六章 倭国大乱 一話 須佐之男の苦悩
出雲の東方遠征から二年の歳月が流れていた。
世界を襲った寒冷化は西方にも及び、繁栄を誇ったローマ帝国ですら衰え始めていた。東の後漢でも飢饉と反乱が各地で続き、巨大な帝国は静かに崩れ始めている。
近畿への東方遠征を終えた出雲王国を待っていたのは、終わりの見えない寒冷化だった。夏になっても冷たい風が吹き続け、弱い陽光の下では稲も粟も十分に実らず、畑には色褪せた作物が広がっている。
須佐之男は河川の改修や開墾、山菜や木の実の採取、漁の拡大など考え得る限りの対策を各地へ命じ続けていたが、自然は人の努力を嘲笑うように冷え込み続け、東方遠征で持ち帰った大量の兵糧も、ついに底をついてしまった。
須賀の宮へ届く報せは日に日に深刻さを増していく。
「西方の村では餓死者が出ました」
「南の山岳集落では子供や老人が次々と倒れております」
「残る兵糧では冬を越えられませぬ」
重苦しい空気が広間を満たす中、須佐之男は静かに立ち上がった。
「……視察へ行く」
僅かな供だけを伴って向かったのは、被害が最も深刻だという沿岸の村だった。
そこには、かつての活気はどこにもなかった。実りを失った田畑が寒風に揺れ、痩せ細った牛は立ち上がる力もなく地面に伏せ、人々は飢えに耐えながら力なく家々の前へ座り込んでいる。母親は僅かな粥を幼い子へ譲り、自らは口をつけず、老人は家族に見守られながら静かに息を引き取っていた。
須佐之男は一軒また一軒と村を歩き、その惨状を黙って見つめ続けた。
幼い子供が力なく顔を上げ、小さく呟く。
「王さま……ごはん、ある?」
護衛の兵たちは思わず視線を逸らした。しかし須佐之男は表情一つ変えず、その子の頭へ静かに手を置くと歩き出す。王が涙を見せれば国は絶望する。それを誰よりも理解していたからだ。
無言のまま歩き続ける胸には、ただ一つの現実だけが重くのしかかっていた。
……このままでは、出雲は滅びる。
須賀の宮では重苦しい空気の中、評議が開かれていた。
「再び東へ向かうべきではないでしょうか」
その提案に対し、豪族たちは次々と首を横へ振る。
「東の国々はいまだ戦の傷が癒えておりませぬ。田畑は荒れ、収穫も乏しく、得られる食糧はほとんど期待できません。しかも二度目の侵攻となれば各国は備えを固め、前回以上の激しい抵抗は避けられぬでしょう」
誰も反論しなかった。東にはもはや出雲を救えるだけの実りはなく、兵を失うだけに終わる可能性が高いことを、そこにいる全員が理解していた。
やがて長い沈黙を破るように、須佐之男が静かに口を開く。
「……ならば西へ向かう」
その一言に広間の空気が張り詰める。
須佐之男は静かに口を開いた。
「我らは本日をもって大倭壱国連合から離脱する。そして筑紫へ兵を進める。まずは北部の諸国を制圧し、港を押さえて補給路を確保する。その後、大倭壱国へ進軍し、日巫女を降して倭を我らの支配下へ置く」
広間に重苦しい沈黙が流れた。
やがて大名持・天之冬衣がゆっくりと立ち上がる。
「須佐之男王、お考えは理解いたします。しかし、それはあまりにも危険な賭けではございませぬか」
須佐之男は黙って続きを促した。
「筑紫は倭国最大の穀倉地帯ですが、同時に最も人口が集まる地でもあります。大倭壱国を中心とした連合には数多くの国が加わり、その兵力は我らを大きく上回るでしょう。さらに港や街道を押さえたとしても、それらを維持するためには各地へ兵を分けねばならず、戦線は広がる一方です。数度勝利したとしても、長期戦になれば出雲軍は敵中に孤立する可能性が高く、厳しい戦になると予想されます」
冬衣の言葉に、居並ぶ将たちは静かに頷いた。誰もが同じ危惧を抱いていたのである。須佐之男はそんな一同の様子を見渡すと、卓上の地図へ静かに目を落とした。
「儂も長き戦を望んではおらぬ。ゆえに港を押さえて補給路を確保し、一気に南下、可能な限り最短で女王日巫女の身柄を抑える。大倭壱国さえ降れば連合は瓦解する。その短い期間で勝負を決めねばならぬ」
そして顔を上げる。
「それが出雲の生き残る、ただ一つの道じゃ」
広間は静まり返っていた。
賛成する者はいない。反対する者もまたいなかった。
皆が理解していた。
この戦は望んで始めるものではない。しかし何もしなければ、飢えによって出雲は滅びる。もはや選べる道は残されていなかった。
長い沈黙の末、須佐之男はゆっくりと立ち上がる。
「出雲王国はここに宣言する。倭を征し、筑紫を制圧する」
その一言が広間に重く響いた。
「相手は筑紫北部の大倭壱国連合。兵力でも国の数でも我らを上回る強敵じゃ。これまで以上に厳しい戦となろう。ゆえに一戦たりとも油断は許さぬ」
須佐之男は側近へ視線を向ける。
「直ちに三輪山へ使者を送れ。邇芸速日と八千矛に参陣を命ずる」
「はっ!」
使者は深く頭を下げると、広間を駆け出していった。
一方、三輪山にも出雲王国からの使者が到着していた。使者は広間へ通されると深く一礼し、静かに口を開く。
「須佐之男王よりの命であります。邇芸速日様、八千矛様、直ちに軍を率い、筑紫征討へ参陣されたし」
それだけを告げると再び頭を下げ、返答を待った。
邇芸速日は表情一つ変えず静かに頷く。
「承知した。その旨、父上にお伝えください」
使者はもう一度深く礼をして広間を後にし、扉が閉まる音だけが重い沈黙の中へ響いた。
邇芸速日、八千矛、安日彦、長髄彦の四人は、互いに顔を見合わせながらもしばらく誰も口を開かない。今回の相手は大倭壱国連合。筑紫北部に広がる数多の国々を敵に回す以上、これまでとは比べものにならない大戦になることは誰の目にも明らかだった。しかも、その目的は領土ではなく、飢えた出雲を生かすために食糧を奪うことにある。
二年前の東方遠征で、邇芸速日と八千矛はその現実を嫌というほど見てきた。焼かれる村、泣き叫ぶ民、兵糧として運び去られる米俵……勝利を重ねるたび、誰かの日常が失われていく光景は今も二人の胸に深く刻まれている。
だからこそ二人は理解していた。今回の戦は、あの時を遥かに上回る犠牲を生み、自分たちもまたその先頭に立たなければならないのだと。
長い沈黙を破ったのは八千矛だった。
「……これは政治の失策を、戦で埋めようとしているだけではありませんか」
その声に怒りの感情はない。ただ静かな失望だけが滲んでいた。
「本来なら農地を増やし、水路を整え、飢えぬ国を築くべきでした。戦で飢えを凌げても、それは明日を先送りにしているだけです」
邇芸速日は静かに目を閉じた。
八千矛の言葉は正しい。父・須佐之男も、そのことは理解しているはずだった。しかし現実には、その明日を待つだけの食糧は残されていない。理屈では誤りと分かっていても、国を救う術が他に見当たらないこともまた事実だった。
「……私も同じ考えです。父上も好んで戦を選んだわけではありません。それでも王として、出雲の民を飢えから救う責務があります。だからこそ、この戦は誰より父上ご自身が、誰より苦しんでおられるはずです」
その言葉に誰も反論できなかった。
この場にいる誰一人として戦を望んではいない。それでも命令は下され、従うしかない現実だけが重くのしかかっていた。
やがて邇芸速日は静かに立ち上がり、安日彦と長髄彦へ視線を向ける。
「私の留守の間、政務は安日彦、軍事と三輪山の守りは長髄彦に任せます。どうか、この地を頼みます」
二人は力強く頷いた。
邇芸速日は窓の外へ目を向ける。冷たい風が山々を吹き抜け、色を失った田畑を静かに揺らしていた。
「あの地獄を……また繰り返すのですね」
誰に向けた言葉でもない小さな呟きを残し、邇芸速日は静かに出陣の支度を始めるのだった。
須賀の宮では、ただちに戦支度が始まった。鍛冶場では昼夜を問わず槌音が響き、鍛え上げられた鉄剣や槍が次々と積み上げられていく。兵糧や武具は荷車へ運び込まれ、港には大小無数の船が集まり、出雲王国はかつてない規模の遠征に向けて静かに動き始めていた。
数日後、港には招集を受けた兵たちが整然と並び、その前方の高台へ須佐之男王がゆっくりと姿を現した。全身に妖気をまとった王を見た兵たちの間にどよめきが広がるが、須佐之男が一歩前へ進むと、その場は水を打ったように静まり返る。
「出雲の兵よ。我らは幾多の戦を乗り越え、この国を守り抜いてきた。だが今こそ、新たな時代を切り開く時である」
須佐之男は兵たちを見渡しながら、力強く続けた。
「筑紫を征し、乱立する諸国を平らげ、倭を一つにまとめ上げる。我らが築くのは、出雲の未来であり、新たなる倭である」
そして、右腕を高く掲げる。
「これより、出雲王国による倭国征服を開始する!」
その宣言と同時に、兵たちの雄叫びが港を揺るがした。無数の槍と剣が天へ突き上げられ、法螺貝の音が響き渡る中、帆を大きく膨らませた軍船が次々と港を離れ、巨大な船団は一路、筑紫へ向けて進み始めた。
こうして、生き残りを懸けた戦い……倭国大乱の幕が、ついに切って落とされた。




