六章 倭国大乱 四話 不弥国攻防戦前半
当時、倭国で最大規模の合戦が始まろうとしていた。
不弥国へ進軍してきた出雲軍八千に対し、大倭壱国連合軍は一万二千の兵を集結させていた。数だけを見れば、大倭壱国連合軍が明らかに優勢である。奴国を失い、不弥国へ逃げ込んだ敗残兵たち。自国を守るために立ち上がった不弥国の兵。さらに投馬国、そして日巫女の命を受けて北上した大倭壱国軍。そのすべてが、この地に集まっていた。
だが、その布陣は決して一枚岩ではなかった。
中央には不弥国と奴国の合同部隊。左翼には大倭壱国軍。右翼には投馬国軍が並び、一見すれば横陣の形を取っているように見えた。しかし、よく目を凝らせば部隊ごとに兵の密度が違い、列の厚みにもばらつきがある。さらに各部隊の間には、わずかながら隙間が生じていた。
それは地形の問題だけではない。
それぞれの国が、それぞれの思惑で兵を動かしているためだった。不弥国は自国の防衛を最優先に考え、奴国の敗残兵は祖国奪還の憎しみに燃えている。投馬国は深入りを避けようとし、大倭壱国軍を率いる忍穂耳は、女王日巫女の子として結果を出さねばならないという焦りを抱えていた。
誰も逃げるつもりはない。
だが、誰も全軍を一つにまとめられてはいなかった。
遠くからその布陣を見つめていた邇芸速日は、静かに目を細めた。
出雲軍はゆっくりと平野を進み、敵陣を視認できる距離まで接近すると、邇芸速日は静かに右手を上げた。
「止まれ」
全軍が足を止める。
「散兵を前へ」
命令とともに数百名の軽装歩兵が本隊から駆け出し、互いに十分な間隔を保ちながら前方へ散開した。本隊の布陣が整うまで敵を牽制し、時間を稼ぐためである。
散兵が展開すると、邇芸速日は続けて命令を下した。
「中央に五十猛隊。左翼に八島士奴美隊。右翼に八千矛隊。須佐之男王は後方で待機、予備部隊とする」
各隊は速やかに持ち場へ移動し、中央に五十猛隊、左翼に八島士奴美隊、右翼に八千矛隊、さらに後方へ須佐之男王直属軍が控える形で、出雲軍も整然と横陣を完成させた。
その間も、大倭壱国連合軍は一切動かなかった。
邇芸速日は静かに敵陣を見渡す。
一見すれば整然と並ぶ横陣だったが、兵の配置には濃淡があり、部隊同士の境目にはわずかな隙間が残されていた。それは意図して設けられたものではなく、それぞれの国が独自に布陣した結果、生じた歪みにすぎない。
……総指揮官がいない。
三つの国が集まっていても、全軍を俯瞰して指揮する者は存在せず、各部隊は自軍の正面しか見ていない。さらに兵が厚く配置された場所があるということは、まだ戦列へ組み込まれていない兵が残されている証でもあった。
動いたのは出雲軍からだった。五十猛、八島士奴美、八千矛の三部隊が一斉に前進し、やがて大倭壱国連合軍と激突する。槍と盾がぶつかり合い、戦場の各所で兵たちの怒号が響き渡る中、邇芸速日は自身の配下を伝令として走らせ、各隊へ次々と命令を伝えさせた。
「中央と左翼の間へ兵を送り込め。中央と右翼の間にも送り込め。隙間へ突入したら、そのまま側面、さらに後方へ回って攻撃を開始せよ」
命令は瞬く間に各隊へ伝わり、出雲兵たちは大倭壱国連合軍の中央、左翼、右翼、それぞれの部隊の間に生じていた隙間へ一斉に突入し、側面と後方から攻撃を開始した。
大倭壱国連合軍の各部隊の隙間へ突入した出雲軍は、そのまま側面攻撃を開始した。しかし連合軍も即座に対応し、各部隊の中央付近に自然と厚くなっていた兵を側面へ送り込み、出雲軍の攻勢を食い止める。押し返された出雲軍が後退する間に、部隊間の隙間は次々と埋まり、横陣の厚みも均一になっていった。
邇芸速日はその様子を無言で見つめると、小さく頷いた。
「引け」
短い命令とともに、突入していた出雲軍は整然と戦線を離脱する。
こうして両軍は、隙間のない整った横陣同士で向かい合う形となった。
傍目には、出雲軍がわざわざ敵の陣形を整えただけにしか見えない。兵数で劣る側が、自ら敵の布陣を完成させた……誰が見ても愚策と思える一手だった。
邇芸速日は戦場を見据えたまま、静かに次の命令を下した。
「中央の五十猛隊、左翼の八島士奴美隊に伝えよ。前進せよ」
伝令が命令を届けると、激しく槍と槍がぶつかり合う最前線では、一歩前へ出ることすら容易ではなかった。左翼の八島士奴美隊は敵の激しい抵抗に阻まれて押しては押し返される攻防を繰り返し、前線を動かすことができない。
一方、中央では五十猛が自ら最前線へ躍り出ていた。七尺近い巨体で槍を構えるその姿だけで、出雲兵たちの士気は大きく高まる。
「押せ! ここで止まれば出雲に待つのは飢えだけだ!」
「俺に続け! 一歩でも前へ進め!」
腹の底から響く大音声が戦場を震わせた。五十猛は自ら敵陣へ踏み込み、長槍を豪快に薙ぎ払う。穂先を受け止めようとした敵兵たちは槍ごと弾き飛ばされ、体勢を崩したところへさらに踏み込んだ。
「今だ! 一気に突き進め!」
兵たちは将の背中に勇気づけられるように盾を押し当て、槍を突き出しながら一斉に前進する。
「止めろ!」
「押し返せ!」
不弥国と奴国の兵も必死に応戦するが、最前線で戦い続ける五十猛の勢いは衰えない。その巨体が一歩踏み出すたびに敵陣はわずかに揺らぎ、出雲兵たちも雄叫びを上げながら前へ前へと押し込んでいく。
中央戦線だけは、じりじりとではあるが確実に前へ押し出されていた。
最前線では七尺近い巨体を誇る五十猛が自ら槍を振るい、敵兵を盾ごと押し返しながら兵たちを鼓舞し続ける。その背中に奮い立たされた出雲兵たちは雄叫びを上げ、一歩、また一歩と戦列を押し上げていった。
その様子を見届けた邇芸速日は、頃合いを見計らって静かに次の命令を下す。
「右翼の八千矛隊に伝えよ。負けた振りをしつつ後退せよ」
命令を受けた八千矛は思わず顔をしかめ、小さく苦笑した。
「邇芸速日め……なんて命がけのことをさせるんだ!」
敵に勝てると思わせながら退き、本当に崩れてはならない。隊列を保ったまま敵の勢いを受け止めつつ後退するという、退き過ぎても踏み止まり過ぎても失敗する極めて難しい役目だった。
しかし八千矛は愚痴をこぼしただけで異を唱えることはなく、大きく槍を掲げて兵たちへ声を張り上げる。
「全軍、隊列を崩すな! ゆっくり退け! 我らは逃げるのではない。敵を誘うのだ!」
兵たちは声を揃えて応じ、盾を並べ、槍を揃えたまま一歩ずつ後退を始めた。敵の攻勢を受け止めながらも乱れることなく距離を保ち続けるその動きは、熟練した兵と将でなければ成し得ない見事な統率だった。
敵から見れば、右翼は押し崩され始めたように映る。だが実際には、後退する速度も隊列の間隔もすべて八千矛の指揮の下で統制されており、一列たりとも崩れてはいなかった。
その様子を後方から見つめていた邇芸速日は、小さく頷いた。
……八千矛は期待どおりに役目を果たしている。
そして、気が付けば横一線だった前線に変化が生まれていた。
出雲軍右翼を担う八千矛隊の正面には、大倭壱国軍左翼を率いる忍穂耳の部隊が布陣していた。八千矛隊が命令どおり隊列を崩すことなく後退を始めると、その動きを真正面から見ていた忍穂耳は、敵の右翼が押し崩れ始めたものと判断する。
「敵の右翼が崩れ始めたぞ!」
女王日巫女の子として、この戦で武功を立てなければならないという焦りもまた、忍穂耳の背中を押していた。
「押し込め! 今こそ敵を崩す!」
号令とともに大倭壱国軍は鬨の声を上げ、一斉に前へ踏み出す。兵たちも勢いに乗って槍を突き出しながら敵陣を押し込んでいった。
しかし、前進したのは忍穂耳率いる大倭壱国軍だけだった。
中央では不弥国・奴国合同部隊が五十猛隊の猛攻を受け、戦線を維持するだけで精一杯となり、一歩も動くことができない。右翼の投馬国軍も慎重に戦列を守り、軽々しく前へ出ようとはしなかった。
その結果、大倭壱国軍だけが突出し、中央部隊との間隔は少しずつ、しかし確実に広がっていく。
最初は人が一人通れるほどだった隙間も、やがて十人近くが並んで駆け抜けられるほどの幅へと変わっていた。それでも激しい戦場の喧騒の中、その異変に気付く者はいない。
本来であれば、このような戦列の乱れは総指揮官が予備兵を投入して隙間を埋めるか、突出した部隊へ伝令を送り前進を止め、横陣を立て直させるべきだった。
しかし、この連合軍にはそれができなかった。
三つの国はそれぞれ自国の武官の指揮で戦っており、全軍を統率する総指揮官が存在しない。さらに戦いの序盤、出雲軍の突入に対応するため、各部隊中央に厚く配置されていた兵を側面へ送り込んでしまったことで、戦列を修正するための予備兵も使い果たしていた。
邇芸速日は戦場全体へ静かに視線を巡らせた。中央では五十猛の部隊が敵を押し込み、右翼では八千矛の部隊が隊列を崩すことなく後退を続けている。その結果、忍穂耳率いる大倭壱国軍だけが前へ出過ぎ、不弥国・奴国合同部隊との間には大きな隙間が生まれていた。
それこそが、邇芸速日の狙いだった。
最初に部隊間へ兵を突入させたのは敵陣を崩すためではない。各部隊が中央に残していた兵を側面へ引き出し、予備兵を使わせるためだった。
予備兵を失った連合軍には、乱れた戦列を修正する術がない。
総指揮官を欠く三国連合では、突出した部隊を止める者も、空いた隙間を埋める者も存在しなかった。
邇芸速日は、その決定的な瞬間を見逃さなかった。
「王にお伝えなさい」
戦場から目を離すことなく、静かに命じる。
「大倭壱国軍と中央の不弥国・奴国合同部隊との間に隙が生じました。その間を突破し、大倭壱国軍の後方へ回り込んで攻撃を仕掛けていただきたいと」
伝令は深く一礼すると、砂煙を巻き上げながら須佐之男王のもとへ駆けていった。
後方では、須佐之男直属軍が静かに待機を続けていた。前線では槍がぶつかり合い、兵たちの怒号と悲鳴が絶え間なく響いているにもかかわらず、この部隊だけは誰一人として動こうとしない。総大将である須佐之男が、まだ命じていなかったからである。
やがて伝令が膝をつき、邇芸速日からの命令を伝えると、須佐之男は前線へ視線を向けた。五十猛は中央を押し込み、八島士奴美は左翼で敵を引きつけ、八千矛は隊列を乱すことなく後退を続けている。誰もが持ち場を守り、邇芸速日の策どおりに戦っていた。
その様子を見届けた須佐之男は、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「任せておけ」
短く答えると、巨大な金棒を肩へ担いだ。
本来なら戦が始まった瞬間、自ら敵陣へ飛び込み叩き潰したい。しかし今回は軍略のすべてを邇芸速日に委ねている。総大将である以上、自らの感情で策を乱すわけにはいかなかった。それに、幼い頃は病弱だった邇芸速日が、今では八千の軍勢を指揮し、自分へ出陣の時を告げるまでに成長したことが、父としてどこか誇らしくもあった。
須佐之男が一歩踏み出すと、それだけで直属軍の空気が一変する。
「王が動かれるぞ!」
兵たちの間に緊張と高揚が一気に広がる中、須佐之男は長らく待ち続けた時がようやく訪れたと言わんばかりに悠然と歩み始め、その背中に続いて直属軍も一斉に進軍を開始した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
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