六章 倭国大乱 二話 奴国侵攻
筑紫。大倭壱国の主祭殿。
朝の静寂に包まれた奥殿で、日巫女は一枚の青銅の鏡を静かに見つめていた。磨き上げられた鏡面には彼女の美しい姿だけが映っているが、それはただの鏡ではない。
日巫女はゆっくりと瞳を閉じ、深く息を整える。やがて白く淡い妖気が指先から流れ出し、鏡の縁を這うように巡り始めた。静まり返っていた鏡面は水面のように揺らぎ、やがて遠く離れた土地の光景を映し出していく。
この遠見の妖術は、日巫女だけが扱える秘術だった。遠く離れた地を覗き見ることができるその力は、諸国の様子を探る偵察であり、敵味方の動きを監視するための貴重な情報源でもある。
日巫女は暇さえあれば各地へ意識を飛ばし、国境の村々や港、街道の様子を確かめていた。その日も各地を見て回りながら出雲へ意識を向けたが、次の瞬間、その表情は凍りついた。
「……そんな」
鏡に映っていたのは、水平線を埋め尽くすほどの船団だった。無数の帆が朝日に照らされて海を覆い尽くし、その先頭では、一際巨大な旗艦に亀甲に剣花菱の出雲国造の家紋が力強く翻っている。甲板には武装した兵が隙間なく並び、その規模は偵察や交易では到底あり得ない、国家総力を挙げた遠征軍だった。
鏡面はさらに南へと映像を追う。船団が向かう先は瀬戸内でも近畿でもない。一直線に西……筑紫だった。
日巫女は息を呑み、小さく呟く。
「須佐之男……やはり、そなたは飢饉に耐えきれなかったか」
寒冷化による飢饉で出雲が限界まで追い詰められていることは、各地からの報告で知っていた。筑紫にも寒冷化の問題は深刻だったが、元々温暖な筑紫と出雲でも話が別である。
それでも須佐之男なら耐え抜くと信じていたが、その願いは裏切られた。須佐之男は国を飢えさせる道ではなく、他国から奪う道を選んだのである。
小さく呟いた日巫女は、近くに控えていた侍女へ振り向いた。
「忍穂耳を呼びなさい。急ぎです」
侍女が深く頭を下げて広間を飛び出すと、ほどなくして鎧姿の忍穂耳が駆け込んできた。
「母上、お呼びでしょうか」
日巫女は答えるより早く命じた。
「直ちに北方軍を率い、奴国へ向かいなさい」
忍穂耳は驚いたように目を見開く。
「奴国へ……ですか? ですが敵襲の報せは届いておりませぬ。北部からの連絡も狼煙もなく、戦を急ぐ理由が分かりません」
日巫女は静かに銅鏡へ視線を向けた。
「見なさい」
忍穂耳が鏡を覗き込んだ瞬間、その顔色が変わった。鏡には水平線まで続く出雲の大船団が鮮明に映し出され、数え切れぬ軍船が隊列を組んで一直線に筑紫を目指している。
「これは……出雲軍! まさか、これほどの兵力とは……」
思わず息を呑む忍穂耳に、日巫女は静かに告げた。
「須佐之男が動いた。奴国は最初の標的になる」
忍穂耳は拳を固く握り締めると、力強く頷いた。
「承知いたしました。直ちに兵を招集し、北方軍総力をもって奴国へ向かいます!」
踵を返して広間を駆け出すと、その命令は瞬く間に宮中へ伝わり、法螺貝が高らかに鳴り響いた。静寂に包まれていた山門の宮は、一瞬にして戦支度の喧騒に包まれた。
夜明け前、まだ薄い霧が海面を覆う中、見張りの兵は沖合に無数の黒い影を見つけた。
「……船だ」
その一言に港はざわめき始める。しかし、誰もが最初は交易船だと思っていた。出雲との戦など、誰一人として予想していなかったからである。
やがて朝日が昇り、霧が晴れていく。
姿を現したのは、幾十隻もの軍船だった。
船首には出雲の旗がはためき、甲板には槍や盾を構えた兵が隙間なく並んでいる。その圧倒的な船団は波を切り裂きながら一直線に奴国の港へ迫っていた。
「敵襲だ! 出雲軍だ!」
鐘が打ち鳴らされ、港中に叫び声が響き渡る。
だが、あまりにも遅かった。
出雲軍の先頭船がそのまま岸へ乗り上げるように接岸すると、武装した兵たちが一斉に飛び降りる。続く船からも次々と兵が上陸し、瞬く間に港は戦場へと変わった。
出雲軍の侵攻をまったく予期していなかった奴国には、防備を固める時間すらない。
港を守る兵は散発的な抵抗を試みたものの、多勢に無勢だった。隊列を組んだ出雲軍は槍を揃えて押し込み、わずかな時間で港の守備隊を制圧していく。
こうして奴国最大の港は、開戦とほぼ同時に出雲軍の手へ落ちた。
勝鬨が響く中、兵たちは整然と隊列を組み直し、港町を抜けて内陸へ向かって進軍を開始する。
出雲による筑紫侵攻……数十年に及ぶ倭国大乱は、この日、奴国への奇襲によって幕を開けた。
奴国への侵攻を知らせる鐘が鳴り、狼煙が上がると、奴国王は各地へ使者を送る余裕すらなく、城下にいた百名ほどの兵だけを率いて港へ駆けつけていた。
しかし、その頃には港はすでに出雲軍の手へ落ち、岸辺には無数の軍船が並び、武装した兵たちが次々と上陸を始めていた。
それでも王は一歩も退かず、槍を握り締めて兵たちの先頭へ立つ。
「港は奪われた。だが、この先まで踏み込まれれば奴国は終わる! ここが我らの国を守る最後の一線だ。たとえ命尽きようとも、一歩たりとも退くな!」
王の力強い声に兵たちは一斉に槍を掲げた。
「王に続け!」
「奴国を守れ!」
怒号とともに激戦が始まる。
奴国王は自ら槍を振るって敵兵を次々と討ち倒し、その勇姿に鼓舞された兵たちも懸命に戦った。やがて各地から援軍も続々と駆けつけ、崩れかけていた戦列は再び勢いを取り戻していく。
「敵は押されているぞ! 今こそ奴国の底力を見せてやれ! 一気に押し返せ!」
奴国王の奮戦に鼓舞された兵たちは雄叫びを上げながら前へ前へと押し込み、先鋒の出雲軍をじりじりと後退させていた。
「押せ! このまま港まで叩き返すぞ!」
勝機を見出した兵たちは槍を揃えて突き進み、押し返される出雲軍をさらに追い立てる。しかし、その勢いは突如として止められた。
後退した出雲軍の後方から新たな軍勢が整然と姿を現し、乱れのない隊列で前線へ加わる。その先頭には、一際大きな体躯の武人が悠然と歩み出ていた。
五十猛――須佐之男王の息子にして、出雲屈指の猛将である。
奴国王はその姿を見据えると槍を握り締め、兵たちへ叫んだ。
「ここで討ち取れば道は開ける! 皆、私に続け!」
雄叫びとともに一直線に駆け出した王は、渾身の力で槍を突き出す。しかし、その一撃は五十猛の大太刀によって容易く弾き上げられた。
「まさか……!」
驚愕の声が漏れた次の瞬間、五十猛の大太刀が閃く。
一閃。
王の首は鮮血を散らしながら宙を舞い、胴だけとなった身体は二、三歩よろめいた後、ゆっくりと地へ崩れ落ちた。
あまりにも速く、あまりにも圧倒的な一撃だった。
最後まで戦列を支えていた王を失った奴国軍は、一瞬にして士気を失う。武器を捨てて逃げ惑う者、膝をついて呆然と立ち尽くす者が続出し、つい先ほどまで出雲軍を押し返していた勢いは跡形もなく消え去った。
こうして奴国軍は総崩れとなり、戦いの流れは完全に出雲軍のものとなった。
初日に王を失った奴国は、一気に統制を失った。
各地で戦っていた兵たちは指揮を執る者を失い、どこへ向かえばよいのかも分からぬまま右往左往する。豪族たちもそれぞれの領地へ戻って防戦する者、家族を連れて逃れる者に分かれ、もはや国としての命令が全土へ届くことはなかった。
それでも最後の希望は、奴国の宮だった。
環濠と幾重もの木柵に守られた宮には、生き残った兵や豪族たちが自然と集結し、女や子供たちを背後へ逃がしながら必死の防戦を続けていた。
「ここを守れ!」
「宮だけは渡すな!」
兵たちは矢を放ち、柵の隙間から槍を突き出し、迫る出雲軍を迎え撃つ。
しかし圧倒的な兵力差は覆せなかった。
出雲軍は宮を四方から完全に包囲すると、夜を徹して攻城の準備を進め、翌朝、一斉に総攻撃を開始する。激しい戦いの末、木柵は破られ、環濠も突破されると、防衛線は各所で崩壊した。
宮の陥落は、奴国という国家の終焉を意味していた。
組織的な抵抗は完全に途絶え、生き残った兵や豪族、そして民衆は我先にと北を捨て、不弥国へ向かって街道を南へ逃れていく。
奴国全土は、わずか三日で地獄へと変わっていた。
燃え上がる家々から黒煙が立ち昇り、悲鳴が風に乗って響く中、倉に蓄えられていた米や粟、家畜や財物は次々と運び出され、抵抗した者は容赦なく斬り伏せられていく。幼子の手を引いた民や、生き残った兵、豪族たちは不弥国を目指して逃げ惑い、奴国はわずかな時で国家としての姿を失っていた。
その死と略奪、炎が広がる惨状の中を、八千矛と邇芸速日は一度も表情を変えることなく歩み続ける。二人は軍を率いる将として立ち止まることも振り返ることも許されず、ただ前だけを見据えて進軍を続けていた。
やがて出雲軍は陥落した奴国の宮へ到達する。環濠と柵に守られていた宮には、すでに出雲の軍旗だけがはためき、その正門からは妖気をまとった須佐之男王が威風堂々と姿を現した。その左右には五十猛、邇芸速日、八島士奴美、八千矛が静かに従い、出雲を代表する将たちが一列となって歩みを進める。
須佐之男は宮前で静かに足を止めた。
燃え落ちた門、折れた木柵、地に伏す無数の亡骸。その向こうでは、膝をついた豪族や兵たちが力なく頭を垂れている。
その光景を静かに見渡した須佐之男は、腹の底から響くような低い声で宣言した。
「本日をもって、奴国は出雲の支配下に入る。」
その言葉を合図に兵が奴国の旗を引き倒すと、長年宮の中央ではためき続けた旗は土煙を上げて地へ落ち、泥と血にまみれたまま二度と掲げられることはなかった。代わって掲げられた亀甲に剣花菱を描いた出雲国造の旗は、朝風を受けて高々と翻る。
歓声を上げる出雲兵とは対照的に、奴国の民はすすり泣き、八千矛は言葉を発することなく心を閉ざし、隣に立つ邇芸速日は風になびく出雲の旗を静かに見つめていた。
勝った。それは紛れもない勝利だった。しかし二人の胸に勝利の喜びはなく、飢えた国が生き延びるために一つの国がこの日、歴史から消えたという現実だけが重くのしかかっていた。
立ち上る黒煙は空を覆い、焼け落ちる奴国の宮を包み込んでいく。こうして長い歴史を刻んできた大国・奴国は滅亡し、その炎はやがて倭国全土を焼き尽くす、数十年に及ぶ倭国大乱の幕開けとなった。




