六章 倭国大乱 三話 大倭壱国連合集結(やまといちこく)
奴国へ向かっていた忍穂耳の軍が北上を続ける頃には、すでに戦況は取り返しのつかないところまで進んでいた。
北から逃れてきた民が街道を埋め尽くしている。老人は子を背負い、母は幼子の手を引き、荷車にはわずかな家財だけを積み、すすで黒く汚れた衣のまま涙を流しながら南へ歩いていた。その列の間を、傷だらけの兵たちが肩を貸し合いながら進み、誰もが「奴国が落ちた」と繰り返していた。
忍穂耳は馬を止め、北の空を見上げた。地平の彼方には黒煙が幾筋も立ち昇り、空を覆う雲までも赤く染めている。風に乗って漂う焦げた臭いだけで、まだ見ぬ戦場の惨状が伝わってきた。
「そんな……」
思わず漏れた声は震えていた。
奴国は大倭壱国連合でも有数の大国であり、北方防衛の要でもある。その国が、出雲軍の上陸からわずか数日で陥落したという現実は、忍穂耳には到底信じられなかった。援軍が間に合えば持ちこたえられると信じていた希望は、北から流れてくる難民と敗残兵の姿によって無残にも打ち砕かれてしまう。
やがて、一人の奴国兵が忍穂耳の前へ膝をついた。
「忍穂耳様……奴国は……滅びました。」
広がる静寂の中、忍穂耳は拳を強く握り締める。今から奴国へ向かっても手遅れだった。奪われた国を取り戻すには、まず出雲軍の進撃を止めなければならない。
「進路を変える。不弥国へ向かえ。直ちに各国へ使者を走らせ、大倭壱国連合を集結させる。」
武官たちは一斉に頷き、馬を駆った。
不弥国は小国であり、単独で出雲軍を受け止めることはできない。しかし各国の軍を集結させる時間は、まだ残されている。
忍穂耳は北の黒煙を見つめながら、胸の内で静かに誓った。
「ここで止める。これ以上、国を失わせはしない。」
忍穂耳の軍が不弥国へ到着した頃には、すでに奴国から逃れてきた敗残兵たちが続々と集結していた。
兵たちの鎧は煤に汚れ、多くが傷を負っている。故郷を失った悲しみと悔しさを胸に、それでも槍を握り締める彼らの瞳には、ただ一つ……奴国を取り戻すという強い決意だけが宿っていた。
「必ず出雲を追い返す」
「このまま故郷を渡してたまるか」
各所でそんな声が上がり、不弥国の広場には重苦しい空気が漂っていた。
やがて南から投馬国の援軍も到着する。整然と隊列を組んだ兵たちが城門をくぐると、不弥国の守備兵もこれを迎え入れ、大倭壱国連合の兵力は急速に膨れ上がっていった。
その日のうちに、不弥国の宮では軍議が開かれた。
広間には大倭壱国を代表する忍穂耳をはじめ、祖国奪還を誓う奴国敗残兵の武官、不弥国の武官、そして投馬国の武官たちが顔を揃える。
出雲軍を迎え撃つため、大倭壱国連合として初めて各国の将が一堂に会した軍議であった。
軍議の最初に議題となったのは、連合軍の編成だった。不弥国は小国ゆえ動員できる兵が少なく、防衛力を補うため、奴国の敗残兵と合同部隊を編成することが決まる。
続いて出雲軍への対処法が話し合われた。敵兵は多く見積もっても八千ほどであるのに対し、大倭壱国連合軍は一万二千を超えていた。その兵力差を生かして平野で決戦を挑むべきだという意見が出る一方、不弥国の武官は「環濠と柵を生かして徹底防衛に徹し、遠征軍である出雲軍を疲弊させるべきだ」と慎重論を唱える。
やがて議論は各国の思惑を映し出すものとなった。不弥国は自国防衛を最優先に徹底抗戦を主張し、祖国を奪われた奴国は一刻も早く出雲軍を打ち破って国を取り戻すため野戦による決戦を望む。投馬国は双方に理があるとして判断を保留し、軍議は容易に結論へ至らなかった。
その様子を、軍議の席で最年少だった忍穂耳は黙って見つめていた。須佐之男王が大倭壱国にいた頃はまだ幼く、その圧倒的な強さも恐ろしさも知らない。さらに実戦経験も浅いため、諸将から若輩者と見られていることを本人も痛感していた。
だからこそ、この戦で結果を出さなければならないという思いは誰よりも強かった。兵数ではこちらが四千も上回っている。ならば勝てるはずだ――そう判断した忍穂耳は決戦を支持し、その一言をきっかけに合戦派が多数を占めることとなった。
こうして大倭壱国連合軍は、不弥国の平野で出雲軍を迎え撃つことを決定する。
次に議題となったのは、全軍を率いる総大将を誰が務めるかだった。
しかし、この問題だけは誰一人として譲ろうとしなかった。
「我が国の兵を他国の指揮下には置けぬ」
「それはこちらも同じだ」
各国にはそれぞれの誇りがあり、自国の兵を他国へ預けることに強い抵抗があった。加えて、大倭壱国の代表である忍穂耳は、この場で最も若く、実戦経験も浅い。日巫女の子という立場こそ尊重されていたが、一国を預かる武官たちは、戦場で命を預ける総大将としては認めようとしなかった。
議論は長時間に及んだが、結局、誰一人として他者の指揮下へ入ることを受け入れなかった。
やむなく総大将は置かず、各国の武官が互いに連携を取りながら戦うという苦肉の策が採られることになる。
それは兵力では勝りながら、一つの軍として戦えないことを意味していた。誰も口にはしなかったが、その決定は、後の戦いに大きな影を落とすことになる。
一方、奴国の宮では、出雲軍の軍議が開かれていた。王座に腰を下ろした須佐之男の左右には八島士奴美、五十猛、八千矛、邇芸速日ら諸将が並び、占領したばかりの宮には慌ただしく兵や伝令が行き交っている。
やがて邇芸速日が各地へ放っていた偵察隊の報告をまとめ、木板に描かれた地図を広げながら静かに口を開いた。
「奴国から逃れた敗残兵はすべて不弥国へ集結しております。さらに大倭壱国、投馬国の援軍も到着し、連合軍の総兵力はおよそ一万二千。対する我が軍は八千、兵数では大きく劣ります」
広間は静まり返った。
邇芸速日は地図へ視線を落としたまま続ける。
「敵が環濠や柵を利用して徹底防衛に徹した場合、攻城戦は長期化し、我らも補給を含め長期戦を覚悟せねばなりません。しかし兵数の優位を頼みに平野へ打って出るのであれば、短期決戦へ持ち込むことが可能です」
須佐之男は腕を組んだまま静かに頷いた。
「ならば不弥国へ進軍する。敵が籠るなら攻め落とし、出て来るなら正面から叩き潰す。それだけだ」
異論は出なかった。須佐之男の命令に従い、全軍は直ちに不弥国への進軍準備に入る。
一方の邇芸速日は、軍議が終わるとすぐに地図へ向き直り、敵が野戦を挑んだ場合の布陣を何度も書き改めながら、防衛戦となった場合に備えるための攻城兵器の製作や防御陣地の構築地点まで細かく指示を出していった。
敵がどのような戦い方を選んでも対応できるよう、邇芸速日はただ黙々と戦支度を整えていくのだった。
八千矛は、奴国の宮の高台から焼け落ちた町並みを静かに見下ろしていた。黒煙はなお空へ立ち上り、風に乗って焦げた木と土の匂いが漂ってくる。道端には荷を抱えて逃げ惑う民の姿があり、泣き声が絶えることはなかった。
戦で命を落とす者が出ることも、食糧や物資を確保するために略奪が避けられないことも理解している。しかし、目の前では必要以上に民家へ押し入り、家財を壊し、怯える民を嘲笑う兵まで現れていた。命令である以上、それを止めることはできない。それでも、戦というものが人間の残虐性をここまで引き出してしまう現実に、八千矛は今さらながら胸を締めつけられていた。
重い足取りで宮の奥へ向かうと、一室では邇芸速日が地図や木簡を広げ、武官たちへ休む間もなく指示を飛ばしていた。斥候の配置、防御陣地の選定、攻城兵器の準備と、あらゆる事態を想定して段取りを組み立てる姿は冷静そのもので、その表情には怒りも悲しみも浮かんでいない。
だが八千矛には、その無表情こそが邇芸速日の苦しみなのだと分かっていた。余計な感情を抱けば判断が鈍るため、心を閉ざして軍略だけに意識を集中させているのだ。もし出雲軍が敗れれば、奴国を焼き払い、多くの民を苦しめただけで終わり、出雲も救えず筑紫も救えない。その結末だけは、誰よりも邇芸速日自身が理解していた。
三輪山で数年間ともに国を治めてきた八千矛には、その沈黙の意味が痛いほど伝わってくる。何も語らず政務と軍務に没頭する友の背中を見つめながら、八千矛は胸に込み上げる苦さを押し殺し、初めてその苦悩に深い同情を覚えるのだった。




