佐之男の表情から険しさが消えた。
「忍穂耳……そうか、あの時の子供か」
まだ大倭壱国にいた頃、姉の傍で無邪気に歩き回っていた幼子。そのあどけない姿が脳裏によみがえり、須佐之男は目を細める。
「大きくなったものだ」
姉が遠くから妖気を送り続けている理由も理解した。あの姉が息子を死なせるはずがない。その執念が、この妖気となって忍穂耳を守っているのだ。
須佐之男は金棒を肩へ担ぎ直し、低い声で言った。
「今のうちに逃げろ、忍穂耳」
忍穂耳は呆然と顔を上げる。
「……なんだって」
「一度だけ見逃してやる! 早く逃げんか。次は容赦なく潰すぞ!」
その一言だけで十分だった。
忍穂耳は本能に突き動かされるように立ち上がり、まだ包囲されていない方向へ駆け出す。
「撤退だ! 全軍、撤退せよ!」
必死の叫びが戦場へ響く。しかし、その頃には大倭壱国軍はすでに崩壊を始めており、兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、命令は半ば悲鳴となって広がっていった。
忍穂耳も振り返ることなく戦場を離脱する。胸の奥に刻まれた恐怖だけは、生涯消えることがなかった。
「あれは……人ではない。」
大倭壱国本国、主祭殿。
祭壇の中央に据えられた大きな銅鏡の前で、日巫女は膝をついたまま肩を大きく上下させていた。
「はあ……はあ……」
額からは汗が滴り落ち、白い衣の胸元は激しい呼吸に合わせて上下している。
妖力を遠く離れた戦場へ送り込み、特定の人物だけを護り続ける……それは日巫女だけが成し得る神業にも等しい術だった。しかし、その代償は決して小さくない。遠隔で妖力を維持し続けるたびに膨大な力が削られ、全身から生命力そのものが抜け落ちていくような感覚に襲われていた。
それでも日巫女は術を解かなかった。
銅鏡の水面のような光の中には、戦場から逃れようとする忍穂耳の姿が映し出されている。
その姿を確認した日巫女は、ようやく張り詰めていた表情をわずかに緩め、静かに目を閉じた。
「……よかった」
安堵はほんの一瞬だった。
銅鏡に映る戦場では、大倭壱国連合軍の陣形は完全に崩れ、兵たちは四方へ逃げ惑っている。須佐之男率いる出雲軍はなおも追撃を続け、勝敗はもはや誰の目にも明らかだった。
日巫女は静かに呼吸を整え、ゆっくりと銅鏡から視線を離した。この敗北は単に一つの合戦を落としたという話ではない。出雲王国は本気で大倭壱国を滅ぼす覚悟で侵攻してきた……その重い現実を、日巫女は誰よりも深く受け止めていた。
そして出雲軍を手足のように指揮して見せた邇芸速日の存在……政治的な思想での将来の政敵として認識していたが、ここまで軍略に精通していることは想像を超えていた。
邇芸速日をどうにかしなくては……警戒を強めるのだった。
大倭壱国軍の崩壊を目の当たりにした連合軍の各部隊は、一斉に動揺した。統率を失った恐怖は瞬く間に戦場全体へ広がり、中央を支えていた奴国・不弥国合同部隊にもその影響は及ぶ。
その隙を見逃す出雲軍ではなかった。
須佐之男王自ら率いる部隊が側面へ食い込み、八千矛の部隊はさらに回り込み後方から蓋をするように包囲をかける。前後と側面から挟み込まれた合同部隊は踏みとどまることができず、陣形は音を立てるように崩れ始めた。
もはや勝敗は覆らなかった。
誰かが退き始めると、それは瞬く間に全軍へ伝播する。秩序ある後退は叶わず、連合軍は武器を抱えたまま我先にと戦場を離れ始めた。逃げ惑う兵の列へ出雲軍の追撃が容赦なく襲いかかり、不弥国へ続く平野は悲鳴と怒号に包まれていく。
この敗北は、大倭壱国連合に深い教訓を刻み込んだ。
出雲軍との正面決戦は敗北を意味する。
以後、大倭壱国連合が野戦で出雲軍に挑むことは二度となかった。以降は城砦と環濠を頼り、時間を稼ぐ守りの戦へと戦略を大きく転換していくことになる。
やがて戦場に静寂が戻ると、須佐之男王はゆっくりと前へ歩み出た。
全身に妖気をまとった巨躯は、返り血に染まった金棒を高々と天へ掲げる。
「おおおおおおおおっ!」
天地を震わせるような雄たけびが平野へ響き渡った。
それに応えるように出雲軍の兵たちも一斉に武器を掲げ、勝利の歓声を上げる。その声は波となって幾重にも重なり、不弥国の空へ果てしなくこだましていった。
戦場にはなお勝利の歓声が響いていた。金棒を高く掲げる須佐之男王を中心に、出雲兵たちは武器を打ち鳴らし、互いの健闘を称え合っている。
その喧騒から少し離れた場所で、八千矛と邇芸速日は折れた槍や砕けた盾、そして血に染まった平野を静かに見渡していた。
「……第一関門は突破、といったところか」
八千矛が深く息を吐きながら呟くと、邇芸速日は戦場から目を離さないまま静かに頷いた。
「ああ。しかし、本番はここからだ。大倭壱国連合は、この敗北で野戦の不利を悟った以上、次からは城砦や環濠に籠もり、持久戦へ切り替えてくるはず」
「つまり、今日の勝利は始まりに過ぎない……か」
「うむ。私たちは勝ったのではない。長い戦の入口に立っただけ」
二人は再び視線を戦場へ向けた。兵たちの歓声の向こうでは負傷者のうめき声が風に乗って響き、その音が、この勝利の先に待つ終わりの見えない戦乱を静かに告げているようだった。
八千矛も邇芸速日も、この勝利を素直に喜ぶことはできなかった。ここから先こそが、本当の倭国大乱の始まりだと、誰よりも理解していたからである。
大倭壱国連合軍敗戦の報は、ほどなく壱岐にも届いた。
報告を受けた月読は、静かに地図へ視線を落とす。出雲軍が強大であることは理解していた。しかし、この勝利を築いたのは須佐之男の武だけではない。敵軍を自在に操り、大倭壱国連合軍の陣形を崩壊させた邇芸速日の軍略こそ、最も警戒すべき脅威だった。
「このままでは、出雲軍は止まらない……」
月読は小さく呟いた。
須佐之男は最強の武人だ。だが、その力を最大限に引き出しているのは、間違いなく邇芸速日の頭脳である。ならば真正面から須佐之男を倒そうとするよりも、まず邇芸速日を筑紫の戦場から切り離すべきだと結論づけた。
「狙うべきは須佐之男ではない。邇芸速日だ」
その日のうちに月読は壱岐の港へ向かい、一隻の外洋船へ乗り込んだ。
「中部へ向かう」
短く命じると、水夫たちはただちに帆を張る。追い風を受けた船は港を離れ、波を切り裂きながら東へ進み始めた。
月読が目指すのは、中部地方。
邇芸速日を筑紫から引き離し、出雲軍から"頭脳"を奪うための策が、すでに彼の胸中で形になり始めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
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