五章 三輪山 十三話 女王日巫女
日巫女の澄んだ声が、静まり返った広間に響いた。
「面を上げよ」
大年はゆっくりと顔を上げる。
祭壇の上座に女王は、まるで時の流れから切り離されたかのように若々しかった。漆黒の長い髪は陽光を受けて艶やかに輝き、白い祭服には太陽と稲穂の紋様が金糸で織り込まれている。その神々しい美しさだけでなく、静かにこちらを見据える瞳には、国を背負う者だけが持つ深い知性と揺るぎない覚悟が宿っていた。
この国をここまで築き上げた女王……日巫女。
大年は胸中でその存在を認めながら、表情を崩すことなく深く一礼する。
「出雲王国、大年にございます。本日はお目通りの栄を賜り、恐悦至極に存じます」
日巫女は静かに頷いた。
「遠路、ご苦労でした。まずは報告を聞きましょう」
「はっ」
一歩前へ進み出た大年は、落ち着いた口調で戦後の経緯を語り始めた。
「出雲軍は登美の地を制圧し、長髄彦殿、安日彦殿も降伏いたしました。現在は命を保ったまま登美に留まり、私は父・須佐之男王より、この地の統治を任されております。しかし今回の遠征は、出雲が領土を広げるためではなく、大倭壱国による倭国統一を助けるための戦であると承っております」
広間に控える重臣たちは、一言も発することなく耳を傾けていた。
「ゆえに私は登美を私領として治めるつもりはございません。戦の経緯をご報告申し上げ、女王日巫女様より正式に統治をお認めいただきたく、本日参上いたしました」
言葉が終わると、広間は静寂に包まれた。
日巫女はしばらく大年を見つめていたが、やがて静かに問い掛ける。
「つまり登美は、出雲の属国ではなく、大倭壱国連合の一国として治めたい……そういうことですか?」
探るようなその問いに、大年は少しも迷うことなく頷いた。
「その通りにございます。私は登美を、大倭壱国連合の一員として治めたいと考えております」
その答えに広間の重臣たちは小さく視線を交わした。出雲の王子でありながら領土を私することなく、大義を優先する。その姿勢は、多くの者の予想を超えるものだった。
一方、玉座の日巫女は、わずかに口元を緩める。
父から聞いていた人物像に違わぬ青年……礼を尽くし、理を重んじ、感情だけで動かない。そして、その瞳の奥には、自分と同じく国を背負う統治者だけが持つ強い意志が静かに宿っていることを、日巫女は見逃さなかった。
日巫女は静かに口を開いた。
「実は飢饉は倭だけでなく、大陸の大漢でも起きているそうです。さらに太平道と名乗る者たちが、大規模な反乱を起こしたとも聞いております」
広間は静まり返っていた。
「大年は知っていましたか?」
「いえ、初耳にございます」
日巫女は頷き、静かに問い掛ける。
「では問います。大漢は、いつ頃平穏を取り戻すと考えますか?」
周囲の者たちは息を呑んだ。
倭の誰にも答えられぬ問いだった。
大年はしばらく思案した後、静かに首を横へ振る。
「平穏は戻らぬでしょう。正しく申せば、飢饉や反乱が収まっても、大漢は元には戻りませぬ」
場がざわめく。
「なぜ、そのように考えますか?」
「飢饉や反乱が、国を滅ぼすのではないからです」
日巫女の瞳がわずかに細まる。
大年は落ち着いた口調のまま続けた。
「民は飢えております。しかし反乱の原因は、それだけではありませぬ。重税に苦しみ、役人に搾取され、訴えを聞く者もいない。朝廷では宦官と官人が権力争いを繰り返し、国を正そうとした者たちは党錮の禁によって排斥されました。朝廷は腐敗を正そうと諫言した学者や官人までも罪人として官職を奪い、政から遠ざけたのです。大漢は長い年月をかけて内側から病み続けてきたのです」
その声に感情はなかった。ただ事実を積み重ねるような静かな響きだけが広間に流れる。
「堤が決壊した時、人は大雨を語ります。しかし本当に恐ろしいのは、その前から広がっていた亀裂です。大漢も同じです。国の土台はすでに傷み切っており、飢饉は最後に流れ込んだ濁流に過ぎませぬ」
大年は一呼吸置いてから、さらに言葉を続けた。
「国が滅ぶ時、民は天を恨みませぬ」
日巫女が静かに問う。
「では、誰を恨むのです?」
「為政者です」
迷いのない返答だった。
「飢饉はいずれ終わりましょう。しかし腐敗は残ります。そして、その腐敗を正す力は、すでに朝廷から失われております。ゆえに大漢はいずれ群雄が割拠し、一つの国ではなくなるでしょう」
誰一人、口を開く者はいなかった。
それは未来を言い当てた予言というより、一人の統治者が国家というものの終焉を、冷徹な理によって見抜いた言葉だった。
大年の言葉が終わると、広間は水を打ったように静まり返った。
誰一人として口を開かない。
玉座に座す日巫女は、ただ静かに大年を見つめ続けていた。その胸に最初に浮かんだ感情は、驚きでも感心でもなく……恐ろしい、という思いだった。
目の前の青年は妖力を持たず、不老でもない、ごく普通の人間である。それにもかかわらず、国家というものをここまで深く見通している。飢饉だけで国は滅びず、民が国を見限る時、本当に問われるのは為政者である。その本質を一人の青年が冷静に見抜いていることに、日巫女は驚きと同時に、言葉では表せない畏れを抱いていた。
もし敵となれば、この男ほど厄介な人物はいない。
しかし同時に、その才を敵へ回す愚かさも理解していた。
登美は倭国統一を進めるうえで欠かすことのできない要衝であり、大年ほどの統治者が治めるのであれば、大倭壱国にとっても計り知れない利益となる。
しばらく思案を重ねた日巫女は、やがて静かに口を開いた。
「登美の統治、認めましょう。ただし、一つ条件があります」
大年は静かに頭を下げる。
「お聞かせください」
日巫女は広間を見渡し、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「登美は出雲が武力で手に入れた土地です。このまま、あなたが出雲王国の王子という立場で治めれば、倭の諸国は登美を出雲の領土と受け取るでしょう」
広間の重臣たちも静かに頷く。
「それでは、大倭壱国連合の国々は不安を抱きます。出雲が力によって領土を広げたと映れば、各国の信頼は揺らぎ、倭国統一そのものが遠のいてしまいます」
日巫女は真っ直ぐ大年を見据えた。
「だからこそ、登美は出雲の飛び地ではなく、大倭壱国連合の一国として治めなければなりません。そのためには、土地だけではなく、統治者であるあなた自身も、大倭壱国の名の下に立つ必要があります」
大年は、その言葉の意味を静かに理解した。
これは人質でも服従でもない。
登美を倭全体の一国として認めさせるための、政治的な正統性を与える儀式なのだ。
日巫女は静かに告げた。
「これより、あなたは私の養子となりなさい」
その一言に広間はどよめき、居並ぶ重臣たちは思わず顔を見合わせた。
女王の養子……それは単に家族となることではない。
大倭壱国を代表する統治者として迎え入れ、その正統性を倭国中へ示すという政治的宣言でもあった。
日巫女は続ける。
「その証として、十種神宝を授けましょう」
巫女たちが恭しく一つの箱を運び出すと、広間の視線は一斉にその中へ集まった。
「そして、これまでの名は捨てなさい」
再び静寂が広間を包む。
日巫女は、一語一語を刻むように告げた。
「今日より、あなたの名は……邇芸速日。邇芸速日命として私の子となり、この国のために登美を治めなさい」
大年は静かに目を閉じる。
それは出雲を捨てることではない。登美を守り、出雲と大倭壱国を結ぶために必要な政治的決断だった。
やがて深く頭を垂れた大年は、静かに答える。
「謹んで、お受けいたします」
その返答を聞いた日巫女は満足そうに頷いた。
「よろしい。今日より、あなたは我が子、邇芸速日です」
その瞬間、出雲の王子・大年は、大倭壱国の養子・邇芸速日として、新たに登美を治める統治者となった。
大年が退出すると、主祭殿には静かな空気が戻っていた。
日巫女は閉ざされた扉をしばらく見つめたまま静かに息を吐き、小さく呟く。
「……やはり、優秀ですね」
その声には、素直な賞賛が込められていた。政治を理で考え、国家の行く末を見据え、人の心まで読み取る。まだ二十歳にも満たない一人の青年が、ここまで統治者として成熟していることに、日巫女は改めて舌を巻いていた。
『あのような子が、私の子であったなら……』
ふと胸をよぎったその思いは、自らの理想を受け継ぎ、倭国統一を共に成し遂げられる存在への憧れでもあった。しかし同時に、その願いは一つの現実を突き付ける。
大年は誰よりも優秀だからこそ、自らの信じる道を歩む男であり、誰かの思想に従う人物ではない。そのことは、今日の対話だけで十分すぎるほど伝わってきた。
日巫女は肘掛けへ静かに指を添え、目を閉じる。
「いずれ……」
その先を口にすることはなかったが、胸の内ではすでに一つの結論へ辿り着いていた。……あの男は、将来、私にとって最大の障害となるかもしれない。その予感は、不思議なほど確信に近かった。
主祭殿を後にした大年は、静かな回廊をゆっくりと歩いていた。張り詰めていた緊張が少しずつほどけていく。
「……女王日巫女」
誰に聞かせるでもなく、その名を口にすると、自然と苦笑が漏れた。
噂以上の人物だった。神々しい美しさや圧倒的な威厳だけではない。相手の言葉の裏にある真意を見抜き、その人物が国に何をもたらすかまで見極めたうえで、迷うことなく決断を下す。あの短い対話だけで、自分という人間を測り切った日巫女は、間違いなく倭国最高の為政者だった。
だからこそ、大年は確信する。
日巫女が目指す倭国統一は決して間違いではない。争いを終わらせ、民を飢えから救おうとする志は誰よりも高く、その器に及ぶ人物は容易には現れないだろう。
しかし、その国は余りにも日巫女という一人の存在に支えられている。
今は女王がいるから成り立つ。だが、その後継者まで同じ才覚を持つとは限らない。神託という絶対の権威は、優れた統治者の手では国を導く力となる一方、愚かな為政者の手に渡れば、人々を縛る鎖にもなり得る。
その答えを確かめるためにも、自分は登美で国を築かなければならない。
祖父・伊邪那岐から受け継いだ知識を礎とし、日巫女とは異なる道で民を守り、統治する国を示したい。それが、自らに課した使命なのだと大年は静かに胸へ刻んだ。
見上げた空はどこまでも高く澄み渡っていた。しかし、その彼方から吹き始めた冷たい風は、これから倭全土を飲み込む長き戦乱の訪れを静かに告げているようだった。
大年……いや、邇芸速日は静かに目を閉じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。『邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』は、日本神話や古代史に残された伝承をもとに、「神とは何だったのか」「国はどのように生まれたのか」という問いを、自分なりの解釈で物語として描いている作品です。
歴史として語られる出来事と、神話として語り継がれる伝承。その境界には、今では失われてしまった多くの人々の営みや想いがあったのではないか。そんな想像を膨らませながら執筆しています。
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