表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
邪馬台国叙事詩―神代建国譚―  作者: 月見


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
63/94

五章 三輪山 十四話 邇芸速日(にぎはやひ)

 晩秋の澄み切った青空の下、一隻の船が静かな入り江へゆっくりと滑り込んでいった。

 船首に立つ青年は、潮風に黒髪を揺らしながら、懐に抱えた木箱へ静かに視線を落とす。その中に納められているのは、大倭壱国の女王・日巫女より授けられた十種の神宝――それは単なる宝ではなかった。


 大倭壱国が登美の統治を正式に認めた証であり、一人の青年へ新たな使命を託した証でもあった。

 船を降りた大年は、出迎えた兵へ軽く会釈すると、そのまま登美の政務館へ向かった。


「……今度は何事ですか」


 広間へ足を踏み入れると、八千矛と長髄彦が床を転がりながら本気で殴り合っており、兵たちは止めに入ることもできず、おろおろと二人を囲んでいる。


「てめえ、いい加減にしろ!」

「それはこっちの台詞だ!」


 互いの拳が何度も飛び交う中、大年の怒声が広間に響いた。


「そこまでです!」


 二人はようやく動きを止めたものの、なおも睨み合ったまま一歩も引こうとしない。


「まず理由を聞きましょう。長髄彦、あなたからです」


 長髄彦は頬を押さえながら鼻を鳴らした。


「俺は一度こいつを戦で退けている。それなのに今は勝者みたいな顔をして指図ばかりだ。それが気に入らなかった」


 大年は小さく息をついて八千矛へ視線を向ける。


「では、あなたは?」


 八千矛はしばらく黙っていたが、やがて視線を逸らしたまま低く答えた。


「……気に食わなかった。ただ、それだけだ」

「本当に、それだけですか。あなたらしくありません。筋の通らないことをする人ではないでしょう」


 八千矛は拳を強く握り締める。


「分かってる……俺だって筋違いだってことくらい分かってる。それでも、この気持ちだけはどうにもならないんだ」


 広間は静まり返り、大年はそれ以上問い詰めなかった。少彦名の名こそ出さなかったが、その胸の内は十分すぎるほど伝わってきたからである。


「……もう終わったかな?」


 その時、広間の奥から安日彦の低い声が響いた。


「……そこまでにされよ。新たな統治が始まる前から、政務館を壊されては困る」


 安日彦は倒れた机と散らばった書簡を見下ろし、深くため息をついた。


「戦で壊れた砦を直すだけでも人手が足りぬというのに、今度は広間の床まで直せと言うのか」


 一瞬静まり返った広間に、兵たちの苦笑が漏れる。


「そこを心配するのですか」


 大年が苦笑すると、安日彦は肩をすくめた。


「今の登美には、殴り合いに使う力があるなら、田を耕し、柵を直し、屋根を葺いてもらいたいのです」


 その一言で、張り詰めていた空気は少しだけ和らいだ。

 大年は二人を見渡し、静かに口を開いた。


「まず伝えておきます。本日より私は大年ではありません。女王日巫女様の養子となり、新たな名を賜りました。これより私は……邇芸速日にぎはやひです」


 安日彦あびひこは目を丸くした後、静かに頭を下げる。


「失礼いたしました。今後は邇芸速日様とお呼びいたします」


 長髄彦は腕を組んだまま鼻を鳴らした。


「名が変わろうが、お前がお前であることに変わりはない」


 邇芸速日は苦笑して頷いた。


「それで構いません」


 空気が和らぐと、安日彦が遠慮がちに切り出した。


「実は妹が、邇芸速日様にぜひお会いしたいと申しております」


 長髄彦はため息混じりに肩をすくめる。


「妹はお前の話ばかりしている」


 邇芸速日は少し驚いたように微笑んだ。


「安日彦殿と長髄彦殿の妹君でしたら、ぜひお会いしたいものです」


 その言葉に安日彦は安堵したように笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。きっと妹も喜びます」


 こうして、後に妻となる三炊屋媛みかしきやひめとの出会いが静かに近づいていた。




 その夜、政務館では小さな宴が開かれていた。

 戦を終えたばかりの登美で新たな統治を始めるにあたり、邇芸速日は八千矛と長髄彦の和解だけは成し遂げたいと考えていた。


「少彦名殿のことは痛ましい。だが、これからは共にこの地を支える者同士だ。過去ではなく未来を見てほしい」


 二人は返事をせず、邇芸速日は安日彦と顔を見合わせてため息をつく。


「……まずは酒でも酌み交わせば、少しは変わるでしょう」

「そう願いたいものです」


 安日彦に促され、長髄彦は渋々立ち上がると、酒瓶を手に八千矛の前へ歩み寄り、無言のまま杯へ酒を注いだ。


 八千矛は黙って酒を飲み干すと、静かに立ち上がる。


「返礼だ」


 そう一言だけ告げ、酒瓶を長髄彦の頭上で逆さにした。

 どぼどぼどぼどぼ……

 酒は頭から肩へ容赦なく流れ落ち、髪も衣も一瞬でびしょ濡れになる。

 広間は水を打ったように静まり返った。

 拳を震わせた長髄彦が怒号を響かせる。


「ぶっ殺す!!!」


 八千矛も睨み返した。


「おう、上等だ!!!」


挿絵(By みてみん)


 次の瞬間、二人は互いに飛びかかり、机はひっくり返り、料理が宙を舞い、酒瓶が床で砕け散る。周囲の制止など耳に入らず、二人は夢中で殴り合いを続けていた。

 その様子を見つめながら、邇芸速日は額に手を当ててため息をついた。


「……もう好きにしてくれ」


 安日彦も肩を落として苦笑する。


「ええ。我らが仲直りさせようとしたのが間違いでしたな」


 二人は止めに入ることもなく、呆れた表情で殴り合いを眺め続けるのだった。




 その後、安日彦の取り計らいにより、邇芸速日は長髄彦の妹・三炊屋媛と婚姻を結んだ。

 三炊屋媛は兄たちとは対照的に物静かな娘だった。邇芸速日が十種神宝に込められた統治の志を語ると、その瞳は静かな光を宿す。


「あなたは、この地を奪う王ではなく、育てる王なのですね」


 その言葉に、邇芸速日はこの婚姻が政略だけで終わるものではないと静かに悟った。

 それは戦によって結ばれた登美の民と新たな統治者が、真に一つの家族となるための第一歩でもあった。


 婚礼を終えた邇芸速日は、安日彦や長髄彦、八千矛らとともに、新たな統治の中心となる地を探して登美各地を巡った。肥沃な土地、水の豊かさ、交通の利便性、そして守りやすい地形を自らの目で確かめながら歩き続けた末、一行はひときわ美しい山の麓へ辿り着く。


 緩やかな稜線を描きながら天へ向かってそびえるその山は、豊かな森と清らかな湧水に恵まれ、麓には広い平野が広がっていた。邇芸速日はしばらく山を見上げたまま周囲を見渡し、やがて穏やかな笑みを浮かべる。


「この山には、人を惹きつける何かがあります。水は尽きることなく流れ、土地は豊かで、周囲を見渡すこともできる。国を築き、人々が末永く暮らしていくには、この場所以上にふさわしい土地はありません。ここに新しい宮を建てましょう」


 その言葉に安日彦と長髄彦も静かに頷き、八千矛もまた雄大な山を見上げながら異論なく賛同した。


 こうして宮の建設が始まり、各地から木材や石材が運び込まれ、職人たちは昼夜を問わず作業に励んだ。やがて山の麓には立派な宮殿が完成し、邇芸速日はこの地を新たな統治の中心と定める。


 以来、この美しい山は人々から「三輪山」と呼ばれるようになり、その麓に築かれた宮は、登美を治める新たな国の中心として長く栄えていくことになる。




 三輪山を見渡せる高台に、邇芸速日と八千矛は並んで立っていた。眼下では宮の建設が始まり、人々が田畑を拓き、新しい国の礎が少しずつ形になりつつある。

 邇芸速日はその光景を見つめながら、穏やかに口を開いた。


「八千矛、このまま三輪山に残り、私と一緒に国を造らないか」


 八千矛はしばらく黙って景色を眺めた後、小さく笑みを浮かべた。


「誘ってくれて嬉しい。しばらくはここに残り、お前の国造りを見届けたい」


 そう答えた後、視線を東ではなく西……故郷の出雲がある方角へ向ける。


「でも、いずれは帰るつもりだ。私は出雲で国を造りたい。少彦名と語り合った理想を、あの国で形にしたいんだ」


 邇芸速日はその横顔を見つめ、静かに頷いた。


「そうか。それなら、互いに良い国を築こう」


 二人は固く手を取り合うことはなかった。ただ同じ景色を見つめながら、それぞれが歩む未来を胸に刻んでいた。




 三輪山の麓に新たな宮が完成すると、朝日を浴びた真新しい柱と屋根は静かに輝き、その前には登美の民だけでなく、出雲から渡ってきた者たちも集まっていた。


 邇芸速日は人々を見渡し、この地はもはや征服された土地ではなく、出雲でも大倭壱国でもない、異なる人々が共に暮らし、新たな国を築く場所なのだと胸に刻む。


 やがて一歩前へ進んだ邇芸速日は、十種神宝を祭壇へ納め、三輪山を仰ぎながら静かに告げた。


「今日より、この三輪山を中心として、新たな国造りを始めます」


 その言葉に大きな歓声は起こらなかったが、飢饉が続き、戦乱が広がる時代だからこそ、人々は国を築くという言葉の重みを理解し、深く頷いた。


 それは祖父・伊邪那岐から受け継いだ願いであり、女王日巫女とは異なる道で倭を導こうとする邇芸速日自身の誓いでもあった。


 やがて人々は、この山の麓に築かれた国を三輪の国と呼ぶようになり、後の世には、邇芸速日こそ倭で最初に国を治めた王であったと語り継ぐ者もいた。

邇芸速日については当初からかなり悩んだキャラクターです。

そもそも謎が多い存在で、矛盾に感じる文献も多い。

いつか邇芸速日を祀っている神社や、お墓とされる場所に行く機会が欲しい。

そういう魅力を感じる神様でした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ